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月の裏側から愛を込めて

作者: 村崎羯諦

『久しぶり。佐々木美月です。高槻くんと最後に会ったのは成人式だから、五年ぶりくらいかな。高校時代に一緒に天文学部で活動してたのが、はるか昔のことみたいて笑っちゃうね。私は今、月の裏側にいます。マフィアから足を洗ったセルビア人の彼氏と一緒に、誰もいない静かな場所で、ひっそりと暮らしているの。


 大学で天文学を研究してる高槻くんには釈迦に説法かもしれないけど、地球の公転と月の自転の周期はほぼ一緒だから、私達が今いる月の裏側は地球から絶対に見えないんだよね。だから、この手紙を受け取った高槻くんが夜空を見上げて月を見ても、そこには私はいません。残念でした。もちろん私達がいるところからも地球は見えないんだけど、別に地球に楽しい思い出があるというわけでもないから、そこまで寂しい気持ちにはならないんだ』


 送り主の記載されていない、ぼろぼろになった国際郵便。初恋の人から届いたその手紙は、こんな言葉で始まっていた。はがきの端っこは薄茶色の染みができていて、一度濡れて乾いたみたい。彼女の丸くて、バランスの取れた筆跡を目で追いながら、僕は論文サイトを表示していたノートパソコンを閉じた。しんと静まり返った冬の夜。耳を澄ますと、幹線道路を通る車の音がかすかに聞こえてくる。


『当たり前かもしれないけど、月の裏側には何もありません。おしゃれなショッピングモールや美味しい洋食屋はもちろんだけど、地平線を遮るビルの連なりも、星空をくらます街の明かりも、何もないの。月の裏側では見渡す限り、うっすらと水色に輝く地平線が広がっていて、風で舞い上がった砂塵が空から降り注ぐ星の光を反射して真珠のようにきらめいてる。地球みたいに雲はなくて、見上げるといつだって、濃い群青色の夜空に刷毛ではいたような銀河の線が見えるの。


 月に大気は存在しないはずだとか、色々と言いたいことはあるかもしれないけど、地球からは見えない月の裏側はこんな感じになってるの。実際に月の裏側に住んでる私が言うんだから信用してよね。私もここに住むまではもっと荒涼とした場所を想像していたんだけど、月の裏側は思っていたよりもずっとずっと綺麗で、ロマンチックな場所』


 僕は顔を上げ、スマホで時間を確認する。午前0時。そろそろ出ないと、教授との待ち合わせの時間に間に合わない。僕は分厚いコートを羽織り、革製の手袋を手にはめる。それから、彼女から届いた読みかけの手紙をポケットに突っ込み、外に出る。夜更け過ぎの空気は凛と冷たく、風が吹くたびに身体が寒さで縮み上がる。アパートの裏にある駐輪場で、僕はふと空を見上げた。オレンジ色の淡い街灯越しに、夜空でぼんやりと光り輝く半月が見えた。


『最初の方でも言ったと思うけど、私の彼氏はセルビア人で、元マフィアです。沢山の人を殺して、沢山の人間を不幸に追い込んで、その分だけ、沢山の人から恨まれて、何度も何度も殺されかけてきた。洞窟の中で身を寄せ合って寝ている時、彼は時々奇声を上げながら飛び起きる。それから隣で寝ている私の髪を掴んで、母国語で私を罵りながら私の顔やお腹を何度も何度も殴るの。それを私は抵抗もせずに、ただただ黙って受け止めてあげる。何度も何度も気を失っては、また痛みで意識が戻る。その繰り返し。視界が真っ白になって、耳や鼻から血が出てきて、意識が朦朧としていく。狭い洞窟の中で、彼の口汚い言葉と電子音のような耳鳴りだけが、聞こえてくるの。


 しばらくしたら彼は殴り疲れて、その場で膝から崩れ落ちる。それから彼は両手で顔を覆って、赤ちゃんのように泣くの。死にたくない、死にたくないって下手くそな英語でつぶやきながら。私は彼の頭を胸に埋めて、怖くないよって言いながら彼の頭をなでてあげる。それから私達は優しいキスをして、青く灯る洞窟の中で愛し合うの。地球にいた頃には私達の関係をあーだこーだいう人がいたけど、月の裏側には私達しかいない。誰にも邪魔されずに、深い沼に沈んでいくように、ただただお互いを求めあう。痛みと彼のぬくもりだけが、私に生を実感させてくれる』


 エンジンをふかして原付きを走らせる。街灯に照らされている歩道に人の姿は見えない。時折すれ違う車の音だけが、目深にかぶったヘルメット越しに聞こえてくる。大学の構内に入って、原付きを駐輪場に停め、静かなキャンパスの中を寒さで身体を縮こませながら歩いていく。理学部一号館に入り、研究室の部屋を開ける。天体の模型と観測機が無秩序に並べられた部屋は、安い消毒液の臭いがした。僕は背負っていたバックを机に置きながら、ふと棚に並べられた月の模型に目が留まる。ゆっくりと近づき、模型を手に取った。誰もいない研究室に、模型に積もっていたホコリが舞い上がる。


『さっきは地球にはいい思い出がないって言ったけど、高校時代の部活はそこそこ楽しかったよ。最初は天体についてそんなに関心がなかった高槻くんを私が強引に誘ったのが、高槻くんと友だちになったきっかけなんだよね。部室は狭くて、部員だって変な先輩と、後輩の私たち二人だけだったけどさ、部室ではしゃいだり、学校の屋上で天体観測をしたりして、すごく楽しかった。


 そうそう、高槻くんが私のことを好きだったってことも知ってたよ。私と二人で話してるときに照れて目をそらしたり、部屋の端っこで先輩と話してる私をこっそり見てるのも、全部気がついてた。あと、時々私の胸を見てたよね。真面目な顔してるくせにエッチなこと考えてるんだと思ったら笑えちゃうよ、ほんと。その時の私は十歳上の彼氏と付き合ってて、高槻くんのことは異性として見てなかったから、あの時私達が付き合うということはありえなかったわけだけど、一応お礼は言っておくね、ありがと。多分今は、有名な大学に入って、研究ばっかりしてるのかな。でも、一言だけ言わせて。好意を口にしなくてもそれをわかってくれる女の子はたくさんいるけど、それは結局、その子に甘えてるだけなんだってことは自覚してなきゃ駄目だからね。以上、数少ない女友達からのアドバイスでした』


 荷物を置き、二人分の熱いコーヒーをタンブラーに入れて、屋上へと向かう。屋上では担当教員でもある後藤教授が天体望遠鏡のセットをしている真っ最中だった。コーヒーを地面に置き、一緒に望遠鏡のセットを進める。かじかむ手で三脚を組み立てていると、一瞬だけ高校時代の記憶が蘇って、そして霧のように消えていった。


『この手紙と一緒に月の裏側で採れたピーナッツバターを送ります。ごめん、言ってなかったね。月の裏側にあるクレーターの谷底ではね、手でほじくり返せるくらい柔らかい黄土色の土が採れるの。それを集めて、鍋に煮詰めて一晩寝かせた後、数時間おきに混ぜながら冷やすとね、ピーナッツバターができあがるんだ。作りたてを送れたら一番なんだけど、時間が経っても美味しいから安心して。でも、せっかく送るんだから、ちゃんと食べてね。残したら許さないから』


 教授と天体観測の準備を終え、二人並んで折りたたみ椅子に腰掛ける。まだ暖かいコーヒーを手で持ち、夜空を見上げる。街明かりが届かない天上付近には沢山の星が瞬いている。立ち昇るコーヒーの湯気を目で追いながら、僕は教授に話しかける。


「後藤教授、知ってます?」

「なんだ」


 背中を丸め、音を立てながらコーヒーをすすっていた後藤教授が面倒くさそうに返事を返す。


「月の裏側では美味しいピーナッツバターが採れるらしいですよ」


 教授が僕の方へと振り返る。それから教授は、嘲るような表情を浮かべ、つぶやく。


「大学で散々天文学を研究してるというのに、そんなことも知らなかったのか?」


『多分だけど、こうして高槻くんに手紙を書いて近況を知らせるのはこれが最初で最後になると思います。私はもう地球に戻るつもりはないし、この月の裏側で彼氏と一緒に死ぬまで暮らすつもりです。彼氏が死んで一人ぼっちになって、頭がおかしくなるくらいの孤独に襲われたとしても、きっとこの気持ちは変わらないと思う。たくさんの人間の中でひとりぼっちになるよりかは、自分の心臓の音が聞こえるくらいに誰もいない場所でひとりぼっちになったほうが、きっと私は楽だから。


 心残りがあるとすれば、十年後の高校の同窓会で、高槻くんの奥さんの顔写真を見れなくなったことくらいかな。幸せになるだけが人生ではないと思うけど、幸せになるのに越したことはないからね。きっと高槻くんはこれから研究で忙しい日々を送ると思うけど、そのせわしない日常の中で、一瞬でも月の裏側にいる私のことを思い出してくれたら嬉しいな。それじゃ、もう書くこともなくなったから終わるね。それじゃあ、バイバイ。お元気で。


 月の裏側から愛をこめて 佐々木美月』


 夜空に幾筋もの流れ星が流れる。僕は黙ってそのしぶんぎ座流星群を見つめ続けた。高校時代に生まれて初めて見た時から変わらず、その景色は綺麗で、壮大だった。屋上を風が吹き抜ける。思わずこぼれた白いため息が、吸い込まれるように夜空へ昇っていった。


「そういえば、高槻くんは何で天文学の研究に進もうと思ったんだ? 優秀な助手がいるこちらとしては楽ができていいんだが、そういえば聞いたことがないなと思ってな」


 僕は教授の方に振り返り、笑い返す。ポケットに手を入れると、家を出るときに突っ込んだままの彼女の手紙が指先に触れた。頭の中に一瞬、高校の屋上で、天文学部のみんなと一緒に見た星空が思い浮かぶ。そして、美しい夜空を背景に僕の目が捉えたのは、あの日の彼女の、寒さで紅潮した右頬だった。


「恥ずかしいから秘密です」


 僕はごまかすように椅子から立ち上がる。そして、夜空の隅っこで光り輝く半月に向かって、寒さでかじかんだ右手を、そっとかざした。

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