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『迷宮は壊すものじゃなかった』 ― 生還率一〇〇%の探索者が世界を変えるまで ―  作者: 低層在住
生還だけが才能だった

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10/10

低層専門は、公式になる

ギルドの朝は、少しだけ静かだった。


騒ぎがないわけじゃない。むしろ逆だ。

人の動きが整理されている。列は短く、声は低い。

俺はその違和感に気づいて、足を止めた。


掲示板の前に、人が集まっている。


紙が一枚、増えていた。


【第三層・低層運用指針】

・撤退判断を最優先

・基準は目安、状況判断を省略しない

・低層同行は基準遵守者のみ可


名前はない。

だが、内容は見覚えがあった。


「……貼られたな」


隣で、エルネが小さく息を吐く。


「正式、ですね」

「“暫定”が外れただけです」


受付の女が、こちらを見ていた。

目が合うと、軽く顎を引く。


「今日から、低層はこの指針で回すわ」

「俺は関係ないですよ」

「関係なくなった、が正しい」


彼女はそう言って、台帳を叩いた。



迷宮前は、昨日より落ち着いていた。


露店の声は控えめで、探索者たちの足取りも遅い。

奥へ急ぐ人間が、明らかに減っている。


「……今日は、入る?」

エルネが聞く。


俺は首を振った。


「様子を見る日です」

「行かない判断、増えましたね」

「判断する材料が増えたからです」


リュシアが腕を組んだまま、前を見ている。


「剣を抜かない日が増えた」

「いいことです」



第三層の入口で、別のパーティが立ち止まっていた。

昨日、事故未遂を起こした三人だ。


彼らは掲示板の紙を手に、話し合っている。


「……二体でも、音が重なったら戻る」

「“目安”って、そういう意味か」

「数字じゃなくて、状況か」


誰も怒鳴らない。

誰も焦らない。


やがて、三人は踵を返した。


「今日は、やめとこう」

「……ああ」


戻る背中は、昨日より落ち着いていた。


(それでいい)



昼前、ギルドの奥で簡単な打ち合わせが行われた。

職員と、何人かのベテラン探索者。


俺は端に座って、話を聞くだけだ。


「低層の事故件数、明確に減っています」

「撤退が早くなった」

「同行希望も、無理を言わなくなったな」


誰かが言った。


「……最初は、真似だけだった」

「今は、考えるようになった」


視線が、一瞬こちらに向いた。

俺は水を飲んだだけで、何も言わない。


受付の女が、話をまとめる。


「低層は“攻略”じゃない。

 安全に回す場所として扱う」


その言葉に、異論は出なかった。



夕方、酒場は静かだった。


噂は、もう騒ぎにならない。


「低層は、今日は控えめだってさ」

「戻れる日に行くのが正解らしい」

「……楽だな、それ」


笑いはあるが、軽口ではない。


エルネが水を飲みながら言った。


「……私、もう“役に立たない”って言われなくなりました」

「言われる必要、ありません」

「うん。でも……安心します」


リュシアが短く言う。


「生きていれば、評価は後から付く」



夜、迷宮前を通る。


風は冷たい。

だが、以前よりも静かだ。


低層は、誰でも入れる。

だが、誰でも戻れるわけじゃない。


その当たり前が、

ようやく共有され始めただけだ。


俺は、名もない掲示を見上げる。


仕組みは、人を選ばない。

だからこそ、残る。


明日も、低層へ行くかもしれない。

行かないかもしれない。


どちらでもいい。

戻れる判断が、ここにある限り。


低層専門は、

もう一人のやり方じゃない。


それは

この街の、当たり前になり始めていた。

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