撤退を決めるのは、剣より先だ
朝の迷宮前は、いつもより騒がしかった。
荷車が軋み、露店の呼び声が重なる。回復薬の瓶が触れ合う乾いた音。俺はランタンを点検し、芯を少しだけ短く切った。煤が増えると、低層でも視界が悪くなる。
「準備、細かいな」
リュシアが剣帯を締め直しながら言った。昨日、医務室で応急処置を受けた腕は、白い包帯で覆われている。
「暗いところで死にたくないので」
「……合理的だ」
彼女はそう言って、迷宮口へ視線を戻した。表情は硬いが、足運びは落ち着いている。戦える人間のそれだ。
受付で登録を済ませると、台帳係が俺たちを見比べて言った。
「今日は第三層まで。回収中心。戦闘は不要」
「撤退基準は?」と俺。
「負傷者が出た時点。二体以上の群れを確認したら即撤退」
俺は頷いた。撤退基準が明文化されているのは助かる。迷宮では、曖昧さが一番人を殺す。
階段を降りる。湿気が増し、空気が冷たくなる。第三層の入口で、俺は立ち止まった。
「ここから、足跡が増えます。先行パーティが多い」
「罠は?」
「昨日の杭は残っています。……あ、増えてる」
杭の数が増えていた。誰かが真似をしたらしい。いい兆候だ。情報が共有されるほど、事故は減る。
通路を進み、壁際の苔が濃くなった地点で、俺は手を上げた。
「止まってください」
リュシアが即座に止まる。剣に手はかけない。俺は床にしゃがみ、石畳の目地を指でなぞった。
「ここ、湿り方が不自然。上から水が落ちていないのに濡れてる」
「……酸か」
「たぶん。天井の割れ目から滴るタイプ」
俺はロープの先に布切れを結び、そっと天井へ投げた。布が触れた瞬間、じゅっと音がして、白い煙が上がる。
「正解」
「通るには?」
「右壁沿いに三歩、左へ一歩。急ぐと足を滑らせます」
リュシアは俺の指示通りに進み、何事もなく抜けた。彼女が小さく息を吐く。
「……指示が具体的だな」
「曖昧にすると、みんな勝手な解釈をします」
その先で、壊れた松明と、革袋が落ちていた。中身は空。だが、袋の縫い目が甘い。修理すれば使える。
「回収します」
「そんなものまで?」
「積み重ねです」
麻袋に入れ、チョークで印をつける。迷宮の仕事は、地味だ。
曲がり角を越えたとき、低い唸り声が聞こえた。二体……いや、三体。鼠犬だ。距離は十歩。
リュシアが一歩前に出る。
「斬る」
「待ってください」
俺は小声で言い、足元を指差した。罠の杭が見える位置だ。鼠犬は嗅覚がいい。誘導できる。
「右へ半歩。剣は抜いたまま、見せるだけで」
「……了解」
彼女が動く。俺は石を投げ、音で注意を引く。鼠犬がこちらを向き、突進、罠。
ガゴン。一本、二本。残り一体が躊躇した瞬間、俺は声を張った。
「撤退!」
リュシアは即座に後退し、俺の横を抜ける。追ってきた鼠犬は、罠の範囲に踏み込めず、吠えるだけだった。
安全距離を取ってから、リュシアが俺を見る。
「……今の、斬れた」
「斬れました。でも、斬らないほうが早いです」
彼女は少し考え、頷いた。
第三層の奥で、古い小部屋を見つけた。壁に刻まれた印。誰かの簡易地図だ。俺はそれを写し、補足を書き足す。
「地図まで?」
「迷宮は、昨日と同じとは限りません。でも、昨日の情報は役に立つ」
戻り道で、別のパーティとすれ違った。先頭の男が俺のチョーク印を見て言う。
「助かった。酸の滴り、知らなかった」
「壁沿いで抜けてください」
「礼はギルドに」
小さな成功が、積み上がっていく。
地上に戻ると、空が明るかった。ギルドで報告を済ませる。受付の女が台帳に目を走らせ、顔を上げた。
「……今日も撤退判断、適切」
「はい」
「剣士の被害、ゼロ。評価、上げる」
リュシアが俺を見た。視線は厳しいが、どこか柔らかい。
「……次も、同行でいい」
「条件は同じです。撤退は俺が決めます」
「異論はない」
酒場で、バルがからかってきた。
「おい、新人。今日は“斬らないで帰った”って?」
「仕事です」
「はは。迷宮で一番難しい仕事だ」
笑い声の中、俺は水を飲む。喉が冷えて、頭が澄む。
(剣は頼もしい。でも)
迷宮で命を分けるのは、刃の切れ味じゃない。
引き返すと決める速さだ。
明日も、低層へ行く。
撤退を決めるために。




