第2話「巫女との邂逅」
神はその出自により天津神と国津神に区分される。
天、つまり高天原に住まう神々のことを天津神、そしてイザナギとイザナミによる国土創造以来、葦原中津国を治めていた神々を国津神と呼んで区別していた。
今回のワカヒコの任務は、国津神から葦原中津国を禅譲してもらうことだ。
そのためには国津神のトップ、オオクニヌシと話をつけなければならない。
ところで、天津神と国津神を見分ける方法だが……とても簡単だ。
天津神の髪色は総じて白髪で、国津神は黒髪だから。
「出雲に降りるはずだったのに、なぜか随分と離れたところに来てしまったな……」
ワカヒコが降り立ったのは海が間近に見える切り立った崖、高台だった。
大国主神がいる出雲国まではかなり距離がありそうだ。
国津神が治めているとはいっても、地上ではまだ悪鬼や魑魅魍魎が跋扈している。
よくよく考えれば神弓を手にした勢いのまま、準備もろくにせず来てしまったことは否めない。
「俺にはこの神弓があるんだ。何が出てきても大丈夫……だよな?」
弓を背にして気持ちを奮い立たせて歩いているうちに、陽が傾いて空が燃えたように色づいてきた。
周囲は山あいの小道で見通しも良くない。
もう間もなく日も暮れて、夜になってしまう。
「困ったな。今晩泊まる場所を早く探さないと……」
最悪の場合、野宿も覚悟したワカヒコであったが、沈みかけた太陽、その西の方角に人影を見つけた。
ワカヒコは話をするため近づこうと思ったが、相手の方から小走りにワカヒコの方に駆け寄ってきた。
相手は女性であった。祭祀に用いられる上質な服に、カラクサの実で染められた黄色の帯を身に着けている。
「もしや貴方様は……アメノワカヒコ様ではありませんか!?」
「ええ、そうですが……貴女は?」
「私は天佐具売。天津国で占術を学び、この葦原中津国で修行を続けている巫女でございます。貴方様が高天原から降られると聞き、機会があればお仕えしたいと考えておりました」
「地上で最初に会ったのが天津神とは、これもアマテラス様のお導きかな。ところでサグメ殿、どうして私に仕えたいと思ったのです?」
質問しながら、ワカヒコはもう沈みそうな夕焼けを背に女神の容姿を確認した。
髪色は全体的に白いが少しだけ灰色が混じっている。
眉は細く、口元のほくろが特徴的だ。
表情に起伏がなく落ち着いた雰囲気から察するに、歳は自分よりかなり年上だろう、とワカヒコは考えた。
どことなくこれまで会ってきた天津神とはどこか違う雰囲気をまとっているのは、巫女だからかもしれない。
天佐具売は両手を組み合わせ、胸の前に突き出して語り始めた。
「ワカヒコ様の声価は高天原だけでなく、この葦原中津国まで届いています。そんな方にお仕えしたいと思うのは必然ではないでしょうか。差し出がましいとは存じますが、葦原中津国の厳しい環境で生き延びてきた私めの経験が少しでもお役に立てればと」
ワカヒコは天佐具売の話を聞き、彼女の申し出を受け入れることにした。
「サグメ殿は善き神でいらっしゃるようだ。心強いこと、この上ないです」
「……ありがとうございます。早速ですが、もうじき夜闇が訪れます。実はこの近くに私がお世話になっている一軒家がございます。ワカヒコ様さえよろしければ、私がご案内いたしましょう」
「それは助かります。それではサグメ殿のお言葉に甘えまして……案内をお願いします」
「ワカヒコ様。私のことは呼び捨てで構いませんよ。どうぞ、今後はサグメとお呼びください」
「いやー、あっはっは……」
側仕えとは無縁だったワカヒコはどうサグメと接したらよいかわからず、愛想笑いでごまかした。
暫く歩いているうちに、いよいよ山道に入る手前に差し掛かった。
先導していた天佐具売が振り返りワカヒコに告げる。
「ワカヒコ様、私が事前に本日の運勢を占いましたところ、吉凶が拮抗しておりました。化け物が襲ってくるかもしれませぬ」
「なんと。しかしそうと分かっていれば、私の弓で対処もできましょう。案ずることはありませんよ」
「頼もしいこと。その時は、お願いいたします」
山道は起伏が激しく、生い茂った木々で視界も限られている。
夜が訪れれば、月の明かりも届かない常闇になってしまうだろう。
ワカヒコはサグメの宣託に警戒を強めながら歩いていると、一瞬ではあったが右奥の暗闇に赤く四つの光が動くのが見えた。
刹那、光の方向からワカヒコを狙ってムチのような液体の糸が飛んできた。
ワカヒコはとっさに体を地面に回転させて糸を避ける。
糸からは粘りとした液体が垂れ落ち、地面をジュワリと溶かした。
「くっ!? 何奴!!」
『キシャシャシャシャシャ――』
腹部を小刻みに震わせ、本来は持たないはずの発声器官から不気味な振動音を発しながら暗闇から現れたのは、ワカヒコの身長を上回る大きさの蜘蛛だった。
「ワカヒコ様! あれは神すらも喰い殺すという土蜘蛛です!」
背中越しにサグメの慌ただしい説明を聞きながらも、ワカヒコの視線は一瞬たりとも土蜘蛛から離れることはない。
土蜘蛛はワカヒコの周囲に群生していたモウソウダケを高速に移動しながら糸を吐き出し、あっという間にワカヒコだけを糸の檻に囲む。
土蜘蛛と対峙するワカヒコはアマテラスより下賜された天之麻迦古弓を背中から手にすると、これまで感じたことのない不思議な感覚につつまれた。
神弓がワカヒコの神力をわずかに吸い取り、光の矢をつがえたのだ。
弦を引くとなぜか土蜘蛛は蛇に睨まれたカエルのように動かなくなった。
「これは……!?」
ワカヒコが狙いを定めて放った矢はこれまで放ってきたどんな矢よりも速く、目視できないスピードで土蜘蛛を貫いた。
矢筋の周囲の組織を削り取られた土蜘蛛は、体液をこぼしながら多足をピクピクと痙攣させたが、やがて動かなくなった。
「ふう。こんな化け物が徘徊しているとは、葦原中津国の平定などまだまだ先だなぁ」
安堵のため息をついたワカヒコにサグメが声をかける。
「お見事でございます。このサグメではワカヒコ様の動きに全くついていけませんでした。そのあ……弓で化け物を退治なさったのですか?」
「そうですよ。糸が飛んできたときは少し驚いたけれど、さすがはアマテラス様から授かった弓だな! 威力が違うや」
「……もうすぐ日が完全に落ちてしまいます。先を急ぎましょう」
そういって再び道案内を始めたサグメについていくと、サグメが言ったとおりポツリと建った一軒家が現れた。
だがその家はワカヒコの想像以上に豪華な造りで、なんだかとても高貴な神が住んでいるように感じた。
不思議に思ったワカヒコが尋ねる。
「この家はサグメさんの家なのですか?」
「いいえ。以前、修行中の身であった私が一宿一飯の恩義に預からせていただいた、国津神の別宅でございます」
国津神の家と聞き、ワカヒコは様々な思索を巡らせた。
これだけの大きな家だ。もしかしたら名のある国津神かもしれない。
今後自分が葦原中津国を平定するためには、国津神とも和睦を図っていかねばならないだろう。
こちらにきて早速サグメ殿とも会えたし、これもいい機会かもしれない。
そう考えたワカヒコは先ほどとは違った緊張を持って鳥居型の門をくぐった。
家の中からは煌々と明かりが灯っているのが見える。
サグメが玄関越しに「ただいま戻りました」と声を掛けると、戸がするりと横に開いた。
「まあ、サグメさん。おかえりなさい」
その時、扉から顔を覗かせた女神の顔を見た瞬間、ワカヒコの心臓は激しく鼓動した。
つやつやとした黒髪にキラキラとした瞳と長いまつげ。
少し幼さを残した顔立ちは女神という類まれな存在という事実を差し引いても、恐ろしいほどの美貌と形容してまだ足りない。
この女神を前にして平常でいられる方がどうかしている、とワカヒコは思った。
つまるところ、一目惚れをしてしまったわけだ。