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蓼 風  作者: 空木弓
3/13

その三

*今回の話でついに(やっと)榊家が青井家の隣にあるワケが明かされます。(「白南風」ではぼかし気味にしれっと書いていたので、気にした方がいらっしゃったかどうかわかりませんが…)

 すぐに刀が襲ってくると、みのはがたがた震えていた。

 だが刀はなかなか襲ってこなかった。

 押し入ってきた男に動きがないので、そっと振り向くと、頭巾を被った大柄な男はじっとみのを見つめていた。そして、突然くるりと向きを変えると、部屋から出ていった。さらに驚いたことに、男は後ろ手に障子を閉めた。

 直後に濡れ縁を奥の方から歩いてくる足音と声が聞こえた。この時、きえはふっと泣き止んだ。

「女と赤ん坊の声が聞こえたぞ」

 酒で潰れたような、しゃがれた男の声だった。

「女は殺った。まだ歩くこともできぬ赤ん坊をわざわざ殺すことはない。我らのことは何もわかっておらぬし、覚えてもおらぬ」

 落ち着いた、低く響きの良い声だった。みのはその落ち着いた声の主が夫を斬り殺し、今、部屋を出た男だと知った。

「おめぇが女を殺るなんざ、珍しいじゃねぇか。確かめさせてもらうぜ」

 ガタリと障子が開きかけた。

「こんなところで潰す暇は無いだろう。急いで金を持ち出すんだ」

 部屋の奥にきえを抱えてうずくまり、二人の会話を聞いていたみのは、身体を強ばらせたが、嗄れた声の男は落ち着いた声の男の言うとおりにしたらしい。二人は濡れ縁を奥へと歩いていった。

 金は義父母の寝室にある。それを持ち出そうとしているのだ。


 このままじっとしていなくてはいけないと頭ではわかっていたが、血と糞尿の臭いでみのは気分が悪くなってきた。臭いの元が夫だと思うと、更に気分が悪くなった。悪夢であってほしいと思った。きえが再び泣き始めた。泣き声が大きくなる。

「お願いだから、静かにして」

 小声できえに語りかけ、なんとか泣き止ませようとした。

 とうとうじっとしていることに耐えられなくなり、みのは先ほど大柄な男が閉めた障子をそっと少しだけ開けて外の様子を窺った。

 賊の一人が千両箱を抱えている背中が見えた。裏の潜り戸へ向かっている。

 その潜り戸からまた男が入ってきた。千両箱を全部持ち出す気らしい。どれくらい義父母が金を置いているのか、みのは知らなかった。

「赤ん坊の声で見つかるじゃねぇか」

 戻ってきた男が潜り戸からまっすぐみのの部屋へ向かって歩いてきた。

 その時濡れ縁の表の方から声がした。

「あぁっ!泥棒っ!」

 声で筆頭番頭だとわかった。

 男は一気に濡れ縁へ駆け上がった。番頭を斬りに向かったらしい。千両箱を担いだ男は急いで潜り戸を出ていった。

 みのはここにいてはきえが殺されると、思わず障子を開けて濡れ縁へ飛び出した。

 しかし、その時、潜り戸からまた男が入ってきた。みのと目があった。

 番頭の悲鳴とみのの悲鳴はほぼ同時に上がった。


 みのは二方向から賊が自分に向かっているのが見えた。床下に隠れようと思っていたのに、足がすくんで動けなくなった。

 だが、ふたりともみのに襲いかかってこなかった。

 濡れ縁の賊は手代の民助が後ろから組み付いて足止めし、潜り戸からこちらに向かっていたもう一人は突然みのの目の前でばったりと倒れたのだ。

 倒れた賊の後ろに頭巾を被っていない侍が立っていた。まだ若い。

 若侍は濡れ縁に上がってきた。呆然としているみのの肩に空の手を置いて、その人物は言った。

「早く床下へ隠れなさい」

 男が右手に持っていたのは十手だった。

 ――お役人様!

 みのは助かったと思った。頷いて震える足で濡れ縁から踏み石を使って庭へ降り、床下へ潜った。

 その間にその御役人は民助が足止めしたもう一人の気を失わせたらしい。男の短い呻きと民助の「ありがとうございます」という声が聞こえた。

 だが、床下からみのは別の賊らしい足を見た。先ほど千両箱を担いで外へ出た賊が戻ってきたのだ。

 覚えのある声が聞こえた。

「一人で乗り込んでくるとはな……」

 賊と役人の若侍の間の緊張が床下に潜むみのにも伝わってきた。みのの胸に顔をつけたきえは漸く泣き止んでいたのだが、また泣きだすのではとみのはハラハラした。


 恐ろしいまでの緊張から賊と若侍は動いた。みのには目にも止まらぬすばやい足裁きに刀と十手がぶつかり合う音が聞こえた。

 みのは御役人が勝つことを祈った。

 何度目かの金属音の後に嫌な音がした。さっき夫から聞こえた音だ。

 どさりと人が倒れた。その顔がみのに見えた。

 御役人の若侍だった。

 みのは口は開いたが声は出なかった。

 賊は濡れ縁にあがった。ほどなく降りてきた。

 続いて男がふらふらの足取りで濡れ縁から降りてきた。濡れ縁でお役人の若侍に倒されていた賊だ。

 その間に御役人の若侍を斬った男は、庭に倒れている仲間の脈を確かめ、おもむろに担ぎ上げた。

 御役人は賊を十手で気を失わせていただけなのだ。

 そのまま賊は中屋を出ていった。

 十人近い捕り方がやって来たのは賊が消えてからさほど経っていなかったのだが、みのには半刻(約一時間)以上かかったように感じられた。

 その間、みのは床下に潜んだまま、ひたすら念仏を唱えていた。

 捕り方の生き残りはいないかと呼ぶ声に応えて床下から這い出た時、漸く涙が出てきたが、今度は止まらなくなった。

 泣きじゃくりながら、あの御役人様が助けてくださったと、そればかり繰り返していたと、後から町役人や生き残った奉公人達にみのは言われた。


「よく話してくれた。つらい思い出だろうに」

 源二郎がねぎらうと、みのはじっと源二郎の顔を見つめながら言った。

「貴方様は、あの、あたくしときえを助けてくださったお役人様の御身内の御方ではございませんか?お名前をお聞きした時にひょっとしたらと思いましたけれども、お顔を拝見して間違いないと思いました」

 源二郎は驚いて、すぐには肯定もできなかった。

「面影がございます。横顔が……目元や口元が似てらっしゃいます」

 源二郎は心底驚いた。兄と似ていると言われたことは、この時が初めてではなかったか。親戚や八丁堀の面々には兄は母方似で、源二郎は父方似だとよく言われる。

 見知らぬ他人は違いよりも似た部分に目がいくのかもしれない。

「長々とお話し申し上げたのは、貴方様はあのお役人様の御身内と思ったからです。それも大変近い……弟様ではないかと。御身内の方には何が起こったかお話しないといけないと……それから、御礼を……」

 そこでみのは涙ぐんだ。

「本当に、本当に……どれだけ御礼を申し上げてもあのお役人様のご恩に報いることはできません。身を挺してあたくしたちのような親子を救ってくださって……」

 源二郎は少し間をおいて答えた。

「あの夜、賊に殺された同心は兄です」

 みのはやっぱりというようにうなずいた。

「だが、兄はお役目でやったこと。そなたが気にすることではない。あの時の乳飲み子がこのように大きくなり、そなたも息災でまた子を身籠っていることを、兄は草葉の陰で喜んでいるだろう。そんな兄だ」

 みのはほっとした顔になった。直後に大粒の涙がその目からこぼれ落ちた。


 みのの話からすると、恭一郎を斬ったのは、みのを殺そうとした奴ではない。

 なるほどと、源二郎の頭の中で整理がついた。兄を斬ったと思われる賊は今朝の伊勢屋でも、主、若旦那と男を斬っていたのだ。女、子供を殺したのは別の奴だ。

 もちろん盗賊の全員が許せないが、殊に弱いものばかりを殺している輩は一番許せない。源二郎は思わず拳を握りしめていた。

 一部で無茶をしたと揶揄された兄の行動も、詳細を聞けば源二郎に納得のいくものだった。

 実はあの夜に恭一郎が出掛けていたのは私用だった。十手を持っていたのは当直を終えたその足で佐久間町の北にある下谷の武家地に住む友人の祝いに出掛けたからだ。その代わり、刀は刃引きしたものを差していた。恭一郎は勤めでは常に刃引きした刀を差していたからだ。

 勤めは終えていても、たまたま通りかかった時に怪しい動きがあったなら、町方の同心として見過ごすことはできず、中から悲鳴が聞こえたら助けに入らずにいられなかった。真面目で正義感の強い兄らしいと源二郎は思っていたが、みのの話を聞いた今では、自分も同じことをするだろうと思った。

 そして恭一郎の武術の腕は高かった。年に二回行われる、奉行による与力、同心の練武検分では稽古を見せる五人に選ばれたくらいである。実際、賊の二人を十手であっという間に失神させたのだ。ちなみに源二郎もこれまでに二度選ばれ、先の御奉行と今の御奉行に剣術の稽古と立ち会いを披露している。

 三人目の男が強すぎたということだ。

 それだけの腕を持ち、女、子供を仲間に嘘をついてまで見逃すだけの善の心を持っていながら、金を盗むために無腰の町人を斬殺するとは、一体、その男の心はどうなっているのか。過去にどんなことがあれば、そのような行動を取るようになるのか。

 可能性を考える源二郎の気持ちは重かった。



 奉行所に戻り、まずは村井に戻ったことを報告しようと、源二郎が年番方の詰所へ行くと、滝田が村井と話していた。

 詰所の入口で躊躇った源二郎を滝田が手招いた。

「さっそく成田屋と中屋のことを調べ直してるんだってな」

 源二郎にそこへ座るよう手で示しながら滝田が言った。

「調べ直すというほどのことでは……二件の記録を読んだら、生き残った者達の話を直に聞きたくなりまして……」

 源二郎は早まったことをしたかもしれないと思った。

 宮仕えすると思っていなかった源二郎は、一人で動きまわることに慣れ過ぎ、思い付くとさっさと行動に移してしまう傾向がある。奉行所に勤め始めた時に病床の父親に気を付けろと言われたことを思い出した。

 勝手に動きまわったことを滝田に咎められるかもしれないと思い、源二郎はうつむき加減になった。

「どうして調べ直そうと思ったんだい?」

 滝田の声に怒りも苛立ちもなかった。

 ほっとした源二郎は、顔を上げて答えた。

「賊のことを知るためです。賊を捕まえるには、奴等のことを知る必要があると思うからです」

 滝田は納得したように頷いてから言った。

「……で、何かわかったかい?」

「滝田さんには目新しいことではないだろうと想いますが、それがしは記録に残されていない細かなことを知ることができました」

「ほう。どんなことだ?」

「賊の面々は必ずしも一つにまとまってはいないということです。おそらく押し込みの時だけ組んでいるのだろうと思います。そうして皆殺しにすることをなんとも思っていない輩が中心にいるけれども、その仲間には悪党なりに線を引こうとしている輩もいること、斬殺は三人が受け持ち、金を運び出す役割に徹しているものが一人か二人いそうだということがわかりました。これはそれがしの推量ですが、運び役が二人いるとしたら、一人は船頭だろうと思います。おうめは賊の人数を四人はいたと申したのですが、五人はいるとそれがしは思います」

「……その悪党なりに線を引こうとしてるってのはどんな奴だ?」

「中屋の押し込みの生き残りであるおみのの話では落ち着いた低い声の大柄な男です。おみのを斬ったと仲間に嘘をついたそうです」

 滝田がじっと源二郎を見つめてきた。

 滝田はそのことを知っていると思った源二郎は淡々と続けた。

「兄、榊恭一郎を斬殺したのはその男です」

 滝田も村井も暫く何も言わず、源二郎の顔を見ていた。

 やがて滝田が笑顔になった。それから村井に向いて言った。

「村井様、申し上げたとおりでしょう。源二郎は吟味方に向いております。いきなり探索に加えられても、誰にどうすれば良いか聞くことなく必要なことをやってのけている。しかも身内の仇探しと焦れ込んではいない。これからも吟味筋の助手(すけて)には常に源二郎を推挙することですな」

 それから滝田は再び源二郎に向いた。

「村井様はおめぇが成田屋と中屋のことを調べているのは、俺が指図したんだと思ってらしたんだよ。で、これからどうするんだい?」

「昼、出かける前に他に似た押し込みがないか祖父江さんに伺ったら、三件あると申されましたので、その記録に目を通すつもりでおります」

 滝田は驚いていた。

「おめぇ、いくつだっけ?」

「満二十二ですが……」

「見習いもせず、いきなり平同心になってまだ丸二年たってねぇよな……吟味筋の掛かりに入ったのも一度くれぇだよな……その三件てのは、俺も知りてぇな。読み終えて、おめぇも同じ賊だと思うなら、あらましを俺に教えてくれ」

「承知いたしました。明日は前に探索に加わった時のように、詰所に五つまでに参ればよいのでしょうか?」

「ああ。あしたはどうしたい?」

「え?」

「明日は何を調べる気だ?」

 源二郎は戸惑った。少し迷ったが、滝田の気さくな様子に思いきって尋ねた。

「あの……ご質問にお答えする前に伺いたいことがあります」

「なんだい?言ってみな」

「滝田さんは麹町で聞き込みをなさったのですよね?」

「ああ。俺は奉公人の詮議をして、聞き込みは郷蔵とその手下にやらせた」

 郷蔵というのが滝田の御用聞きである。表稼業では麹町で人宿を営んでいる。

「何かわかったことはあるのでしょうか?」

「残念ながら、今んところ、何も出てきてねぇ。成田屋、中屋とおんなじだよ。出入りの商人は表止まりで奥へは(へぇ)ったことがねぇ、奥へ入ったことのある植木屋は成田屋とも中屋とも違う。この数日に訪ねてもいない。大工も同じく、だ。奉公人にも今のところ怪しい奴は見当たらねぇ。一体どうやって賊は内情を知ったんだか。……で、おめぇ、明日はどうする気だい?」

 質問を繰り返され、源二郎は仕方なく答えた。

「祖父江さんが同じ賊の仕業ではないかと申される三件の記録を読んでみて、同じ賊だと思えたら、今日のように、生き残った者や当時を知る人に話を聞きたいと思います」

 滝田は頷いた。

「髙山様におめぇには同じ賊と思われる過去に起こった押し込みを調べ直す役をふったと伝えておく」

「髙山様が伊勢屋の押し込みの掛かりなのですか?」

 源二郎は思わず聞き返していた。しまった、余計なことを言ったと思ったが、滝田はうんざりした顔で頷いた。

「残念ながらな。中屋もそうだったんでな……」

 中屋もそうだったとは……と、源二郎も落胆した。


 吟味方与力の髙山縫之助(たかやまぬいのすけ)は、四百石の旗本の三男から与力の髙山家に養子に入った、少々厄介な人物である。譜代席の旗本の御家から抱え席の町方の与力になったということで、周りは変に気を使い、役人としての能力はあまり高くないにも関わらず、本人が望んだとおり、若くして吟味方与力になった。

 当初は公事方(民事訴訟)の与力だったのだが、二年半前の公事方の白州で事件が起こった時に真っ先に詰所から逃げ出した結果、吟味筋(刑事訴訟)に変わった。変な話だが、吟味筋の方が警戒している分、白州での事故や事件はまず起こらないからである。

 件の公事に関わっていた与力や同心は解雇や蟄居など厳しい処分を受けたのに、掛かりでなかったため、とっとと逃げたことへの叱りで済んだという。実家からそれなりの金子が奉行所に入ったのだろうと噂される。

 もちろん無能ではないが、なにかと杓子定規らしい。

 これは今後やりにくいかもしれないと、源二郎は思った。滝田が自分を後押ししてくれるのがありがたかった。


 源二郎は年番方の詰所を出ると、まっすぐ例繰方へ向かった。予想以上に年番方で時間を費やしていた。


 祖父江は約束通り三冊の帳面を用意して源二郎を待っていた。

「一つは五分五分だが、二件は間違いないとわしは思うとる」

 祖父江は自信たっぷりだった。

 まもなく日が暮れる。記録の類いを奉行所から持ち出すわけにはいかない。源二郎は急いでまた同心の詰所へ向かった。


 祖父江が挙げた三件は、七年前に起きた茅場町の乾物問屋播磨屋、その翌年の暮れに起きた小網町の水油問屋の岡崎屋、成田屋の半年前に起きた平右衛門町の乾物問屋近江屋の押し込みだった。

 いずれも金の保管場所近くで寝ていた者が殺されていた。主一家の大半とともに、その三件では番頭や女中も殺されていたのである。

 そして、台所近くの部屋で寝ていた播磨屋の乳母と乳飲み子、当日たまたま外泊していた岡崎屋の息子は助かっている。そこが成田屋、中屋、麹町の伊勢屋との微妙な違いだ。

 一通り記録に目を通して源二郎にわかった六件に共通している点は、川や堀などいずれも大きな水路が近くにあること、侍が、おそらくは浪人が賊の中心だということだった。さらには金の近くにいた人物が殺されているというのも共通項だと源二郎は思った。

 中屋と伊勢屋はそもそも奉公人が主一家の近くで寝ていなかったし、成田屋はもしもうめがもたもたしていたら、男児と共に殺されていた可能性が高い。だとすると、かなりの確率で同一の賊ということになる。

 祖父江がこの三件を挙げたのもそう考えてのことだろう。

 しかし近江屋では殺された奉公人の中に引き込み役だったと思われる人物がいた。勤め始めて間もなかった下女である。その点で祖父江も一件は五分五分と言ったのだろう。

 他にどんな共通項があるのか。

 それにしても、成田屋の押し込みが起きた時になぜ掛かりの連中が播磨屋、岡崎屋の件と結びつけなかったのか、源二郎は不思議だった。


 源二郎が八丁堀の榊屋敷に帰ったのは、夜の五つ(午後八時頃)を過ぎていた。

 片開きの木戸門を開けようとしたら、隣にある青井家の屋敷内から男達の笑い声が聞こえた。

 青井家の冠木門近く、ちょうど榊家の隣にあたる位置に男の奉公人五人にあてがわれた小屋がある。年齢にかなり幅があるのだが、五人は仲が良いらしく、夜食を食べ追えた後もしばらく歓談し、夜の四つ(午後十時頃)近くまで話し声や笑い声が聞こえてくることが多い。

 そして昼間は裏から話し声がする。その箇所の手前は青井家のこじんまりとした庭で、奥にはこじんまりした菜園があり、奉公人達が庭や菜園の手入れをしているときの雑談が聞こえるのだ。

 つまり、榊の屋敷は与力の青井家に囲まれるように建っているのだ。というのも、青井家が公儀から拝領している三百坪近い敷地の一角に建っているからである。

 すなわち、源二郎は借地に住んでいるのだ。借地の広さは五十坪である。

 では榊家が拝領している百坪の屋敷地はどうなっているのかというと、長屋を立てて借家にしていた。

 ゆえに、源二郎は大家でもある。

 町人に貸してはいけないので、借り手は医者、学者、陪臣や武家奉公人である。家族と暮らすために主の屋敷を出て通いにする陪臣や渡りの武家奉公人が結構いるから、店が二月空くことはこれまでに一度も起こっていない。そして、長屋の家守は診療所と住まいとして二店を貸している医者が一店の店賃免除で引き受けてくれていた。

 敷地の一部を貸している直参(旗本、御家人)は少なくないが、この形にしてしまったのは、源二郎の祖父だった。祖父と青井家の先々代が部下と上司の間柄を超えて意気投合した結果だ。敷地が広すぎて誰かに貸そうと思っていた青井家の先々代と副収入を得ようとしていた祖父の思惑が一致したのだ。しかも隣であれば行き来が簡単である。双方にとって一石二鳥だった。

 源二郎の祖父は同心としては凡庸で、出世する気はさらさら無いという人物だったらしいが、長屋をうまく切り盛りしていく術を記した覚書を子孫のために残していて、それに目を通した源二郎の感想は、祖父には商人の資質があったらしい、であった。


 玄関は専ら来客用にして、源二郎は家督を継いでからも勝手口から出入りしている。

 富三は一礼して、勝手口の脇にある四畳半の板の間へ入っていった。そこが長年富三が寝起きしてきた部屋だ。出入口も勝手口の脇にある。

 源二郎がいつものように勝手口を開けると、さち婆さんは源二郎のために用意した膳の横で板の間と畳敷きの居間との境にある障子にもたれて眠っていた。ほぼ同じ膳が富三の部屋にも用意されているはずである。

 源二郎は起こさないようにさち婆さんの横をすり抜け、もう一つ奥の部屋にある仏壇に手を合わせた。朝晩の日課だ。今やその仏壇には顔を知らない祖父母や母だけでなく、父と兄の位牌も置かれている。

 それから、台所に戻り、そっとさち婆さんの肩を叩いて起こした。

「あ、旦那様」

 さち婆さんはあわてて立ち上がった。

「お味噌汁をあたためますんで、ちょいとお待ちを」

「冷めていて構わん。とうに日も暮れているしな」

 源二郎はそう言いながら膳の前に座った。

 火事の多い江戸では日が暮れてから火を使うのはなるべく避けるようにというのが、公儀の方針である。

 源二郎は側においてあった米櫃の蓋を開け、さっさと自分で白飯を丼に盛った。

「そうですかぁ。そうおっしゃるんなら……」

 さち婆さんは決まり悪そうに鍋から冷めた味噌汁を椀に入れ、膳に置いた。

「先に休んで良いぞ。俺はすぐには休まんからな」

 さち婆さんは、ためらいを見せた。しかし源二郎が黙々と食べ始めたのを見て「そいじゃ、お言葉に甘えて……」と、自室にしている三畳の部屋へと下がって行った。

 この時代の食事は白飯中心で、副菜はわずかである。青菜の入った味噌汁、魚の干物一切れと漬物で源二郎は黙々と丼飯を口に入れた。

 頭の中では今日一日に起きたこととわかったことがぐるぐると回っていた。

 ふと、白井般右衛門は今どこで何をしているのだろうかと思った。



 翌日にも生き延びた伊勢屋の奉公人達は一人ずつ詮議を受けたが、前の二件同様、誰もが知らぬ存ぜぬだった。

 しかしその再詮議で意外なことが判明した。

 当初の詮議では口を濁していた、通いで難を逃れた筆頭番頭が、二度目の詮議で打ち明けた。伊勢屋にあまり蓄えはなかったというのだ。

「誠にお恥ずかしいことながら、羽振りの良い振りをしておりましたけれども、内証は火の車でして……旦那様の手元に果たして三十両あったかどうか……」

 その腹いせもあっての幼児斬殺だったのか。

 その事実は掛かりの面々の士気をあげた。賊が実入りの少なさに近いうちに再度商家を襲うことが大いにあり得るからだ。となると、府内に滞在している可能性も高い。

 今度こそ捕まえるのだと、髙山は掛かりの助役や同心に向かって檄を飛ばした。


 一方、源二郎は押し込みに関する聞き込みならば、自由に動いてよい、毎日報告だけはするようにと、滝田が裏で手をまわしたからか、髙山に言われたのを幸いと、滝田に言ったとおり、祖父江が同じ賊ではないかと考える三件と今回の伊勢屋について、万蔵と手分けして聞き込みを行った。

 当時、定町廻りだった人物にも話を聞いた。播磨屋と岡﨑屋の押し込みがあったときの定町廻りはすでに奉行所を辞めていたが、一人は八丁堀で、一人は本所で元気に隠居暮らしを楽しんでいた。近江屋の現場を調べたのは、今は臨時廻りをしている仁科だったから、奉行所内で話が聞けた。

 そうやって五日間を費やして得た成果は、祖父江の言う三件のうち二件、引き込みが見つかっていない播磨屋と岡崎屋は、まず間違いなく同じ賊の仕業と思えたことだった。

 そして、その二件の押し込み時にはあの剣豪が賊にいなかったらしいこともわかった。あの男が盗賊に加わったのは五年から四年前の間ということだ。


 奉行所でその日の活動を報告し、強い疲労を感じながら源二郎が屋敷の木戸門を開けようとしたら、中から明るいさち婆さんの声が聞こえた。

 その様子に源二郎は木戸門を開ける前から客が誰かわかった。

 ――真の字が来てるな。また屋敷に戻りたくなくて、ここでとぐろを巻いているのか。

 そう思い、源二郎は木戸門を開けた。

 台所の勝手口が大きく開いていて、さち婆さんが楽しそうに喋りながら、鍋で何かを煮ているのが見えた。

 さち婆さんは源二郎の姿にさらに笑顔になり、「おかえりなさいませ」と叫ぶと、さっと釜の隣から薬缶を持ち上げて足元に湯を注いだ。

 すすぎ湯の用意ができていたらしい。

「また当たりましたよ。なんで真乃様はおわかりになるんですかねぇ」

 さち婆さんは首を傾げながら、すすぎ湯の盥を台所の、いつも源二郎が腰かける上がり框の下に置いた。

 真の字が「源二郎がもうすぐ帰ってくるぞ」とさち婆さんに予告していたらしい。よくあることだ。源二郎も人の気配には敏感な方だが、真の字の勘の良さと気配を読み取る感度は源二郎の上をいく。

 案の定、源二郎の上がり框定席の横に真の字、青井真乃が座っていた。髪を後頭の高い位置でひっつめて垂らし、袴を履いたいつもの浪人風の格好だ。


 やはり変わった。そう源二郎は思った。この夏から秋の始めまで引き受けていた用心棒で真乃は大きな企みに関わったらしいのだが、その中で悟りというと大げさだが、何かを会得したらしい。それまでと比べると、雰囲気にゆとりのようなものが感じられるようになっている。


「相変わらずしけた面してるな」

 湯飲み片手に、これまたいつものように遠慮会釈なく言ってきた。口の悪さは相変わらずである。

「何の用だ?暇潰しに付き合う暇なんか、こっちにはないぞ」

 源二郎はどさりと上がり框に腰かけてから言った。

「手詰まりなんだな」

 真乃が面白そうに言った。

「兄貴から聞いてるだろう。厄介な賊なんだ」

「今日はそのことでお前を待っていたんだ。礼は雉の山椒焼きで手を打つ」

「何抜かしやがる。何がわかったっていうんだ。本当ならもったいぶるな」

 源二郎も真乃が相手だと遠慮会釈なく言葉遣いが粗っぽくなる。

「成田屋、中屋、伊勢屋に、祖父江さんが気にしたうちの二件、播磨屋と岡崎屋に町方がこれまで見逃していた、共通していることがあるのさ」

 源二郎はすすぎ湯に足をつけたまま真乃の顔を見た。

 真乃はにやりと笑っていた。

「どれも町内で二番目か三番目の大店だとか言うんじゃねぇだろうな」

 それもまた六件の共通項なのだ。理由は、おそらく町内一の大店には用心棒を雇っている店が多いからだろう。

「万蔵じゃあるまいし」

 真乃はすかさず返してきた。万蔵にすっとぼけたところがあるのは真乃も認めているのだ。それはそうだろうと、源二郎は思う。いまだに万蔵は真乃を男だと思い込んでいるのだから。


「五件ともあの舟庵先生が往診していたんだよ」

 源二郎が思いもしなかったことが真乃の口から出た。よりによって舟庵だ。

「まさか……」


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