第23話「夫婦神の絆」
意識を取り戻したイザナギはゆっくりと目を開けた。
あれから何秒、何分経ったか正確ではないが、それほど長時間ではないように感じられた。
視界は暗闇で何も見えないが、おそらく黄泉国のどこか別の場所だろうと察しが付いた。
依然としてジメジメとした空気、鼻腔を不快に刺激する穢れた臭いが変わらなかったからだ。
周囲の音に耳を澄ますと、遠くの方から誰かの泣き声が聞こえてきた。
イザナギがその声の方向に歩いていくうちに、目が慣れてきたせいか、ぼんやりとではあるが周囲が見えるようになってきた。
そこには背中を丸めシクシクとして鼻をすすっている女性が独り座り込んでいる。
「そなたはどうして泣いているのだ?」
イザナギが問いかけると、女性は押しつぶしたような低い声で答えた。
「愛する人に裏切られたのです。もう許すことができません」
「そうか。しかし泣いてばかりいても、解決するものでもあるまい」
そう言いながらも、イザナギは少し前まで自身が同じような境遇にあったことを思い出した。
妻イザナミを失った日から今日までずっと暗闇に閉じ込められていたようだった。
いや。正確には自分自身で心の壁を作っていたに過ぎない。
そう考えている内に、微動だにしない女性は顔を伏せたまま告白を続けた。
「そのとおりです。かつて私が愛していた者……。いや、我を裏切った者をこの手で始末しなければ、気が晴れませぬ」
女性の口調は、だんだんと狂気を孕んだ声色へと変化していく。
変化に気が付いたイザナギは、その女性が誰なのかを確信した。
「その復讐の相手を殺せば、そなたは前に進めるのだな?」
「ああ、そうだとも。そうすれば、我はようやく、ここから、解放されるだろう」
「ならばイザナミよ、その前に、今度は私の話を聞いてくれないか――」
イザナギが呼びかけたとおり、女性は変わり果てたイザナミだった。
立ち上がったイザナミが手にしている剣は刀身が禍々しく曲がりくねり、神をも殺す呪力が宿っていた。
邪悪な笑みを浮かべたイザナミからは、以前の明るく快活な表情を想像することはできない。
イザナミは、かつて仲睦まじく手を取り合い、そして今では心の底から憎んでいるイザナギに、邪剣を振り上げた。
しかし、イザナギは剣を避けようとはせず、すべてを受け入れて語りかけた。
「私が愛する妻イザナミよ、すまなかった」
その一言でイザナミの動きがピタリと止まる。
イザナギはなおも語りかけることをやめない。
「そなたをそのようにさせてしまったのは、すべて私のせいだ。私はここにそなたを置き去りにして逃げ出してしまった。あのとき、そなたの手を握って一緒に帰ることができたなら、どんなに良かっただろう。私は何もかもを失った。だが、そんなことはそなたの辛さに比べれば些細なことだ。今更と思うかもしれないが、私はそなたと一緒にいたい。一緒にいてほしい。もう一度、ここからやり直してはくれまいか」
思いの丈を一気に伝えたイザナギは、腐って肉が剥がれたイザナミの左手を躊躇せずに握りしめた。
そして頭を垂れて奇跡を祈った。
「そんな迷い言など、この我に通じるとでも思ったか!」
イザナミはイザナギの言葉を否定したが、振り上げた邪剣は微動だにしない。
その時、イザナミを取り囲んでいた黒いモヤが段々と白い光に変化していった。
先ほどとは全く違う、優しげな声でイザナミは語りかける。
「私は、私も、ずっとずっと貴方を待っていました……」
イザナミの右手から邪剣がこぼれ落ち、乾いた音を響かせた。
イザナミの顔は亡者と女神の表情に交互に変化している。
『信じられん――我の術が、解けかかっているだと!?』
「私達は最初から一緒だった。あの時からずっと――」
『もう後戻りはできないのだぞ。できるわけがない!』
「そんな必要などありません。ここから再び始めればよいだけです」
亡者の声と女神の声が交錯するように自問自答を続ける中、イザナギ、イザナミの二柱は光に包まれ、その姿は太古の昔、まだ地球がグツグツと音を立てて煮えたぎっていた時代へと戻っていた。
二柱は天上で出会い、天の御柱を回って婚姻の儀式を交わした。
夫婦となった国土創造の神は手を取り合い、共に祈る。
「天と地の神々よ。この地に再び安寧を取り戻すため、再び私達に力を――」
その願いが八百万の神々に通じたのだろうか。
寄り添う二柱に様々な方向から光が集まり始め、やがて大きな大きな球体となって、ぱっと弾けた。
イザナミに取り付いていた影が分離し、イザナミは本来の姿を完全に取り戻した。
そしてイザナギの手には天地創成の原始の槍、天の沼矛が宿っていた。
闇の影は慌てふためき、その現実を否定する。
『馬鹿な、バカなバカなバカなバカな! こんな未来分岐など、起きるはずがない!!』
神の奇跡を否定する闇の影に、イザナギが強く反論する。
「自らが望む未来は待つものではない。自らが、作るものだ!」
闇の影は形勢が不利と判断したのか、次善の策として異空間に赤き大蛇を呼び寄せた。
『ならばやってみるといい。この貴様らの究極の敵、となろう!』
大蛇は夫婦神を見るとちょろりと長い舌を出してみせた。
『大人は不味くて好かんが、神はまだ喰ったことがなかったな。どんな味がするのか、楽しみだ!』
大蛇は猛烈な速度で夫婦神に近づき、大口を開けて襲いかかる。
イザナギは、その大蛇からかすかに神力を感じ取った。
「人間への恨みで常世から舞い戻ってしまった、不憫な神使か。天の沼矛よ、その穢れを祓い給えっ!!」
イザナギが大蛇に向かって天の沼矛を振り上げると、凄まじい竜巻が巻き起こった。
この神器の力を持ってすれば、如何に巨体とはいっても大蛇を両断することなど簡単なことであった。
そして、これまでの荒々しいイザナギのままだったなら、間違いなく力でねじ伏せたであろう。
しかし化け物となってしまった蛇の不憫を慮、別の方法をとることにしたのだ。
竜巻に飲まれた大蛇は巨体をうねらせながらぐるぐると宙高く舞い上がった。
上空で蛇の全身を覆っていた赤色の猛毒は穢れとともに取り払われ、神使だった頃の白蛇へと戻っていく。
やがて竜巻が収まり、すっかり清められた小さな白蛇は地面にふわりと落ちてきた。
白蛇は最期に本来の心を取り戻し、二柱に一礼すると光の中に包まれて消えていった。
大魔王の束縛から外れ、自ら常世へと向かう選択をしたのだ。
その混乱に乗じて、闇の影もいつしか姿をくらましていた。
イザナギとイザナミは見つめ合い、短い言葉を交わす。
「さあ、参りましょう」
「ええ、参りましょう。この負の連鎖を、終わらせるために――」




