噂は、低層から広がる
朝の空気は、昨日より軽かった。
迷宮前の露店が、いつもより早く店を開けている。松明の束、回復薬、簡易護符。値段交渉の声が重なり、金属の擦れる音が忙しない。俺はランタンを受け取り、芯の位置を確認した。煤が出ない。よし。
「今日は第三層の手前まででいい」
俺が言うと、リュシアは頷いた。剣帯を締め直す音が短く響く。
「撤退基準は?」
「二体以上の群れを視認したら即。罠の位置が曖昧なら引き返します」
「了解」
言葉が短い。意思疎通ができている証拠だ。
ギルドの受付で登録を済ませると、台帳係が顔を上げた。
「……回収係、今日は二人?」
「はい」
「噂、聞いたわよ。低層で事故が減ってるって」
俺は一瞬、返事に詰まった。
「……俺の功績じゃないです。杭と印を使っただけで」
「“だけ”ができない人が多いの」
彼女は淡々と書き込む。評価欄に、小さな丸が増えた。
迷宮に入ると、空気がひんやりと変わる。第三層の入口で、俺は立ち止まり、床を見る。昨日打った杭の横に、同じような杭がもう一本、少し角度を変えて打たれていた。
「……増えてる」
「誰かが真似したな」
悪くない。罠の位置は、共有されてこそ意味がある。
通路を進むと、壁際にチョークの印が続いていた。俺が付けたものと、違う筆圧。違う色。別の誰かだ。
(回り始めてる)
第三層の奥、酸の滴る通路に差し掛かる。俺は足を止め、ロープを取り出した。
「ここ、上から来ます」
「昨日のやつか」
「はい。右壁沿い三歩、左一歩」
俺が言い終わる前に、リュシアは動き出していた。足運びが軽い。理解が早い。
通路を抜けた先で、倒れた木箱を見つけた。中身は空だが、底に刻印がある。商会の印だ。
「……落とし物」
「回収する?」
俺は首を振った。
「位置だけ記録します。商会が来るはずです」
「戦わないだけじゃなく、取らない判断もするのか」
「揉めるのは、撤退より危険です」
リュシアは、少しだけ口角を上げた。
角を曲がると、人の声が聞こえた。三人。鎧の擦れる音。俺は手を上げ、止まる。
「先行パーティです。距離を取ります」
「……向こうも、こちらを見てる」
俺は壁に寄り、ランタンの火を少し絞った。目が合った。向こうの先頭が、俺たちの足元を見る。杭。チョーク。
「……おい、印が続いてるぞ」
「誰のだ?」
「低層の回収係って噂の……」
声が、こちらに届く。俺は小さく会釈した。
「酸の通路、右壁です。急がないで」
「助かる」
短いやり取り。剣は抜かれない。空気が、少しだけ柔らぐ。
(噂は、声の大きさじゃない)
通路を戻る途中、低い唸りが響いた。鼠犬。二体……いや、三体。距離は遠いが、こちらに気づいている。
リュシアが一歩前に出る。
「斬る?」
「……いいえ」
俺は罠の位置を指差した。杭が二本。範囲は狭い。
「誘導します。剣は見せるだけで」
「了解」
石を投げ、音で注意を引く。鼠犬が突進する。罠。一本、二本。残り一体が躊躇した瞬間、俺は声を張った。
「撤退!」
リュシアは即座に下がる。残りは追ってこない。距離が開いたところで、俺は息を整えた。
「……斬らなかったな」
「斬らないほうが、戻れます」
地上に戻ると、迷宮前がざわついていた。露店の商人が、俺たちを見て囁く。
「……あの回収の人だ」
「低層で死なせないって」
誤解だ。死なせない魔法なんて、持っていない。ただ、死ぬ手前で引き返すだけだ。
ギルドで報告を終えると、台帳係が呼び止めた。
「今日、低層の事故報告がゼロ」
「……偶然です」
「偶然が三日続いたら、名前が付く」
彼女は紙を差し出した。簡易掲示だ。
【注意】第三層・酸滴通路
右壁沿い推奨/杭・印あり
俺の字だ。名前はない。
(それでいい)
酒場は昼から賑わっていた。バルとジグが、カウンターで手を振る。
「おい、回収!今日は何人救った?」
「救ってない。戻っただけです」
「それが一番すごいんだよ」
隣の席の商人が、酒を傾けながら言う。
「低層で“撤退を決める奴”がいるってな」
「戦えないんだろ?」
「違う。戦わないんだ」
笑いが起きる。俺は水を飲んだ。
その時、酒場の奥で、小さな騒ぎが起きた。ローブの女が、肩を落として座っている。声が震えている。
「……また、外された。役に立たないって」
聞き覚えのある言葉だ。俺は視線を戻す。
(今は、関係ない)
今日は、ここまででいい。噂は、低層から広がる。だが、広げたいわけじゃない。戻りたいだけだ。
迷宮の入口から、冷たい風が吹く。街の喧騒に混じって、俺の杭と印が、誰かの足元を守っている。
明日も、低層へ行く。
名もない仕事を、続けるために。




