低層専門は、仕組みで回す
朝のギルドは、いつもより紙が多かった。
掲示板の前に人が溜まり、受付の前では列が短く、奥の机では職員が何枚も紙を並べている。俺は様子を一目見て、今日は行かない判断をした。
「今日は、見合わせます」
受付の女が顔を上げる。
「低層、入らない?」
「はい。人が多い。音も匂いも混じりすぎてる」
彼女は一瞬だけ考え、頷いた。
「……了解。じゃあ、依頼の整理を手伝って」
俺は承諾した。迷宮に入らない日でも、仕事はある。
奥の机に、低層同行希望の紙が積まれていた。内容は似ている。
早く実績が欲しい。
初迷宮で不安。
昨日失敗した。
「全部、受けない」
俺が言うと、エルネが驚いた顔をした。
「……でも、困ってる人が」
「困っている人ほど、急ぐ。急ぐ人ほど、危ない」
俺は紙を三つに分けた。
「今日は“低層同行”は二件まで。残りは日を改める。理由を書いて返す」
「理由?」
「撤退基準が守れない日だから、って」
エルネは頷き、ペンを取った。言われる前に理由を書き始める。
人が多く、音が混じる日。
再湧き判断が遅れる恐れあり。
安全が担保できない。
「……これでいい?」
「十分です」
リュシアは腕を組んだまま、掲示板を見ている。近づく探索者に、短く言った。
「今日は低層、混む。無理するな」
それだけで、二人が引き返した。威圧ではない。事実だ。
昼前、俺は簡易の紙を一枚作った。見出しは短く。
【低層・撤退基準(暫定)】
・視認できない音が増えたら撤退
・二体以上の群れを確認したら撤退
・床の湿りが不自然なら撤退
・魔力消耗が体感七割で撤退
・迷ったら撤退
「……最後、雑じゃない?」
とエルネ。
「雑でいい。迷った時に、読む人が迷わない」
紙を掲示板の端に貼る。名前は書かない。肩書きも要らない。
(仕組みは、名前がなくても回る)
午後、低層に入る二件だけを受けた。同行者は各一名ずつ。条件を最初に伝える。
「低層限定。撤退は俺が決める。復唱してください」
「……撤退は、あなたが決める」
声が揃う。良い。
第三層の入口で、エルネが立ち止まった。
「……音、混じってる。今日は、ここまででもいい」
「その判断、理由は?」
「先行が多い。足音が重なってる。……再湧き、早いかも」
俺は頷いた。
「今日は、ここまで」
同行者が不満そうに口を開く前に、リュシアが一歩前へ。
「戻る。異論はないな」
異論はなかった。戻れた。成功だ。
別の組も、同じだった。奥へ行かない。罠の確認だけして、戻る。素材は取らない。記録だけ残す。
「……何もしてない気がする」
同行者が呟く。
「何も起きてないなら、上出来です」
エルネが答えた。
地上に戻ると、掲示板の前に人が集まっていた。さっきの紙に、別の手書きが貼られている。
【補足】
・撤退判断に従える者のみ、同行可
俺は知らない字だった。誰かが足したのだ。
受付の女が小声で言う。
「……事故報告、今日は少ない」
「良かった」
「あなた、低層を“回してる”わね」
「回してません。止めてるだけです」
「止められる人がいないから、回るのよ」
言葉が残る。
酒場は夕方でも静かだった。噂は落ち着いている。
「低層は今日は控えめに」
それだけで、席が空く。
エルネが水を飲みながら言った。
「……私、さっき“戻ろう”って言えた」
「はい」
「言ってよかった」
「それが、仕組みです」
リュシアが短く付け足す。
「剣は、最後でいい」
外に出ると、迷宮の風が冷たい。今日は深く潜っていない。だが、街は少しだけ静かだ。
低層専門は、勇気で回らない。
基準と復唱と、中止で回る。
明日も、同じだ。
入る日も、入らない日も
戻れる仕組みを守るために。




