2話
――2ヶ月が経ちました。
その間、あの近衛兵の4人は店に来ていません。
近衛兵の仕事では、王家の方が他国を訪問する際にも護衛としてついて行くことがあるそうです。
なので、長期で店に来ないとしても何の疑問もありませんでした。
そう、この日までは――。
今日は、朝から土砂降りの雨が降っていました。
わたしが働く酒場は、王都の中央を南北に通る大通りから外れた、南東の端っこにあります。
そのため天気が悪かったから、わざわざ足を運んで来るお客様は少ないのです。
もう、仕事が終わって客が入って来る時間帯なのですが、今日は閑古鳥が鳴いています。
「まあ、暇なのにお賃金をいただけるのは良いのですが」
カウンターの、いちばん端に腰掛けながら呟くと、
「アーラちゃん……。心の声が漏れているよ」とマスターがカウンターの内で、ご自慢のお髭をしごきながら返してきました。
……本当に、お客さんがひとりもいらっしゃらないのです。
机の上に右肘を付きながら、ボーっと店の入り口を見つめていました。
すると、扉が開きました。同時に、轟音とも言えるような雨音も入店してくださいます。
わたしは咄嗟に、立ち上がりました。
「いらっしゃいませ~」
接客時の笑顔を作りながら入り口に向かうと、入って来たのは知った人物――近衛兵さんでした。
彼の姿を確認すると、自分の顔の表情が無くなるのが分かりました。
「……何が、あったんですか?」
「…………………………………」
近衛兵さんは答えません。いつも通りの無言です。
でも、わたしは無視できるような状態ではないと思いました。
今日の近衛兵さんは……とても、とてもやつれていたのです。
何日か食事を摂っていないではないかと思うほど、頬がげっそりと削げ落ち、着ている服も所々が破けていました。覗いた皮膚は、切り傷だらけです。
――何が、あったのでしょうか。
とても、お酒を楽しみ来たとは言えない状況です。
わたしは、言葉を失ってしまいました。
「取り敢えず、こちらへどうぞ」
声がしたほうを振り向くと、マスターがいつの間にか、わたしの横に立っていました。
マスターの声で我に返ったわたしも、近衛兵さんに席を進めます。
カウンターの、正面の席です。
マスターがカウンターの内に戻って、わたしは近衛兵さんの後ろに立ちました。
掛けてあげられる言葉は、見つかりません。
近衛兵さんの、何だか寂しそうな背中を見つめていると、マスターが水を1つ、彼の前に置きました。
近衛兵さんは俯いています。
わたしも、自然と顔が下を向きました。
沈黙が続き、酒場の中は異様な空気が流れています。
他のお客様が居ないのは、幸いでしょうか。
近衛兵さんは、出された水に口を付ける素振りを見せません。
「もし私でよろしければ、何でもお聴き致します」
そう、マスターが優しく語り掛けました。
すると近衛兵さんが、俯いたまま親指と小指を折り曲げ、マスターに向かって手を向けます。
マスターとわたしは、きょとんとしてしまいました。
「3つ……ですか?」
マスターが呟いた言葉で、わたしは近衛兵さんが伝えたい内容が分かりました。
「マ、マスター! エールです、エールを3つ、近衛兵さんに!」
勢いよく言うと、マスターは急いで準備を始めました。
わたしは、近衛兵さんの背中越しに、
「それで、良いんですよね?」
問い掛けると、彼は首を縦に振りました。
ややあって、3つのエールが近衛兵さんのもとに置かれます。
しばらくエールを見つめ続けた彼は、やがて1つのグラスを手に取りました。
そのグラスで、他のグラスの飲み口と打ち合わせていきます。
……乾杯、でしょうか。
だとしたら、物寂しいです。
全てのグラスと完敗を終えた、そのとき――バンッ‼ と店の扉が勢いよく開かれました。
わたしは反射的に、その方向を振り返ります。
マスターもきっと、同じほうを向いたことでしょう。
近衛兵さんが振り向いたかは、分かりません。
店に入って来たのは、5人の人たちでした。
「あれは……」
マスターが言い掛けた先の言葉が、わたしには分かりました。
――彼等は、近衛兵団の方です。
店に来た5人は、以前、エリュさんに見せていただいた近衛兵団の制服を着用しています。
5人の先頭に立っていた(キリっとした顔立ちの)男性が、こちらに歩み寄って来ました。
歩み寄って来る彼は、わたしやマスターには目もくれていない様子です。
わたしは、直進して来る男の進路を遮るように立ち塞がりました。
「アーラちゃん⁉」
後ろから、マスターが叫ぶ声が聞こえました。
それでも、わたしはお構いなしです。
だって、男が近衛兵さんを狙っているのは一目瞭然なんですから。
それも、ただならぬ雰囲気が滲み出ています。
ただ一緒にお酒を飲み交わしに来たような感じではありません。
キリっとした男性は、わたしの前で歩みを止めました。
「どけ」
重く低い声が、わたしに降り注ぎます。
一瞬、身体が固まってしまい、一歩、後ずさってしまいました。
が、踏ん張って男を睨み返してやります。
すると目の前の男は、明らかに顔をしかめました。
わたしに対して吐き捨てるように、チッ、と舌打ちをしてきます。
何だか、イラっとしてしまいました。
それでもわたしは、接客時の笑顔で言います。
「いらっしゃいませ、5名様でよろしいでしょうか?」
キリっとした男は、ため息を吐きました。
「客じゃない。お前の後ろに居る奴に用がある」
やはり、彼等の目的は近衛兵さんにあるようです。
でしたら、なおことどくことはできません。
ただ事じゃない予感がします。
「5名様でしたら、カウンターよりも壁沿いの席のほうが大人数でお楽しみいただけます。そちらにご案内いたしましょうか」
「……聞いてるのか? 客じゃない、と言っているだろう。お前の後ろで、暢気に酒を飲み耽っている男に用がある。だから、そこを退け」
「どきません」
私は力強く、相手の目に訴えかけるように言い切りました。
後ろから「アーラちゃん」と、窘めるマスターの声が届きます。心配されている気がします。
ですが、退いてはダメです。
この人は近衛兵さんと仲良く飲みに来た訳では、絶対にないことだけは確信できます。
女の勘でしょうか。
「最後の忠告だ、退け」
言って男は、腰の剣に片手を添え、親指で柄を押します。
少しだけキラッと光る刃が見えました。
「ここに来る近衛兵の方で、武器を持って来たのは、あなたが初めてですよ」
わたしがお答えすると――途端、男が動きました。
速い動作で、腰に携えた剣を抜いて横に切り払おうと迫って。
目で追うことはできましたが、身体はついてきませんでした。
ああ、死ぬのかな。
瞬間、目を瞑り。次に、バンッ‼ と鈍い音が耳に響いてきました。
私は反射的に目を見開きました。
目の前には綺麗な黒い髪を纏った、後頭部……近衛兵さんが、背にわたしを庇って護ってくれました。
――近衛兵さんって、意外と背が小さい。
わたしと、あまり変わりません。
と、今はそんなことを考えている場合ではありませんね。
そっと、近衛兵さんの背中越しに前のほうを覗いてみます。
店の扉が開け放たれています。
そして、例の男と一緒に来た方々が唖然と近衛兵さんを見つめていました。
「あれ、あの人は……?」
わたしが呟くと、近衛兵さんが静かな動作で店の扉……いえ、その先、外を指差しました。
――お外?
「吹き飛ばしたんですか?」
訊くと、近衛兵さんは小さく頷きました。
どうやって? これが魔法の力でしょうか?
目を瞑っていたわたしには分かりません。
ですが、彼がわたしのことを護ってくれたのは理解できました。
ありがとう、と言おうとしたら、途端に近衛兵さんは走り出しました。
それも、一歩で店の入り口まで行きました。
遅れて扉を振り返ったのは、4人の方です。
全員が一斉に振り返り、誰かが「追え」と声を上げました。
すると近衛兵さんは店を出て、姿を消しました。後を追うように4人も店を出て行きます。
わたしは、しばらく呆気に取られて立ち尽くしていました。