第36話「大楠の想いは今も」
北斗宮が創建された地は、益富山という小高い山のふもと、近くには大隈という集落があった。
大隈は現在の大分~福岡~長崎までを結ぶ重要な交易ルート沿いに位置し、交易品の流通で商人たちが大勢押し寄せ、大いに栄えた。
商人や旅人たちは、それぞれの旅程で必ず北斗宮に立ち寄りお参りしていく。
その御利益は商売繁盛から縁結びまで幅広く、人々の尊崇を集めた。
「これからも商売が繁盛しますように!」
「どうか旅の途中、事故に遭いませんように……」
「いい出会いに巡り会えますように」
参拝客がそれぞれの思いを拝殿に向かって唱えると、どこからともなくかわいらしい声が聞こえてくる。
「うんうん。お守りを身に着けていい子にしていたら、きっといいことがあるよ?」
その声を聞いた者はキョロキョロと境内を見回すが、周りに人影は見えない。
「今のは、もしや北斗大明神様のお声では!?」
「七星様ー! どちらにいらっしゃるのですかー!?」
「一度だけでもお姿を。目に焼きつけとうございますー」
七星の噂を聞きつけた参拝客は社務所でお守りを求め、北斗宮は毎日のように賑わった。
そんなにぎやかな様子を、七星は樹齢三千年を超える巨大な大楠の枝に腰掛けて微笑む。
境内ですくすくと育った大楠もまた、延命長寿のご利益があるとして祀られていた。
――北斗宮で祈願すれば、どんな御利益でも叶うらしい。
時代が移り変わってもその噂は途切れることなく、さらに尾ひれをつけて広まっていった。
北斗宮の創建から九百年余りが経過した、西暦1573年。
織田信長が室町幕府を倒幕し、世の中が戦国の時代へと突入すると、名だたる戦国大名が戦勝祈願の御利益を求めて北斗宮を訪れるようになった。
肥前国(現在の熊本県)の武将、龍造寺隆信もその一人だった。
龍造寺隆信は冷酷無比な知将で、一族の繁栄と勝利のためならどんなに卑劣な手段でもちゅうちょすることはない。
そのため龍造寺隆信のことを知っている武将は、彼のことを「肥前の熊」と呼び恐れていた。
この龍造寺隆信には野望があった。
今は表向き、主君の大友宗麟に平伏しているように見せかけているが、近いうちに戦国大名として独立を果たし、武力と冷徹な戦略によって全国統一を果たす。
そのためには神の加護、それも高位の神の後ろ盾を得る必要があると考えた。
そして1578年、龍造寺隆信は家臣たちを極秘裏に北斗宮へと送り込んだ。
しかし、時の宮司に代わり応対した北斗宮大明神、七星の態度はにべもないものだった。
「なぜだ! なぜ我が殿の願いを聞いてくれんのだ!?」
龍造寺の家臣が激しく七星に詰め寄る。
いつもなら微笑みを浮かべている七星だが、このときだけは真顔だった。
七星は家臣たちを諭すように伝える。
「決まってるでしょ。戦に勝つという利己的で独善的な願いは、必ず他の誰かを不幸にして成り立つもの。そんなことに神が力を貸す道理があるというの? いくら御札やお守りをぶら下げていても、御利益は得られないからね」
しかし家臣たちは逆上し、あろうことか神である七星までを罵った。
「貴様は我が殿が敬うに値する神ではない。いや、戻ったら貴様は偽物の神だと申し伝えるまでだ!」
「ついでにそなたたちの主君に伝えておきなさい。民を傷つけるような悪事をしたら、それに与したもの全員に神罰を下しちゃうよ」
「ふん、他領の民など知ったことか! 今日の無礼を覚えているがいい!」
傲岸な龍造寺の家臣たちは、七星に捨て台詞まで吐いて肥後国に帰っていった。
しかし七星はそんな彼らの後ろ姿を哀れみの眼差しで見送った。
龍造寺の家臣たちがそれほどまでに逆上する理由、それは主君である龍造寺隆信に、神の加護が得られなかったことを報告したくなかったからだ。
悪い報告を伝えれば、最悪、自分の首が飛ぶかもしれない。
神への捨て台詞は、まさにその恐怖から突いて出た悲鳴でもあった。
七星はそこまでを見抜いた上で、敢えて自らが嫌われ役となることで、彼らが龍造寺隆信に弁解できる余地を残した。
戦国の世では、自らが仕える主君を自由には選べない。
もし他の主君に鞍替えをしようものなら、見せしめとして人質に取られた親兄弟や妻、子どもたちの命を奪われることもある。
ましてや肥前の熊なら、情け容赦なく実行するだろう。
「これが大事にならないといいんだけど……」
「――七星様、よろしかったのですか? あの家臣たちを怒らせたまま帰してしまって」
宮司のオオサトが心配して本殿に出向き、七星に声をかけた。
「オオサトちゃん。アマテラス様は人の子どもたちに、この世のあり方を託したの。だから人が持つ優しさ、善意を信じましょ?」
七星は早く安寧の世が訪れるように、神だけではなく人間たちも努力することを願っていた。
しかし七星が地上に降臨して数千年、肝心の人間はその期待に応えるどころか、愚かな行為と裏切りを止めることはできなかった。
そして皮肉にも、事態は七星が危惧していた方向へと進んでいく。
龍造寺の家臣が北斗宮を去って一週間後のことだった。
「大変です、七星様――!!」
オオサトが慌てて本殿を訪れ、七星に危機を伝えようとしていた。
しかし七星はオオサトの報告を聞く以前から、すべての事象を把握していた。
「神の社に火を放つとは、愚かなクマもいたものだねえ」
その言葉の通り、北斗宮に火矢を放ったのは龍造寺隆信の軍だった。
北斗宮の位置する大隈周辺は、筑前国(ちくぜんのくに、現在の福岡県北部)に至る交通の要衝であり、軍事上も重要な拠点である。
龍造寺隆信は大友宗麟に反逆の意を示し、筑前国を手中に収めようと、肥前から大部隊を引き連れて大隈に攻め入ってきたのだ。
当然、筑前国を治めていた大友宗麟の軍との戦いが始まった。
龍造寺軍はその行軍の途中、至るところに火をかけ、一帯を焼け野原にしていった。
大隈の街を襲った火矢はまたたく間に家屋に広がり、益富山のふもとに鎮座する北斗宮をも飲み込もうとしていた。
「仕方がないね。アマテラス様との約束を破ることになるけど、氏子たちの命を救うためなら神罰は甘んじて受けましょ」
アマテラスと交わした約束は、人の成長を促すため、直接人間たちに神力を行使しないことだった。
しかしこのままでは火が街全体を飲み込み、大勢の民が死んでしまう。
それだけは何としても防ぎたかった七星は、燃え始めた北斗宮の本殿の外へと出た。
八百万の神の中でも最強の神力を誇る七星が介入すれば、龍造寺軍が何万人いようと一瞬で消し飛んでしまうだろう。
七星の眼下に広がる街のあちこちで、攻め入ってくる龍造寺の軍と街を守ろうとする大友の軍が戦っている。
七星は金色の腕輪から取り出した八星杖を天に向けた。
龍造寺軍の兵士だけに狙いを定めて、大規模な流星を降らせようとした時だった。
(――ここは私が引き受けます。どうか、杖をお収めください)
七星に思念で語りかけてくる声が届いたのだ。
「今の声……彩雲ちゃんじゃないし、高天原の神でもない」
七星はその思念が発せられた地点を振り返る。
「まさか、あなたが……!?」
その声を発したのは、神や人間ではなく、北斗宮に鎮座する大楠だった。
三千年の時を生きながらえた大楠は、ついに神木となり意志を持つまでに至ったのだ。
大楠は再び七星に思念を送った。
(七星様、もう時間がありません。私の隣にいる楠を私から遠ざけ、別の場所に移してください)
「……分かった、大楠ちゃんの子どもを護ってほしいのね」
大楠に頼まれたとおり、七星は子楠を傷つけないよう、神力で土ごと持ち上げて保護した。
すると、奇跡が起きた。
北斗宮の本殿へと迫っていた炎は、大楠の木に吸い寄せられるように方向を変えていったのだ。
街や益富山の火事はたちまち消え去ったが、猛炎を一身に集めた大楠は激しく燃えさかった。
「大楠ちゃん、止めて! 自分に火を集めるなんて……!」
(もう私は十分に長く生きました。あとはその子のことを、お願いします……)
大楠は神術を使って自らを犠牲にし、街を守るつもりだったのだ。
もし七星に真実を伝えていたならば、七星は大楠のためにちゅうちょせずに神力を使っただろう。
だから多くを語らず、七星に子孫を託した。
大火を一身に集めた大楠は黒く焦げていき、青々と茂った葉もすべて燃えていく。
大楠が神術を使って手繰り寄せた火は、通常の雨や水で消えることはない。
七星は涙を流しながら、猛炎を浴びる大楠の生命力に賭けて神力を注ぎ続けた。
「大楠ちゃん、返事をして! 大楠ちゃん!!」
悲しむ七星の脳裏に、穢悪の徒の言葉が蘇る。
(その温情は裏切られる。貴様が考えるほど人間は……いつか貴様は必ず後悔するだろう)
七星はきゅっと唇を噛む。
――戦を起こそうとする者はいつも、その炎の熱さを知らない者なのだ。
――そして戦は、温厚な人すら残酷な化け物へと変えてしまう。
――人間の子どもたちは、いつになったら過ちを繰り返さないようになるのだろう。
そして一夜が明けた。
北斗宮の本殿と街の家屋のいくつかは焼けてしまったが、街を襲った大火は鎮まった。
攻めてきた龍造寺軍も戦果を上げられないまま、筑前国北部へと移動していった。
多くの民の命は、大楠によって救われたのだ。
しかし、その代償として大楠はその根以外は黒く焦げ付いてしまった。
七星は保護した子楠を大楠の隣に寄り添うように植え戻すと、それから毎日毎日、大楠に神力を分け与えはじめた。
それから二年後の1580年。
消失した北斗宮の本殿は、大友宗麟の衰退によって勢力を伸ばした戦国大名、秋月種実の手によって再建された。
新しくなった社殿を前にして、宮司のオオサトは七星に語りかけた。
「七星様、今日も大楠様のお世話ですか?」
「そうよ。継続は力なりって言うでしょ。ほら、見て!」
二年間ずっと、七星が大楠に神力を与え続けた甲斐があって、大楠は枝先に再び緑の葉を蓄えるようになった。
しかし、大楠はなかなか目を覚ましてくれない。
一方、大隈の街と北斗宮に火をかけた龍造寺隆信とその家臣たちは、大隈の大火から六年後の西暦1584年、ついに報いを受けることとなった。
島津家、有馬家の連合軍との戦いに破れ、龍造寺隆信は討ち取られたのだ。
主君が亡くなったと分かると、それまで従ってきた武将は手のひらを返して他の大名に仕えるようになった。
そして龍造寺隆信の親族でさえ、遺体の引き取りを断った。そのことを不憫に思った、とある寺の住職によって、龍造寺隆信の躯は人目につかないようひっそりと埋葬された。
それからさらに二百年の時が経った。
江戸時代の寛政(1789年から1801年)、今度は自然の猛威が大隈の街を襲った。
豪雨とともに相次いで雷が落ちてきたのだ。
街の民たちの危機を察知した七星に、再び語りかける声が聞こえた。
(七星様……七星様……)
「この声、大楠ちゃん! ついに目を覚ましたのね!」
(……今まで……ありがとうございました……)
大楠の思念を聞き取った七星が、大雨もいとわず本殿から境内へと飛び出した。
刹那、稲光と同時に轟音を響かせ、雷が大楠に落ちてしまった。
「大楠ちゃん! 大楠ちゃん!」
駆け寄った七星に、焦げた匂いを漂わせて弱々しく大楠は応える。
(……私はもう、眠ります。七星様と過ごした幾星霜は、本当に幸せでした……)
七星は急いで大楠の幹に手を触れたが、もう大楠の魂はそこには残っていなかった。
大楠の隣には、七星が植え戻してあげたクスの子どもが寂しそうに雨露を滴らせている。
「雷はこの子に落ちるはずだった。大楠ちゃんは、この子をかばったのね……」
土砂降りの雨は七星にも容赦なく叩きつけ、その雨粒は頬から流れるように落ちていった。
七星はこのときから、大楠に神力を与えるのを止めた。
二度にわたってこの街と子孫を守ってくれた大楠を、これ以上苦しめるようなことはさせたくなかったからだ。
この大楠はそれからしばらく形を残していたが、1960年にすべて朽ちて消えてしまった。
しかし、七星は1871年から高天原に戻っていたため、その最期に立ち会うことができなかった。
七星が地上に戻ると、彩雲はちょくちょく七星の様子を見に北斗宮を訪れた。
七星はかつて大楠があった場所をじっと眺めていることが多くなった。
「七星ちゃん、この子楠は元気に育っているね」
彩雲は子楠の大きくなった幹を確かめるように手を当てながら、七星に話しかけた。
子楠とはいっても、芽が出て六百年以上が経った現在では彩雲の十倍以上の背丈がある。
七星はいつものように、にこやかに応じた。
「大楠ちゃんが守ってくれたからね。魂はあるべき場所に還っていったけれど、そのおかげで今も人の子どもたちはこの街で暮らしていける」
「……だけど、肝心の子どもたちはそのことを忘れているのよね」
彩雲は少しだけ寂しそうにつぶやいた。
しかし、七星の笑みは消えることはない。
「子どもたちは、今を生きることで精一杯なの。だから、伝えていかなきゃいけない」
「地上の人々の心が穏やかになるように」
「そしたら、いつか人は他者のためにもご利益を願うようになる」
彩雲がクスッと微笑んで応えた。
「七星ちゃんの場合は、そうしてみせる、でしょ?」
そして二柱は青空のもとであらためて決意する。
「子どもたちが、あなたにもご利益がありますように、って願い合う」
「そんな優しい世界を作るからね」
七星はかつてそこにあった大楠に思いを馳せ、力強く誓った。
(第一部 終)




