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『迷宮は壊すものじゃなかった』 ― 生還率一〇〇%の探索者が世界を変えるまで ―  作者: 低層在住
生還だけが才能だった

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1/9

生還率ゼロの街で、俺は「撤退」を覚えた

湯気が、視界を白く曇らせていた。


風呂の湯は熱すぎず、ぬるすぎずなのに、胸の奥だけが、じわりと熱を持っている。心臓のあたりが、誰かに指先で押され続けているみたいに痛い。


「……は、ぁ……」


吐く息が薄く震えて、湿った浴室の壁に吸われた。


昨夜も終電だった。今朝は早出で、昼も立ち食いで、帰ってきて、風呂に入ってそれだけで「今日を終えた」気になりたかっただけだ。


なのに、身体は律儀に言い返してくる。


もう無理だ、と。


湯の表面が小さく揺れる。指先が痺れて、石けんの甘い匂いが急に遠くなる。耳の奥で、血の流れる音だけが大きくなる。


(……やべ)


そう思った瞬間、視界が反転した。天井の換気扇がゆっくり回っているのが、まるで遠い惑星みたいに見えた。


そして


冷たい石の感触が、背中に刺さった。


「……え?」


声が出た自分に、驚く。口の中が乾いているのに、空気だけが妙に湿っている。鼻を突くのは、土と汗と、鉄みたいな匂い。


目を開けると、そこは浴室じゃない。


灰色の石畳。知らない街並み。空は薄い夕焼けで、煙突のようなものから細い煙が上がっていた。遠くから、金属がぶつかる音や、怒鳴り声、馬のいななき。


そして俺の視界の端で、誰かが息を呑んだ。


「……きゃっ!」


若い女の声。次いで、わらわらと足音が近づく。


「な、なにをしている!」

「服を着ろ!いやその前に手を上げろ!」


いや、待ってくれ。俺は……。


視線を落とした瞬間、思考が停止した。


(……全裸じゃねえか!)


腕で必死に隠そうとする。意味がない。すぐに革鎧の男たちが、槍の穂先をこちらに向けてきた。顔つきが容赦なく、仕事の手順を踏んでいるだけ、という冷たさがある。


「変態か?それとも召喚の類か?」

「召喚なら、もう少しマシな出方をするだろ」


笑い声が混じる。血が顔に集まって、耳まで熱い。


「ち、違う!事故だ!俺は」


言い訳は途中で遮られた。


「名前と所属を言え」

「……カナタ。所属は……ない」


嘘じゃない。現代日本の会社員、なんて言っても通じるわけがない。口にした瞬間、衛兵の片方が眉をひそめた。


「身分証も無し。金も無し。服も無し」

「……全部無しだな」


俺の人生が箇条書きにされていく。最悪だ。


結局、俺は布切れ一枚を投げ渡され、粗末な牢に放り込まれた。石壁は冷たく、湿気が指先にまとわりつく。遠くで誰かが嘔吐する音がして、獣の臭いが混ざった空気が重い。


(……夢だろ、これ)


だが、夢にしては手の甲が痛い。壁に触れたときのザラつきがリアルすぎる。胃の底がじわりと冷えて、ようやく思い出す胸の痛みと、意識が落ちた瞬間。


(俺、死んだ……?)


考えたくない。けれど、この状況が「死後」にしては生々しすぎる。


「おい、新入り」


牢の隅から声がした。毛布にくるまった男が、目だけ光らせて俺を見る。


「ここはディルヴァ。迷宮都市だ。お前、迷宮に放り込まれるぞ」

「……迷宮?」


男は笑った。乾いた、喉に砂が詰まったような笑い。


「金が無い奴は働く。働けない奴は売られる。売れない奴は迷宮に捨てられる。簡単だろ?」


簡単じゃない。だが、言葉の一つ一つが、妙に「制度」っぽい。つまりこの街では、それが当たり前なのだ。


「……俺、戦えない」

「戦えなくても行く。死ぬだけだ」


男が肩をすくめると、鎖の音がじゃらりと鳴った。


その夜、俺はほとんど眠れなかった。石の床の冷たさが背中に染み込み、外の喧騒が薄く続く。たまに聞こえる女の笑い声が、遠い世界の出来事みたいだ。


(ここで死んだら、笑えないぞ……)


現代では、上司の機嫌を損ねないように息をしていた。ここでは、息をするだけで命が減る。


翌朝、扉が開き、衛兵が俺を引っ張り出した。光が眩しい。目が痛いほどの朝だ。


「カナタ。身元不明者は、探索者ギルドへ回す。迷宮で働け」

「……探索者?」


ギルド、と聞いて少しだけ希望が湧いた。どこかに制度があるなら、理不尽が全部じゃないはずだ。


連れて行かれた建物は、石造りの大きなホールだった。獣皮の匂い、油の匂い、汗の匂いが混ざり合い、床には泥と血が乾いた跡がある。壁には魔物の角や牙が飾られ、受付には分厚い台帳。


そして、人が多い。


鎧姿、ローブ、包帯だらけの男、目つきの鋭い女。誰もが「生き残り」の顔をしている。


受付の女が、俺を上から下まで見て、淡々と告げた。


「登録料は?」

「……ない」

「装備は?」

「……ない」

「技能は?」

「……ない」


また箇条書きだ。俺は肩をすぼめる。恥ずかしいというより、怖い。ここで「役に立たない」と判断されたら、捨てられる。


受付の女はため息をつき、台帳をめくった。


「……じゃあ、低層の“回収”から。死にたくなければ、単独で深く行かないこと」

「低層……?」


彼女は面倒そうに指で地図を叩いた。


「ディルヴァ迷宮。入口から第三層までが“低層”。第四層からが“中層”。中層は、初心者が行くと死ぬ」


言い切りが恐ろしいほど自然だ。


「回収って、戦わない仕事?」

「戦ってもいいけど、勝手に死ぬな。死体処理が増える」


その一言で、俺の背筋が冷えた。死体処理が“増える”。つまり、死ぬのは日常。


(……戦わない。俺は、戦わない方法で生きる)


その瞬間、胸の奥の痛みが、少しだけ思い出として遠のいた。代わりに、別の痛みが生まれる。生きたい、という欲だ。


ギルドの倉庫で、最低限の道具を貸し出された。短いナイフ、ロープ、麻袋、小さなランタン。木の柄は汗で滑り、金属は冷たい。


装備を身につけながら、俺は自分の手を見た。細くはないが、強くもない。爪の間に油の匂いが染みつき、手のひらが少し汗ばむ。


(ここから始めるしかない)


迷宮の入口は、都市の中心近くに口を開けていた。巨大な石門。中からは冷たい風が吹き出し、湿った土と、何か獣の匂いが混ざる。入口前には小さな市場があり、回復薬や松明、護符が売られている。叫び声と値切り声が飛び交い、まるで祭りだ。


ただし、祭りにしては……人の目が冷たい。


俺はランタンに火をつけ、迷宮へ足を踏み入れた。石の階段を降りると、外の喧騒がふっと薄くなり、代わりに水滴の音が耳に刺さる。


ぴちゃ、ぴちゃ。


壁は濡れていて、指で触ると冷たくてぬるりとする。足元は滑りやすい。小さな苔の匂いがして、息をすると肺が冷える。


(暗い……)


ランタンの灯りは狭い円を描くだけで、周囲の闇がそれを飲み込もうとしている。視界の端で何かが動いた気がして、俺は反射的に立ち止まった。


(落ち着け。深呼吸。……危険を探すんだ)


昔、会社で覚えた“段取り”が役に立つ。最悪のことを想定し、余裕を持たせる。現代では「怒られないため」だったが、ここでは「死なないため」だ。


通路の角に差し掛かったとき、床の石畳に違和感があった。ひび割れの入り方が不自然だ。俺はしゃがみ込み、指先でそっと触る。


ざらり。


石が微妙に浮いている。いや、浮いているというより、わずかに“沈む余地”がある。


(……罠だ)


背中が汗で冷える。心臓が跳ねる。俺はゆっくり立ち上がり、ロープの先に小石を結び、疑わしい場所へ投げた。


カチン、と石が当たった瞬間。


ガゴン――!


壁の穴から、矢が飛び出した。空気を裂く音が耳元をかすめ、矢が反対側の壁に突き刺さる。木と石がぶつかる乾いた音。


俺は動けなかった。


(……死ぬところだった)


喉が鳴る。口の中が苦い。汗が背中を伝い、冷えていく。


(戦う前に死ぬ。これが迷宮……)


心臓が痛い。だが、今度は病気じゃない。恐怖だ。


矢が止まったのを確認してから、俺は罠の石を避けて通路を進んだ。歩幅は小さく、足の裏で床の硬さを確かめるように一歩ずつ。


すると、通路の先に、淡い光が揺れているのが見えた。誰かのランタンだ。


俺は身を壁に寄せ、息を殺した。


「……新人か?」


低い声。男が二人。鎧はボロボロだが、姿勢が慣れている。俺のランタンを見て、片方が鼻で笑った。


「単独?死にたいのか」

「……死にたくない」


自分でも驚くほど、即答だった。


男は俺の足元、矢が刺さった壁を見て、眉を上げた。


「罠、見つけたのか」

「……たまたま」


男の目つきが少し変わる。値踏みではなく、興味。


「なら、付いて来い。低層でも、群れに噛まれたら終わりだ」


俺は一瞬迷った。知らない人間について行くのは危険だ。でも、単独の危険はさっき味わったばかりだ。


(生き残るために、使えるものは使う)


俺は小さく頷いた。


その時だった。


通路の影から、甲高い鳴き声が響いた。


キィィ――!


鼠……いや、犬ほどの大きさの影が、三つ。牙が光る。目が赤く、こちらを見て唸る。毛並みは濡れていて、腐った肉の匂いが鼻を刺した。


男たちが剣を抜く。金属音が狭い通路に反響し、胸に響く。


「下がれ!」

「ランタン落とすな!」


俺は言われた通り、壁際へ後ずさった。手が震えてランタンが揺れる。火が消えそうになり、恐怖が喉を締める。


(……俺は、戦えない)


でも、逃げるだけならできる。逃げ道を確保する。罠の位置を覚える。撤退ルート。


会社で覚えた「最悪想定」が、ここでは命綱だ。


男の剣が鼠犬の首を弾き、血が飛んだ。鉄臭い匂いが一気に広がる。もう一匹が飛びかかり、鎧に爪を立て、ぎゃりぎゃりと嫌な音を立てる。


俺は思わずナイフを抜いた。握りが汗で滑る。刃が震える。


(……来るな、来るな)


鼠犬がこちらを見た。赤い目が、俺の胸の奥を覗き込むみたいに冷たい。


その瞬間、さっきの罠が頭をよぎった。


(……あの沈む石の上に誘導できたら)


俺は一歩、罠の手前まで下がり、足で床を軽く叩いた。


「……こっちだ」


声が掠れる。鼠犬が反応し、俺に向かって突進してきた。


心臓が跳ねる。喉が乾く。逃げたい。だが、逃げたら背中を噛まれる。


俺は最後の瞬間で横に跳んだ。


鼠犬の足が、罠の石を踏む。


ガゴン――!


矢が飛ぶ。


鼠犬の胴に、矢が突き刺さり、甲高い悲鳴が上がった。血が床に広がり、熱い匂いが立ち上る。


男たちが一瞬固まったあと、片方が笑った。


「……お前、頭は回るじゃねえか」

「今のは……偶然じゃないな?」


俺は息を荒くしながら、膝に手をついた。震えが止まらない。胃がむかむかする。


(……生きてる)


生きてる。たったそれだけで、泣きそうになる。


男の一人が、俺の肩を軽く叩いた。鎧越しの手は重く、温かかった。


「名は?」

「……カナタ」

「俺はバル。こいつはジグ。お前みたいなのは珍しい。普通、新人は“前に出て死ぬ”」


俺は苦笑した。


「前に出たくない。死にたくない」

「いい趣味だ」


彼らは倒した鼠犬の素材を手早く剥ぎ取り、麻袋に入れた。手際がいい。血の匂いに慣れている。


俺は、刺さった矢を見て、自分の喉が鳴るのを感じた。


(俺の武器は、剣じゃない。撤退と観察だ)


迷宮の“低層”でさえ、油断したら死ぬ。だが、ルールがあるなら、学べる。学べるなら、生きられる。


迷宮から戻ったのは、昼過ぎだった。外の空気がやたらと暖かく、太陽の匂いがした。街の喧騒が急に優しく感じる。


バルが言った。


「初日で生きて帰った祝いだ。酒場行くぞ」

「……酒?」


酒場に入ると、煙草と肉の匂いが混ざり、天井近くが白く霞んでいた。笑い声、ジョッキの音、歌。


俺は座った瞬間、身体の芯が抜けたみたいに安心した。手の震えが、ようやく止まる。


バルがジョッキを差し出す。


「飲め。生還の味だ」

「……ありがとう」


飲むと、苦くて、喉が熱くなって、胃がじんわり温かい。現代の缶ビールとは違う、雑で強い味。


その時、隣の席の女が、俺を見て吹き出した。


「ねえ、あんた。今日“裸で捕まった新人”って聞いたけど……それ?」

「……それ、俺です」


酒場が一瞬静かになり、次の瞬間、爆笑が起きた。


「ははは!伝説の全裸召喚!」

「迷宮より危険な出方するなよ!」


俺は顔を覆った。違う意味で死にたい。


バルが肩を揺らして笑いながら言う。


「まあいい。ディルヴァじゃ、死なない奴が正義だ」

「……じゃあ、俺は正義になれる?」

「なれるさ。死ななきゃな」


ジョッキの泡が、ゆっくりと消えていく。俺はその泡を見ながら、静かに決めた。


迷宮は、攻略しない。

俺は、生きて帰る。


そのためなら、笑われてもいい。

全裸の噂が酒場で盛られても、今は……生きていることのほうが、ずっと大事だ。


外では、迷宮の入口から冷たい風が、また街へ吹き出していた。


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