第1話 貴方と出会った日
「お前、生きてるのか?」
はじめましての挨拶は、生死確認だった。
目の前に立つのは細身の男性で、眉目秀麗な人。
こちらを見下ろすその目には、闇に浮かぶ月の光も通さない。
風に揺れた黒い前髪から、その瞳の漆黒に、私は目を奪われる。
私は、この人に出会うまで追われていた。
学校帰りだった。
街頭が立ち並ぶ明るい堤防沿いを、いつものように歩いていたんだ。
だけど、今日だけは違った。
背中に汗がぐっしょりと貼りつき、足が意識の外に放り出されたように勝手に動いていく。視線は動かせるのに、横にも背後にも目を向けられなかった。向けられるはずがなかった。
誰かに見られているような気味の悪いものを、ずっと近くで感じていた。
まるで、それを見たら"終わる"と言われているみたいに。
「はあっ、はっ……」
無意識のうちに走っていた。
走り過ぎると、吐きそうになるほど気持ち悪くなっていた。周囲の音も聞こえなくなり、聞こえてくるのは、自分の荒い息の音だけ。
無我夢中のなか、一瞬だけ、目を瞑る。
助けて欲しいと、誰でも良いからと、自分勝手な願いを込めていた。
それが、最後の願いだった。
―――ゴンッ!
「いっ……」
額に硬い何かがぶつかり、衝撃でその場に倒れ込む。
予想もしていなかったその痛みに、しばらくの間、声も出せないほどに痛んだ。それから、ゆっくりと顔を上げる。分厚く背の高い扉が、立ちはだかっていた。
「え……」
いつもの帰り道は?
疑問ばかり浮かぶ私の頭上に、黄色の何かがはためくのが見えた。それは、子供の可愛らしいイラストが書かれた小さな旗。
それを見て、私は咄嗟に立ち上がっていた。
「すみません、入ります! 入らせてください!」
急いでドアノブに手をかける。
だが、私よりも、扉の先の住人が早かった。
「……!」
少し前髪のかかった瞳が、揺れる。
私はその透きとおった目に吸い込まれそうで、目を瞬いていた。
すごく、綺麗な目。
その目の先が、私の目とかち合うように、一瞬だけ開かれた。
「お前、生きてるのか?」
「…………え?」
言葉の意味が、すぐに飲み込めるはずもなく。
理解できず、顔を上げたままでいると、彼は私を見て何を思ったのか、開かれたままの口をそっと閉じた。そして視線を私から外し、私の背後へと目を向ける。
彼が目を凝らしたとき、私の身体は一瞬にして強張った。
「……状況を理解した。危険だ。早く入れ」
そう言われるて間もなく、彼は半ば強引に私の左腕を掴む。バランスを崩しそうになった私は、咄嗟に前へと一歩踏み込んでいた。
そこはもう、彼の家らしき建物の中で。
「お前、一体なんてものを引き連れてきた」
「引き連れる……?」
私は彼の言葉に呆然と立ち尽くす。
彼が勢いよく扉を閉めたと同時に、建物内が響くほどの"ナニか"がぶつかった。ぐしゃりと、握りつぶされたような酷い音が、鼓膜を揺らす。
「今のは、何が起こって……」
私の問いに答える間もなく、彼は扉に手を当てていた。
見たこともない文字が浮かび上がり、それは黒色から炎のように赤く燃え、灰になって焼き消えていく。
色の変化が意味すること。
それは、何も分からない私でも、察することができた。
「危なかったな。危機一髪、というところだ」
彼はそう言うと、私の横を颯爽と通り過ぎ、そのまま奥のキッチンらしき場所へと入っていく。
状況が、うまく飲み込めない。
私は彼のことを目で追うことしかできなかった。
「そこに座っていろ。飲み物ぐらいは出す」
「あの、私……早く家に帰らないといけなくて」
「……まだ奴が、近くにいるかもしれないが」
彼はそう言って扉の先を見つめ、目を細めた。
怖かった。
それではまるで、今も外にいると言いたげだ。
私が何も言えず椅子に座ると、それを見計らってか、彼はマグカップを2つ持ってこちらまでやって来る。
「少し、肩の力を抜け。ここは安全だ」
彼の声は、先ほどの異様な雰囲気をなんとも思っていないようだった。
彼が椅子をひいたとき、その目は前髪に隠れて見えなくなる。若い人のはずなのに、どこか掴みにくい雰囲気を纏っているように見えた。
目の前にある椅子に腰掛けた彼は、私の前にマグカップを置いたん
立ち昇った湯気からは、嗅ぎ慣れたココアの香りが漂う。だけど私は、そのカップにすぐ手をつけられずにいた。
「…………」
―――目の前に座る彼は、一体何者?
彼の、少し息の吐いた音が聞こえる。
「……始めに、自己紹介をしよう。俺はここ一帯の管理をしている者だ。管理者、という役を任せられている。近しい者からは、別の名で呼ばれているがな」
私は思わず顔を上げていた。
彼の間が、普通の人とどこか違っていたからだ。
「今、私の心、読みました……?」
目の前に座る彼は、私の問いに対して何ひとつ表情を変えなかった。ただ静かに、ココアを飲んでいる。
「俺の冗談を、あまりに怖がったものだからな。少しだけなら問題ないだろう?」
「……! あの、私は貴方とは初対面なわけで、どうして助けてくださったのか分からなくて……」
私がうまく言葉を紡げないでいると、彼は机をコンコンと、軽くノックするように叩く。
その音に顔を上げた私は、見えた光景に思わず掠れた息をこぼしていた。
透きとおっていたはずの彼の目が、血に濡れたように煌々と朱色を灯していたのだ。
「生を終えた者を、死の世界に連れて行く役」
「……え?」
「お前の目の前にいる奴は、それを役として担っている者だ。つまり、力を使えるのも、管理者という役を担うためにある」
―――意味が分かるか?
そう言いたげに、彼は私の目を覗くように見る。
彼の瞳は元通りの色へと、瞬きの間に戻っていた。
平然と言う彼、いや、管理者さんは、私の反応を全て予測して言葉を発している。
その視線から逃れるように、私は俯いていた。
しかし、私の視線の先にある机上に、突然ある文字が浮かび上がる。
―――《ハザマの世界》管理者に手を借りた者―――
―――すなわち、その者は悪であり、還れぬ者―――
「これは……」
「お前は運が良かった。ただ、同時に悪い運も引き寄せてしまった」
目の前に記された文字は、伸ばされた手によって焼き消える。
その手は、目の前に座っていた彼の手で、その手を見上げた私は、彼の目と必然的にかち合う。
私は、その目を見ることしかできない。
彼の目は、怖いほどに何も読み取れない。
机に置いた私の手のそばに、ナイフが、深く刺さっていた。




