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蓼 風  作者: 空木弓
5/13

その五

 耳にしたことがすぐには源二郎の頭に入らなかった。一瞬の間を置いて、返した。

「何処で聞いたのだ?」

「椙杜神社前の茶屋で、でございます。二日前にお参りに行った帰りに一休みした茶屋で」

「そのような身重で椙杜神社まで出向いたのか」

 源二郎の驚きにみのは初めて笑みを見せた。

「椙杜神社は近いですし、じっとしてばかりも身体に悪いのでございますよ。もちろん産婆のおさんさんが同道してくださいました」

「まぁ、こうして元気にしているのだから、大丈夫だったのだろうが……くれぐれも無理はしないようにな」

 みのがふっと笑みを消し、戸惑った表情になった。

「そんなにお顔の色が変わるほど心配してくださるなんて……」

 一瞬迷ったが、源二郎は思いきって言った。いや、言わずにいられなかった。

「私の母は私を産んですぐに亡くなったのだ。姉を産んだ時も兄を産んだ時も安産だったから、まさかそのようなことになるとは思わず、母は私を産む直前まで動き回っていたらしい。だから……だから、くれぐれも油断せぬようにな。母の命と引き換えに産まれたと知った子は……」

 そこで源二郎は口をつぐんだ。苦い過去が頭に甦っていた。幼い時に姉に言われた一言が。

「そうでございましたか……ですが、榊様のお母上様はあの世から榊様を見守り、このように立派に成長なされたことを心から喜んでいらっしゃるはずです。母とはそういうものです。中には子を大事に思えない者もいると聞きますけども、そんな人はごくわずかですから」

 みのは腹を愛おしそうに擦りながら微笑んだ。

 源二郎はつい自分のことを話してしまったことに恥ずかしさを覚えた。

「余計なことを申した。続きを頼む」

 みのは頷いて続きを語った。


 その声は後ろから聞こえたという。

 誰かと話している。そっと後ろを振り向くと、茶屋の奥に浪人と町人が一つの縁台に並んで座っている背中が見えた。珍しいことに、二人は店の奥を向いて座っていたのだ。

 浪人も町人も手頃なことから流行っている、同じような藍縞の着物を着ていた。浪人は袴を身につけていなかったから、髷と刀を帯びている、いないの違いはあれど、まるで双子が座っているようだと、みのは見た瞬間に思ったという。二人にはそんな似た雰囲気があった。

 声のした方向といい、他にそんな声を出しそうな人物は店の奥に見当たらなかったので、みのはさっきの声はあの浪人に違いないと、心の臓が早鐘のように打っているのを感じながら、後ろの会話に聞き耳を立てた。

 喋ったのはもっぱら町人で、聞き覚えのある浪人の声は町人の声の合間に二言、三言聞こえてきただけだった。だが、そんな短い言葉でも、あの夜に聞こえてきた声だとみのは確信した。

 話の内容はよくわからなかったが、どうも富籤のことらしかった。「当たり外れ」とか「今度こそ」という町人の声が聴こえたのだ。

 まもなく二人は立ち上がった。

 店を出る浪人の顔をみのは窺おうとしたが、笠を被る仕草で見ることはできなかった。

 追いかけようかと思ったが、連れの町人が店を出たところでじろりとみのを見返ったため、立ち上がることができなかった。恐ろしい目だったのだ。

 みのは二年前のあの夜の恐怖をまざまざと思い出した。お腹の中の子がみのの恐怖を感じ取ったかのように足をバタバタと動かした。しばらく動くことが出来なかった。


「二人は神社の方へ歩いて行ったのです。身重でなければ、後をつけたのですけど……」

「後をつけるなど、とんでもない!」

 思わず源二郎の声は高くなった。

「相手は盗賊なのだ。身重でなくとも後をつけてはならぬ」

 みのは源二郎の剣幕に驚いたらしい。目をぱちくりさせた。

「そうでございますね……でも、あの賊を捕まえるお手伝いができたらと……」

「その気持ちだけで十分だ。あとは我々に任せるように。もしもまたその二人を見かけるようなことがあっても、決して近づいてはならぬ。見かけたことは教えてもらいたいが、それ以上のことは無用だ。良いな」

 源二郎はみのの目を見つめながら言った。薄化粧しているみのの頬に少し赤みがさした。


 清水屋から舟庵の住居兼診療所へ向かいながら、源二郎は町人姿の男がみのの顔をじろりと見返ったということが気になって仕方がなかった。

 みのに覚えのない声だったものの、賊である浪人と似た雰囲気があったということから、かなりの確率で町人髷の男も賊だろうと源二郎は思った。

 金の運び役か船頭役か。みのが声をはっきりと聞いていない浪人ということも考えられる。押し込みの時だけ武士の格好をし、日頃は町人として暮らすというのは、町方の目をくらますのにも良い。

 ――もしもその男が賊ならば、おみののことを調べはしまいか。調べないとわからないならまだいい。一番怖いのは、その男がおみのの顔を見ただけで、中屋の生き残りだと気づいた場合だ。……頼るのは癪だが、ここは真の字を頼るしかないか……



 堀江町に着くと、再び源二郎は黒羽織を脱ぎ、十手ともに万蔵の風呂敷に包ませた。ちょうど七つ(午後四時頃)の鐘が鳴った。

 再び訪れた舟庵の住居兼診療所は診療を終えたという印か、朝は開けっ放しだった引戸が閉まっていた。

 路地から表通りに出る口は、幸い一つしかなく、源二郎と万蔵は、路地の出入口が見える斜め向かいの蕎麦屋に入ることにした。入り口近く、格子窓傍に置かれた縁台に座り、二人とも掛け蕎麦を頼んだ。

 昼からの聞き込みで何かわかったかと尋ねると、万蔵は田之助と藤吉が住む長屋に行って同じ長屋の住人に話を聞いていた。

「町方の手先とバレてないだろうな?」

 源二郎の確認に、万蔵は笑って答えた。

「でぇじょうぶですよ。どっちでも借金の取り立て役の振りしやしたからね」

 実はそれが本業ではないだろうなと源二郎は思った。というのも、万蔵がどうやって稼いでいるのか謎なのだ。源二郎は大した金額を渡していない。時々源二郎が飯を奢ったり、万蔵が夜食を食べに榊家へ現れたりしているが、ほかの日の食費や長屋の店賃を賄うのに源二郎が渡している金額で足りるわけがない。


 万蔵が確かめたところによると、藤吉の借金を作った息子は家を出ており、一緒に暮らしているのは妻と娘だった。暮らしぶりはいたって慎ましやかで、妻、娘との仲も良いらしい。

 田之助の方は母親との二人暮らしだった。父親は田之助が十の時に他所に女を作って出ていったという。その母親も最近は田之助の言動に対して口喧しく、田之助は長屋にあまり戻ってきていないという近所の話だった。

「なんでも田之助は医者になりたかったようなんですけど、ココがついていかなかったらしくて」

 万蔵は自分の頭を軽く手でたたいた。

「で、舟庵先生が自棄(やけ)を起こしかけた田之助を薬箱持ちで雇い続けてるそうでやす。時間はかかっても、少しずつ必要なことを覚えてくだろうって。優しい先生ですよね、舟庵先生って」

 そうだなと相槌を打ちながら、田之助の賊に繋がっている可能性は高くなったと源二郎は思っていた。自棄を起こしかけた時は悪党につけこまれやすい時である。そして、田之助がよく行くという椙杜神社の参道で賊の一味らしい男も見かけられている。

 ――ひょっとして、ひょっとしなくても、椙杜神社が繋ぎの場か。


「食べ終わるまで出てこねぇでくれよぉ」と一言呟いて万蔵は蕎麦をズルズルっと勢いよく啜った。三口で食べ終えそうな勢いだ。

 その横で源二郎は黙って路次の出入口を横目に蕎麦を啜った。頭の中では葛藤が起こっていた。

 みのが見た、藍縞の着物を着た落ち着いた響きの良い低い声の浪人……自分の知る誰かと印象が酷似している。しかし、それを認めたくない。

 ――ここのところ、ずっと引っ掛かっていたのは、それではないのか。おみのが落ち着いた低い声と言った時から、自分の頭に引っ掛かりがあったのではないか。一瞬感じたあのときの悪寒。悪党の気……

「旦那、出てきやしたよ」

 万蔵の声に源二郎は我に返った。

 目を開けたまま眠っていたような気がした。

 出入口の方を見ると、慈姑頭が助手と薬箱持ちを引き連れ、北へ歩いていく。田之助の顔を見たかったのに見逃してしまった源二郎は、すぐに蕎麦屋を出て、そっと後をつけ始めた。万蔵が当然というようについてくる。


 助手は後ろ姿でも見覚えがあった。平三郎だ。薬箱持ちは藤吉よりも大柄で後ろ姿からも若いと知れた。

 あれが田之助かと、源二郎はその歩く様子を観察しながら後をつけた。

 町境の大通りへ出ると、一行は西へ向いた。その時に漸く薬箱持ちの横顔が見えた。

 源二郎に覚えのある横顔だった。

 はて、何処でと考えてすぐに気づいた。

 昼頃、椙杜神社の参道にある茶屋に座っていたときに見たのだ。昼過ぎまで非番だったのか、あの時は昼休みだったのか、ともかく、田之助は今日椙杜神社へ行った。参道で見かけた、つまらなさそうに歩いていた若い男の一人だ。万蔵が聞き込んだ話からは年は二十五ということだが、もう少し若く見える。茶屋の前を通り過ぎるのを見た時、源二郎は自分より年下かもしれないとすら思っていた。

 ――あの男が田之助だったとは……明日にでも直に質してみるか。

 源二郎は万蔵にそっと引き上げの合図をした。



 その夜、源二郎は久しぶりに青井家の冠木門を叩いた。

 門を開けたのは初めて見る、まだ十代に見える小者だった。

 源二郎は一瞬戸惑い、「隣に住む榊源二郎と申す。真の……真乃様はおいでか?」と、無難だと思うおとないをした。

 途端にブーッと吹き出す音がした。それから「わーっはっはっはっは!」と大笑いが辺りに響いた。声に聞き覚え大有りだ。

「源二郎、無理せんで良い」

 笑いながら真右衛門が近づいてきた。

「おまえが『真乃様』などと、天地がひっくり返る」

 真右衛門の姿に新参の小者は直立不動になった。

 源二郎も言い慣れない呼び方に口が滑らかに動かなかったから、苦笑いしながら頭を下げた。

「ご無沙汰しております、真右衛門様」

「おいおい、『叔父上』だろう。ここでそんな他人行儀はないぞ。真乃はまだ戻らぬが、外泊するとは聞いておらぬから、そのうち帰ってくるであろう。ちょうど良いところへ来てくれた。晩酌の相手をしてくれ」

 真右衛門は源二郎の肩を軽くたたいて式台へと誘導した。

「夜食は済ませたのか?」

「いいえ、まだです」

「では、少しばかり食べていけ。満腹にしてはおさちが怒るだろうからな」

 真右衛門はちょうど濡れ縁にいた女中に源二郎にも酒の用意をするよう指図した。

 源二郎は嫌な話を聞かされるかもしれないと思った。しかし、ここで急用を言い訳するのはあまりに白々しい。

「真の字はまた用心棒を?」

 真右衛門の後ろを歩きながら源二郎は尋ねた。真乃が用心棒をしているとなると、他を当たらないといけない。

「いや、例の本郷の寮だよ。この夏に住み込みで用心棒をしていた……ちょっとした祝いごとがあって招かれたと、八つ近くに出掛けた」

 明日中に確かめろと言っておいて、自分は祝いごとに出掛けたかと、一瞬は思ってしまった源二郎だったが、そもそも真乃は関わる必要の無いことである。手詰まりだったのだから、舟庵の付き人が怪しいと活路を開いてくれたのは大変ありがたい話だと思い直した。そのうえ、自分はさらに関わりを持たそうとしている。


 居間には既に真右衛門のための晩酌の用意がしてあった。すぐに女中がもう一つ膳を持ってきた。

「先ほどはどうして門の近くにいらしたのですか?」

 真右衛門の前に座りながら源二郎は尋ねた。

「ん?いや、新入りの様子を見に行ったところだったのだ。少々わけありなのでな」

「わけあり……」

「人足寄場を出たばかりなのだよ。先に勤めた武家屋敷で刃傷沙汰を起こしたのだが、一切訳を言わなかった。斬りつけた相手は前にも新入りを苛めてやめさせたことのある男だったから、人宿も雇った主も、温情を願い出て寄場送りになった。二年前のことだ。富三と少し似ているぞ。見た目ではなくて、無口で無愛想なところがな」

「富三と似ているなら、良い小者になりますが……」

 源二郎は門番をしていた若者の顔を思い浮かべた。よく言えば意思が強い、悪く言えば頑固そうな印象だった。

「うむ、そうなる見込みがあると思ってわが屋敷に引き取った。そろそろ若い者を雇わねばと思っていたところだったからな。ところで、真乃が用心棒をしているか尋ねてきたということは、用心棒を頼みたい相手がいるのかな?」

 察しの良い真右衛門だから、源二郎は驚かない。

「はい。中屋の生き残りのおみのという女性(にょしょう)を守ってもらいたく」

「中屋の生き残り……あの乳飲み子とともに難を逃れた若女房か?今はどこにおる?」

「一年ほど前に瀬戸物町の菓子屋、清水屋に嫁入りし、今は来月が産み月という身重です」

 源二郎は真右衛門に酌をしたり、返されて少し酒を飲みながら、ざっと経緯を話した。

 真右衛門は黙って源二郎の話を聞いた。一通り話し終えた時にやっと口を開いた。

「おみのは唯一の証人だな。二人の賊の声を聞いている……」

「はい。ですから、警護する必要があると思うのです。といって、大袈裟なこともできません。もしもまだ賊が気づいていないなら、そのまま気づかぬようにしたいと思っております。さらには身重なので、あまり心身に負担をかけたくもありません。それ故、真の字に身辺をこっそり警護してもらうのが一番良いのではないかと思ったのです」

 真右衛門はじっと源二郎の顔を見つめてきた。それから源二郎の盃に酒を注ごうとした。源二郎はあわてて盃を持ち上げた。

「……真乃はおまえのことをよくわかっておるな。一緒に育ってきたのだから、当たり前か。小さい頃はよく喧嘩もしておったが」

 源二郎は真右衛門が何故その時にそんなことを言ったのかわからなかった。黙って一礼し、盃を口に運んだ。

「真乃はおみのの警護を引き受けるだろう。おまえは安心して探索に励むがよい」


 真右衛門の言う通り、それから間もなく屋敷に帰ってきた真乃は、源二郎が頼むと即答でみのの用心棒を引き受けた。間もなく出回ってくる鴨の山椒焼きの礼付きで、である。

「明日、さっそく清水屋へ客として様子を見に行くことにする」

「……おまえ、昨日の時点で田之助を怪しいとみてたんだろう?」

「わかりやすい組み合わせだったからな。とはいえ、世の中には意外なこともある。で、どう攻めるんだ?」

「明日、直接話を聞こうと思っている。あくまでも、目立たないように、だ」

「そうだな。それが良いだろうな。ああいう手合いに限って、実は小心者だったりするしな」



 翌日、源二郎は万蔵に田之助の勤めの予定を探らせた。

 予想どおり、その日の往診には藤吉がついて行き、田之助は夕方で上がりだった。

 源二郎は夕方の帰り道で万蔵に声をかけさせ、話を聞こうと考えた。そして、夕方までにずっと気になっていることを片付けることにした。万蔵が堀江町から戻ってくるまでの間に既に手をつけていた。

 再び例繰方を訪れ、祖父江に頼み事をしたのだ。


 厄介なことを尋ねますがと前置きし、源二郎は祖父江に言った。

「四年前から六年くらい前に、次の字の『源次郎』という侍が関わった事件はありませんでしたか?おそらく殺されたか、刑罰を受けたことになっていると思います。江戸ではなく、どこかの御領分での出来事だと思いますが……」

「ずいぶん漠然としておるな。御府内のことでないとなると、ここに記録は無いし、御領分内のことはあまり聞こえてこぬからなぁ……せめてどこの御領分かわかるとまだ探りようがあるが……例の押し込みと関わりがあるのか?」

 源二郎は返答につまった。

「……関わりがあるかもしれません。賊の一人は、その『源次郎』の身内かもしれないのです。突き止めるのは難しいと思いますが、その御領分が外海に面しているのは確かです」

「外海になぁ……東か西かもわからんのかね?」

「絶対ではありませんが、おそらく江戸よりも東か北だと……」

 江戸よりも寒い、北か東の出ではないかというのが、源二郎が聞いた白井の言葉の端々から感じたことだった。天候のことを話した時にそう感じた。

「ふむ。東か北。それならば、ちょっとあたってみるか」

「お手数をおかけします」

 源二郎は深く一礼した。

「ま、なんだかんだとわしは調べることが好きだからな」

 祖父江に嫌がっている風はなかった。


 次に源二郎が手をつけたのは、白井が馴染みだと言っていた蕎麦の屋台探しだった。昼の九つ頃から出ていると言っていたから、中食をその屋台で食べながら、白井のことを尋ねるつもりだった。

 万蔵とは夕方の七つに堀江町で待ち合わせることにし、源二郎は一人、前に屋台がいた深川の佐賀町へ向かった。


 源二郎が佐賀町についたのは八つ近くだったが、目当ての屋台は佐賀町の辺りに見当たらなかった。屋台が客を求めて場所変えするのはよくあることだ。

 念のため付近で屋台のことを尋ねてみたら、昨日はこの辺りに来ていたと、干鰯屋の丁稚が教えてくれた。屋台を引き続けているのは確かだと、源二郎は佐賀町から東へ、例の屋台を探しながら歩いた。しかし、なかなか見つからない。ひょっとしたら、今日は休んでいるのかもしれない。

 源二郎は屋台探しを半ば諦め、途中にあった飯屋で中食を食べた。

 食べながら、椙杜神社を見張るのも手だと思った。賊の一味らしい男が現れるかもしれない。そして、舟庵の診療所の待合室から聞こえた「しらい」というのも気になる。


 飯屋を出た源二郎は深川から永代橋を渡り直し、今度はそこから北へ、椙杜神社へ向かった。

 この日も神社にはぽつぽつと人影があった。

 この時代の人間としては信心深くない方の源二郎だったが、昨日は手前で引き返したのを思い出し、二日続けて近くへ来ておきながら参拝しないのはさすがに気が引け、拝殿で賽銭を投げて手を合わせることにした。神様にはみのの安産、母子の息災と探索の成功を祈った。


 参拝した後に改めて境内を見回した。

 田之助が御神籤を引くという話に、何とはなしに御神籤が結びつけられている、境内の奥の方にある大木へ足が向いた。この時には人気がなかった。

 定期的に処分されているのだろうが、大抵どこの神社にもいつもそれなりに御神籤が木に結びつけられている。比較的最近始まった風習だが、すっかり根付いている。

 昨日、田之助は御神籤を引いたのだろうか。引いたとしても、それをここに結びつけたとしても、それがどれか、わかるわけがない。

 そう思いながら、源二郎は結びつけられた御神籤をしばらく眺めていた。ふと何か違和感を感じた。何に違和感を感じたのか、すぐにはわからなかった。

 源二郎は御神籤が結びつけられた木の回りを歩き、枝を一本一本、もう一度上から下、端から端を見つめた。

 ――あれだ。太さが少し違うように感じる……

 源二郎はその御神籤に手を延ばした。上の方に結びつけられていたが、源二郎の背丈ならば楽々届く位置である。その辺りには十本くらいの御神籤が結びつけられていた。その中の一本だ。

 枝からほどいて中を開けてみた。

 太いと思った通り、御神籤の中から二つ折りされた、四寸(約12cm)四方ほどの大きさの紙が出てきた。

 源二郎は逸る気持ちを抑え、慎重に紙を開いた。中に書かれていたのは線と丸や四角といった記号だけだった。しかしその線が何を意味しているか、すぐにわかった。どこかの家屋の図面だ。

 ――これは……まさか……

 つなぎの証をそんなに簡単に見つけられるとは思っていなかったから、源二郎は別の可能性を考えた。だが、思い浮かばない。

 参拝したご利益かと思った瞬間、すぐ後ろに人の気配があることに気づいた。退路を塞がれている。


 ――しまった!

 そう思った時、源二郎の首に太い右腕が巻き付いた。首を絞めて殺す気だ。

 とっさに源二郎は後ろに立つ相手に肘鉄を喰らわせた。だがそこらの破落戸ならばかなりこたえるはずの肘鉄の打撃に、相手はわずかに怯んだだけだった。首締めの力は変わらなかった。

 ――強い……

 そう思った。同時にこんなに接近されるまで気配に気づかなかった自分の間抜けぶりを悔やんだ。

 息ができず、頭に血が行かず、色の見え方がおかしくなりかける中、このままむざむざ殺られるものかと、源二郎は一気に後ろへ下がった。引きずられそうになるのを腹に力を入れて持ちこたえ、その動きを逆手に取って、相手に身体をぶつけるように倒れこんでいった。頭が相手の顎に当たることも願っていた。

 だが相手は源二郎を受け止めて頭突きを交わし、倒れこみもしなかった。しかしさすがに首を締める力が緩んだ。

 源二郎はその緩む瞬間を待っていた。倒れこんだことで相手の体勢を把握できていた。 

 すかさずいくぶん前屈み気味になり、後ろ蹴りで相手の右足を内から外へ大きくはらう。内から外へはらわれては体勢が崩れる。

 相手はとうとう首から腕を離した。普通ならば倒れこむのに、相手が倒れる音は聞こえてこなかった。

 源二郎は咳き込みながら、すぐさま相手に向いた。


 そこには見知った顔があった。

 気配にも、首に巻きついた腕が緩んだ時に見えた傷にも覚えがあったから、驚きはしなかった。

 ひたすら、違っていることを願っていた。


 白井般右衛門はすでに体勢を立て直していた。にっと片頬で笑った。

「なかなかやるな。思った通りだ」

「どうして……」

「言ったはずだ。容易く人を信じるなと」

 源二郎はかぶりを振った。

「違います。どうして、あなたのような人が盗賊の仲間に入り、無腰の町人を斬殺しているのか、それが知りたいのです。大川で子供を助けたあなたが、どうして……麹町の伊勢屋一家があなたの弟を陥れたわけではないでしょう?」

 決めつけた言い方をしたこの時、源二郎は白井が否定することを願っていたのかもしれない。

 白井は無表情になった。

「お主にはわからぬ。わかってはならないことだ」

 次の瞬間、白井の手から何かが源二郎に向かって飛んできた。とっさにそれを避ける。小石だった。

 石を避ける間に白井が目の前に迫っていた。

 白井の右の手刀を源次郎は左腕で受けた。一瞬、腕が痺れた。と、思ったと同時に突きが鳩尾へ入った。その動きを予想できたにもかかわらず、源二郎はその突きを防ぐことができなかった。

 鳩尾への一撃も息ができなくなる。痛みと息のできない苦しさで源二郎は思わず腰を折った。

 その首筋に間髪入れず、白井の手刀が振ってきた。

 源二郎がこんなにやられたのは、十代半ばに剣術の師匠に叩きのめされて以来のことだった。

 一撃、一撃の衝撃が凄まじい。

 源二郎は膝をついた。途端に今度は顔に一発喰らった。まだ息が戻らないまま、後ろへ倒れる。

 続けて蹴りを入れてくるかと思ったら、白井は源二郎の両襟を掴んで立たせた。

 襟を掴んだまま己に引き寄せ、無表情な顔で言った。

「町方の役人だということを隠していたな」

「お、お互い様だ……」

 源二郎は白井を睨みつけた。

「なぜ五歳の子まで見殺しにした!なぜ止めなかった!あんたなら止められたはずだ!」

 口の中を切ったらしく、そう叫んだ源二郎の口からとんだつばきは赤かった。

 白井の頬に赤い一滴がついた。無表情の目が憤怒の目に変わった。


 その憤りの目に源二郎は殺されると思った。しかし、不思議と怖くはなかった。探索の途中ということだけが気掛かりだった。

 源二郎の腹をまた衝撃が貫いた。膝蹴りを入れられたのだ。自分より背丈の高い男に襟を掴まれているから、腰を深く曲げられない。

 思わず手で腹を庇おうとする本能的な動きを押し止め、源二郎は右手で横から相手の顎を狙った。そんな程度で白井がぐらつくとは思っていなかったが、次の攻撃への布石として、だ。なんとか一矢報いたかった。

 しかし白井は肘で源二郎の抗いを防ぎつつ、また腹に蹴りを入れてきた。

 息ができないのは辛い。身体が思うように動かなくなる。

 ――畜生!あんたが兄を斬った下手人だなんて!畜生!

 今や確信に変わっていた。

 心の中でその言葉を吐きながら、源二郎は膝蹴りがこたえたように膝を曲げた。次の瞬間、源二郎は伸び上がり、白井の顎に頭突きを喰らわせた。

 さすがの白井も思わず怯んだ。その隙を逃さず源二郎は内から腕を回して襟を掴んでいる白井の手をほどき、蹴りを入れた。

 だが素早く白井は動き、源二郎の蹴りは膝の急所を外れた。

 源二郎はその体勢から白井が刀を抜くと思った。だが抜かなかった。張り手が飛んできた。

 源二郎はなんとか避けたが、避けるのに精一杯で攻撃に出ることはできなかった。

 白井の手刀を今度は両腕を交差して受け止めた。

 衝撃で足元が崩れそうになるのをなんとか堪える。

 相手が刀を抜かないとなると、自分も抜けない。源二郎はそう思っていた。しかし素手では明らかに不利だった。体格の差以上の力の差が一撃、一撃にあった。

 張り手、突き、蹴りの連続攻撃を源二郎はなんとか両腕で防ぎ、身を交わして急所にあてられるのを防いだ。かろうじて防ぎながら、不思議な武術だと思った。

 そう思った直後、とうとう鋭い突きを脇腹に喰らった。強烈な痛みと嫌な音がした。肋が折れたに違いない。

 しかし、源二郎は突きを受けた代わりに、ほぼ同時に、白井の顎を正拳で殴っていた。割に合わない攻防だった。そして、攻防はそこまでだった。

 胸の痛みによろめいた源二郎の顎を容赦なく白井の手が下から殴りあげた。頭に炸裂したその衝撃で源二郎の意識は真っ暗になった。





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