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蓼 風  作者: 空木弓
4/13

その四

 舟庵とは堀江町に住む名医と名高く、大店ならば診てもらおうと思って不思議のない医者だ。人柄の評判も頗る良い。漢方薬の知識だけでなく、針や灸、指圧の施術も行い、金創医でもあった。つまり後の世で言えば、内科医兼整形外科医兼理学療法士といったところである。人気があるのは、的確な見立はもちろんのこと、その対処の幅広さゆえだ。


「確かに帳面のどこにもそんなことは書かれていなかったが……あの舟庵先生が賊と通じているというのか?あり得んだろう」

 過去に表では善人面を被り、裏で悪事を働いていた商人の例があることはあるが、舟庵は患者が多くて寝る間も無いとまで言われるほど流行っている医者だ。賊と通じる余裕があるとは源二郎に思えなかった。

「もちろん舟庵先生ではない。もちろんと言いきるのは良くないかもしれないが、まず違うだろう。往診は一人で行かないじゃないか。大抵は助手(じょしゅ)と薬箱持ちが一緒だ」

 さち婆さんが出してきた手拭いで足を拭きつつ、源二郎は舟庵の助手と薬箱持ちが誰だったか思い出そうとした。いつもひっそりと舟庵の後ろを歩く二人のおおよその背格好は覚えていたが、顔ははっきり覚えていなかった。二人ではない。何人かいる。舟庵の顔もおぼろげにしか覚えていない。

 源二郎はまた真乃を見た。

「もう目星をつけているのか?」

「見当はつけている。確めてはいない。確めるのはお前さん達の仕事だからな。美味しそうな匂いだなぁ、さち婆さん。もうできたろ?」

 後半は源二郎からさち婆さんに顔を向けて話しかけた真乃だった。匂いからして、芋と牛蒡の煮物らしい。


 自分以上に食い意地が張っていると、源二郎が思う真乃である。もちろん食べる量は源二郎の方が多いが、真乃の食欲はよく食べる源二郎の八割はある。二人揃って好物の鴨の山椒焼きは二人の取り合いだ。前にその取り合いを目の当たりにした万蔵は呆気にとられていた。


 源二郎と真乃は向かい合ってさち婆さんが作った夜食を食べた。

 幼い頃には毎日青井屋敷で並んで食べていた二人だが、源二郎が平同心になってからも、用心棒を引き受けていない時には五日に一度くらい榊家へ真乃は息抜きにやってくる。

 そう、いつもなら真乃にとって榊家で食べるのは息抜きだ。だが、この日は息抜きではなかった。

 さち婆さんはそんな真乃の目的を察して、弟の部屋で一緒に夜食を食べますと、膳を取りに来た富三と一緒に台所を出ていった。


 二人ともあっという間に食べ終え、茶を飲み始めた頃に真乃は詳細を語り始めた。

 話の途中で顔を覗かせたさち婆さんは、源二郎に洗い物なら自分で片付けると返され、まさかあたしらの分まで片付けていただくわけにはと、素早く流しで食器を洗い、また弟の部屋へと戻っていった。

 そこまで気を遣わなくていいのにと真乃はさち婆さんを止めたが、さち婆さんは源二郎が今調べているのが恭一郎を斬殺した賊だということを他から聞いて知っていた。

 恭一郎が産まれる前から榊家に奉公していたさちである。通夜では茫然自失の体でふらふらと歩いていたかと思えば座り込み、葬儀では歩けなくなるほど泣き崩れ、恭一郎の死を自分の息子が死んだように悲しんでいた。

 その下手人を捕まえるための話や行動は、絶対に邪魔したくないという強い気持ちがあるのだ。


 真乃が舟庵の付き人に疑惑を持ったきっかけは、伊勢屋の隣にある瀬戸物屋の女中の話だった。五つの孫まで殺されたのがあまりに可哀想だという話の中で、最近はよく熱を出し、舟庵先生が往診に来ていて、押し込みがあった前日にも来ていたと女中がペラペラ喋ったのだ。

 舟庵と聞いたとき、真乃の頭に舟庵とその付き人が例の賊が押し込んだ商家の共通点ではないかと閃いた。

 そこからは真乃も町方与力の家の者らしく、成田屋と中屋、さらには播磨屋、岡崎屋、近江屋についても調べた。

 しかしその方法は、件の大店があった町で名主や近所に聞き込むのではなく、舟庵の住まい兼診療所へ出掛け、診療所を手伝っている女と長く住み込みで働き、住まいと診療所の両方の雑事をこなしている下女に尋ねるという方法だった。

 源二郎はさすがだと思った。己の強みを存分に活かし、最短で知りたいことを知り得たということだ。

 浪人姿の真乃は大柄なことも手伝って、当然、稀にみる美男子に見える。そんな真乃に女達は同性とわかっても、話しかけられれば心ときめき、聞かれれば何でも素直に答えてしまうのだ。


「明日、早速確めてくると良い」

 真乃は片胡座で座り、立て膝に片腕を置いた気楽な格好に見合った軽い調子で言ってのけた。

「兄君に言わないのか?」

「兄上に注進したところで、どうせお前に確めろと指示するだけじゃないか。『詳細は真乃に聞け』でな。二度手間になる。それに、そろそろお前が手柄をたてて良い頃だ」

 最後は源二郎にとってあまりに意外な言葉だった。

「手柄なんぞたてなくて良い。妬まれるだけだ。一生、平同心でいたいくらいだ」

「妬んで嫌がらせしてくる奴なんざ、所詮は小粒のおべっか野郎なんだから、隙をみて一度お前の本気を見せれば、おとなしくなる」

「……言うことがそこらの破落戸よりタチ悪いぞ」

 真乃は湯飲みを膳に置くと、面倒くさそうに立ち上がった。

「さて、隣へ帰るとするか……」

 いつも勝手口から入り、勝手口から帰る真乃である。

「明日のうちに確めろよ」

「ちょっと待て。助手と薬箱持ちのことも女達から聞いているんだろう。出し惜しみするな」

「いきなりそこまで聞けるか。十人もいねぇんだから、それくらい確めろ。万蔵をうまく使えば簡単だぞ」

 そう言って真乃は勝手口の戸を閉めた。


 源二郎は真乃が去ってから暫く真乃が突き止めたことを考えた。

 確かに舟庵のような名医に往診を頼むような病人は、まず主一家の誰かだから、医者の一行は屋敷の奥まで入り込める。何度も往診しているうちに屋敷のあちこちを確認できる。

 医者は盲点だったと、源二郎は認めた。記録に全く名前は記されていなかったのだ。

 評判のよい舟庵だから、町方の聞き込みで名前が出てきても、当日に往診していなければ、賊に関係しているとは誰も思わず、尋ねようともせず、奉行所の記録に残すことはもちろん、おそらく口にする者さえいなかったのだろう。


「万蔵をうまく使えば簡単だと?」

 源二郎は思わず呟いた。

 どこまで本気か、わからないところもある真乃だが、源二郎に嘘は言わない。

 源二郎にとって真乃が今では唯一言いたいことを言える相手であるように、真乃にとっても今では源二郎が言いたいことを言える唯一の人間だろう。月水(生理)のことまで源二郎にはボヤいてくるのだから。

 ――ああ、医者に気が回り、舟庵の雇い人に尋ねやすかったのもそのせいだな。

 と、源二郎は思った。

 源二郎はもう何年も医者に診てもらっていないが、真乃は冬場の月水の辛さを少しでも軽くするため、定期的に八丁堀に住む医者から漢方薬を処方してもらい、煎じたそれを不味い、不味いと言いながら飲んでいる。

「飲んでみろ」と言われ、どれだけ不味いのかと、源二郎も好奇心から一口味見したことがある。良薬は口に苦しとはいえ、本当に不味かった。

 効いていないことはないから、そんな不味い漢方薬を真乃は飲み続けているのだろう。もっとも口直しと、漢方薬を一気飲みしたあとには甘い干菓子を頬張っているとは聞いている。

 ともかくも明日やることは決まった。


 源二郎はさらにしばらくぼんやりと壁を見つめていた。

 この数日間、ずっと何かが心に引っ掛かっていた。それが何なのか、どうにもはっきりしないことに、段々苛立ち始めていた。いつから引っ掛かっているのか、それすらもはっきりしない。そんなことは初めてだった。

 ――周りが変に兄の敵討ちを意識しているせいだろうか?

 そう考えてもみた。

 ――……違う。何か大事なことを見聞きしたのに、見過ごしている気がして仕方がない。そんな感じだ。

 源二郎はかぶりを振った。

 明日も町を歩き回る一日になる。


 源二郎は立ち上がると、二つの膳の上の食器を片付けた。洗った後には井戸から水を汲んできて水瓶の水を八分目まで増やす。

 さち婆さんは恐縮しつつも、源二郎がなるべく自分のことは自分でやることを喜んでいる。なにせ、その気になれば、料理はもちろんのこと、繕い物も源二郎は難なくこなすのだ。

 亡き父は源二郎が破れた道着を自分で繕っているのを見て呆れ、兄は何をやっても器用にこなすと褒めてくれた。

 源二郎が繕い物をするようになったきっかけは、育ての母を助けたいという思いからだったのだが、そこから始まり、自分のことは自分でやるようにしてきたのは、いずれは家を出るつもりでいたからだ。まさか兄があんなに早く亡くなるとは思っておらず、どこかの御家人の家へ養子になることは思い描けず、武士の身分を捨てて、巷で生きていくつもりだったのだ。

 真乃以外に話したことはないのだが、恭一郎はそんな源二郎の考えを見抜いていたようである。何かと家に居続けるよう促していた。

 源二郎もすぐに出るつもりはなかった。兄が嫁をもらい、子供が生まれたら……そう思っていた。


 水瓶に蓋をした源二郎に土間の隅に立て掛けてある釣竿が見えていた。

 当分釣りは御預けである。探索となると、事件が片付くまで非番の日はない。

 そう思ううちに白井の姿が頭に甦った。

 源二郎は初めて会った時、白井に自分と似た何かを感じた。それが何なのか、二月足らずの間ではわからなかった。だが、これだけは見えていた。単に二人とも家族を、兄や弟を亡くしているからではない。もっと根本的な何かだ。



 翌朝、源二郎は奉行所に顔を出すとすぐに堀江町にある舟庵の住居兼診療所へ向かった。

 万蔵がいそいそとついてくる。一段と張り切っているように見えた。

 富三は夕方に奉行所へ来るように指図して屋敷へ帰したから、万蔵は自分が手先として富三より頼りにされていると勘違いしたのかもしれない。

 ――聞き込みに関しては、確かに富三より役に立つ。


 舟庵の診療所がある堀江町を目の前に、源二郎は黒羽織を脱いで十手とともに万蔵に渡し、きょとんとする万蔵に指図した。

「もしも舟庵の助手か薬箱持ちが賊と通じているなら、近くに賊が潜んでいるかもしれない。町方が探りに来たと知れるとまずいから、俺は患者として行く。その黒羽織と十手を隠し持っていてくれ。そうして、お前は俺とは別にこの辺りで、助手と薬箱持ちの評判を聞き込むんだ。いいな」

「へい、わかりやした」

 万蔵は引き締まった顔つきで大きく頷いた。

 昼の九つ(午後12時頃)に堀江町の隣町にある椙森神社前の茶屋で待ち合わせることにして二人は別れた。


 源二郎は着流しに二刀を差した非番の日の格好で舟庵の診療所の前に立つと、さりげなく周囲を見回し、見える光景を頭に入れた。

 舟庵の住居兼診療所は間口五間(10メートル弱)の裏店だ。

 時刻は診察が始まって半刻ほどの、朝の五つ半刻頃(午前9時頃)だったが、診察待ちの患者で引き戸を開けたところにある待合室の板の間はすし詰め状態だった。

 源二郎は受付をしていると見える小柄な中年の男に話しかけた。

「この混み具合だと、診てもらえるのはずいぶん先になるんだろうな?」

「初めて……でらっしゃいますよね?」

 なかなか物覚えの良い人物らしい。

「そうだ。昼までに診てもらうのは難しいかな?実は最近身体のだるさが抜けないのだ。大したことはないと思っていたのだが、周りに一度診てもらえと言われた。しかも診てもらうなら、舟庵先生にしろと勧められたのだよ」

 受付の男は納得という顔つきだ。

「舟庵先生に診てもらうとなると、かなりお待ちいただくことになりますが、まずは助手の久庵先生に診てもらうのがいいかもしれません」

 さっそく話が助手に向き、源二郎は内心では喜んだ。

「ほう。助手も患者を診ているのか。助手は何人いるのだ?」

「三人おられますが、先生の代わりに診察なさるのは久庵先生だけです。あとのお二人は見習いですんで」

「見習いということは、ここへ勤め始めてまだ日が浅いということか」

「はい。ですが、お二人とももう五年近く助手を勤めておられますよ。若先生……あ、久庵先生のことです。若先生は九年になりますか……」

 五年近く前とはなんとも微妙である。絞りこめない。

「では、その御弟子の久庵先生に診てもらうとしよう」

 場合によっては話だけ聞いて帰るつもりだった源二郎だが、一人ずつ会って探るしかないと、診察を受けることにした。

 源二郎は藤吉という、受付の男に隣の待合室で待つように言われた。おそらく直参や陪臣、大店の一家用の待合室だ。

 そこへ向かおうとした時、源二郎はさりげなく尋ねた。

「お主、舟庵先生の往診時にはひょっとして薬箱持ちをすることもあるのかな?」

「はい、ございますよ。受付と薬箱持ちはあたしと田之助が交代で勤めておりますんで。……薬箱持ちがどうかなさったのですか?」

「いや、ずっと受付というのは大変だろうと思ってな。薬箱持ちもしているなら、良い気分転換になるだろうと、ふと思って尋ねてみただけだ」

 藤吉は源二郎の答えに笑みを浮かべた。

「ええ、薬箱持ちは良い気分転換になります。あたしなんぞは絶対に入れない御大名様や御旗本様の御屋敷にも入れますから。さすがに奥までは行けませんけどもね」

 男の顔は明るかった。隠し事をしている風はない。

「しかし、往診の供をすると、かなり遅くなるだろう?朝から晩まで大変だなぁ」

「あたし達は往診の間はぼんやりもできますけど、先生は気を抜けませんからねぇ。本当に素晴らしい御方です」

「今日も昼から往診に出るんだろうね」

「昼からというより、夕方ですね。今日の薬箱持ちは田之助ですから、私は早く上がれます」

 もう一人の薬箱持ちは夕方に確認できる。調べは順調に進みそうである。


 二つ目の待合室は六畳の広さで、隣と同じく板の間ながら、厚めの座布団が置いてあった。この時には誰もいなかった。

 隣の待合室から色々な話し声が聞こえる。

 源二郎は聞き耳を立てた。この診療所の常連もいるのだから、その話の中に思わぬ手掛かりがあるかもしれない。

 だが引っ掛かるような話は聞こえてこなかった。若先生も助手二人も評判は悪くない。もっとも、近くに本人がいるのだから、悪口は言えない。

 どきりとしたのは、「しらい」と聞こえた時だった。

 どうやら隣町に「しらい」という浪人が住んでいるらしい。ひょっとして白井般右衛門かと源二郎は一段と息を詰めて隣の会話に聞き耳を立てた。だがそれ以降に「しらい」が出てくることはなく、半刻近く経った頃に源二郎は助手らしい人物に呼ばれた。まだ二十代に見える町人髷の男だった。


 呼ばれた先には、三十代半ばくらいの男が源二郎を待っていた。

 この人物が久庵という若先生なのだなと源二郎はさりげなく観察した。その若先生が案内してきた助手を「平三郎」と呼んだ。

 平三郎は源二郎の斜め後ろに立っていた。よく知らない人物が後ろに立っているのは嫌な気分だったが、医者の助手に場所を変わってくれとは言えない。

 若先生は物腰の柔らかい、品の良い人物だった。武家ならばそれなりの家筋、商家ならばかなり裕福な家の出だなと源二郎は思った。平三郎も裕福な家の出に思えた。医者になるにはそれなりに金がいるから、当然のことかもしれない。この時代、医者になる修行は、基本的には弟子入りである。名医に弟子入りすることが一番だ。そして評判の良い医者に弟子入りしようとすれば競争になり、必然的に何かと金を使うことになる。

 残る助手は舟庵の診察を手伝っているに違いない。

 もう一人の薬箱持ちは七つ過ぎに確認できる。

 そう思いながら受けた診察での若先生の態度はいたって真摯で親切だった。源二郎は後ろめたさを感じた。

 ところが、一通り源二郎の話を聞いて後ろを向くよう言い、源二郎の頭から首、背中をざっとなでただけで久庵はこう言った。

「首から背中の筋がずいぶん強ばっている。これでは疲れが取れないのも無理ありません」

 適当に言った症状だったのに、医者が納得するような首から背中の状態だったらしい。源二郎は驚いた。そんなに背中が強ばっているとは思っていなかった。

『人は案外自分のことには気が付いていなかったりする』

 静馬が一膳飯屋の二階で言った言葉が頭に浮かんだ。


「これからは施術です。少し痛いかもしれません」

 しばらく久庵は源二郎の首から背中を抑えたり、擦ったりした。確かにいくつかの場所を抑えられた時にはかなりの痛みが走り、思わず逃げかけた。

 施術を追えてから若先生は文机で何やら認めながら、源二郎に言った。

「まずは毎日ゆっくり湯につかることです。少しずつほぐしていくこと。少しほぐれてきたところで按摩を頼むのですね。今の固さで按摩を頼んでは筋を痛めかねない」

 起き上がってみると、確かにさっきより身体が軽い感じがした。素直に源二郎はそのことを口にした。久庵は微笑んだ。

「それは良かった。しかし、何もしないとすぐに元どおりです。湯にゆっくりつかることと、武術の鍛練は激しくない程度に、剣術だけではなく、柔術や槍、弓などを組み合わせて鍛練なさることです、それから稽古の後には必ず伸びをすること」

 思えば、湯屋へはほぼ毎日行っているが、俗に言う『烏の行水』で、剣術の稽古はしばらくやっていない。色々仕切り直さないといけないのかもしれない。久庵の言葉に源二郎はしみじみと己の暮らしをふりかえった。


 源二郎が舟庵の診療所を出たのはもう九つに近かった。ぐるりと舟庵の住居兼診療所の周囲を一周してみた。舟庵の助手をしている男を見かけることができるかもしれないと思ってのことだ。

 残念ながら、外からは舟庵もその助手らしい男も見ることはできなかった。

 源二郎は万蔵との待ち合わせ場所へ向かった。



 待ち合わせの椙森神社の参道に源二郎が着いた時、万蔵はまだ来ていなかった。

 椙森神社は富籤が有名である。それほど大きな神社ではないが、場所の便利さもあり、この日も境内はそこそこ賑わっているようだった。

 神社の参道の入り口にある茶屋の縁台に源二郎は座って団子と茶を頼み、万蔵が現れるのを待つことにした。

 受付にいた男も平三郎も久庵も、源二郎の印象ではシロだった。部屋住みの頃に破落戸といったタチの悪い連中と関わったことのある源二郎である。それなりに人を見る目はあると思っていた。

 残るは二人だ。

 万蔵の聞き込みで何か手懸かりが得られることを願った。

 源二郎が三本目の団子を食べ終わる頃、万蔵が西の堀江町ではなく、南の庄助屋敷の方から駆けてきた。

「旦那、遅れてすいやせん!色々おもしれぇ話が聞けたもんで、ついつい、あちこちで長居しちまいやした」

 頬が紅潮しているのは走ってきたからだけではないらしい。


 万蔵は茶を三杯、団子を六本食べながら、聞き込みの成果を披露した。

 助手の三人も薬箱持ちの二人も、それぞれに金が絡む問題を抱えていたのだ。

 若先生は譜代御家人の三男なのだが、家督を継いだ長兄がちょくちょく金の無心にきて困っているという。

 平三郎は商家の嫡男だったが、父親が商いに失敗して借金の返済に追われており、源二郎が会うことのできなかった俊介という助手は、二十一歳と五人の中では一番若く、半年ほど前から岡場所の遊女にのぼせているらしい。とはいえ、借金を作るようなことはしておらず、恋わずらいで仕事が手につかないのが問題なのだった。

 そして、源二郎が行った時に受付をしていた藤吉は、息子が博奕で作った借金の返済に追われており、源二郎がこれから姿を確認できるであろう田之助は芝居通いで散財しているという。年は今年で二十五歳と五人の中では俊介についで二番目に若い。

 この短時間によくそれだけ聞き出せたなと、源二郎はさすがに感心した。真乃も万蔵の聞き込みの術を高く評価している。実はそれがこのまま手札を出せという一番の根拠なのかもしれない。

 人はみな何らかの悩みや問題を抱えているものだなとしみじみ思いつつ、源二郎はまだ話すことがあるらしい万蔵が喉を潤して話を再開するのを待った。


「……で、田之助なんですがね、よくあることっちゃあ、よくあることでやすが、芝居だけでなく、富籤にものめり込んでるそうでやす。ここだけじゃなく、あちこちの富籤に、でやす。一年くれぇ前には小銭当てたとかいって芝居の桟敷席買ったそうでやすよ。富籤買うにも金がいりやすからねぇ。ちっとくらい当たっても元は取れてねぇでしょうにねぇ。ま、信心深いっていう人もいやしたけどね」

「信心深い?富籤を買うために寺や神社へ足しげく行くからか?」

「……と、あっしも思ったんでやすけど、田之助って奴、籤とつきゃあ何でも好きなのか、御神籤ってのも好きらしくて。ここにもちょくちょく来て御神籤引いてるってことで」

 それならお前と同じで博奕も好きなんじゃないかと源二郎は思ったが、口には出さなかった。

 参道に向いて座っている源二郎の目の前を老若男女が行き交っている。こんな時刻なのに、意外に若い男が彷徨いている。そうして、そんな男は皆つまらなさそうだ。

 ――自分もあんなしけた面してるんだろうな。

 源二郎はそう思った。


 万蔵の聞き込みからはどの人物も悪事に加担し得る。とはいえ、絞り込めないことはなかった。思い込みや先入観はいけないが、世の中には傾向というものがある。

 万蔵の聞き込みから一番疑惑を感じたのは田之助だった。若さの悪い面は短慮と無謀なことをやってしまうことである。

 一番若いのは俊介だが、遊女にのぼせ始めたのは半年前である。もちろんなにも知らず十六歳のころに遊びの感覚で賊と関わりを持つことはあり得るが、源二郎は疑惑の濃さでは三番手だと思った。

 源二郎が考える田之助の次に可能性が高いのは藤吉である。いかにも人の良さそうな男だったが、親は子供のこととなると、案外簡単に道を踏み外すことを源二郎は父や兄、真右衛門から聞いて知っているからだ。


 源二郎の父は吟味筋の役には全く就かなかったが、会所や高積み、橋の見廻り役を勤め、江戸の町を常に歩き回って町役人や商家と関わることが日常だった。当然、町や人々の間で起こる様々なことを見聞きしていた。そんな町での見聞を食事時に息子達に聞かせた。町奉行所での勤めだけでなく、浮世を生き抜くのに必要な知識になると思っていたからだろう。


 そんな父や真右衛門から授かった事例と己の経験から、まずは田之助と藤吉を調べ、助手三人の追及は田之助と藤吉の疑惑が晴れたあとだと源二郎は思った。

 上に報告し納得させることができれば、人手を割いてもらえるが、真乃の推測と万蔵の聞き込み程度では説得するに不十分だというのが、この時の源二郎の判断だった。


 舟庵が往診に出かけるまでの時間潰しが問題だった。まだ九つ半(午後1時頃)にもなっていない。

 源二郎は一旦奉行所に戻ることにした。ここからならば源二郎の足だと四半刻もかからない。念のため、万蔵をこの辺りに残しておくことにした。

「引き続き、今度は田之助と藤吉に絞って聞き込みをしてくれ。それから……」

 源二郎はためらった。万蔵はじっと源二郎が続きをいうのを待っている。

「いや、何でもない」

 万蔵は怪訝な顔をした。源二郎は日頃言いかけてやめることをまずしないからだ。


 奉行所に戻った源二郎を、思わぬ伝言が待ち受けていた。清水屋のみのから言伝てがあったのだ。ご足労をおかけするが、今一度清水屋にお越し願いたいという。

 何か思い出したことがあるのかもしれない。源二郎は一旦戻って来てよかったと心から思い、すぐに清水屋へ向かった。幸い、清水屋のある瀬戸物町は堀江町に近い。

 源二郎が清水屋へ行くと、みのが待ち構えていたように、すぐに大きなお腹を抱えて店先まで出てきた。源二郎が身体を気遣うと、外で話す方が良いという。

 ちょうど帳場にいた、清水屋の人の良さそうな丸顔の主人もみのの「ではときわへ参ります」という断りに快く頷いたので、源二郎は主に軽く礼をして、みのより先に店を出た。

 みのは女中一人を連れ、源二郎と共に清水屋の斜め前にある料理屋へ向かった。

 料理屋の女中はみのを丁重に迎え、奥座敷へ案内した。

 みのは奥座敷に座ると、一つ大きく深呼吸してから口を開いた。

「お忙しいのに、お呼び立てして申し訳ございません。ですが、このような身ですので……」

 源二郎はかぶりを振った。

「こちらから参るのは当然のこと。そなたが気にすることはなにもない。それで、話とは?」

「今でも信じられないのですけども、迷ったのですけども、やはり榊様のお耳に入れるべきではないかと存じまして……」

 みのはまた一つ深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。それから意を決したように顔を上げ、源二郎の目をまっすぐ見つめてきた。

「二日前のことです。あの賊の声を聞いたのです。あの、落ち着いた響きの良い低い声を……」





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