低層回収は、戦わないほうが忙しい
酒場の天井は、朝でも低かった。
昨夜の煙と酒の匂いがまだ残り、床は粘つく。カウンターでは、眠そうな顔のマスターが樽を拭いていた。俺はジョッキではなく、水を頼む。頭が重いのは酒のせいじゃない、迷宮の緊張が、まだ抜けていない。
「生きて帰った新人は珍しい」
昨日のバルが、椅子を引いて向かいに座った。隣にはジグ。二人とも鎧を脱いで、包帯を新しく巻いている。
「今日も行くんだろ?」
「……はい。低層の回収を」
言い切ると、バルが眉を上げた。
「回収、ね。戦わない仕事だと思ってる奴ほど、死ぬ」
わかっている。だから、俺は頷く。
探索者ギルドの倉庫で、貸与品を受け取った。昨日と同じ、ナイフ、ロープ、麻袋、ランタン。加えて、薄い皮手袋と、木製の杭が数本。
受付の女、名前はまだ知らないが、台帳を叩いた。
「今日は第三層まで。回収対象は、落とし物、破損装備、魔物の残滓。持ち帰れない大物は位置だけ記録。無理はしないこと」
「はい」
その「はい」に、彼女は一瞬だけ目を止めた。値踏みではなく、確認。俺は背筋を伸ばす。
迷宮の入口は、昨日より静かだった。朝は探索者が分散するらしい。ランタンに火を灯し、俺は足元から視線を外さない。床の継ぎ目、壁の欠け、湿り方の違い一つ一つを、頭の中にメモする。
(忙しいな、これ)
第三層へ降りる階段の手前で、昨日の罠の通路に差し掛かった。矢は回収され、穴は塞がれている。だが、石の沈み具合は変わらない。
俺は杭を一本取り、石畳の端に軽く打ち込んだ。目印だ。通る人間にわかるよう、だが邪魔にならない位置。
「……ああ、そういうの、助かる」
声に振り返ると、別のパーティが通り過ぎるところだった。女の魔術師が、俺の杭を見て親指を立てる。
(情報は、命だ)
第三層は、空気が重い。湿った土と、古い鉄の匂い。通路の脇に、割れた盾が落ちていた。持ち上げると、内側に乾いた血。修理は無理だが、金具は使える。
麻袋に入れ、壁にチョークで小さく印をつける。回収済み。
奥で、かすかな呻き声がした。
(……人?)
近づくと、崩れた石の陰に、女が座り込んでいた。革の鎧は裂け、左腕を押さえている。剣は握っているが、力が入っていない。
「……近づくな」
低い声。だが、刃先は震えていた。
「戦いません。回収係です」
「……信じられるか」
正論だ。俺はゆっくり、両手を見せた。
「怪我の程度を見せてください。出血が止まらないなら、ここは危険です」
「……ヒールは?」
首を振る。
「持ってない。でも、圧迫はできます」
一瞬の沈黙の後、女は腕を少しだけ緩めた。傷は深くないが、裂け目が大きい。俺は布を裂き、手袋越しに圧迫する。
「……痛む」
「我慢してください。ここで倒れるより、戻るほうがいい」
彼女は俺を睨んだ。が、やがて視線を逸らした。
「……名前は?」
「カナタ。あなたは?」
「リュシア」
剣士だ。腕の筋と、足の踏ん張り方でわかる。だが、疲労が限界に近い。
「単独?」
「……元のパーティに、置いていかれた」
理由は聞かない。聞く必要がない。
「撤退します。罠はこの先にあります。壁際を通ってください」
俺は彼女を先に行かせ、後ろで周囲を確認した。足音。小さい。鼠犬だ。数は二。
(戦わない)
罠の位置まで下がり、杭の印を指で示す。リュシアが気づき、理解した顔で頷く。
俺は石を投げた。鳴き声。突進。罠。矢。短い悲鳴。
彼女は剣を抜いたが、出番はなかった。
「……今の、狙った?」
「……はい」
出口が見えたとき、彼女は小さく息を吐いた。
「助けた理由は?」
「死なせたくなかった。それだけです」
地上の光が眩しい。ギルドに戻ると、受付の女がリュシアを見て眉をひそめた。
「回収係が、剣士を連れて帰還?」
「撤退です。罠の位置、記録しました」
台帳に書き込む。彼女は一瞬だけ口角を上げた。
「……評価、上げとく」
医務室で、リュシアは手当てを受けた。俺は回収品を提出し、受領印をもらう。金は少ない。だが、胸の奥が軽い。
廊下で、リュシアが呼び止めた。
「……次も、回収に行くのか」
「はい。低層だけ」
「……一緒に行け。戦闘は私がやる。撤退は、お前が決めろ」
条件は合理的だった。
「……わかりました」
酒場で、バルが笑った。
「新人、もう女連れてるのか」
「違います。仕事です」
周囲がどっと沸く。俺はため息をついた。
(違う。これは、仕事だ)
だが、生きて帰るための仕事は、思ったより、人と縁を結ぶらしい。
迷宮の風が、今日も街へ吹き出していた。




