撤退を真似ても、安全は真似できない
迷宮前が、少し騒がしくなっていた。
露店の呼び声が重なり、同じような札を下げたパーティがいくつも集まっている。
低層専門。
撤退重視。
見覚えのある言葉だが、並び方が軽い。
俺は少し離れた位置で、ランタンの芯を整えていた。今日は同行を受けていない。エルネも、リュシアもいない。様子を見るだけの日だ。
「お、見ろよ。あれも“低層専門”だってさ」
「最近流行りだな」
声の先に、三人組のパーティがいた。装備は新しい。札に書かれた撤退基準を、声に出して確認している。
「二体以上で撤退、な」
「視界不良で撤退」
「魔力七割で撤退」
復唱は揃っている。だが、足が止まらない。
(基準を覚えただけ、か)
俺は何も言わない。言う立場でもない。仕組みは、守る人間が守って初めて意味を持つ。
第三層の入口付近で、遠くから様子を見ていた。
酸の滴る通路。床の湿り。音の重なり。
条件は、悪くない。だが、良くもない。
「まだ基準内だろ」
先頭の男が言う。
「二体じゃないし」
「音も見える範囲だ」
彼らは進む。杭の位置を見ているが、その先を見ていない。
低い唸りが響いた。鼠犬。奥でもう一つ、音が重なる。
「……二体だ。行ける」
「まだ、行ける」
基準は守っている。だが、判断が遅い。
俺は視線を逸らした。助けに入らない。入れない。
撤退は、他人に代行できる判断じゃない。
角を曲がった先で、短い悲鳴が上がった。
「うわっ――!」
すぐに収まる。矢の音。剣の音。慌ただしい足音。
そして、撤退の声。
「戻る! 戻るぞ!」
遅い。だが、間に合った。
三人は地上に戻ってきた。鎧に傷。軽い出血。命に別状はない。
顔色は悪い。
「……くそ」
「基準、守ってたのに」
「なんでだよ」
誰も答えない。俺も答えない。
酒場の前で、噂が立つ。
「低層で、事故未遂」
「撤退したけど、怪我人出たらしい」
「“低層専門”名乗ってたって」
言葉だけが先に歩いて、意味が追いついていない。
ギルドの掲示板の前で、職員が紙を貼り替えていた。
さっきまでの【撤退基準(暫定)】の下に、小さく追記がある。
【補足】
※基準は“目安”。状況判断を省略しないこと。
それを見た探索者が、首を傾げる。
「同じ言葉なのにさ」
隣の男が言った。
「……あの人たちの“撤退”とは、違うよな」
誰の名前も出ない。だが、違いは伝わっている。
夕方、迷宮前は少し静かになった。
俺は道具を片付け、帰り支度をする。
今日は入らなかった。だが、無駄でもない。
撤退基準は、魔法の呪文じゃない。
唱えれば守ってくれるものじゃない。
迷う前に止まること。
止まるために、先を見ること。
それが抜け落ちれば、同じ言葉でも意味は変わる。
掲示板の前を通り過ぎると、さっきの三人組が立っていた。
一人が、紙をじっと見ている。
「……“目安”か」
「俺たち、数字しか見てなかったな」
誰も責めない。誰も褒めない。
それでいい。
低層専門は、真似できる。
だが、安全は積み重ねないと、真似できない。
俺は外に出た。
迷宮の風が、今日も冷たい。
明日は、誰かが正しく止まるかもしれない。
そのために、仕組みは置いていく。
次に動くのは、制度だ。




