星を祀る都市アストレア 十二の恋の物語
はじめまして。
この物語は、星を祀る都市〈アストレア〉を舞台にした十二の短編集です。
各話は一話完結、登場人物も異なりますが、
すべて「星座」に結ばれた淡い恋を描いています。
恋は必ずしも実らず、むしろ静かにすれ違い、
言葉にならないまま消えていくことが多いかもしれません。
けれどその想いは決して無駄にはならず、
都市の空に星座として残り続けます。
夜空に瞬く星を見上げるように、
ひとつずつ、ゆっくりと読んでいただければ嬉しいです。
プロローグ 星々の都市、語り部の声
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ようこそ、旅人さん。
わたしの名は〈アストレア〉。
星を祀り、星とともに息をする都市国家です。
わたしの広場では歌が響き、
石畳には恋の足跡が落ち、
夜ごと、星々がそのすべてを見守っています。
恋は、いつも長くは続きません。
でもね、消えてしまうわけでもないのです。
ひそやかな想いは、わたしの壁に残り、
すれ違った言葉は、路地の風に溶け、
やがて夜空へと昇っていきます。
鐘楼は時を告げ、
窓辺の灯は小さな祈りを揺らし、
市場の呼び声さえ、どこかで誰かの心に触れて過ぎていく。
見上げてください。
ほら、十二の星が、静かに並んでいます。
羊と、牛と、二人の子。
蟹に、獅子。乙女に、天秤。
蠍が尾を光らせ、射手は弓を引き、
山羊が雪の峰に立ち、瓶からは光がこぼれ、
そして二匹の魚が水面のように揺れています。
これから語るのは、
その星々に結ばれた、淡くて静かな恋の話。
長い物語ではありません。
ひとつずつ、短い灯がともり、やがて夜に溶けるだけ。
どうぞ耳を傾けてください。
わたしの路地と、扉と、窓辺に残った、
十二の恋の記憶に。
そして覚えていてください。
たとえ言葉にならなかった想いでも、
たとえ手に触れられなかった温もりでも、
星は消しません。
星は、ただ静かに覚えているのです。
◆◇◆◇◆
第1話 牡羊座の季節、鐘の下で
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牡羊座の季節。
春の風はまだ冷たく、都市アストレアの石畳を駆け抜けていた。
広場にそびえる鐘楼は、朝を告げるように重い音を響かせ、街の屋根に散る光を揺らす。
星々はすでに空の奥へと隠れてしまったが、その眼差しは変わらず、この街を見守っていた。
——そして、その視線の下に立つひとりの少年にも。
レオン。
まだ年若い騎士見習いで、銀の鍔の剣を腰に差しながらも、その手には迷いが残っていた。
彼は聖堂の扉の前に立ち、なかなか足を踏み入れられずにいた。
胸の奥に抱いているのは、どうしても言葉にならない想い。
その相手は、聖堂に仕える司祭の娘、エリスだった。
扉は開いていた。
中から差し込む光が石畳を照らし、そこにひとつの影が伸びている。
「……おはよう、レオン」
その声は鐘の余韻のように柔らかく、春の空気に溶けていった。
淡い衣をまとった彼女は、凛とした眼差しを持ちながらも、どこかあたたかい微笑みを湛えていた。
エリス。
レオンより三つ年上で、彼にとっては憧れであり、胸を焦がす人でもあった。
「もうすぐだね。騎士団に入る日が」
エリスの言葉は祝福のようで、同時に距離を示すものでもあった。
レオンの胸が締め付けられる。
彼女に認めてもらいたい。
その一心で剣を握ってきたのに、口にしたい言葉は喉に凍りついて出てこない。
ほんの一言——「好きだ」と。
ただそれだけを言えばいいのに。
レオンは拳を握った。
春の風が髪を揺らし、鐘楼の影が彼の足元を覆う。
それでも声は出なかった。
エリスは少し首を傾げて笑った。
「きっと、大丈夫。あなたは真っ直ぐだから」
その言葉が胸を刺した。
真っ直ぐであるはずなのに、想いを告げられない。
衝動だけが心を駆けさせ、足は石畳に縫い止められたまま。
「……ありがとう」
かろうじて絞り出した声は、それだけだった。
エリスはうなずき、聖堂の奥へ歩みを進める。
扉がきしむ音が、彼の胸を遠ざける。
今言わなければ、二度と届かないかもしれない。
「……エリス!」
思わず声が漏れた。
だが、その先の言葉は続かなかった。
喉が震え、胸が痛み、ただ風の音がそれをさらっていった。
エリスは一瞬だけ立ち止まった。
そして振り返り、春の光の中で微笑んだ。
「あなたの剣に、祝福がありますように」
それだけを残し、彼女は扉の向こうへ消えていった。
レオンは立ち尽くしたまま、剣の柄を強く握った。
告白はできなかった。
けれど、彼女の微笑みと祝福の言葉が、胸の奥に灯として残った。
その夜、都市アストレアの空には、牡羊座の星が鮮やかに瞬いていた。
言えなかった想いを、星々だけが知っていた。
◆◇◆◇◆
第2話 牡牛座の窯に残された香り
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牡牛座の季節。
陽はやわらかく、都市アストレアの屋根を金色に染めていた。
市場には果実の甘い匂いが満ち、石畳の路地には朝早くから人々の足音が響く。
鐘楼は長い余韻を残し、ゆるやかに広場を包み込んでいた。
その音の中で、一つの窯が火を灯している。
パン屋の青年、トマス。
彼の店は、牡牛座を象徴する区にある小さな店だった。
窯の前に立つと、いつも心が落ち着いた。
薪のはぜる音、立ちのぼる香ばしい匂い、熱を帯びた空気。
日々変わらぬものが、彼の胸に確かさを与えた。
店先の扉が軽く鳴った。
風と一緒に、小さな鈴の音が転がり込む。
トマスが顔を上げると、旅装の影が差していた。
「……おはよう、トマス」
幼馴染のミリアだった。
肩に小さな荷を背負い、外套の裾に朝の光が揺れている。
彼女の瞳は、遠くを映すように澄んでいた。
「おはよう」
トマスは笑った。
手は止めず、成形した生地に粉をはたく。
この街で、朝を同じように迎えることに、彼は安らぎを見出していた。
「ねえ、伝えに来たの」
ミリアは扉の前で、少しだけ躊躇する。
そして言った。
「わたし、旅に出る。星々を巡る商隊に入れてもらえたの」
粉が舞い上がり、光の中で小さく輝いた。
トマスは一瞬だけ手を止め、それからまた生地に指を沈めた。
「いつ、行く?」
「今日の正午」
薪がぱちりと弾ける。
その小さな音が、沈黙に穴をあけた。
トマスは窯の火を見つめ、火床をならす。
熱は変わらず、まっすぐに頬へ降りかかる。
胸の中の熱も、同じように揺れているのに、形にはならなかった。
「……ずっと、行きたかったんだ」
ミリアは微笑んだ。
「この街も、あなたのパンも、本当に好き。でも、わたし、遠くを見たいの」
トマスはうなずいた。
うなずくことなら、できた。
窯の温度を見るふりをして、目を伏せる。
彼女の夢を止めてはいけない、と知っていた。
それでも、喉の奥には別の言葉がつかえていた。
——残ってほしい。
——ここにいてほしい。
——朝の匂いのなかに、あなたもいてほしい。
言葉は生地のように手の中でまとまらず、ただ指の間から崩れ落ちるばかりだった。
「出発の前に、一つだけお願いしてもいい?」
ミリアは店内を見回し、笑う。
「最後に、あなたのパンが食べたい」
「もちろん」
トマスは返し、手早く一本の生地を伸ばして成形した。
表面に小さく切り込みを入れ、霧を吹きかけ、窯の口へ滑らせる。
熱が頬にあたり、汗が額を伝う。
変わらない所作。
それが、唯一の答えになれると信じた。
窯の中で生地がふくらむ。
表面が色づき、香りが店に満ちていく。
ミリアは目を細め、ゆっくりと呼吸をした。
彼女の肩がわずかにほどけていくのが、トマスにはわかった。
「ね、覚えてる?」
ミリアが言った。
「小さい頃、配達についていって、道に迷ったこと。
あなた、泣くわたしの手をずっと離さなかった」
トマスは笑った。
「ああ。帰ったら、パンが冷たくなっていて、親父に怒られた」
二人とも笑った。
笑い声は、窯の熱の中ですぐに溶けていった。
焼き上がったパンを取り出す。
熱い湯気が立ちのぼり、香りがさらに濃くなる。
トマスは半分に割り、布に包んで手渡した。
「ありがとう」
ミリアはパンに頬を寄せるようにして、目を伏せた。
「——この匂い、きっと忘れない」
トマスは言いかけて、やめた。
「忘れないで」とも、「忘れて」とも言えなかった。
彼は代わりに、もう一つの包みを差し出した。
旅の間に硬くならないよう、油を少し含ませた焼き菓子。
言葉の代わりに包んだ、小さな気持ち。
「……ねえ、トマス」
ミリアは包みを抱えたまま、店の扉に手をかけた。
「帰ってきたら、またここに来てもいい?」
トマスは顔を上げる。
窯の火が彼の視界の端で揺れた。
胸の奥の熱が、少しだけ形になりかけた。
「いつでも」
彼は言った。
「いつでも、焼いて待ってる」
ミリアはうなずき、扉を押し開けた。
外の光が差し込み、粉の粒がきらめく。
風が入り、鈴が転がる。
彼女の背に、朝の街路の音が重なった。
「行ってくるね」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
音は小さく、けれど確かだった。
その確かさが、胸に広がり、静かに痛んだ。
トマスは窯の火を見つめた。
仕事は待っている。
成形を待つ生地、仕込まれた粉、量られた塩と水。
彼は手を洗い、次の生地を台に移した。
指先が小麦を叩くたび、思い出が粉の匂いに紛れていく。
正午。
市場がいちばん賑やかになる時刻。
遠くで角笛が鳴り、商隊の出発が告げられた。
トマスは窓の外に視線を向け、すぐに戻した。
見れば、足が止まってしまう気がした。
止まってしまえば、彼女の背を追ってしまうかもしれない。
それは、彼女の夢に背を向けることだ。
だから見なかった。
午後、陽は少し傾き、店に影が伸びる。
トマスは淡々と働き続けた。
変わらないリズムで、変わらない手つきで。
それでも、どこかでひとつだけ違っていた。
窯の前に、包み紙がひとつ残っている。
ミリアが持っていかなかった、小さな焼き菓子。
出発の合図に紛れて、彼女が置いていったのかもしれない。
それとも、彼が渡し損ねたのかもしれない。
彼はその包みを開けず、棚の端にそっと置いた。
開けてしまえば、香りはすぐに消えてしまう。
残しておけば、ここに確かに「別れの朝」があったことを、
少しのあいだ、匂いが教えてくれる。
夕暮れ。
市場の声が細くなり、灯がともる。
トマスは店の戸を半分閉め、残りのパンを布で覆った。
窯の火を落とし、灰をならす。
小さな火がゆっくりと沈んでいく。
その夜、都市アストレアの空には、牡牛座の星が静かに並んでいた。
トマスは店の屋根にのぼり、背を壁にあずけて空を見上げる。
風が冷たく、粉の匂いがまだ袖口に残っていた。
——残ってほしい。
——でも、行ってほしい。
両方の気持ちが、胸の中でゆっくりと釣り合っていく。
やがて、どちらでもない静けさが降りた。
彼は目を閉じ、深く呼吸をした。
下の店には、焼き上げたパンの匂いが残っている。
朝のためにこしらえた生地が、静かに発酵している。
明日になれば、また同じ手つきで、同じように火を起こすだろう。
その香りが、遠い道を行くミリアに届くことはない。
けれど、彼の胸に残った匂いは、たしかにここで灯のように燃えている。
風が鐘楼の影を運び、屋根に落とした。
トマスは目を開け、星の並びをもう一度だけ見つめた。
何も約束せず、何も誓わず、ただ静かに。
それでも、明日の朝には窯に火を入れる。
そして、焼いて待っている。
いつか、扉がまた鳴る日まで。
夜は深まり、都市は眠り、
香りだけが、店の奥でかすかに揺れていた。
星々はそれを見下ろし、
牡牛座の季節は静かに過ぎていった。
◆◇◆◇◆
第3話 双子座の旋律、揃わぬ心
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双子座の季節。
初夏の夜、都市アストレアの広場には人々が集まり、灯火が星のように瞬いていた。
鐘楼の影は柔らかく石畳を覆い、空には双子の星が寄り添って輝いていた。
その光は、まるで二人でひとつの歌を示すかのようだった。
広場の中央に立つのは、二人の吟遊詩人。
ライルとノア。
肩を並べ、リュートと笛を奏でながら歌う彼らの旋律は、見事に揃っていた。
声も、音も、呼吸でさえ、まるで鏡のように響き合い、群衆を魅了していた。
「——♪」
観客の拍手が湧き、夜の空気に広がる。
ノアが笑みを浮かべ、軽く帽子を振って応える。
その笑顔は光を宿し、見ている人々を明るくするものだった。
ライルは隣で同じように頭を下げた。
けれど胸の奥では、別の鼓動が響いていた。
——どうして、こんなに近くにいるのに。
——どうして、こんなにも遠いのだろう。
歌は揃う。声も、旋律も、ひとつに重なっている。
けれど、心だけは揃わなかった。
ライルの想いは、ノアに届くことはなかった。
演奏を終えると、二人は広場の隅に腰を下ろした。
客たちは余韻を語り合い、次の出し物を待ちわびている。
ノアは軽やかに笑い、杯を手にした。
「今夜もいい出来だったな、ライル」
「……ああ」
短い返事。
それ以上の言葉は、喉で凍りついた。
本当は言いたい。
「君が隣にいるから、歌えるんだ」と。
だが、その一言が口を出ることはなかった。
ノアは杯を傾け、視線を広場に戻した。
「次は旅の曲をやろう。人々は冒険譚が好きだ」
「……そうだな」
ライルの指が膝の上で動く。
旋律の指づかいをなぞりながら、心は別のことを想っていた。
——旅に出たいのは、本当は自分だ。
——でも、隣にいる君を失いたくはない。
人々のざわめきの中、ライルは一瞬、ノアの横顔を見つめた。
灯火に照らされたその横顔は、舞台の光よりも鮮やかに見えた。
けれど、ノアの視線は群衆へと向けられていた。
そこに、ライルは含まれていなかった。
演奏が再び始まる。
二人の声はまた重なり、完璧に揃っていた。
群衆は酔いしれ、広場には歓声があふれる。
だがライルの胸の奥で、旋律は揃わなかった。
心は不調和のまま、言葉にならず、ただ沈黙の影を落としていた。
その夜、双子の星が寄り添って輝いていた。
けれど、その光はライルの胸に届くことはなかった。
星々だけが、彼の揃わぬ想いを知っていた。
◆◇◆◇◆
第4話 蟹座の修道女、灯を守る
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蟹座の季節。
夏の光は強く、都市アストレアの屋根を白く照らしていた。
だが修道院の中は静かで、厚い石壁が外の熱を遮っている。
礼拝堂の窓から差し込む光はやわらかく、蝋燭の炎と溶け合って、淡い影を床に落としていた。
空には蟹の星座が昇り、昼の光の奥でひそかに瞬いていた。
回廊には、小さな笑い声が響いていた。
裸足の子どもたちが走り抜け、風のように影をすり抜ける。
その後を追いながら、修道女イレーネは微笑んでいた。
両腕には市場で買った花籠。
この花を飾れば、孤児たちの部屋も少しは明るくなるだろう。
「イレーネ、また子どもたちに花を?」
声をかけたのは、青年ヨナスだった。
街の大工で、孤児院の修繕をよく手伝ってくれる。
手には木屑がついていたが、その眼差しは澄んでいた。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
イレーネは微笑んで首を振った。
「これはわたしの務めだから」
ヨナスは頷いたが、その瞳には別の色が宿っていた。
子どもたちを見る目とは違う、彼女だけに向けられた光。
イレーネはそれに気づいていた。
気づいていながら、応えることはできなかった。
彼女の心は、子どもたちに向いていた。
この子らを守ることが、彼女のすべてだった。
恋を抱く余裕など、どこにも残っていなかった。
回廊に風が吹き、蝋燭の炎が揺れた。
イレーネは花をひとつ手に取り、ヨナスに差し出した。
「あなたが来てくれると、子どもたちも喜ぶわ」
ヨナスは花を受け取り、小さく笑った。
「……本当は、君に喜んでもらいたくて来てるんだ」
その声に、イレーネの胸がわずかに揺れた。
言葉を返そうとしたが、唇は動かず、ただ静かな微笑みがこぼれただけだった。
鐘楼の音が響く。
子どもたちの笑い声に混じって、夏の空気が重なっていく。
イレーネは知っていた。
ヨナスの想いに応えられないことを。
けれど拒むこともできなかった。
彼女の心は、愛ではなく「庇護」に結びついていたから。
「また来るよ」
ヨナスは花を胸に抱き、背を向けた。
扉が開き、夏の光が差し込む。
その背中を、イレーネはただ見送った。
子どもたちが駆け戻り、彼女の裾を引く。
「ねえ、花はどこに飾るの?」
イレーネは笑い、答えた。
「窓辺に。星が見える場所に」
夜になり、花は窓辺に並べられた。
風に揺れ、炎に映え、子どもたちの寝顔を照らしている。
イレーネは窓越しに夜空を仰いだ。
蟹座の星がかすかに瞬き、彼女の胸の奥をやさしく撫でた。
彼女は目を閉じた。
愛を抱くことはできなくても、守ることはできる。
その選択が正しいかどうかはわからない。
けれど、今はそれでいい。
回廊には蝋燭の灯が揺れ、夜の沈黙が満ちていた。
星々だけが、その境界にとどまった想いを知っていた。
◆◇◆◇◆
第5話 獅子座の舞台、沈黙の恋
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獅子座の季節。
夏の夜は熱を帯び、都市アストレアの広場は観客で埋め尽くされていた。
仮設の舞台に灯された松明が揺れ、鐘楼の影が幕のように広場を覆う。
夜空には獅子の星が鮮やかに輝き、街の熱気をさらに燃え上がらせていた。
舞台の中央に立つのは、劇団〈黄金の獅子〉の看板役者、アルノ。
金色の衣をまとい、声を張り上げる。
「——愛している!」
その言葉が夜を切り裂き、観客の心を震わせた。
拍手が広場に広がる。
歓声が松明の炎と重なり、夏の空気を震わせる。
アルノはその渦の中で堂々と立ち、愛を告げる役を演じきった。
だが、舞台を降りた瞬間、声は喉の奥に沈んだ。
衣装の裾を直していたのは、相手役のリュシア。
舞台の上で彼に愛を返した女性。
現実の彼女に向けて、同じ言葉を告げることはできなかった。
「いい芝居だったわ、アルノ」
リュシアが振り返り、汗を拭いながら微笑む。
その声はやさしく、彼の胸を揺らした。
アルノは笑みを返した。
「……ありがとう」
それだけ。
胸の奥には、舞台で吐き出した言葉がまだ熱を持っていた。
けれどそれは「芝居」の言葉でしかない。
現実の彼の唇からは、一歩も外に出られない。
彼には誇りがあった。
看板役者としての矜持。
観客に愛を語ることはできても、ひとりの男として言葉を差し出すことはできなかった。
夜風が舞台の幕を揺らす。
拍手の残響がまだ耳に残っている。
だがその音は、彼の沈黙を覆い隠すだけだった。
アルノは衣装を脱ぎ、松明の火を背に歩き出す。
群衆の歓声は背中を押すように追ってきたが、その声に応えることはなかった。
心の中にある言葉は、舞台に置き去りにしたまま。
広場の灯が遠ざかり、夜空だけが残る。
獅子の星が鮮やかに輝き、沈黙を抱えた彼を見下ろしていた。
彼の胸にあるのは、誇りと孤独。
そして、舞台の上でしか告げられない愛。
その夜、都市アストレアは眠り、
広場にはまだ拍手の余韻が漂っていた。
星々だけが、彼の沈黙の恋を知っていた。
◆◇◆◇◆
第6話 乙女座の薬草師、言えなかった弱さ
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乙女座の季節。
秋の風が都市アストレアを包み、街路樹の葉をさらっていた。
空は澄みわたり、星々はひときわ鮮やかに瞬いている。
鐘楼の音は静かに響き、どこか祈りのように街を満たしていた。
その祈りの中、小さな薬草院の庭には緑の香りが漂っていた。
乾かされた葉が棚に並び、乳鉢の中で花が砕かれている。
若き薬草師マリエは、夜も更けた院でひとり調合を続けていた。
「……もう少しで、きっと治せる」
彼女は呟き、粉を瓶に移した。
病床の恋人セリオのために。
扉の向こうから、時折聞こえる咳の音が胸を締めつけた。
セリオはいつも穏やかだった。
「マリエ、無理をするな。君がいてくれるだけでいい」
そう言う彼の声に、マリエは微笑みを返すしかなかった。
「大丈夫。必ず治すから」
そう言うたびに、彼女の心には影が落ちた。
本当は不安だった。
どれほど薬草を集めても、祈りを込めても、彼を救えるかはわからない。
だが、その弱さを彼に見せることはできなかった。
——完璧でなければならない。
——彼を癒せなければ、わたしの存在に意味はない。
その思いが、彼女を夜ごと庭へと駆り立てていた。
やがて夜が明け、空に薄い光が差す。
マリエは扉を開け、セリオの枕元に座った。
瓶を差し出し、「これを」と囁いた。
だが、セリオは首を振った。
「マリエ……もう、いいんだ」
「どうして! まだできることはある!」
彼女の声が震えた。
涙があふれそうになったが、彼女は唇を噛んでこらえた。
弱さを見せたら、彼を不安にさせる。
そう信じて、必死に笑みを作った。
セリオは静かに微笑んだ。
「君はいつも、完璧であろうとする。でも……そのままでいてほしいんだ」
マリエの胸が揺れる。
だが言葉は喉にとどまり、涙も流せなかった。
彼女はただ瓶を抱き、うなずくしかできなかった。
その夜、セリオの咳は静かになった。
やがて眠るように呼吸が途切れ、院には深い沈黙が落ちた。
マリエは瓶を抱えたまま、庭に立ち尽くしていた。
月明かりに照らされた瓶の中には、まだ使われなかった薬草が揺れていた。
「……ごめんね」
初めてこぼれた言葉は、弱さの混じったものだった。
だが、それを彼に伝えることはもうできなかった。
空を見上げると、乙女座の星が冷たく輝いていた。
その光は、彼女が抱えた未完の祈りを静かに照らしていた。
◆◇◆◇◆
第7話 天秤座の書記官、均衡に沈む想い
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天秤座の季節。
秋の風は冷えを帯び、都市アストレアの広場には色づいた葉が舞っていた。
鐘楼の音は低く、均整のとれた響きとなって街を包み込む。
夜空に浮かぶ天秤の星は、釣り合いを保ちながら揺れもせず光っていた。
評議会の一室。
机に積まれた羊皮紙に、書記官クラリスは羽根ペンを走らせていた。
討議の記録を残し、荒れた議論を穏やかに整えるのが彼女の務め。
彼女の言葉は常に公平で、誰かを特別に扱うことはなかった。
「クラリスは、誰にでも同じように接するね」
休憩の合間、同僚のラウルが微笑んで言った。
「だから信頼されてる。評議会に君がいてくれて良かった」
クラリスは笑みを返した。
「ありがとう」
その声は穏やかだったが、胸の奥には小さな痛みが残った。
——誰にでも、同じように。
それはつまり、誰の「特別」にもなれない、ということ。
彼女の心には、ただ一人に向けられた想いがあった。
けれど、もしそれを差し出せば釣り合いは崩れる。
彼女は均衡を保つために、沈黙を選んでいた。
夕暮れ。
会議を終えたラウルが、窓辺に立つクラリスへ声をかけた。
「……今度、街の祭に一緒に行かないか?」
胸が大きく揺れた。
だが、彼女の返事は簡潔だった。
「きっと他にも誘いを待っている人がいるでしょう。あなたは皆の信頼を集める人だから」
ラウルは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑みを取り戻した。
「そうか。君らしい答えだ」
扉が閉じ、部屋には静寂が戻った。
クラリスは机の上に置かれた小さな天秤を見つめた。
釣り合った皿が、ほんのわずかに揺れて、また元に戻る。
彼女の心も同じだった。
揺れては戻り、揺れては戻り——決して傾くことはない。
夜。
評議会の窓から見上げると、天秤座の星々が均整を保ちながら輝いていた。
クラリスは胸に手を置き、深く息を吐いた。
恋は重みを増すほど、釣り合いを壊す。
だから彼女は、その重みを心の奥に沈めるしかなかった。
星々だけが、その均衡の奥に眠る想いを知っていた。
◆◇◆◇◆
第8話 蠍座の魔女、灯の奥に沈む愛
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蠍座の季節。
秋の終わり、都市アストレアの港には冷たい風が吹き込んでいた。
波止場に並ぶ灯火は揺れ、路地の影は夜に溶けていく。
鐘楼の音は低く沈み、胸の奥に響くようだった。
夜空の蠍の星は鋭い尾を光らせ、街を見下ろしていた。
港の外れに、小さな薬屋がひとつ。
人々はそこを「魔女の店」と呼んだ。
棚に並ぶ瓶の中で薬草が揺れ、独特の匂いが路地に漂っていた。
その奥に立つ女の名は、セラ。
黒髪を束ね、炎の前で乳鉢を回す。
彼女の指先は静かに震えていた。
「……来てくれないの」
小さくこぼれた声は、灯火にかき消された。
彼女の胸にあるのは、ひとりの女性への想い。
友として以上に、ずっと強く抱きしめてきた想い。
それは長い影のように彼女を覆い、日々を色づけ、同時に蝕んでいた。
扉が軋み、風が入り込んだ。
セラは振り返る。
けれど立っていたのは恋しい人ではなく、ただの客だった。
「頭痛の薬を……」
彼女は微笑み、薬瓶を差し出した。
声は穏やかでも、その笑みはすぐに影に飲み込まれた。
客が去り、扉が閉まると、再び静寂が落ちた。
セラは胸の奥で知っていた。
この愛は届かない。
それでも手放せない。
執着にも似た想いが、彼女をこの路地に縫いつけていた。
乳鉢を握る手が強くなる。
砕かれる草の音が、心臓の鼓動と重なった。
灯火が揺れ、影が壁に伸びる。
その影の奥に、彼女の愛も沈んでいった。
夜が更ける。
セラは灯を吹き消し、部屋を暗闇に沈めた。
窓から見える夜空には、蠍座が鋭く輝いている。
彼女は瞼を閉じ、初めて声に出した。
「……もう、いいの」
その言葉は風にさらわれ、静けさだけが残った。
星々はただ、彼女の深すぎた愛と、その影のような執着を見守っていた。
◆◇◆◇◆
第9話 射手座の弓、霧に消えた背中
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射手座の季節。
冬の気配が街に降り、都市アストレアの港は白い霧に包まれていた。
鐘楼の音は遠く、波止場に並ぶ船の帆は風を孕み、出航の準備を進めている。
夜空には弓を引く射手の星が高く掲げられ、矢先は果てしない道へと伸びていた。
桟橋に立つ女の影。
旅人の弓使い、カレン。
背に弓を負い、風に髪を揺らしながら、港を見渡していた。
彼女の瞳は霧を越えて、さらに遠い場所を見つめていた。
「……本当に行くの?」
背後から声が届いた。
振り返ると、そこに立っていたのは青年エド。
街に残していく恋人。
彼の眼差しは揺れ、行かないでほしいと願いながら、言葉にはならなかった。
カレンは小さく笑った。
「この街は好き。でも、私はずっと、遠くを見てしまうの」
その言葉は矢のように真っ直ぐで、静かに彼の胸を射抜いた。
エドは拳を握った。
止めたい。抱きとめたい。
けれど、それは彼女の翼を折ることになる。
だから声は出なかった。
カレンは弓を背にかけ直し、霧の中を見つめた。
風は冷たく、霧は行く先を隠していた。
それでも彼女の瞳には、遠くの星が映っていた。
「エド」
カレンは振り返らずに言った。
「あなたのことは忘れない。でも、足を止めるわけにはいかないの」
エドは唇を噛み、声を押し殺した。
足が前へ出そうになるのを必死に抑え、ただ背中を見送る。
カレンの姿は霧に紛れていく。
足音はすぐに消え、残ったのは白い霧と冷たい風だけだった。
エドは桟橋にひとり立ち尽くした。
掌には、彼女が触れた温もりがまだ残っていた。
夜空の射手の星が、その温もりを照らすように輝いていた。
矢は遠くへ放たれたまま、戻ってくることはなかった。
◆◇◆◇◆
第10話 山羊座の騎士長、封じた言葉
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山羊座の季節。
冬の風は鋭く、都市アストレアの城壁を叩きつけていた。
鐘楼の音は雪雲に吸い込まれ、冷たい響きとなって街に広がる。
夜空に浮かぶ山羊の星は、峻厳な峰のように黙して光っていた。
城門の上に、鋼の鎧に身を包んだ男が立っていた。
騎士長ダリウス。
都市を守る責務を担い、剣を握る手は常に重かった。
彼の視線は遠い雪原に注がれていた。
敵の気配を探し、街を護ること——それが彼の生のすべてだった。
「ダリウス」
凛とした声が背後から響いた。
振り返ると、白いマントをまとった王女セリーナが立っていた。
冬の冷気の中で、彼女の眼差しは不思議に温かかった。
「あなたがいてくれると、心強いわ」
その言葉が胸を深く刺した。
彼女の瞳の中に映る自分は、忠義の騎士でしかない。
けれど彼の胸の奥には、それ以上の想いがあった。
——伝えたい。
——あなたを護りたいのは、忠義のためだけではない。
だが、唇は動かなかった。
騎士であることを選ぶなら、その言葉を口にしてはならなかった。
「……お守りします。命に代えても」
それが唯一許された答えだった。
声は硬く、彼の胸を覆い隠した。
セリーナは微笑み、小さくうなずいた。
「ええ、信じています」
その言葉の優しさが、逆に刃のように彼を傷つけた。
雪が降り始め、白い粒が二人の間に落ちる。
セリーナはマントを翻し、背を向けて城内へ戻っていった。
その背中に、ダリウスはただ深く頭を垂れた。
風が強まり、雪片が彼の頬を打つ。
それは涙の代わりのように冷たかった。
城壁の上に残ったのは、沈黙と雪と、封じられた言葉だけ。
夜空の山羊座が峻厳に光り、その沈黙を見下ろしていた。
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第11話 水瓶座の占星術師、誰も知らない線
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水瓶座の季節。
冬の夜は澄みわたり、都市アストレアの空には幾千もの星が散りばめられていた。
鐘楼の音は氷のように透きとおり、雪に覆われた屋根を撫でていく。
丘の上に立つ天文台の窓はひとつだけ灯り、夜空を写す大きな鏡のように光っていた。
その窓辺に立つ女の影。
占星術師リシア。
机に広げた星図には無数の線が引かれ、星と星とを結んで、新しい形を描き出そうとしていた。
「……まだ誰も見つけていないはず」
リシアは静かに呟き、ペン先を星の位置に合わせる。
伝統に縛られない線。
常識を超えた結びつき。
彼女にとって、それは真実への道筋だった。
「師匠、また新しい星図を?」
後ろから声が届いた。
弟子のアリアが階段を上り、息を弾ませながら近づいてきた。
若い瞳が星図を覗き込み、驚きに揺れる。
「こんな繋ぎ方……誰も考えたことがありません」
リシアは微笑んだ。
「だからこそ、描く価値があるのよ」
その声は穏やかだったが、胸の奥には熱が渦巻いていた。
だが、その熱は多くの者に理解されなかった。
「奇抜すぎる」と嘲られ、「孤独な夢想家」と呼ばれてきた。
けれどアリアだけは違った。
彼女の瞳には、尊敬と憧れが宿っていた。
その視線に触れるたび、リシアの胸はかすかに震えた。
——もし、この子なら。
ほんの一瞬、彼女は思った。
自分の孤独を、共に分かち合えるのではないか、と。
けれど、その想いを口にすることはできなかった。
声にすれば、師弟の均衡が崩れる。
彼女が背負ってきた孤独は、口にしていいものではなかった。
窓の外に風が吹き、星々の光が揺れる。
冷たい風が言葉を凍らせ、沈黙だけが残った。
やがて夜が明ける。
アリアは旅立つ準備を始めていた。
新しい知識を求めて、別の地へ向かうために。
天文台の窓辺に残されたのは、未完成の星図だけ。
リシアはその上に新しい線を引いた。
誰も知らない結びつき。
誰にも理解されない孤独の証。
空には水瓶座の星が静かに並び、
その光が彼女の孤独をやさしく照らしていた。
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第12話 魚座の画家、未完成の絵のまま
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魚座の季節。
冬の終わり、都市アストレアは柔らかな霧に包まれていた。
鐘楼の音は淡くにじみ、港の波間に吸い込まれていく。
夜空には二匹の魚の星が寄り添い、揺らぐ水面のように光を散らしていた。
街外れの小さなアトリエ。
窓辺にはキャンバスが立ち、絵の具の香りが漂っていた。
そこに座るのは画家のユリウス。
夢見がちな青年で、彼の絵にはいつも星や灯火が描かれていた。
けれど、その中央にはひとりの女性の姿があった。
「……会いたい」
筆を止め、ユリウスは呟いた。
彼女の顔を思い浮かべながら描いているのに、その姿は誰にも知られていなかった。
彼自身でさえ、もう曖昧になりつつあった。
出会ったのは、星祭の夜だった。
霧の広場で、彼女は灯火を手にしていた。
笑みは淡く、声はかすかに残っている。
だが、名前も、どこから来たのかも、何もわからなかった。
まるで夢のように、彼女は霧に消えたのだ。
それでもユリウスは絵に描き続けた。
瞳の輝き、指先の形、髪の流れ。
記憶をたぐるたびに、少しずつ色は薄れ、形は滲んでいった。
——本当に存在したのだろうか。
——それとも夢が生み出した幻なのか。
筆先から落ちた色がキャンバスに滲む。
その滲みは、消えゆく記憶のようだった。
「……完成しない」
ユリウスは絵を見つめ、呟いた。
完成すれば、彼女が消えてしまう気がした。
未完成のままなら、彼女はまだここにいる。
そう信じて、絵はいつまでも途切れたままだった。
夜。
窓を開けると、魚座の星が揺れていた。
彼は筆を置き、星を見上げた。
「……あなたは、本当にいたんだよね」
答えは風にさらわれ、霧に溶けた。
アトリエには未完成の絵が残った。
そこに描かれた彼女は、輪郭も色も定まらず、それでも確かに微笑んでいるように見えた。
都市アストレアは眠り、霧が街を包んだ。
夜空の魚座が揺れ、未完成の恋を静かに見守っていた。
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エピローグ 星々の祭の夜に
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ようこそ、旅人さん。
再び声をかけるのは、わたし〈アストレア〉。
星を祀り、星とともに息をする都市国家です。
今宵は一年でただ一度の「星々の祭」。
十二の神殿には灯火がともり、広場には歌と舞が響いている。
石畳に散る灯りは星のように瞬き、鐘楼の音は夜空に吸い込まれていく。
人々の胸には、それぞれに抱えた想いがあった。
言えなかった告白。
止められなかった旅立ち。
揃わぬ心。
友情に留まった愛。
舞台に置き去りの言葉。
弱さを隠した祈り。
均衡の中に沈んだ想い。
影に沈み、手放した愛。
霧に消えた背中。
忠義に封じられた言葉。
理解されず凍りついた線。
夢のように儚い幻。
それらはすべて、わたしの壁に、路地に、窓辺に、確かに残っている。
消えたのではなく、灯として刻まれているのです。
見上げてください。
夜空には十二の星座がそろい、互いを結ぶように瞬いています。
羊と牛、二人の子。
蟹に獅子。乙女に天秤。
蠍の尾が光り、射手は弓を引き、
山羊は雪の峰に立ち、瓶からは光がこぼれ、
二匹の魚が水面に寄り添う。
それはただの星の並びではありません。
この街で生まれ、失われ、昇っていった恋の形。
十二の想いはひとつに結ばれ、都市そのものを夜空に映し出している。
恋は消えるものではありません。
たとえ届かなくても、すれ違っても、未完成のままでも。
想いは星となり、夜空に刻まれるのです。
だから、どうか忘れないでください。
あなたがこの街を離れても、
あなたの心に芽生えた想いがどんな形であれ、
星はそれを抱きしめて、静かに光り続けます。
——これが、わたし〈アストレア〉に刻まれた十二の恋の物語。
また新しい季節が巡れば、別の誰かの灯がともるでしょう。
そしてそれもまた、星座へと昇っていくのです。
夜は深まり、広場の歌は遠のいていきます。
けれど星々は消えません。
いつまでも、静かに。
旅人さん。
もしまたここに来ることがあれば、
どうぞ夜空を見上げてください。
そこに瞬く星々の中に、きっと十二の恋の記憶が見えるはずです。
わたしはただ、静かに覚えているのです。
すべての恋を。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
十二の恋はそれぞれに結ばれず、淡く消えていきました。
けれど恋が実らないからこそ、美しいこともある。
たとえ言葉にならずとも、想いは消えず、
夜空に刻まれ、星となって輝き続けます。
この物語を読んでくださったあなたの心にも、
ひとつの星が灯れば幸いです。
——また別の夜に、星の下で。