低層専門という肩書き
朝のギルドは、紙の音が多い。
台帳をめくる音、木札が擦れる音、ペン先が止まる小さな音。迷宮前の喧騒よりも、ここは静かで忙しい。俺は受付前に立ち、昨日の報告書を差し出した。
「第三層、酸滴通路。撤退一回。負傷者ゼロ」
受付の女、相変わらず名前は知らない、視線だけで内容を追い、短く頷いた。
「……今日も問題なし。評価、維持」
「ありがとうございます」
隣で、エルネが少しだけ背筋を伸ばした。ローブの裾を直し、視線を落とす。まだ慣れていない。だが、逃げていない。
「登録、どうする?」
俺が小声で聞くと、エルネは一拍置いて答えた。
「……同行で。低層限定で」
受付の女が顔を上げ、エルネを見る。
「低層限定?」
「はい。撤退基準に従います」
エルネの声は小さいが、はっきりしていた。受付の女はペンを止め、俺を見る。
「……あなた、いつの間に“低層専門”になったの」
「勝手に専門にされる前に、自分で名乗った方が楽だと思いまして」
一瞬の沈黙のあと、彼女は口角をわずかに上げた。
「悪くない。登録名、“低層専門・回収”で通す?」
「それで」
ペンが走る。紙の上に、俺の肩書きが増えた。
(肩書きが先に走る、か)
迷宮前。冷たい風が吹く。
「今日は第三層まで。エルネ、詠唱は使わない」
「……わかった」
「使わない、じゃない。“使う前に戻る”。詠唱は距離がある時だけ」
リュシアが剣帯を締め直す。
「戦闘は私が抑える。撤退はお前」
「はい」
短い。だが、迷わない。
第三層の入口で、俺は足を止めた。床の継ぎ目。壁の欠け。湿り方。昨日から増えたチョーク印が、別の色で続いている。
「……増えたな」
「みんな、真似してる」
真似はいい。間違って真似されなければ。
通路を進むと、軽い衝撃音が響いた。金属が石に当たる音。先行パーティだ。俺は手を上げ、距離を取る。
「追いつかない。追い越さない」
「……急がないの?」
「急ぐ理由がない」
エルネは頷き、足取りを落とした。
角を曲がった先で、鼠犬の唸りが聞こえる。二体。距離はある。リュシアが視線を投げてくる。
「抑える?」
「抑えません」
俺は杭を指差す。罠の範囲。狭いが、十分だ。
「誘導します。石、お願いします」
「了解」
エルネが小石を拾い、俺の合図で投げた。音に反応して、鼠犬が突進する。罠。一本、二本。残りは距離を保って吠えるだけ。
「撤退」
三人で下がる。出口の光が見え、空気が変わる。
「……魔法、使わなかった」
「使わなくてよかった」
「……使わない判断も、役割なんだね」
エルネの声に、少しだけ余裕があった。
戻り道、壁際に崩れた箱を見つけた。中身はないが、刻印がある。昨日の商会と同じだ。
「記録だけ」
「取らない?」
「取らない。揉めるのは、撤退より危険」
リュシアが短く笑った。
地上に戻ると、迷宮前が少しざわついていた。掲示板に人だかり。紙が新しく貼られている。
【注意】第三層・低層専門
撤退基準遵守者、同行可
「……名前、出てない」
「出さなくていい」
だが、肩書きは出た。
酒場。昼のざわめき。
バルがカウンターを叩く。
「おい、低層専門! 肩書き付いたって?」
「勝手に」
「勝手に付くのが、いちばん怖いんだぞ」
笑い。だが、からかいだけじゃない。視線が、確かに変わっている。
奥の席で、エルネが水を飲んでいる。緊張が抜けたのか、指の力が少し緩んでいた。
「……今日、怖かった?」
「怖かった。でも、戻れた」
「それで十分です」
その時、別の探索者が近づいてきた。若い男だ。装備は軽い。目が泳いでいる。
「……あの、低層専門の人?」
「はい」
「同行、お願いできませんか。撤退、ちゃんと守ります」
俺は一瞬だけ考えた。エルネを見る。リュシアを見る。
「条件があります」
「……何でも」
「低層限定。撤退は俺が決める。文句は言わない」
「……わかりました」
条件は、これでいい。
(増やしすぎない。壊さない)
ギルドに戻り、簡易登録を追加する。受付の女が言った。
「……あなた、管理者みたいなこと、始めてるわね」
「管理するほどのことは」
「低層を“安全に回す”のは、管理よ」
言葉が、少し重い。
外に出ると、夕方の光が街を橙に染めていた。迷宮の風が、今日も冷たい。
エルネがぽつりと言った。
「……低層専門って、変な肩書き」
「ええ」
「でも……嫌じゃない」
リュシアが前を向いたまま言う。
「生き残る肩書きだ」
俺は頷いた。
強くなる前に、死なない。
攻略する前に、戻る。
低層専門という肩書きは、たぶんこの街で一番地味だ。
でも、この地味さが、誰かを明日へ連れていく。
明日も、低層へ行く。
肩書きを守るためじゃない。
戻るために。




