役に立たない才能なんて、迷宮にはない
酒場の昼は、夜より厄介だ。
笑い声がうるさいわけじゃない。むしろ逆で、酔いきれない人間の声が、妙に生々しく耳に残る。宿代の愚痴、素材の相場、昨日死んだ奴の話、湿った空気に混じって漂うのは、生活の匂いだ。
俺はカウンター端で水を飲んでいた。ジョッキを傾けるより、喉を冷やしたほうが頭が回る。リュシアは少し離れた席で剣の手入れをしている。刃に布を滑らせる所作が、慣れている人間のそれだ。
「おい、回収!」
背後から、バルの声が飛ぶ。振り返ると、あいつはもう半分笑っていた。
「今日の噂、知ってるか? 低層で“事故を減らす奴”がいるってよ」
「俺じゃないです。杭が増えただけです」
「はは。じゃあ誰だよ。杭が勝手に増えるのか?」
笑いが起きる。俺は肩をすくめて水を飲む。
噂は、勝手に育つ。俺が欲しいのは噂じゃない。明日の撤退ルートだ。
そう思った瞬間、酒場の奥で、声が割れた。
「……私が悪いって言うんですか!」
女の声。高いけれど、張り上げるには疲れが混じっている。空気が一瞬だけ止まり、すぐに薄い笑いが乗った。
「だってよ、詠唱が遅ぇんだよ」
「魔力だけ多くても意味ねえだろ」
「足引っ張るくらいなら、最初から入るなよ」
野次が、軽い。軽いから、重い。
俺は音の方向を見た。ローブ姿の女が、酒も飲まずに座っていた。肩が小さく震えている。長い髪が少し乱れて、指先はカップの縁を白くなるほど握っていた。
「……私だって、わかってる……! でも……!」
相手は男二人。探索者の服。泥の染み。酒場でよく見る顔だ。怒鳴っているのは正しさのためじゃない。弱いものを落として、安心したいだけだ。
「置いていかれたんだろ? なら諦めろよ」
「迷宮は優しくない。才能ない奴は死ぬ。それだけだ」
その言葉に、ローブの女の目が泳いだ。怒りでも悲しみでもなく、恐怖だ。
(……死ぬって言った)
俺はいつの間にか立っていた。
バルが「お?」と目を細める。リュシアも手を止めた。彼女は俺の背中を見て、何かを察したようだった。
俺は酒場の奥へ歩いた。床が少し粘つく。足音がやけに大きく聞こえる。
「……すみません」
俺が言うと、男二人が振り返った。
「なんだ? 回収の噂のやつか?」
「お前が口出す話じゃねえ」
彼らの目は、からかいと軽蔑の中間だった。俺はローブの女を見る。泣いてはいない。ただ、息の仕方が浅い。
「あなた、迷宮に入るつもりですか」
「……入らなきゃ、生活できない」
答えは、すぐ出た。声がかすれているのは、喉じゃなく心の方だ。
俺は男たちに向き直った。
「この人、今日あなたたちの代わりに死ぬ予定なんですか」
「は?」
男が眉をひそめる。俺は言葉を続けた。
「才能がないなら死ぬ、って言いました。……死ぬの、あなたたちじゃなくてこの人ですよね」
「当たり前だろ。足手まといなんだから」
その「当たり前」が、この街のルールだ。だからこそ、変えられる余地がある。
俺はローブの女に視線を戻した。
「名前は?」
「……エルネ」
息を吸う音が小さく震えた。
「エルネ。低層なら、死なないやり方があります」
「……そんなの、あるわけ……」
「あります。戦わない。無理しない。戻れる範囲だけ。撤退を基準にする」
男たちが笑った。
「何それ。迷宮に入る意味ねえじゃん」
「帰るために入るんだよ」
俺は即答した。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「迷宮は金を取れる場所です。でも、死んだら、金も何もない。まず戻る。次に稼ぐ。順番が逆だと死ぬ」
エルネは俺を見ていた。目の奥に、まだ疑いがある。でも、縋る場所を探している目だ。
「……私、役に立たないって言われました」
「言われたんですか」
「うん。詠唱が遅い。判断が遅い。魔法が当たらない。……迷宮では、向いてないって」
男たちが「ほらな」と肩をすくめる。俺は、彼らを無視した。
「詠唱が遅いなら、詠唱する時間を作ればいい」
「……そんなの」
「作れます。距離と罠と撤退で」
エルネの指が、カップの縁から少しだけ離れた。呼吸がわずかに深くなる。
「……本当に、教えてくれる?」
「条件があります」
「……条件?」
俺は一息置いた。
「俺の指示で止まれること。撤退と言ったら、疑わずに戻ること。……それができないなら、俺はあなたを連れて行けません」
「……わかりました」
返事は小さかったが、迷いが少なかった。
その時、リュシアが近づいてきて、男二人を一瞥した。
「まだ何か言うなら、剣で“黙らせる”」
「……冗談だろ」
「冗談に聞こえるなら、目が悪い」
男たちは舌打ちして去っていった。酒場の空気が、少しだけ元に戻る。
バルが遠くで笑っている。
「回収係、今度は魔術師拾ったぞ!」
俺はため息をつき、エルネに言った。
「今日は迷宮の入口だけ見ます。入るのは明日でもいい」
「……今日、行きたい」
エルネはそう言った。視線が、逃げていない。
「見せてください。……死なないやり方」




