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第29話「羽白熊鷲」

 彩雲と七星が全国を廻り始めてから、数千年が経過した。

 その間、二柱とも身長がずいぶんと伸びた。

 人間でいえば十五歳くらいだろうか、顔立ちもずいぶんと大人びてきている。

 もちろん二柱の美しさ、そして神力の伸びしろは留まるところを知らず、いまだに成長まっさかりである。

 この幾星霜、二柱は様々な戦いを通じて人々との交流を育んできたわけだが、それらはいずれまた語る時が来るだろう。


 ヤマトの国はアマテラスの直系の子孫が国を治める時代に入り、皇紀868年を迎えた。

 皇紀とは初代天皇として知られる神武天皇が即位した年から数える和暦である。

 西暦に660を足すと皇紀になるので、覚えておくといいだろう。


 この年の春のとある一日、彩雲と七星は高天原の山奥で天然の温泉に入って久しぶりにゆっくりとくつろいでいた。

 この時代の人間たちは男女の区別なく温泉に入っていたが、高天原では男神(おがみ)湯と女神(めがみ)湯は別々に分けられている。

 湯船の真ん中にある大きな岩に背をもたれかけて、七星は背を伸ばしてからとろけるように脱力した。


「あー、ここはいつ来てもいいねえ」


「このお湯の温度がちょうどいいのよね。でも、もう弥生月だというのに今年は少し寒いのかな」


「そうだね。でもこのくらい寒いほうが、温泉が気持ちよく感じるよねー!」


 二柱が極上至福のひと時を過ごしていたところに、鶴の神使が上空からひらりと舞い降りてきた。


(アマテラス様からの伝言。彩雲ヒメ、七星ヒメ、今すぐ高天原に来てちょうだい! ちょうだい!)


 彩雲は神使がなんだか慌てているように見えた。


「アマテラス様のご用件、急ぎなのかな? それにしても、あの神使たちはどうしていつも私達の居場所が分かるんだろう?」


「もしかしたら、何かの匂いを辿って来てるんじゃない?」


 そういうと七星は自分の二の腕をクンクンと嗅ぎはじめたので、彩雲は目を丸くしておなじように匂いがないか嗅いでみた。


「いつもきれいに清めてるつもりだけど、そんなに匂うのかな……」


「やだなあ。冗談だよ、彩雲ちゃーん!」


 彩雲はまた七星にしてやられたと思ったが、悔しいので顔には出さないように平静を装う。

 悪意に敏感なはずの彩雲が七星の冗談によく引っかかるのは、七星にまったく悪気がないせいだ。

 七星は彩雲にずっと笑っていてほしいと願っている、心優しい女神なのだが。


「その手の冗談は、二百万回くらい聞いてるから分かってたもん! さあ、早く上がってアマテラス様のところに向かいましょう」


「にしし。ではそうしましょ」


 七星はニコリと屈託なく笑う。

 二柱はざぶりと湯船から上がると、素早く衣を羽織って高天原の宮殿へと向かった。



  ◇  ◇  ◇



 時は弥生時代の末期。

 化け物が人間を襲い連れ去っていると臣下から報告を受けた第十四代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、軍を引き連れて九州の筑前国(ちくぜんのくに、現代の福岡県)を訪れた。

 しかしその行軍の途中で、大事件が発生してしまう。

 三月九日、仲哀天皇は巫女でもある神功皇后を通じて神託を授かったが、九州を牛耳る野盗、クマソの討伐より三韓征伐を優先せよ、とのお言葉を信じようとせず、神に対して不遜な態度を取ってしまったのだ。

 直後に仲哀天皇は息を引き取ってしまい、神は皇后のお腹の中にいる赤ちゃんを次の皇子(おうじ)として宣言した。

 この仲哀天皇の崩御はすぐには公にされず、もがり(遺体を安置する建屋)でお祓いをされることになったが、天皇が神罰を受けて亡くなったという衝撃はヤマトの軍に少なくない動揺をもたらした。


 そして時は三月十七日、時刻は夜八時過ぎのことだった。

 陽は完全に沈んだはずだが、雲に覆われた空だけがやけに明るく、暗い山林との対比は不気味さを感じさせた。そして春風にしてはやや強い風が吹いていた。

 その風は木々をすり抜けて、山林の中に陣取られたヤマトの軍勢の休憩所にも容赦なく吹き付けた。

 刹那、棒を組み合わせたやぐらに柿渋で染められた布を覆いかぶせただけの簡素な天幕から、藁で編んだ笠をかぶった高貴な女性が顔をのぞかせる。

 女性は配下の者を尋ねて声をかけた。


「――誰か。誰かおりませぬか?」


 その風に化け物が発する邪気がほんの少し混じっていることを、この女性だけが察知したのだ。

 この女性こそ、夫である仲哀天皇亡き後、ヤマトの執政を引き継いだ神功皇后(じんぐうこうごう)である。

 神功皇后という名は尊称であり、本名を気長(おきなが)足姫尊(たらしひめみこと)という。

 幼い頃から聡明で、武芸にも優れた才能を有していて、特に弓の腕前は男性でも顔負けの技量を持っていた。

 彼女は祖先である神の血を濃く受け継いだことから、アマテラスをはじめとした神々から神託を授かることができ、巫女としても極めて有能であった。


「――神功皇后様、お呼びでしょうか?」


 ガッシリとした体躯の武人が神功皇后の呼びかけに応じ、すぐに駆け寄る。

 皇后はその姿を見て、安堵の表情を浮かべた。


武内(たけうちの)宿禰命(すくねのみこと)。今、風を伝いに悪しき気配を感じました。この地で……あの化け物が出るかもしれません。今夜のうちは篝火を焚いて、周辺を警戒するよう伝えてください」


「ははっ、御意にございます!」


 神功皇后が信頼を寄せる大臣、武内宿禰もまた、人間でありながら神の血を色濃く受け継いだ稀有な人物である。

 西暦84年生まれの武内宿禰は当時すでに124歳と極めて高齢であったが、見かけはまだ三十代半ばで壮健であり、筆の毛先のような太いひげを二本蓄えていた。

 皇后を護る軍は武内宿禰を含めた一人ひとりが剣や弓の扱いに優れた精鋭で、大陸から伝来したばかりの鉄製の武器が全員に与えられていた。

 鉄の剣や鉄斧(てっぷ)は、丈夫な木に磨いた石をくくりつけた磨製石器や打製石器といった従来の武器と比較して、段違いの破壊力と耐久性を兼ね備えている。

 この皇后護衛軍こそが、当時のヤマトで最強の部隊だった。

 間もなくして、見張りが皇后の陣に一目散に走り、皇后と武内宿禰に大声で報告した。


「出ましたっ、化け物です――!」

「空、宙をものすごい速さで飛んでいますっ!!」


 その報告が終わるやいなや、人らしき一体の白い影が皇后の陣の真上を駆け抜けていった。

 一見、化け物は人間のような風貌ではあるが、白く大きな羽を背にまとい、その両手には熊のような鉤爪を宿している。

 地元の民たちが『羽白熊鷲(はじろくまわし)』と呼んで恐れていた化け物だった。

 羽白熊鷲は空高く飛び、上空から一気に降下して護衛軍の兵士たちを急襲してきた。


「う、うわーっ!!!」


 羽白熊鷲の鋭い爪は、兵士たちの鉄製の鎧を安々と切り裂いていく。

 ヤマト最強を誇る護衛軍の兵士ですら、この化け物の前には赤子も同然だった。

 羽白熊鷲の魔の手が神功皇后に迫ろうとしていたところを、武内宿禰が羽白熊鷲に剣で斬りかかった。


「キエエエィ!!」


 気合い一閃するが、羽白熊鷲は羽をはばたかせて素早く後ろに飛び退いた。

 その風の勢いで神功皇后がかぶっていたワラの笠がはらりと舞うように飛ばされ、その美しい容貌があらわとなった。

 護衛軍全員の視線を釘付けにした羽白熊鷲は、宙に浮かんだまま護衛軍を嘲笑する。


『弱い。弱いのぉ人間どもよ。これからこの筑前の地(現在の福岡県筑前町周辺)はすべて羽白熊鷲様のものだ。みかどの一族が神の末裔とは言っても、もはやその力は失われたも同然。ならばここで、全員の首をもらっておくとしようか!?』


 それを聞いて武内宿禰は部下たちに指示を飛ばす。


「すぐに亀甲の陣形を張って皇后様をお守りしろ! 前列に大盾を構えい! 後列の者は大槍で近づく敵を突くのだ!」


 武内宿禰が出した指示に、護衛軍その数三百が一斉に陣を形成した。

 鍛え上げられた兵士たちの練度は高く、武内宿禰の檄により護衛軍は落ち着きを取り戻したようだ。

 すると羽白熊鷲は上空をくるくると旋回しはじめた。

 攻撃するでもなく、逃げようとしているわけでもなく、ただ一定の距離を保ちながら敢えて自身の存在感を誇示しているようだ。


「私に矢を召しませ――」


 そういって神功皇后は部下に矢を持ってくるように指示した。

 神功皇后は弓の名手でもあり、護衛軍三百名の中でも最も優れた技量を有している。

 長弓を構え、部下が差し出した矢筒から矢を三本取り出すと、その三本ともを同時に弓につがえた。

 そして羽白熊鷲に向かってこう言い放った。


「この世の者ならざる化け物よ。おまえが行くべきは黄泉国。早々とこの地から去りなさい!」


 直後に神功皇后が放った矢はすべて羽白熊鷲を捉えていたが、羽白熊鷲は矢が命中する寸前に空中でひらりと身を翻し、すべてかわしてしまった。


『クッハッハッハッ! 遅い。遅すぎて、矢が止まって見えるわ!』


 その時、亀甲の陣の後方から叫びにも似た声が発せられた。


「く、クマソが現れました!!」


 クマソとは、九州の地で天皇による統治に反対する人間たちの部族だ。

 護衛軍に比べれば鉄製武器の数や兵士たちの練度は劣るものの、地の利を生かした戦術と数の多さとで護衛軍を苦しめていた。


「なにいっ!? こんなに近くまで接近されていて、気づかなかったとはっ……!!」


 クマソは亀甲の陣形に対して、距離を保ちながら火矢を浴びせかけた。

 油をたっぷりと染み込ませた矢先から盾に火が燃え移り、鉄壁を誇る亀甲の陣は瓦解寸前となった。


「羽白熊鷲は敵が近づくまでの囮だったか! 撤退っ、全軍撤退だ!!」


 羽白熊鷲の高笑いを耳にしながら、武内宿禰は山中の陣営を放棄し、屈辱の敗走を選択せざるを得なかった。

 護衛軍は惨敗を喫し、ますますクマソを活気づかせる結果となってしまった。

 対するクマソの兵士たちは、羽白熊鷲を囲んで久しぶりの勝利に酔いしれていた。


「羽白熊鷲様、流石のお強さでございます!」

「まさに敵なし。天に代わってこのヤマトの国を治めるのは、羽白熊鷲様のみにございます!」


 羽白熊鷲は盃に満たす酒をぐいぐいと飲み干していく。


『だから言ったであろう。この俺と組めばヤマト、そして神すらも恐れることはないと!』


 羽白熊鷲は、現代の日本では「天狗」という妖怪の先祖に当たる。

 普通の人間では全く歯が立たないほどの怪力を誇り、背中の羽で自由に空を飛ぶことができる。

 さらにこの妖怪は、神が神力(しんりき)を使って奇跡を起こすように、妖力という不思議な力で様々な術を使うこともできるのだ。

 自尊心が強く、支配されることを極端に嫌う羽白熊鷲が、天皇や皇后の命令に従わなかったのは想像に難くない。

 その隠された野心は増長しつづけ、ついにクマソと反乱軍を結成するに至ったのだ。

 羽白熊鷲の野望はヤマトの支配にとどまらず、高天原までをも標的に捉えようとしていた。

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