第32話「今は名もなき神」
少しだけ時は遡る。
神たちが羽白熊鷲と戦闘を繰り広げていたさなか、武内宿禰は連たちに作戦を伝えていた。
「クマソの連中は、我が軍との間合いを詰めてきている。我々が羽白熊鷲に恐れをなして山を下って逃げてくると考えているのだろう。だが本当に追いつめられているのは奴らの方だ! 圧倒的に有利な高低差から打ち下ろす弓矢の威力を、クマソたちに見せつけてやれ!!」
「おおおーっ!!!」
武内宿禰の号令により、ヤマト軍の弓矢隊が先んじて出陣した。
弓矢隊は大木の陰を盾にしながら矢を下に向けて放つ。
対するクマソも弓で応戦するが、上方に向かって放った矢は威力が明らかに弱い。
ヤマト軍まで届かずに途中で落下する矢も多数あった。
クマソの劣勢がだんだんとあらわになってくると、兵士たちに動揺が走る。
『なぜだ! なぜ羽白熊鷲様は助けに来てくれないんだ!?』
『まさか、負けちまった、なんてことになってないだろうな……』
ヤマト軍の陣から伝令が走り、戦場を駆け巡る。
「弓の神アヤモヒメ様と、力の神タヂカラオ様が、羽白熊鷲を討ち取ったぞー!!!」
その一報を耳にしたヤマト軍の士気はこれまでになく高まり、クマソは総崩れとなった。
『てっ、撤退だー!!』
蜘蛛の子を散らすようにクマソの敗残兵たちは戦場から離脱し、周辺の集落へと逃げていいく。
その一つ、尾浦という地に二十人ほどのクマソ兵がなだれ込み、その後をヤマト軍が追いかけてきた。
飛び交う怒号と混乱の中、尾浦の集落はまたたく間に大混乱に陥った。
そこに運悪く、赤ん坊を抱えて家に帰ろうとしていた母親がクマソと出くわしてしまったのだ。
敗残兵たちは強引に母親から赤ん坊を奪い取ると、追いかけてきたヤマト軍の前で赤ん坊に刀を突きつけた。
『貴様ら、動くんじゃねえ!!』
たった一言のクマソの脅しで、ヤマト軍の兵士たちが一斉に足踏みする。
『一歩でも近づいたらこの赤ん坊の命はねえぞ! 何かあったら、お前たちヤマトが殺したと同じだからな!』
『ヤマトの連中は血も涙もねえから、赤ん坊を見捨てて襲ってくるかもなあ』
子供を奪われた母親は赤ん坊の名を叫びながら近づこうとするが、それをヤマトの兵たちが必死に押し止める。
クマソとヤマトの間で、ジリジリとしたにらみ合いと極限の緊張が続いた。
そんなとき、クマソの兵たちの前を白髪の女性が横切ろうとした。
この集落では余り馴染みのないカラクサ色の帯をしているので余計に目立つ。
『なんだ、おめえも人質になりてえのか!?』
クマソの敗残兵が女性の手首を掴んで強く引っ張り寄せようとしたときだった。
その敗残兵は突然意識を失ったように地面に倒れ、そのままイビキを掻いて眠りはじめてしまったのだ。
隣にいたクマソの兵士は状況を飲み込めず、慌てて倒れた男の目を覚まそうとするが、一向に目が覚める気配がない。
『おい、そこの女! 今こいつに何をしたっ!?』
クマソの兵士たちは白髪の女性に詰問するが、それを意に介さず女は赤ん坊を抱えた男に近づいていく。
『止まれっ! それ以上動いたらっ……!!』
刹那、白髪の女性の目が妖しく赤い光を帯びたとき、再び異変が起きた。
敗残兵たちがその赤い目を見た瞬間、金縛りにあったように指一本すら動かなくなってしまったのだ。
女性は固まってしまった敗残兵から赤ん坊をゆっくりと抱き寄せ、母親に向かって歩いていく。
ありえない光景にヤマト軍の兵たちもただ見ているしかなかった。
白髪の女性は優しげな、そしてどことなく悲しげな表情で赤ん坊を見つめた後、母親にゆっくりと引き渡した。
『気をつけなさい。その子を守ってあげられるのは、貴女しかいないのだから』
「はいっ! あのっ……なにかお礼をしとうございます。どうか我が家でおもてなしをさせてくださいませ」
しかし白髪の女性はゆっくりと首を横に振る。
『……私はもう、行かなくては』
立ち去ろうとする女性にきちんとお礼を伝えないまま行かせてはならない、そう思った母親は丁寧に頭を垂れた。
「この子を助けていただき、本当にありがとうございました。せめて貴女様のお名前をお聞かせいただけますでしょうか」
『……天に背いた私には……もう名乗る資格すら、ありはしないの』
「えっ?」
予想していなかった答えに母親が再び頭を上げると、一瞬だったが女性の姿がぐにゃりと歪んでみえた。
母親が一瞬まばたきをする間に、そこに居たはずの女性の姿は消えてしまっていた。
そんな不思議な光景を目の当たりにしたのは、母親だけではなかった。
「なんじゃ、ワシは夢でも見ておったのか」
「今、何が起こったんだ? 何も思い出せない……」
集落の民たちも夢から覚めたようにお互いの顔を触って現実であることを確かめている。
「よし、
大臣様のところに連行しろ!」
ヤマト軍は抵抗できなくなったクマソの敗残兵たちに次々と縄をかけて捕らえていく。
刹那、集落の上空に七色に光る乗り雲が現れ、地上に着陸した。
神弓を手にして全身を淡い光で包んだ神――彩雲の姿を見て、集落の民たちは次々に両膝を地につけていく。
民たちの中には遠くから羽白熊鷲と戦った彩雲を見ていた者も多くいた。
「射手の女神様……!」
「我らが土地を荒らし回っていた羽白熊鷲を退治してくださった神様」
「私たちの集落をお救いくださり、ありがとうございます。ありがとうございます……」
「子どもたち、みんな無事みたいね」
彩雲は民たちの安否を確認して一息ついた。
彩雲が急ぎこの集落にやってきたのは、因縁浅からぬ神が使っていた神術の気配をこの付近で感じとったからだ。
自らの直感が正しいのか確かめるため、彩雲は集まっている民たちに尋ねた。
「私がここに来る少し前に、別の神が来ていなかった?」
しかし民たちはお互いに顔を見合わせて首をかしげる。
「いやあ、不思議なことが起こったような気がするのですが、よく覚えていません」
「あれは神様? あれ、男だったか女だったかも分からない。幻を見たのか……?」
民たちの記憶は混濁していて、彩雲の期待した答えは誰も持ち合わせていないように思えた。
しかし唯一、赤ん坊を抱きしめている母親だけが勇気を出して彩雲に名乗り出た。
「あのっ、女神様……。私はうっすらとですが、その方のことを覚えております」
「ありがとう。少しでもいいから、覚えていることを教えてちょうだい?」
「はい。その方は……お顔はもう思い出せませんが、クマソから私の赤ん坊を取り返してくださって。その時のお顔はまるで、母親の様でした。いえ、この子の母親は私なのですが……あれ、私はいったい何を申し上げたかったのか……」
彩雲の脳裏には、数千年前の黄泉国で泥人形を我が子と信じ切り、慈愛の微笑みを差し向けている一柱の女神の姿が浮かんだ。
「ううん、教えてくれてありがとう。それだけで十分よ」
そして周りを囲むように集まった民と子どもたちの笑顔を見て、彩雲は悟る。
(みんなが笑顔でいられるのは、きっと貴女のおかげね。サグメさん――)
彩雲は別れ際に、集まった民たちに加護の祈りを唱えると、乗り雲に乗って他の神たちと一緒に高天原へと昇っていった。




