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『迷宮は壊すものじゃなかった』 ― 生還率一〇〇%の探索者が世界を変えるまで ―  作者: 低層在住
生還だけが才能だった

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7/10

撤退は、仕事の一部だ

朝の迷宮前は、静かだった。


露店の呼び声は控えめで、探索者たちも足取りが落ち着いている。俺はランタンの芯を整え、ロープの結び目を確かめた。エルネが隣で、同じように道具を並べている。昨日より手際がいい。


「準備、終わった?」

「……はい。予備の布も入れました」


よし。言われる前にやるようになった。


受付で登録を済ませると、若い男が一人、俺たちに近づいてきた。装備は軽く、剣の刃は新しい。目だけが忙しなく動いている。


「あの……低層専門の人、ですよね」

「はい」

「同行、お願いします。今日中に実績を作りたくて」


実績。急いでいる理由は、たいていそれだ。


「条件があります」

「何でも」


俺は短く告げた。


「低層限定。撤退は俺が決める。異論は受けません」

「……わかりました」


言葉は素直だ。だが、理解は別だ。


第三層の入口で、俺は立ち止まった。床の継ぎ目、壁の欠け、湿り。昨日から増えたチョーク印が続いている。


「今日はここまで。奥へは行きません」

「え? まだ余裕じゃ」


男が言いかけたところで、俺は手を上げた。


「再湧きの気配が早い。音が違う」

「……そんなの、わかるんですか」

「わかる人もいます。今日は従ってください」


エルネが、さりげなく男の横に立つ。


「止まって、って言われたら止まる。走らない」

「……はい」


通路を進む。酸の滴る地点で俺は止まり、布で確認する。白い煙。


「右壁沿い、三歩」

「了解」


新人は一瞬だけ迷ったが、指示通りに動いた。抜けられる。だが、角を曲がった先で低い唸りが重なった。


鼠犬。三体。


新人が剣に手をかける。


「斬れます!」

「斬りません」


俺は即答した。罠の杭を指差す。


「誘導します。距離を取って」

「でも、今なら」

「撤退」


言葉を重ねない。リュシアが半歩前に出て、剣を見せる。鼠犬が躊躇した瞬間、石を投げる。罠。一本、二本。


残り一体が吠えた。距離が詰まる。


「……今だ!」


新人が踏み出しかけた、その肩をエルネが掴んだ。


「戻る!」

「っ……!」


俺の声が通る。三人で下がる。角を越え、光が見える。吠え声が遠のいた。


地上に出た瞬間、新人は舌打ちした。


「……もったいない」

「戻れたなら、今日は成功です」

「成功? 何も取ってないのに?」


俺は首を振った。


「取らない判断も仕事です」


新人は納得していない顔だった。だが、反論はしなかった。


酒場に戻る途中、噂が耳に入った。


「……さっき、奥で事故があったらしい」

「別パーティだ。無理したって」


新人の顔色が変わる。俺は何も言わない。事実は、勝手に追いつく。


酒場で水を飲む。エルネが小さく言った。


「……撤退って、失敗じゃないんですね」

「失敗に見えるだけです」

「戻れたなら、成功……」


リュシアが短く頷く。


「生きている限り、次がある」


新人は黙っていた。やがて、頭を下げる。


「……ありがとうございました。今日は、これで」


去っていく背中は、来た時より落ち着いていた。


夕方、ギルドの掲示板に新しい紙が貼られた。


【注意】第三層

撤退判断遵守者、同行可


名前はない。肩書きだけが残る。


エルネがそれを見て、息を吐いた。


「……私、撤退って言われたら、少し安心します」

「それでいいです」


迷宮の風が、今日も冷たい。


攻略は、明日でもいい。

戻る判断は、今しかできない。


撤退は、仕事の一部だ。

そして、この街で、いちばん大事な仕事でもある。

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