撤退は、仕事の一部だ
朝の迷宮前は、静かだった。
露店の呼び声は控えめで、探索者たちも足取りが落ち着いている。俺はランタンの芯を整え、ロープの結び目を確かめた。エルネが隣で、同じように道具を並べている。昨日より手際がいい。
「準備、終わった?」
「……はい。予備の布も入れました」
よし。言われる前にやるようになった。
受付で登録を済ませると、若い男が一人、俺たちに近づいてきた。装備は軽く、剣の刃は新しい。目だけが忙しなく動いている。
「あの……低層専門の人、ですよね」
「はい」
「同行、お願いします。今日中に実績を作りたくて」
実績。急いでいる理由は、たいていそれだ。
「条件があります」
「何でも」
俺は短く告げた。
「低層限定。撤退は俺が決める。異論は受けません」
「……わかりました」
言葉は素直だ。だが、理解は別だ。
第三層の入口で、俺は立ち止まった。床の継ぎ目、壁の欠け、湿り。昨日から増えたチョーク印が続いている。
「今日はここまで。奥へは行きません」
「え? まだ余裕じゃ」
男が言いかけたところで、俺は手を上げた。
「再湧きの気配が早い。音が違う」
「……そんなの、わかるんですか」
「わかる人もいます。今日は従ってください」
エルネが、さりげなく男の横に立つ。
「止まって、って言われたら止まる。走らない」
「……はい」
通路を進む。酸の滴る地点で俺は止まり、布で確認する。白い煙。
「右壁沿い、三歩」
「了解」
新人は一瞬だけ迷ったが、指示通りに動いた。抜けられる。だが、角を曲がった先で低い唸りが重なった。
鼠犬。三体。
新人が剣に手をかける。
「斬れます!」
「斬りません」
俺は即答した。罠の杭を指差す。
「誘導します。距離を取って」
「でも、今なら」
「撤退」
言葉を重ねない。リュシアが半歩前に出て、剣を見せる。鼠犬が躊躇した瞬間、石を投げる。罠。一本、二本。
残り一体が吠えた。距離が詰まる。
「……今だ!」
新人が踏み出しかけた、その肩をエルネが掴んだ。
「戻る!」
「っ……!」
俺の声が通る。三人で下がる。角を越え、光が見える。吠え声が遠のいた。
地上に出た瞬間、新人は舌打ちした。
「……もったいない」
「戻れたなら、今日は成功です」
「成功? 何も取ってないのに?」
俺は首を振った。
「取らない判断も仕事です」
新人は納得していない顔だった。だが、反論はしなかった。
酒場に戻る途中、噂が耳に入った。
「……さっき、奥で事故があったらしい」
「別パーティだ。無理したって」
新人の顔色が変わる。俺は何も言わない。事実は、勝手に追いつく。
酒場で水を飲む。エルネが小さく言った。
「……撤退って、失敗じゃないんですね」
「失敗に見えるだけです」
「戻れたなら、成功……」
リュシアが短く頷く。
「生きている限り、次がある」
新人は黙っていた。やがて、頭を下げる。
「……ありがとうございました。今日は、これで」
去っていく背中は、来た時より落ち着いていた。
夕方、ギルドの掲示板に新しい紙が貼られた。
【注意】第三層
撤退判断遵守者、同行可
名前はない。肩書きだけが残る。
エルネがそれを見て、息を吐いた。
「……私、撤退って言われたら、少し安心します」
「それでいいです」
迷宮の風が、今日も冷たい。
攻略は、明日でもいい。
戻る判断は、今しかできない。
撤退は、仕事の一部だ。
そして、この街で、いちばん大事な仕事でもある。




