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霊的霊式-10

 10.

 

 ――盗まれたロボット。

 R―28の研究開発の責任者兼主任で、最近になって行方不明になってしまった、“新島成行氏”。単に苗字が同じというだけじゃなく、調べてみると、この人は、あの中央森林公園の池で死んでしまった新島聡君の父親であることが分かりました。

 「――という事は、新島成行さんは、既に死んでしまっているのでしょうか?」

 山中さんがそう言います。

 僕があの池で体験した幻想の中、ナノネットの“霊”たちの中に、新島成行さんはいた。……ということは、あの池で既に死んでいる可能性があるはずです。

 死体が、まだ発見されていないだけで。

 紺野さんはそれにこう答えました。

 「……分かりません。ただ、可能性がある事だけは確かですね」

 紺野さんの表情は曇っています。

 余計な謎が増えてしまったからなのか、それとも、この事件全体に漂う不穏な空気に厭な予感を感じ取ったからなのか…… また、或いは、ただ単にこれから向かう場所に不安があるだけなのかもしれませんが。

 ……これから向かう場所。

 

 「――森さんを、頼ろうと思うのです」

 紺野さんは不意にそんな事を言いました。僕の体内のナノマシンから得られた情報、それを分析し終えた後、次の予定の話になり、どんな調査をやるかとかそんな話題の中、突然発せられた言葉です。

 僕には何の事だか分かりませんでしたが、それを聞くと、山中さんは嬉しそうな声を上げました。

 「――え? くまさんに頼むのですか?」

 ……くまさん 一体、何の事でしょう? それに、何が嬉しいのでしょうか?

 僕は山中さんが喜んでいるという事実に嫌な予感を覚えます。彼女が喜んでいるということは、その対象は、それなりに、それなりのものであるはずですから……。しかし、山中さんは一度は喜んだものの、急に眉を顰めるとこう言いました。

 「……でも、本人はともかく、両親は好い顔をしないでしょう? 大丈夫なんですかね?」

 それを聞くと、紺野さんは「ははは…」と、力なく笑いました。そして、

 「まぁ それが心配なんですが、なんとかなるだろうと思います」

 と、そんな返しをします。

 本当に何なのでしょうか?

 いつまで経っても、紺野さんがいつものように説明をしてくれないので、僕は仕方なく自分から質問をしました。

 「……あの、森さん って?」

 すると、紺野さんは困ったような表情を浮かべました。この件には触れてもらいたくなかったのでしょうか? そして、やっぱり説明をしなくちゃならないよな、というような様子で、まずはこう言ったのです。

 「ナノマシンに関っていると、色々と不思議な… 信じられない現象を目にするものなのですが… この森さんのケースもその内の一つなんです」

 「はぁ… “信じられない現象”ですか」

 この紺野さんをして、そう言わしめるのですから、それは相当な事なのでしょう。

 「森さんの場合、最初は精神科の方で扱われていたのですがね…… 彼女… 森里佳子ちゃんの様子を心配した両親が精神病院に連れて行ったのです。彼女の症状は、解離性同一性障害… 俗に言う多重人格のものに酷似していましたから、それも当然でしょう」

 なんだか、妙な話になってきました。

 「あの… その森里佳子ちゃんというのは、小さいお子さんなんですか?」

 「ええ、小さいです。まだ、小学校低学年といったところですかね? それもあって両親から非常に過保護に扱われている…… だから、面倒なのですが。どうにも、常識的な親御さんたちでして…」

 紺野さんはそこで苦笑します。そして、続きを語りました。

 「しかし、彼女の症状には、解離性同一性障害では説明できない奇妙な点が幾つかありました。その一つは、くまのぬいぐるみです」

 「くまのぬいぐるみ?」

 「はい。彼女のもう一つの人格は、自分はそのくまのぬいぐるみだとそう言い張るのですよ。ただ、そのくまのぬいぐるみを持っていなくても人格交換は起こるのですがね。最初、精神科の医師は、それを思い込みの一種だと解釈していました… しかし、それでは説明できない現象が度々起こる」

 僕はその話を聞いて、緊張していました。いえ、なんだか、怖そうなので…。怖い話は苦手なのです。

 「里佳子ちゃんが、そのくまのぬいぐるみを持っていなくても、何故か、そのくまのぬいぐるの記憶が彼女にはあったのですよ。いえ、正確には、ぬいぐるみの周囲で起こったことの記憶なんですがね。ぬいぐるみの近くで、なんらかの話をしていると、その話の内容を里佳子ちゃんも知っている。どうして、知ったのかと尋ねると、自分の近くで話していたものだから聞こえたのだと… で、そんな事が何回も続き、しかも症状がまるで改善しなかったものですから、とうとう私の所に話が回ってきたのですね。それで、彼女を調べてみてびっくりでした」

 「どうだったのでしょうか?」

 僕はいつの間にか、話に呑み込まれていました。山中さんが喜んだ理由が分かる気がします。彼女が好きそうな内容……。

 「彼女の体内には、ナノマシンネットが、かなり強く形成されていたのです。そして、そのネットワークは体外にも、電磁波を通じて繋がっていた。もう、分かると思いますが、くまのぬいぐるみにもナノマシンネットがあったのです。そして、彼女の内部にあるナノネットと繋がっていた」

 そこまでを聞いて、僕はこう尋ねます。

 「話からすると、まだその里佳子ちゃんという子の体内にナノマシンネットは存在しているのですよね? なぜ、消去しなかったのですか?」

 「しなかった… というよりも、できなかったのですよ」

 「できなかった?」

 「はい。彼女の体内に組み込まれていたナノマシンネットは、彼女のメインパーソナリティに喰い付いていたのです。主人格と深く繋がり、不可分の状態になっていた… だから、もしも消去したら、彼女の人格にどんな影響が出るか分からないのです。下手したら、重い障害を背負ってしまう危険性もある。それで、手が出せなかった…」

 なるほど… と、それを聞いて僕は思います。紺野さんが触れて欲しそうじゃなかった理由が納得できました。

 「ただ、くまのぬいぐるみに形成されているナノマシンネットの方はなんとかなりそうだったんですがね。消去しても、彼女の人格に重い影響はなさそう……。それで、そちらの方だけでも消去しようと思ったのですが……」

 「そちらの方にも問題があった?」

 「はい。脅されたのですよ。くまのぬいぐるみ自身に」

 紺野さんは笑います。

 「例によって、コンピュータを使って会話していたのですけどね… もしも、オレを消すのなら、里佳子も無事では済ませないって、そう言われました。私はそんな事ができるかどうか半信半疑だったのですが、危険はできるだけ避けた方が良い。それに、その頃、くまのナノマシンネットに面白い特性があることを私は発見してしまったんです」

 僕が不思議そうな顔をすると、紺野さんはこう言いました。

 「ハッキングですよ」

 「ハッキング?!」

 「このくまのぬいぐるみには、ナノマシンネットのデータを盗んでしまえる特性があるのです。どうやら、周囲の人間の会話の記憶があったのも、その能力によるものだったらしいです。会話している人間の体内にあったわずかなナノマシンを通じて、その会話の記憶をくまは盗んでいた。この特性、利用できれば、かなり役に立ちます。それで、私は取引をしたのですね。存続を保証する代わりに、何かあったら協力をしてくれ、と」

 なんだか、最後まで話を聞くと、少し変な話のようにも思えます。もしかしたら、紺野さんは利用価値があるから、くまのナノネットを退治していないのかもしれない……。或いは、研究対象として、重要だからかもしれませんが。

 そんな僕の表情に気付いたのか、紺野さんはその後で、こんな事を言い訳のようにして言いました。

 「あのくまには、実害らしい実害はありませんしね。それに、重くはなくても消去すれば、里佳子ちゃんに何らかの悪影響がある可能性は充分にあるのですよ」

 「はぁ」

 ……まぁ その判断は、分かりますけども…。でも、きっと、消したくない、という気持ちがあったのも事実なのでしょうね。

 

 ――そして。

 その森里佳子ちゃん… いえ、くまさんと呼ぶべきでしょうか? とにかく、それから僕らは、そのくまさんを迎えに行ったのでした。M市B町、特に中央森林公園の調査に、協力をしてもらう為に。

 話を聞いて、少しは予想していたのですが、森里佳子ちゃんの自宅は、閑静なやや高級そうな住宅街にありました。

 清潔な街並みの中の、ごく普通の一戸建ての家。

 外観だけを見るのなら、模範的な理想家族が住んでいそうな雰囲気です。しかし、前もって予備知識のある僕には、その整然とした印象が却って不気味に感じられたのです。

 ここには、くまのぬいぐるみに人格を半分喰い付かれている女の子が住んでいる。そして、異常なものを許容できない両親は、その扱いに戸惑い、できるだけ避けようとしている……。その困惑と拒絶は、恐らく幼い女の子の心にも伝わっているでしょう。すると、その女の子にとって、この場所は安心できない場所に変わってしまう。

 幼い子供にとって、自分のいる家庭が不安のうずまく場所である事が、どれだけの精神的負担になるか……。

 もちろん、飽くまで僕の想像した筋書きですけども…。

 紺野さんが呼び鈴を押すと、設置してあるカメラでその存在を確認したのか、直ぐに小型スピーカーから声が聞こえました。

 「帰って下さい。里佳子は、あなたと一緒には行きません」

 それは、母親の声でした。

 どうやら、紺野さんは相当嫌われているようです。

 紺野さんは、それを聞くと軽くため息を漏らしました。

 「私が来ることは、前もってちゃんと伝えてあったはずです。里佳子ちゃんにも。そして、彼女はそれを承諾してくれたはずですよ」

 「あなたが連絡を入れたのも、あなたの話を承諾をしたのも、里佳子ではありません。あの、恐ろしいくまのぬいぐるみです」

 「同じです。奥さん、いい加減に受け入れてください。あのくまの存在を。里佳子ちゃんとくまは、深く繋がっていて、もう分けては捉えられないのですよ。そんな風に現実を拒絶していても、彼女にとって良い影響にはなりません」

 母親は紺野さんの説得には耳を貸しませんでした。

 「とにかく、里佳子はあなたとは会いません!」

 そう言って、スピーカは切れます。

 僕はその光景を見ながら言いました。

 「事情を知らなかったら、なんだか、童女を誘いに来た変質者みたいに見えなくもないですよね?」

 山中さんは、それを聞くと困った笑いを浮かべてこう返します。

 「ははは… もし、聞こえていたら、怒られますよ」

 ……それからしばらくは何の動きもありませんでした。紺野さんは玄関の前に立ち尽くしているだけです。僕は、紺野さんはどうするつもりなのだろう?と思っていたのですが、やがて何もしなくてもドアは勝手に開きました。

 続いて、家の中から、「里佳子ー! 行ったら駄目!」という、母親の悲鳴のような声が聞こえてきます。

 そして、ドアがゆっくりと開いたドアの中から、少しだけ憂鬱そうな顔をした可愛い女の子が現れたのです。

 僕はごくりと唾を飲み込ました。

 彼女が、大きな、くまのぬいぐるみ、を抱えていたからです。

 ……あれが、そうなのか。

 女の子は、母親の声には何も答えず、紺野さんに近づいていき、そして、ズボンのはじを掴みました。

 紺野さんはそれを見て、にっこりと笑います。

 「久しぶりだね、里佳子ちゃん… それと、くまさん」

 その時、母親が必死の形相で玄関から顔を見せました。

 すると、里佳子ちゃん…… いえ、その時は既にくまさんになっていたのかもしれません。くまさんは、こう言いました。

 「大丈夫。ちょっと手伝ッタラ、帰って来ルから心配するナ」

 その声は、女の子のものではなく、男性の……、しかも、控えめに見て、中学生くらいの少年の声でした。

 母親は娘のその声と態度の変容を見ると、急速に竦んでしまったようで、動きをとめてしまいます。

 その母親を見て、紺野さんはこう言いました。

 「少しだけ、この二人をお借りしますが、安心してください。不安なことは何もありませんよ。それに、形成されてしまったナノマシンネット。それと上手く彼女が付き合っていく為にも、こういった経験は必要なんです」

 ……この事が必要。

 紺野さんのその台詞が、本当なのか嘘なのか、知識のない僕には判断が付きませんでしたが、それは、なんだか信用してもいいような気がしました。

 結局、母親は抵抗を諦め、紺野さんと里佳子ちゃんが一緒に行くのを、ただ黙って見送っていました。

 車の中。紺野さんは里佳子ちゃんに話しかけます。

 「母親のああいう態度は、少しつらいかい?」

 僕には見分けがつかなかったのですが、どうやら、その時の里佳子ちゃんはくまさんになっていたようです。少年の声で、くまさんは応えました。

 「大丈夫ダヨ。オレは、人間じゃナイんだゼ」

 それを聞くと、少しだけ沈黙してから、紺野さんはこう言います。

 「……君は、確かに元々は、ナノマシン上に発生した霊である訳だけど、今は既に里佳子ちゃんの脳と密接に繋がってしまっている。君は半分はもう人間なんだよ。無理しなくていい……」

 それを聞くと、くまさんは隣にいた山中さんに、無言のまま、ゆっくりと抱きつきました。顔を伏せているので、どうなのかは分からなかったのですが、もしかしたら、少しだけ泣いていたのかもしれません。

 ……ほんの小さな、誰にも気付かれないような場所で、こうして苦しんでる存在がいる。微かに、SOSを発しながら。

 

 紺野さんは真っ直ぐに中央森林公園を目指しました。

 前に山中さんと来た時と同じ様に、東口の駐車場に車をとめます。ただ、何故か、そこから誰も動こうとはしません。なんでだろう?と思って、僕が車の外に出ようとすると、それも止められてしまいました。

 当然、僕は尋ねます。

 「どうしたんですか?」

 すると、紺野さんは静かに答えました。

 「この場所で良いのですよ。星君」

 僕が首を傾げると、山中さんが説明してくれました。

 「このくまさんの能力と、この池のナノマシンネットの影響力の強さを考えると、この場所で十分なんです。 ……というか、この森に踏み込み過ぎると、気付かれてしまって却ってまずい事になるので、ハッキング作業はここで隠れて行うのです」

 紺野さんがそれに続けます。

 「――或いは、既に私達の存在は、敵として彼らに認識されてしまっているかもしれませんからね…… 邪魔される可能性があるのです」

 僕はそれを聞いて不安になりました。

 「邪魔されるって、具体的にはどんな事をされるのでしょうか?」

 「そうですね… まず、気付かれれば防御をされてしまって、ハッキングがやり難くなることは確実です。また、前の時に君がやられたように、脳にアクセスされる事により憑かれて幻を見させられ、下手すると操られる可能性もあります。今回は体内にナノマシンを取り込んでないので、それほどその心配はありませんが、星君のような特異体質の場合は油断はできません。わずかな量でも感応してしまうかもしれない。

 後は、物理的に何か攻撃を仕掛けてくる。これが一番怖いです。相手にとっても最終手段でしょうが、既に操られた状態にある人々を利用して、私たちになんらかの攻撃を仕掛ける事だってできますから」

 なるほど。

 この森に住む人達。

 つまり、ホームレスの人達ですが、彼らは既にナノネットに取り込まれてしまっている可能性があるのです。これ以上踏み込んで、彼らに見つかってしまえば、池の主にもそれが伝わり(そうじゃなくても、気付かれてしまうのでしょうか?)、何らかの妨害を受ける可能性があるのでしょう。

 「まぁ 暴力は、まだ可能性としては薄いと思いますけどね…… 彼らも、ナノマシンネットも、警察を警戒しているでしょうから」

 ――それから、紺野さん達は、妙な装置を車内に設置し始め、僕もそれを手伝いました。今回の僕は、それくらいしかできそうな事はありませんから。

 狭い車内では動きにくかったですが、金属製の洗濯バサミのようなものを、くまのぬいぐるみに取り付けたり、コードをコンピューターに接続したりと、なんとか設置を終わらしていきます。

 「さて…」

 そして、大体の準備が終わったところで、紺野さんは口を開きました。

 「里佳子ちゃん… 良いですよ。くまさんと交代してください」

 紺野さんはキーボードを構え、ディスプレイを睨みます。

 里佳子ちゃんは小さく頷き、「はい」と小声で答えました。……そして、それからは“くまさん”の出番でした。里佳子ちゃんは、カクンと首を折ると動かなくなります。意識の主が、完全に彼女の持っている“くまのぬいぐるみ”に移動をした瞬間でした。

 「オイ、紺野」

 いきなり、くまさんはそう言いました。因みに、顔は伏せられたままです。彼女はくまのぬいぐるみを手で動かし、まるで劇でもやっているかのように、ぬいぐるみを操作してその感情を表現していました。

 「なんだ、コリャ、今回ノこれハ。随分とトンデモネェじゃねぇカ」

 僕らにはナノマシンネットの影響は分かりません。しかし、同じ様にナノマシンネット上の存在 “霊” であるくまさんには、それが分かるのでしょう。

 「池だけじゃネェな。池ガ一番濃いコトは確かだガ、この辺り一帯ニ、ナノマシンネットは広がってるゼ… 薄くだがナ」

 その発言を受けると、紺野さんは尋ねます。

 「調べるのは、難しいですか?」

 すると、くまさんは笑って、「ハッ 気付かレないのだったラ、大きいモ小さいモ関係ねーヨ。むしろ、でかい方ガやり易いかしれネェ」と、そう答えました。

 それから、

 「じゃあ、行くゼ」

 と、声を上げ、くまさんはハッキングを開始しました。くまさんに連結させてあるコンピューター類が、それに呼応してか、一斉に激しく稼動し始めます。

 僕はディスプレイを見てみました。訳の分からない記号の羅列。画面の雰囲気はどちらかというと古臭い感じでした。紺野さんは、必死にキーボードを打っていましたが、僕にとっては意味不明の作業です。

 そんな中、不意に紺野さんが言いました。

 「……君さえ、よければ」

 はじめ僕は、それが僕に対しての言葉だとは思っていませんでした。紺野さんは画面に見入っていましたから、とても僕に向かって言っているのだとは思えなかったのです。しかし、次に紺野さんが僕の目の前に、カプセルを差し出して来たので、その意図を察しました。

 「……君さえ、よければ飲んでみませんか? この世界を、体験できますよ」

 飲む?

 この、カプセルを?

 僕はそれを聞いて驚きます。

 このカプセルは、もちろん、ナノマシンの入ったあのカプセルで、体験できる世界というのは、現状からいって、くまさんがハッキングしている、ナノマシンネットの世界しか考えられません。

 体内にナノマシンを取り入れれば、僕にならばそれが可能なのでしょうか?

 しかし、そうすると、池の主『水神様』の影響を受け、憑かれてしまう危険が大きくなるのではなかったのでしょうか?

 僕は突然に言われて、ゴクリと唾を呑み込みます。

 ですがそれは、僕なんかよりも、全然ナノマシンについての詳しい知識を持つ、紺野さんの意見なのです。或いは、十分に安全だと判断した上で、なのかもしれません。

 もしかしたら、この車の中ならば、外からの電磁波の干渉を受けないのでしょうか? そういえば、紺野さんは僕が車の外に出ようとしたら、それを止めました。

 もちろん、ただの想像ですが…

 しかし、それでも気付くと僕はそのナノマシン・カプセルを受け取ってしまっていました。

 「飲むとどうなりますか?」

 その後で、そう尋ねます。

 「君ならば、この“くまさん”の影響を受けて、ナノネットの世界へダイヴする事ができるでしょうね。どんな世界が待っているかは私には分かりません。なにしろ、私には体験は不可能ですから。それを踏まえた上で、それでも行ってみるつもりがあるのなら、飲んでみてください」

 紺野さんは淡々とそう説明します。

 そうか… と、それを聞いて僕は思いました。

 まだ、未知だから、紺野さんは僕に無理にナノマシン・カプセルを飲ませようとはしなかったのでしょう。前回とは違って。もしかしたら、ここに至るまでその提案を僕にする気すらなかったのかもしれません。

 ――危険の可能性。

 しかし、直前になって、僕に提案をしてしまった。……それは、好奇心に克てなかったからでしょうか?

 ……。

 (好奇心)

 普段の僕ならば、恐らくこのカプセルを飲んではいなかったと思います。しかし、この時の僕は昂揚していました。そして、僕の心の中にだって、好奇心はあるのです。

 覗いてみたい。

 その世界を。

 ………それから僕は、どうしてもその衝動を抑えきれず、ナノマシン・カプセルを、口の中に放り込んでしまったのです。

 

 闇。

 呑んで、どれくらいだったでしょうか?

 多分、五分も経っていないと思います。そのわずかな時間で、僕の視界は徐々に闇にフェードアウトしていき、気付いた時には既に完全に闇に支配されていました。

 何も、見えません。

 いえ、見えない訳じゃない。なにかを、感じます。しかし、それは視覚であって視覚でないものでした。映像のような気はする。しかし、完全にそう呼ぶには、それには大切な何かが欠けている……。

 映像として得られない情報を、夢で補って捉えているような不気味な感覚。嘘を嘘だと分かっていながら信じている。そんな歪な不快感。

 飛んでいるような浮遊感と共に、意識が… まるで、自分の存在が拡散してしまっているかのようでした。

 時間の感覚も曖昧です。

 どれくらいの時間が流れたのかが、僕には把握することができません。もしかしたら、意識不明の状態で、僕は病院に運ばれ、もう何日間も眠っているのかもしれない。或いはその逆に、一秒くらいしか経っていないのかも。

 僕には、そのどちらもが本当に思えました。

 しかし、その全身の感覚が希薄に混沌となっている状態が途切れ、時折、はっきりとした映像と音が、僕の感覚に重なるのでした。

 まるで、映画のフラッシュバックのよう。

 見える場面は滅茶苦茶で、様々な何かの視点を僕は経験しました。視点…。そうです。それは、視覚と聴覚とを持つ何者かの感覚だったのです。その感覚の中に、僕が飛び込んでいるのです。いつしか、僕はそれに気が付きました。

 それは最初のうちは、恐らく何らかの動物である場合が多かったと思います。感覚が僕に馴染みのないものばかりでしたし、視点の位置も人間のそれではありません。地面だったり、空だったり。しかし、そのうちに、徐々に人間のものっぽいものが増えていきます。

 水道。布団。ダンボールの天井。何かの食べかす。雑誌。タバコ。酒。

 そんなものが、視界に映るのです。

 そして、その通り過ぎた映像の一つでした。奇妙なものが、僕には見えたのです。

 なんでしょう?

 すると、そう僕が強く疑問に思った瞬間、感覚は探すように、その奇妙な印象の一点を求め始めます。

 人が見えた。

 たしか、それは人だったはずです。人のように見えました。

 視界が、その印象に合わせて切り替わっていく。

 ホームレス。

 たくさんのホームレスが映ります。

 この森にいる人々といえば、ホームレスたちです。その奇妙な印象を受けた一人も、やはりホームレスであったように思えました。

 幾人かのホームレスの姿が映り、僕が違うと判断するとその都度、切り替わっていきます。やがて、ちょうどその奇妙な印象とピッタリの映像が。

 これだ!

 僕は心の中で、そう叫びました。

 背が低い。

 それはなんとどう見ても、子供。子供のホームレスだったのです。

 子供のホームレスなんて、今の日本に存在していて良いのでしょうか? 恐らく、だから奇妙な印象を受けたのでしょう。

 視点は、上からその子供を見下ろしていて、襤褸切れをいっぱい纏っているその姿は、瞳だけしか見えていません。しかし、その瞳だけで充分でした。それは、子供のものです。

 (僕は、何故か、そう確信していました)

 僕の視点となっている存在は、一体、何者なのでしょうか。

 次に、僕はそれを考えました。

 視点となっているので、当然、その姿は見えません。

 手で、その子供の頭を撫でています。親子? そのような気もします。しかし、それともちょっと違っているような……。なんでか、僕にはその存在が奇妙に気になるのでした。やがて手が、子供の被っている帽子に伸びていきました。どうやら、帽子を取ろうとしているようです。しかし、そこで子供がそれを制しました。帽子を取ろうとした手を掴んでいます。

 そして、

 「見・ら・れ・て・い・る・ぞ」

 そう言葉を。

 まさか、

 ――気付かれてしまった?

 

 そこで、急速に視点は戻りました。

 (僕の元へ)

 目が覚めると、そこは車内でした。もちろん、紺野さんの車です。

 「戻りましたか」

 紺野さんがそう言うと、

 「気付かレちまったナ」

 それに応えるように、くまさんがそう言いました。

 紺野さんは僕を見ます。

 「こっちは、一応、欲しいデータはなんとか、ギリギリで手に入れられました……。星君の方はどうでしたか?」

 僕はそれを受けても何も答えられませんでした。まだボーッとしていて、頭がはっきりとしなかったのです。

 「なにか見ましたか?」

 紺野さんがそう言っくれて、ようやく言葉を纏められました。

 「見ました… なにか、子供のような…。いえ、恐らく、子供でしょう… あれは、ホームレスでした」

 「子供?」

 横から、そう声。

 「子供のホームレスですか? それって、もしかしたら、あの例の藤井さんの依頼主が遭遇したという“ハカバ”なんじゃ…」

 それを言ったのは、山中さんでした。

 ああ、そうか。と僕はそれで思い出します。そういえば、そんな話を聞いていた。

 「取り敢えず、場所を移動しましょう。一応、逃げた方が無難です」

 次に紺野さんがそう言い、直ぐに車を発進させました。怖かったのは、その去り際です。ホームレスが何人か、僕らの方をじっと見ている姿が森の中に見えたのです。

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