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第12話「うごめく深淵」

 ワカヒコが神使のキジを天の羽羽矢で射殺したのを見届けたサグメは、平静を装ってワカヒコの屋敷を後にすると、一目散に走り出した。

 みすぼらしい離れの自宅を通り過ぎ、南へとあぜ道を、山道を駆けていく。

 真っ赤にした両目からは大粒の涙をこぼしながら。

 ついに犯してはならない一線を越えてしまったことを、心の底から悔やみながら。

 ――すべてを投げ捨てた対価として得ることになる存在に思いを馳せながら。


 途中で休み休み何日もかけてサグメが到着した先は、黄泉比良坂という地だった。

 木々が生い茂るだけの山あいで人でさえ近くには誰も住んでいないのは、この坂を登った先から漂う異様な空気を本能的に感じ取っているからかもしれない。

 そう。ここは生者が住まう葦原中津国と、死者が行き着く果ての国とを隔てる境界線なのだ。

 サグメは朽ちた門を通り、汗ばみながらも坂を登っていく。

 やがて右手に大きな岩が見えてきた。

 勝手を知ったようにその岩の裏側に回り込むと、サグメは山肌に空いた狭い洞窟の穴にすっと身をくぐらせた。

 洞窟の中は真っ暗で、当然篝火など焚かれていない。

 しばらくすると誰が灯したわけでもなく、手前から奥の方へと壁づたいに紫色の炎がぽつり、ぽつりと宿っていく。

 ゆらゆらと不気味に揺れる炎はまるでサグメの帰還を歓迎しているようだ。

 そして不思議なことに、決して洞窟の内部が明るくなったわけではない。

 壁も、天井も、地面すらも暗闇に覆われたまま炎の目印だけを頼りに、サグメは無言で奥へと歩き始めた。

 それから数時間を掛けて暗闇の下り坂を歩き続けたサグメの目に、ようやく明かりが見えてきた。

 しかしそれは太陽の光ではなく、広大な地底空間の至るところに川のように流れている真っ赤な溶岩だった。

 宙を見上げれば天井は見えず、ここが地上だと錯覚させるほどだ。

 唯一の違いは、地底の空は星や月が存在しない真の暗闇だということくらいか。

 サグメはさらに奥へ進み、大きなマグマの湖の前までたどり着いた。

 湖の中央には大きな屋敷と一体となった浮き島があり、そこに渡るための溶岩の橋が架かっている。

 サグメは橋を渡っていると、生物が住むことなど到底できないマグマの中から大きな何かの背びれがいくつもうねっているのが見えた。

 浮き島にたどり着き、屋敷の前でサグメは腰を深く折り曲げ丁寧な挨拶をした。


「アメノサグメ、ただ今戻りました」


 その拍子、額から一筋の汗がつうと流れ落ちる。

 それがグツグツと滾る地底のマグマから放たれる圧倒的な熱量によるものではないことは、恐怖で震えそうなサグメ自身がよくわかっていた。


『――入るが良い』


 どこからともなくサグメをいざなう声が聞こえた。

 サグメは声に従い屋敷の中へと入っていく。

 屋敷の中では部屋が細かく別れていて、機を織る者、刃を研ぐ者が黙々と作業をしていた。

 高天原の光景と大きく異なるのは、それらの者たちが神ではなく魑魅魍魎であることだ。

 黄泉国に侍女として使える黄泉醜女(ヨモツシコメ)という恐ろしい小鬼たちが、通りがかったサグメを一瞥すると再びなにかに取り憑かれたように作業に戻っていた。

 サグメは複雑な屋敷の通路を迷うこと無く、屋敷の一番奥へと歩を進めた。

 奥にあったのは何かの儀式を行うための祭祀場だった。

 サグメが祭祀場の中に足を踏み入れると、入り口の扉がズルズルと音を立ててしまっていく。

 祭祀場の奥にはサグメの身長の二倍ほどもある大きな石碑が祀られていた。

 石碑の前でひざまずいたサグメは両手を合わせ、頭を深く下げて懇願する。


「黄泉国大魔王様、お言いつけどおりワカヒコ様に天の羽羽矢で――神使のキジを撃ち殺させました」


 しばらくの沈黙の後、石碑から聞こえてきた不気味な声が祭祀場全体に響き渡る。


『思惑通り、タカミムスビの手によってワカヒコは死んだ。本来であればワカヒコの魂は私のもとに来るはずだったが……』


「それでは、お約束どおり――」


『ああ。約束は約束だから守らねばな。だが、お前は致命的な失敗を犯した』


「えっ!? 私は大魔王様の下命に従い――」


『サグメよ。お前は邸宅に自ら張り巡らせた結界内に、ワカヒコの娘が隠れ潜んでいたことに気が付かなかったのか』


「まさか、そんな――」


『ワカヒコの娘は神弓を持ち去ったばかりか、挙げ句の果てには遣わした悪鬼・天邪鬼までをも討ち取ってしまった。我が完璧なる秘策は、お前の不注意で成就しなかったのだ』


「でも……、それではお約束が――」


 サグメは石碑にすがりつき懇願する。

 その時、石碑からおぎゃあという鳴き声が聞こえた。

 その声にサグメの眼は涙で溢れて止まらなくなった。


『病で息を引き取った、かわいそうなお前の赤ん坊……愛しい息子を黄泉帰らせたいのであろう?』


「――は、はい! もちろんでございます!!」


『今は私の力で、死の一歩手前で踏みとどまらせてはいるが、このままでは魂より先に肉体が腐ってしまうぞ』


 その一言にサグメの体がビクリと反応する。

 石碑は精神的にサグメを追い詰めたかと思えば、今度は甘く囁くような声で語りかけた。


『お前がつらい立場なのは重々承知しておる。しかしお前の息子を助けられるのはお前だけなのだぞ? よいか。今度こそワカヒコの娘から弓を取り戻し、ここに持ってくるのだ。成功のあかつきには、お前の何よりも大切な子供と一緒に黄泉から帰すことを許してやろう』


「……しかし大魔王様、今となっては私は天津神だけでなく国津神からも疑いをかけられているでしょう。もうシタテルヒメ様や彩雲お嬢様に近づくことすら叶いません。いったい私はどうすれば……!?」


『案ずることはない。お前に次の策を与えてしんぜよう――――』


 サグメが大魔王と呼んだ存在は、笑いを噛み殺しながらサグメに次なる作戦を伝え始めた。

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