その二
「どうだ、奴だろう?」
伊勢屋治郎右衛門の亡骸の斬り口を見ている源二郎に、定町廻りの滝田彦太郎が後ろから声をかけてきた。
「そうですね。奴だと思います」
源二郎は素直に答えた。内心ではわざわざ知らせてくれなくても良かったのにと思っていたが、大先輩の親切を無下にはできない。
「押し込みは明け方近くだったから、まだ御府内にいるだろう。すぐに出ちまうかもしれねぇがな。おめぇも探索に加わることになる。前々から上との話はついているからな」
探索に加わること自体は望むところだったが、源二郎にとってそれはあくまでもこれ以上犠牲者を出さないためであり、兄の仇を討つためではない。だが周りはお膳立てをしないといけないと思っているようだ。そんな雰囲気が時々鬱陶しい。
兄、恭一郎をよく知る源二郎だからこそ、兄は決して自分の仇討ちを願ってはいないとわかるのだ。
それにしても、早朝に呼びつけられた麹町十一丁目にある硯墨問屋、伊勢屋の主一家が寝ていた三部屋の惨状は、目をおおいたくなるものだった。
どうしてここまで惨たらしい有り様にしないといけないのか。奉公人は全員無事だったのだが、主の家族はたった五つの治郎右衛門の孫まで殺されていた。
源二郎はそのことに一番腹を立てていた。
四年前に同じ賊が押し入ったと思われる成田屋では主の孫だった三歳の男児は子守りが抱えて二階へ逃れ、生き延びた。二年前の中屋は、兄、恭一郎の奮闘もあり、若女房とその乳飲み児は生き延びた。
今回、主一家は全滅だ。
蓄えた金の近くに主一家が寝ているのは確かだが、どうして幼子まで手にかける必要があるのか。五つやそこらの子が成長した後に家族の仇と盗賊を探すなど、まず考えられない。おそらく頭巾を被っていたであろう賊を後々見極められるとは思えない。
「富裕な商家に恨みのある連中だな」と、五歳の子の亡骸に布をかけながら、同じくらいの娘がいる滝田は呟いた。
外へ出ようとした時、源二郎の押し掛け御用聞きの万蔵が伊勢屋に走りこんできた。
「あっ!榊の旦那!検視は終わりやしたか?」
「ああ、終わったよ」
源二郎は万蔵の横を抜けて伊勢屋の外へ出た。
万蔵が榊家の住み込みの奉公人である小者の富三と並んであとをついてくる。
富三はもうすぐ六十になる。源二郎が生まれる前から父の供をしていた小者で、期間は短かったが、兄の供もした。真面目で、万蔵と違って無口な男だ。やはり源二郎が生まれる前から榊家に奉公しているさち婆さんとは姉弟である。姉が口下手な弟を雇ってくれと頼んできたのだ。確かに愛想は悪かったし器用ではなかったが、身体は頑健で、やることはきっちりやろうとする頗る真面目な男なので、源二郎も、父、兄に続いて富三を供として奉行所に通い続けている。
そんな富三だから、元博打打ちであるお喋りな若者の万蔵と馬が合うとはとても思えないが、源二郎に対しても万蔵に対しても嫌な顔は全く見せず、自ら口を開くこともない。
自称「二十歳くれぇ」の万蔵は、まだ兄も父も存命だった二年半ほど前、源二郎が道場の師範代で小遣い稼ぎをしていた頃に出会った。万蔵の破落戸仲間を幼馴染みの真の字と組んであっという間にやり込めたその強さに万蔵はいたく感激して惚れ込み、それ以来源二郎につきまとい始め、兄の急死で北町奉行所に同心として勤め始めたと知ると、すぐに源二郎の御用聞きとして名乗りを上げた。
「……で、どうでやした?」
「一家は皆殺しだ。たった五つの孫まで殺されていた。無惨な有り様だった。奉公人は全員無事だが」
「そうでやしたか……なんてぇ奴らだ!それで、そのぉ……殺ったのは……」
こいつまでも気にしているのかと、源二郎はうんざりした。
「なんだ。はっきり言え」
その間にも源二郎は大股で歩いている。
「へい、あの……あの、下手人には、例の兄上様を斬った奴がいるんですかい?」
「……たぶんな」
「旦那はもちろん探索に加わりやすね?」
「加われと命じられれば、加わる」
源二郎の短い答えで万蔵は満足したらしい。その後は源二郎が北町奉行所に戻るまで黙って後ろを歩いていた。
御用聞きの連中は奉行所内に入れない。奉行所の前においてある腰掛けは訴人用だから、待ち時間の長い訴人をあてにして店開きしている茶屋が主な溜まり場だ。
奉行所の門前で一礼し、「あっしは、あっちで控えてますんで」と、御用聞きの溜まり場へ向かおうとした万蔵を源二郎は止めた。
「今日はそもそも当直だ。調べものもしたいし、今日はもう出掛けないぞ」
万蔵は少し残念そうな顔つきになったが、「へい、わかりやした。念のため八つ(午後二時頃)にまたここへ来やす」と答えて足取り軽く去っていった。
まだ御用聞きを使う立場ではないと何度言っても聞かない万蔵に、源二郎は諦めの気分でいる。本当に御用聞きを使うなら、万蔵よりもっと使える奴がいるとも思う。
しかしどういうわけか、乳兄弟であり、腐れ縁的な幼馴染みである「真の字」の万蔵の評価は源二郎より高く、このまま御用聞きとして手札を出すことを勧めてくる。
「万蔵はお前のために命がけで御用をこなす気でいるんだぞ。そんなめでてぇ奴が二人といるものか」
ついこの前も真の字はそう言ってきた。
裏で手を組んでいる気のする二人である。
源二郎は富三も一旦屋敷へ帰した。富三は源二郎のために弁当を買いに行く気でいたようだが、源二郎は夕方にまた来てくれと、富三に言った。
源二郎は奉行所に戻ると、すぐに上司である年番方与力、村井小太夫の元へ向かった。
滝田は源二郎を探索に加えることは「上」と話がついていると言ったが、名前ではなく「上」で済ませたということは確かめないといけない。迂闊に鵜呑みにしていると、後で「『上』とは誰のことだ」となりかねない。
奉行所に勤め始めて間もない平同心の仕事は奉行所の警護である。「番方若同心」と呼ばれる役目だ。三人の当番方与力の下、三交代で四六時中奉行所の警護と何かが起きた時の緊急対応をする。
源二郎はこの日、朝の五つから七つ(午前8時頃~午後4時頃)※まで勤める当直だった。源二郎が抜けた穴を埋める必要が出てくるのだから、今日から押し込みの探索に加わることになるとは思えず、明日か明後日からだろうと思っていた。だが勤番の合間に記録を読むことくらいはできる。
ちなみに宿直は夕方の七つから翌朝の五つ(午後4時頃~翌朝の8時頃)※まで交代で仮眠をとりつつ勤める。遅刻はもちろんのこと、ぎりぎりに顔を出すのも厳禁である。
当直、宿直、非番でこなしているので、三日に一度が非番だ。
宿直の日は夕方近くまでゆっくりできるとはいえ、朝から勤めたり、夕方から勤めたりというのは身体に優しくはない。勤めはじめた頃は不眠症気味になった源二郎だった。幸い半年ほどで慣れ、二年近く経ったこの頃にはどうということはなかった。
しかし当直に入るつもりで村井に尋ねたら、あっさりと今日からもう押し込みの探索に加われと言われた。いくぶん呆気にとられ、本当にいいんですかと、ついまた尋ねてしまった源二郎に、村井は渋い顔つきで答えた。
「前々から、番方と吟味方の間で決めてあったんだ。もしまたあの賊が現れたなら、即、お前を探索に入れるとな。もちろん御奉行の許可も得ている」
源二郎は複雑な気分だった。奉行所をあげて源二郎が兄の仇を取ることを後押しするということなのだ。しかも今のお奉行は中屋の押し込みが起きた時のお奉行ではない。昨夏に着任した。一体誰がわざわざ新任のお奉行の耳に入れて承諾を得たのか。
同心が賊に殺されたのは確かに奉行所として不名誉だろう。内部では妬みや嫉みも少なくないが、全体としては、外に対してとなると、仲間意識が強い。
上の方はそうした感情を鼓舞する方が探索や捕物がうまくいくと思っているのかもしれない。
では、まずは例繰方で過去の記録に目を通したいと思いますと、源二郎は丁寧に一礼をし、例繰方へ向かった。四年前の成田屋と二年前の中屋が被害にあった時の記録を確認するためだ。
例繰方同心、祖父江助右衛門はすぐに帳面を出してきた。今年で六十五になるのだが、溌剌としている。例繰方の勤めが合っているらしい。
なお奉行所に限らず、この時代の武士の勤めに定年退職はない。本人が辞めると言い出さなければ、基本的には死ぬまで勤めることになる。
「もっと早く見にくるかと思っていたよ」
「目の前のことをこなすのに精一杯ですから」
そう一言だけ返して源二郎は一礼し、帳面を脇に抱えて表門の右側にある同心の詰所へと向かった。
大抵数人いるのに、珍しく詰所には誰もいなかった。
源二郎は窓際の一番端の席につき、文机に二冊の帳面を置いた。
まずは四年前の市ヶ谷田町二丁目にあった乾物問屋成田屋の帳面を開き、続いて神田佐久間町一丁目の薬種問屋中屋の記録に目を通した。
どちらも内容は発見の経緯、犠牲者の名前を含む検視時の現場の状況、生き残った奉公人の名前と証言、直後の現場周辺での聞き込みだ。
どちらも賊は敷地に入り込むと、素早く主一家が寝ている部屋に乗り込んであっという間に息の根を止めたらしい。
主一家とは離れて寝ていた奉公人達の証言は共通していた。何かの物音で目が覚めたが、何で目が覚めたのかわからず暫く布団の中でぼんやりしていたという。
成田屋では唯一人、三歳の孫、亀吉の子守りをしていたうめの証言がその夜に起きたことを類推する手掛かりをくれた。
うめは悲鳴で目が覚めたという。目覚めた時には鳥肌が立っていた。そして、隣の部屋から若女将の途切れ途切れの「うめ、逃げて」と言う声が聞こえた。
うめは考えるより先に体が動いていた。すぐにまだ寝ている亀吉を抱え、悲鳴が聞こえた部屋とは反対側の襖を開け、他の奉公人達が寝ている二階へ駆けた。
うめの知らせに階下に降りた男の奉公人達が見たのは、一太刀で殺されている主一家と空になった金の保管場所だった。
賊は奉公人が寝ている部屋へは近づくことなく、あっという間に主夫婦、若夫婦とその弟を斬殺し、金を奪って逃げたのだ。
中屋では若女房とその乳飲み子が助かった代わりに筆頭番頭と手代一人が殺された。正確にいうと、手代は大怪我を負っていたが、恭一郎が自分の木戸送り(木戸が閉まった後に町を通り抜ける通行人が現れた場合、木戸番が次の木戸を出るまで見張りにつくこと)をしていた木戸番を走らせて町方へ知らせ、捕り方が駆けつけた時にはまだ生きていた。亡くなったのは夜が明けてからである。
恭一郎は押し込まれた家の者の悲鳴に応援を待たずに中屋へ入り、若女房を助けようとして賊に斬られたと記載されていた。ただ、続けて若女房が泣きながら「あの御役人様が助けてくれた」と延々繰り返していたということがわざわざ書かれていた。
二件とも裏の潜り戸から賊は敷地内に入り、まっすぐに主一家の寝室と金の保管場所に向かい、襲っている。家の造りをよく知っていたとしか思えない。
そして、賊は近くの大きな水路に舟で乗り付け、舟で逃げたのだと考えられた。成田屋は堀、中屋はその堀の先にある神田川の近くである。
誰かが裏木戸の閂を外したわけだが、それが身の軽い賊の一人なのか、引き込み役が店の中にいたのかは不明ながらも、家の造りや誰がどこに寝ているか賊が把握していたことから、奉公人の中に賊に通じている者がいるに違いないと町方の掛かりは考え、どちらの奉公人も一人ずつ、全員が厳しく問い詰められた。しかし、誰も「知らない」、「身に覚えがない」の一点張りだった。
源二郎は当時既に見習いとして奉行所に勤めていた兄から成田屋の奉公人達の詮議の苛烈さとそれがもたらした奉行所内での論争のあらましを聞いていた。
ことに成田屋のうめ以外の奉公人達は相当厳しい問い質しを受けたため、中に自害しようとした者や言動に異常を来す者が現れたのだ。石抱きといった問責をしたわけではなかったが、何日も朝から晩まで同じことを繰り返し聞かれ、罵声を浴び続ければ、おかしくもなる。そのため奉行所内でもそのやり方と是非について論議を呼んだ。
自害しようとした者が引き込みではないかと短絡する者がいたが、掛かりではなかった吟味方与力の青井真右衛門が話を聞きつけ、「自白を迫るよりも、証を見つけるのが先だ」と諌めたという。
実のところ、自害しかけた手代の周囲の評判は良く、怪しい者と会っていたとか、押し込みのあった夜に気になる動きや様子を見せていたという目撃談は全くなかったのである。
中屋では成田屋の二の舞は避けようとしたことと若女房が生き延びたことで成田屋の奉公人達が受けたほどの厳しい問い質しは行われなかった。とはいえ、やはり奉公人は皆一度は厳しい詮議を受けた。だが中屋でも引き込み役ではないかと疑うに足る人物は出てこなかった。
そして今回も賊は裏の潜り戸から入っている。おそらくは前の二件同様の手口だったのだろう。
裏の潜り戸から押し入っているのは、金の保管場所に近いからだと、源二郎は記録と今朝見た現場から確信した。
どちらの帳面も、最後は突き止められなかったが、店にいた者の中に知らず引き込みをしたか、賊に通じていた者がいたに違いないと結んでいた。
知らず引き込みをしてしまう。そんなことがあるのだろうか。事前には気づいていなくとも、押し込みが起こった後には気づくのではないか。
成田屋の奉公人達は押し込みの後、暫く牢屋に入れられ、出た後にも暫く見張りをつけられていたという。それでも何も出てこなかったのだ。
――主一家の誰かがそうとは知らずに賊と通じていた?他にどんな手があるだろうか。
そもそも同じ賊の仕業だという確証のあるのが成田屋、中屋と今回の麹町の伊勢屋ということで、連中が押し込んだ商家が他にないとは限らない。
だがここ数年に絞るとしても、全部の記録にあたるのは難しい。
帳面には、中屋で生き残った若旦那の御内儀はみの、当時乳飲み子だったのはきえと記されていた。
――おうめとおみのは今どこで何をしているのか。二人に直に話を聞くのが第一にやるべきことだ。
源二郎がそうしたことを考えていると、話し声が聞こえた。三人がこちらに近づいてくる。
「その破落戸、女の格好をしていたが、あれは男だったって言うんだ。そんな奴いるかね?」
日本橋の南側を受け持つ定町廻り同心、加藤の声だ。
「女に投げ飛ばされたとあっては面目がたたないから、盛ってるんじゃないのか?」
これまた定町廻りの中村だ。今の受け持ちは上野である。
「いくら小柄な破落戸でも土蔵の壁へ背負い投げでぶち当てて気を失わせるのはすごいぞ。そんな腕のたつ奴がなんでわざわざ女の格好をするんだい?」
「世の中には色んなのがいるからなぁ……」
三人目は定橋掛り同心の諸岡だった。三人とも四十一の同い年で、なにかとよくつるんでいる。
「土蔵にぶち当てられた破落戸を見たが、痩せてはいるものの、背丈は六尺近くある大男だったよ」
「その投げ飛ばした方も女としては大きくて、ゴツかったのか?」
「助けられた爺さんと孫娘、その場を見かけた者たちの話じゃ、背は高かったが、なかなかの器量だったらしい。男が女の格好をしているとは思わなかったと言っていた」
「まぁ世の中には色んなのがいるからなぁ……」
源二郎は思わず聞き耳を立てていた。
――確かに世の中には、色んな奴がいる。だが女でそんなことをやらかせるのは、たぶん、きっと、真の字ぐらいだ。昨日はぶつくさ言っていたしな……明日は髪を島田に結わないといけないから面倒だと……真の字に間違いない。お、女の格好した男……
笑いを堪えようとしたら、肩が震えた。
そう、源二郎の乳兄弟であり幼馴染みの、与力の家に三月早く生まれた「真の字」は、女なのだ。だがとてつもない剣術の才があり、体格も源二郎とほとんど変わらない。その大柄な体格と剣術の才を活かし、日頃は袴を履いた浪人風の格好をして用心棒という「人助け」をしている。本当の名前は青井真乃だが、用心棒としては「青井真之助」と、男の名で通している。
真の字の家が榊家と同じ同心の家だったなら、もっと気楽にいられたろうにな……源二郎が時々思うことである。
「おう、榊の源二郎か。そんな隅っこに座って何を読んでるんだ?」
源二郎はあわてて挨拶するために振り向いた。詰所の入り口に黒の巻き羽織が三人立っていた。
「お帰りなさいませ」
加藤がずかずかと源二郎の方へやって来て、広げたままの帳面を覗きこんだ。
「ああ……中屋の……」
納得したというように大きく頷いた。
「昨夜起きた麹町の伊勢屋もそうだってな。おめぇのことだから、大丈夫だろうが、焦れ込みすぎねえようにな」
「お気遣いありがとうございます」
この人もかと、源二郎はため息をつきたくなるのをなんとか我慢し、一言礼を言った。
今朝は急な呼び出しで屋敷を飛び出し、先が読めないと思った源二郎は、昼の弁当はいらないと、三十年近く榊家に奉公しているさち婆さんに言ってあった。どこかへ食べにいかないといけない。その足でうめとみのの行方を探しに行こうと思った源二郎は、二冊の帳面をいったん例繰方へ返した。
祖父江の手慣れた様子に、源二郎は思いきって尋ねてみた。
「祖父江さんのお考えで、この二件と同じ賊ではないかと思われる押し込み、他にありませんか?」
驚くか、嫌な顔をされるかと思っていたら、祖父江の顔つきは喜んでいた。目が輝き、よくぞ、聞いてくれたという顔つきになった。
「絶対じゃないが、他に三件、似たのがある」
「三件も……」
「不思議なことに、そういうことを聞いてきたのは、隠居された青井様だけだったよ。中屋の押し込みがあって間もなくのことだ」
「真右衛門様が……」
さすがだと源二郎は思った。
北町奉行所で優れた吟味方与力として名を馳せ、昨年到仕 (辞職)した青井真右衛門は、乳兄弟である真の字の父親だ。源二郎に乳を与えて真の字と一緒に育ててくれた芳乃はその妻である。
その育ての母も源二郎が十一の時に亡くなった。その通夜で、涙が止まらない源二郎を真右衛門は暫く黙って抱き締めた。源二郎にはよくわかった。その時、真右衛門も泣いていたのだ。
その思い出のせいか、源二郎には実の父親よりも身近に感じることのある人物である。
そして、真右衛門は恭一郎の死も父の死も、妻が亡くなった時と同じくらい悲しんでいた。
「これから町へ出ますが、夕方には戻ります。その時に三件の覚書を見せてもらえますか」
「承知した」
祖父江は笑みを浮かべていた。嬉しそうだった。
成田屋と中屋の件の確認に出かけますと村井に一言断り、中(昼)食を食べるために外へ出ようと門の方を見たら、門の側に継上下姿の青井静馬の姿があった。青井真右衛門の長男、真の字の五つ年上の兄である。奉行所には見習いとして十年前から勤め始め、昨年、家督を継いだのを機に父親の跡を継ぐべく正式に吟味方与力助役になった。見習いの頃から、実質的には助役の仕事をこなしていたので、すぐに吟味方与力に昇進するだろうと言われている。
なお実質は世襲しているが、町奉行所の与力も同心も一代限りの抱え席なので、書面としては単に父親が奉行所を辞め、息子が奉行所に新規で雇われた形である。源二郎も書類上は兄の後継ではなく、新規召抱えで奉行所に雇われている。しかも同心の契約期間は一年だから、毎年暮れには形骸化しているとはいえ、更改がある。
静馬にはやはり真の字と似た雰囲気があると、最近の源二郎は静馬を見るたびに思う。体格もほぼ同じだ。兄妹なのだから、当たり前といえば当たり前だが、兄と似ているとあまり言われたことのない源二郎には、必ずしも当たり前の一声で片付けられないことである。
「中食は外へ食べに行くのだろう?一緒に食べよう」
源二郎が近づいていくと、静馬が先に声をかけてきた。
日頃は奉行所内で弁当を食べている静馬である。何か周りに聞かれたくない話があるらしい。
奉行所の目の前にある呉服橋を渡ってすぐの所にある一膳飯屋に二人は入った。場所柄、奉行所絡みの人間がよく利用している。
案の定、静馬は昼間はめったに人を入れない二階を使わせてくれと店主に言った。同心ならまだしも、与力に頼まれれば嫌とは言えない。内心ではムッとしていたのだろうが、店主は愛想よく二階へ二人を案内した。
静馬の話は今朝方伊勢屋に押し入った賊の件か真の字のことだろうと源二郎は思っていたが、蓋を開けてみれば、その両方だった。
まずは押し込みのことから話は始まった。
賊の中に本当に源二郎の兄、恭一郎を斬殺した奴がいたのかと静馬は尋ねてきた。
「おそらく」と、源二郎は短く答えた。
「そうか。とうとうまた現れたか……落ち着いているようだが、仇を目の前にしてもそうやって落ち着いていられるのか?」
昔からよく知る静馬にまで言われ、源二郎はそっとため息をついた。
「皆、俺が焦れ込むのではないかと心配しているようですが、あくまでも賊を捕まえ、これ以上犠牲者を出さないことしか考えていませんよ」
「そうか。それなら良いのだが、人は案外自分のことには気が付いていなかったりするからな。真乃もお前にそんな心配はいらないと言っていたが……」
そこで静馬は源二郎の目を見つめてきた。
「あいつも自分のことは案外わかっていないのではないかと思う」
「……どうしてそう思うんです?」
「このまま用心棒をして暮らしていけると思うか?本音を聞かせてくれ」
「先のことは誰にもわかりません。ですが、ひとつだけわかっていることがあります」
静馬は口を挟まず源二郎の次の言葉を待っていた。
「真の字を好いてもいない相手と添わせるのは、生き埋めにするようなものだということです」
「生き埋め……」
静馬は呆気にとられた顔だった。そこまで強い言葉が出てくるとは思っていなかったらしい。
「静馬様のご心配はよくわかるのですが、今暫く様子を見られた方が良いかと。真の字は先のこともしっかり考えているはずですし」
「そうなのか?女が一人で生きていくのは難しいのだぞ」
確かにそのとおりだ。この男尊女卑の時代には家屋敷を買うことはもちろん、貸家を借りることも女の名前ではできない。実際には女の一人住まいであっても、沽券、後の世の登記や借り手は父親、兄弟や後見人など、男の名前になっているのである。
「それはそうですが、真の字は一人きりというわけではありませんし……」
そう言った源二郎をまたじっと静馬が見つめてきた。真意を探るような目だ。
「なぁ、源二郎、何故嫁をもらわぬ?奉行所へ勤め始めてもう二年経つ。縁談はいくつも持ち込まれてきただろう?」
「まだ二年、ですよ。同心として勤めるとは思ってもみなかったのに、急に勤めはじめての二年。あっという間でした」
「恭一郎もなかなか嫁を迎えようとしなかったが……源二郎、お前、ひそかに心に決めておる相手がおるのではないか?」
源二郎は吹き出した。
「おりませんよ。俺はそんなに器用でも我慢強くもありません」
源二郎は静馬の問いに答えながら、無理やり煮物と飯、味噌汁を胃の腑に押しやっていた。
話のせいではなく、この店の味ならば、自分で作るほうが美味しい。自分の味覚に合わせて作るからだ。
「父上はまだ望みを捨てておらぬようだが、俺はお前と真乃の間柄のことは父上よりもわかっている。一番には榊の家のためだが、父の間違った期待を打ち消すためにも、そろそろお前に身を固めてもらいたいのだ」
静馬がそう言っている間、源二郎は味噌汁を啜り、飯を掻き込み、静馬の方は見なかった。
出された食べ物をすべて胃の腑に納めた源二郎はやっと静馬の顔を見た。
「真の字のことはご心配なく。真右衛門様や静馬様が思っておられるよりも、ずっと頭は切れ、心身ともに逞しい。俺にも俺の考えがあります。榊家を潰すようなことはしません。これから遠出をしないといけないゆえ、先に失礼します」
源二郎は一礼し、立ち上がった。目付きはまだまだ言いたいことがありそうな風だったが、静馬は引き留めなかった。
恭一郎がなかなか娶らなかった理由は、叶わぬ想い人がいたからだと源二郎は思っていた。
一方、源二郎が縁談を断り続けているのは、心に決めた相手がいるからではない。そして、静馬にもその理由を口にする気に源二郎はなれない。笑って何を言っているのかと、頭から否定されることがわかっているからだ。
人の心は単純ではない。端から見れば思い過ごしとしか思えないことであっても、当人にはなかなかはずすことのできない枷がある。
源二郎は一膳飯屋を出ると、すぐに己のことは頭から消し去り、探索のことを考えながら北へと歩いた。
この時代、人の行方を突き止めるには、町名主に尋ねるのが一番である。人別帳を管理しているからだ。しかも大抵世襲している。名主と借家住まいであれば家守に尋ねれば、その町からどこへ移ったかは大抵わかるのだ。
源二郎は鎌倉河岸から舟に乗って神田川を上り、牛込の揚場まで行った。そこから再び徒歩で市ヶ谷田町へたどり着くと、一息入れることなく、すぐに名主を訪ねた。
名主は事件が大きかったこともあり、うめと当時三歳だった亀吉のその後をよく覚えていた。亀吉は下谷の分家に引き取られ、うめは今も同じ町内で女中として働いていた。
さっそく源二郎はうめが働いているその商家を訪ねた。
思い出すのも嫌だと言われるかもしれないと思っていた源二郎だったが、当年二十歳のうめは非常にしっかりした娘だった。しっかりした娘だったから、男児とともに生き延びることができたのだろう。
うめは賊の人数について、「四人はいたんだと思います」と言った。隣の若夫婦の部屋に押し入ったのは一人で、もう一人が更にその向こうの部屋にいたのがわかったという。はっきりした気配はその二人だったものの、四人はいただろうというのは、あの短時間に二人だけで主一家をほとんど声をあげさせることなく惨殺し、金を盗みだすのは無理だと考えてのことだ。賊の姿は全く見ていなかった。もしも賊を目にしていたら、うめは殺されていたに違いない。
他に何か思い出したことがあったら、いつでも知らせてくれと言い置いて源二郎はうめと別れた。
次に源二郎は元中屋の若女房に話を聞くため、再び牛込の揚場で船に乗り、神田の佐久間町まで一気に神田川を下った。
ところが、佐久間町の名主にみののその後を尋ねたら、一年ほど前に瀬戸物町の菓子屋、清水屋へ娘を連れて後添いに入ったと聞かされた。瀬戸物町は、皮肉にも町方の組屋敷のある八丁堀の近くである。
源二郎は佐久間町から和泉橋を越え、瀬戸物町まで黙々と南下した。
清水屋の奥座敷で初めて見たみのは、なかなかの美人だった。帳面に書かれていた生年からは、源二郎の一つ年上である。大きな腹を抱え、大儀そうに現れた。来月が産み月だという。
そして傍らには幼女がいた。じっと源二郎を見つめてきた。
この子がきえだなと源二郎は思いながら、こんにちはと苦手な笑みを浮かべて軽い挨拶をした。
果たして嫌な思い出を掘り起こして話してくれるだろうかと不安に思っていた源二郎だったが、みのは忘れたことはないと前置きし、時々言葉につまりながらも、あの夜の詳細を語った。
みのは夫の声で目が覚めた。何事かと半身を起こしたら、濡れ縁側の腰高障子が開いていて、そこに頭巾を被り、抜き身を手にした男が立っていた。
直後にみのは夫に突き飛ばされた。部屋の奥へ倒れながら、みのは背中に夫の悲鳴を聞いた。目の前には生後十月の娘、きえが寝ていた。夫の悲鳴に目を覚まし、泣き始めた。
「きえを……」
夫の力のない声はそれきり途絶えた。みのは急いできえを抱えて叫んだ。
「この子は、この子はお見逃しを!」
※ 注: 町奉行所の当直と宿直の担当時間を専門書の類いで確認することはできませんでした。…ので、大御番の勤番パターンや上司役の人数、現代の警察官の勤務パターン等々から、可能性の高い勤務パターンの設定にしました。早い話が、確認できた事例からの推測です。