霊的霊式-07
7.
それは、もうかなり遅い時間帯でした。
わたしはその時家に帰る途中で、目の前に拡がる森林公園を見ながら、どうしたものかと迷っていたのです。
既に暗くなっていましたから、その森林公園はかなり不気味で怖そうでした…… “公園”という名は付いていますが、この森林公園は、通る道があるといった点を除けばほぼ森と一緒なんです。夜の森の中なんて、誰も通りたいとは思わないでしょう。ですが、ここを通り抜ければ、わたしはかなり早く家に着けるのでした。だから、それで迷っていた。
しばらく躊躇していましたが、わたしは意を決すると森林公園の中に足を進めました。しかし、わたしは森の中に入ると、直ぐに後悔をしました。忘れていたんです。この森林公園の池から、つい半年ほど前に、女性の水死体が見つかったという事を。いえ、確かその前にも子供の水死体が上がっているはずです…。
池。
なんとしても、池だけは避けて通らなければ……
そう思いました。
森林公園の道はよく知っています。だから、池を迂回できるコースだってちゃんと分かっていました。
ところが、
何処で道を間違ってしまったのでしょう?
何故かわたしは、いつの間にか、池に近接するコースを通ってしまっていたんです。
池に近付くと、当然ですが木々が開けていって、夜空が広く見えました。満月が、煌々と輝いていたのをよく覚えています。
水面に、満月が浮かんでいる。
とても綺麗な眺めでした。それに感動してか、その一瞬、わたしは怖さを忘れてしまっていたんです。そして、その時でした。
ふと、声が聞こえた。
『すいません。すいません』
それは、泣き出しそうな女の人の声でした。
なにか、幻のような、透き通った声。
なに?
わたしは不安に思いましたが、取り敢えず、その声の主を見つけようと、辺りを探しました。そして、なんとも厭な事に、その声がどうやら、池の中から聞こえてくるという結論に至ってしまったのです。
池。
池の中。
半年前に、女性の水死体が上がったという話を再び思い出します。ですが、逃げる訳にはいきませんでした。逃げたら罪悪感を背負ってしまいそうですし…… それに、こういう場合は逃げた方がよっぽど怖いような気もします。
確かめなければ。
『すいません。すいません』
声。
確かに聞こえてきます。
わたしは、そろりそろり、と声のする方… 池の岸辺に近付いていきました。恐怖もありましたが、好奇心も手伝って、その正体を確かめるべく…。
そして、水面。
ゆらゆらと揺らめく水面。夜の池は、漆黒の闇の色をしています。声はその中から聞こえてくる……。
わたしはその闇に向かって、語りかけをしました。
『どうしたのですか?』
すると、声は言いました。
『ああ、良かった。あなたには、わたしの声が聞こえるのですね』
それは、あり得ない現象です。
黒い水面の中から、明確な声が聞こえてくる。怪談というよりも、これではまるで、昔話みたいです。
『聞こえます。一体、どうしたんですか?そして、あなたは何者なのでしょう?』
わたしが尋ねると声は応えます。
『わたしの声が聞こえる、という事は、あなたはわたしの味方だということです。少なくとも敵ではない。わたしはこの池の主に縛られ捕らえられてしまっているものです。この池に、自我が喰われかけている存在です。あなたには、池の主の声ではなく、わたしの声が届いてくれた。だから、わたしの事をあなたは助け出す事ができるのです』
どういう事なのか、わたしには分かりませんでした。わたしに助け出せる?これでは、いよいよ本当に昔話みたいです。そしてその時何故か、私は恐怖が麻痺していたのです。
『あの… すいませんが、わたしにはどういう事なのか分かりません。ただ、あなたが助けを求めていて、そしてわたしにあなたを助ける事ができるというのならば、助けてあげたいとは思います…』
わたしがそう言うと、水面に二つの光が浮かびました。
『どうすれば良いのかを教えて下さい……』
その二つの光は、ぐぐっと持ち上がってくるとわたしの目の前に浮かびました。そして、その二つの光は目となり、そこに現れたのは、なんと女性の生首だったのです。
ですが、その時のわたしは不思議です。それに、竦む事がなかったのです。
その生首は言いました。
『助け方は簡単です。このままわたしを、池の主の支配のない領域にまで運んでくれるだけで大丈夫。それだけでわたしは、池の主の呪縛から逃れることができる…』
わたしはそれを聞くと、流石に躊躇しました。
それは、生首を抱えて逃げてくれ、という事です。当然ですが、わたしは生首なんか持ったことはありませんし、持ちたくもありません。
すると、声が。
『早くしてください。こうしている今も、わたしは喰われているのです。自我を、壊されているのです。早くに逃げなければ、早くに逃げなければ、わたしの存在は、完全に池の主のものになってしまう……』
それは悲壮で必死な声でした。
約束した手前、もう引き下がれません。わたしは決心をすると、『分かりました』と言って、水面に手を伸ばし生首を持ちました。
ぐちゃり…
手に、とても厭な感触が伝わってきます。
濡れている。血ではありません。それは、単なる水でした。
わたしがその女性の生首を抱えると、生首は直ぐに言いました。
『早く。早くして。池の主が、あなたの存在に気付いたわ』
池の主?
『“働きかけ”をしてくる』
何の事だか、わたしには分かりませんでしたが、危険が迫っているのだという事は分かりました。
わたしは走ります。
その時でした。別の声がしたんです。それは、とても幼い男の子の声でした。
『行っちゃ駄目』
駄目?
声は池の方から聞こえました。
『その生首は、あなたを騙そうとしているのですよ。さぁ その生首を、ここに返して下さい。その生首は、ここに閉じ込めておかないと、よくない事を色々とやる…』
わたしは走っていましたから、池からどんどんと離れていました。しかし、不思議と声は同じ大きさではっきりとわたしの耳に聞こえて来るのです。
その声が頭の中に鳴り響くのと重複して、女性の生首もわたしに言います。
『嘘よ。騙されないで。騙されないで。よくない事をしているのは、あっちの方。池の主は、人を池に誘って喰うの』
わたしはどちらの言葉を信じていいか分からず、ただ必死に走りました。女性の生首を助けようという意志がわたしにあったかどうかは分かりません。ただただ、そのぐちゃっとした厭な感触のものを抱いたまま、思い切り、半ば自棄になって走り続けたのです。
正直に言えば、一刻も早く、この状況下から逃れたくて、だから、池に戻るなんて事ができなかっただけなのかもしれません。
気付くとわたしは森を出ていました。
もう、池の主の声らしい、幼い男の子の声は聞こえては来ませんでした。
『ありがとう……』
落ち着くと、わたしが抱いている未知のおぞましいものはそう言いました。
……なんでかは分かりません。その頃には、生首は半分は正体不明のまるでヘドロのような何かに変わっていて、人の顔のていを成してはいませんでした。
ですが、わたしはそれでも“それ”を抱えたまま、しばらく歩き続けました。そして、何処をどう歩いたのか、ほとんど記憶に残ってはいないのですが、気付くとわたしは梨園の中を彷徨っていたのです。
そして、“それ”は言いました。
『ここが丁度良いわ。ありがとう。もう大丈夫。ここに、わたしを埋めて』。
わたしはこれで解放されると、まるで支配されている人形のように足下の土を掘り、そしてその女性の生首を埋めたのです。
後で手の匂いをかぐと、とても生臭かった。わたしは一体何を埋めたのでしょうか?
……そして後日、この梨園には女性の霊が出ると噂がたちました。今でも、その霊はその梨園に祀られていて、時々その姿を見せるのだそうです。