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『迷宮は壊すものじゃなかった』 ― 生還率一〇〇%の探索者が世界を変えるまで ―  作者: 低層在住
生還だけが才能だった

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4/13

噂は、低層から広がる

朝の空気は、昨日より軽かった。


迷宮前の露店が、いつもより早く店を開けている。松明の束、回復薬、簡易護符。値段交渉の声が重なり、金属の擦れる音が忙しない。俺はランタンを受け取り、芯の位置を確認した。煤が出ない。よし。


「今日は第三層の手前まででいい」


俺が言うと、リュシアは頷いた。剣帯を締め直す音が短く響く。


「撤退基準は?」

「二体以上の群れを視認したら即。罠の位置が曖昧なら引き返します」

「了解」


言葉が短い。意思疎通ができている証拠だ。


ギルドの受付で登録を済ませると、台帳係が顔を上げた。


「……回収係、今日は二人?」

「はい」

「噂、聞いたわよ。低層で事故が減ってるって」


俺は一瞬、返事に詰まった。


「……俺の功績じゃないです。杭と印を使っただけで」

「“だけ”ができない人が多いの」


彼女は淡々と書き込む。評価欄に、小さな丸が増えた。


迷宮に入ると、空気がひんやりと変わる。第三層の入口で、俺は立ち止まり、床を見る。昨日打った杭の横に、同じような杭がもう一本、少し角度を変えて打たれていた。


「……増えてる」

「誰かが真似したな」


悪くない。罠の位置は、共有されてこそ意味がある。


通路を進むと、壁際にチョークの印が続いていた。俺が付けたものと、違う筆圧。違う色。別の誰かだ。


(回り始めてる)


第三層の奥、酸の滴る通路に差し掛かる。俺は足を止め、ロープを取り出した。


「ここ、上から来ます」

「昨日のやつか」

「はい。右壁沿い三歩、左一歩」


俺が言い終わる前に、リュシアは動き出していた。足運びが軽い。理解が早い。


通路を抜けた先で、倒れた木箱を見つけた。中身は空だが、底に刻印がある。商会の印だ。


「……落とし物」

「回収する?」


俺は首を振った。


「位置だけ記録します。商会が来るはずです」

「戦わないだけじゃなく、取らない判断もするのか」

「揉めるのは、撤退より危険です」


リュシアは、少しだけ口角を上げた。


角を曲がると、人の声が聞こえた。三人。鎧の擦れる音。俺は手を上げ、止まる。


「先行パーティです。距離を取ります」

「……向こうも、こちらを見てる」


俺は壁に寄り、ランタンの火を少し絞った。目が合った。向こうの先頭が、俺たちの足元を見る。杭。チョーク。


「……おい、印が続いてるぞ」

「誰のだ?」

「低層の回収係って噂の……」


声が、こちらに届く。俺は小さく会釈した。


「酸の通路、右壁です。急がないで」

「助かる」


短いやり取り。剣は抜かれない。空気が、少しだけ柔らぐ。


(噂は、声の大きさじゃない)


通路を戻る途中、低い唸りが響いた。鼠犬。二体……いや、三体。距離は遠いが、こちらに気づいている。


リュシアが一歩前に出る。


「斬る?」

「……いいえ」


俺は罠の位置を指差した。杭が二本。範囲は狭い。


「誘導します。剣は見せるだけで」

「了解」


石を投げ、音で注意を引く。鼠犬が突進する。罠。一本、二本。残り一体が躊躇した瞬間、俺は声を張った。


「撤退!」


リュシアは即座に下がる。残りは追ってこない。距離が開いたところで、俺は息を整えた。


「……斬らなかったな」

「斬らないほうが、戻れます」


地上に戻ると、迷宮前がざわついていた。露店の商人が、俺たちを見て囁く。


「……あの回収の人だ」

「低層で死なせないって」


誤解だ。死なせない魔法なんて、持っていない。ただ、死ぬ手前で引き返すだけだ。


ギルドで報告を終えると、台帳係が呼び止めた。


「今日、低層の事故報告がゼロ」

「……偶然です」

「偶然が三日続いたら、名前が付く」


彼女は紙を差し出した。簡易掲示だ。


【注意】第三層・酸滴通路

右壁沿い推奨/杭・印あり


俺の字だ。名前はない。


(それでいい)


酒場は昼から賑わっていた。バルとジグが、カウンターで手を振る。


「おい、回収!今日は何人救った?」

「救ってない。戻っただけです」

「それが一番すごいんだよ」


隣の席の商人が、酒を傾けながら言う。


「低層で“撤退を決める奴”がいるってな」

「戦えないんだろ?」

「違う。戦わないんだ」


笑いが起きる。俺は水を飲んだ。


その時、酒場の奥で、小さな騒ぎが起きた。ローブの女が、肩を落として座っている。声が震えている。


「……また、外された。役に立たないって」


聞き覚えのある言葉だ。俺は視線を戻す。


(今は、関係ない)


今日は、ここまででいい。噂は、低層から広がる。だが、広げたいわけじゃない。戻りたいだけだ。


迷宮の入口から、冷たい風が吹く。街の喧騒に混じって、俺の杭と印が、誰かの足元を守っている。


明日も、低層へ行く。

名もない仕事を、続けるために。

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