第一節 蔵書保管室の幽霊
春、新入生が桜の花弁と共に舞い降りる季節。空は晴れ渡りこの古い部室棟の小さい階段からも光が射し込む。なのに何故私は、少数の生徒の季節外れの幽霊話に振り回されねばならないのか。私はそんな事をブツブツと呟きながら部室棟の階段を昇り続けていた。
私こと宝野有栖が風紀委員になったのは、自分がそれに向いていると思ったからである。我が栃岡高校の風紀委員というのは、生徒指導の教諭と同程度の権限があると言われている。「生徒の自主性が高いのが校風です」と我が校のパンフレットにも書かれていたが、その校風を守るのも生徒の役目、そしてその役目を仰せつかるのが風紀委員だからそうだ。基本的に殆どの人は犯罪者という者を好きではないだろうが、私は父を亡くしたあの事件以来、人一倍嫌うようになった。憎んでいると言ってもいい。そして風紀を乱す校則違反者というのもある意味犯罪者である、というのは言い過ぎかもしれないが、私はそのくらいの気持ちを持っていたので、進んで風紀委員に立候補した。二度と私のような人間を生まないためには、例えそれが校則であろうと、決まりを乱す者には鉄槌を下すべきだと考えていたのだ。そんな意気込みが通じたのか、二年目にして風紀委員長を任された時は、自分の信条が肯定されたように感じて嬉しく思ったものである。もしかすると他の人にそれほどのやる気が無かったのかもしれないが、それはこの際置いておく。
さて、幽霊話である。今日になって数件寄せられただけなので、まだ噂程度ではあるが、それは我が校の蔵書保管室に関するものである。我が校の蔵書量は市立の図書館並み等と言われる事がある。他の高校の図書室と比較した事は無いが、言われるだけの量はあるのだろう。何せ図書室棟と呼ばれる独立した二階建ての建物に加えて、部室棟に蔵書保管室と呼ばれるものがあるのだから、数えた事も無いが、相当なものだろうというのは容易に想像が付くというものだ。それが誰の方針によるものかは聞いた事は私も寡聞にして知らないが、そこはさして重要な話では無い。問題はその蔵書保管室で物音がするというのである。
保管室とは言うが、前述の蔵書量の関係上溢れた本を置いてあるだけのため、はっきり言ってただ置いてあるだけ、本が積み上がっているだけのただの倉庫だと聞いている。私を含め生徒が行くことは殆ど無い。では図書委員はいうと、後述する配置の関係上、積極的に行きたいとは思わないらしく、あの部屋にある本を借りたいと申し出ても「すみません、今度持って来れたらお貸ししますね」と言って忘れるのを待つのが定石になっていると聞く。精々新しい本が入荷した時に止む無く本の入れ替えで向かうくらいだろうが、本が多すぎると判断されたのか、特に去年辺りから蔵書の入れ替え量が減った関係で、行く機会も年々減っているらしい。
そのような倉庫にこんな話が持ち上がった。「誰もいないはずの蔵書保管室から物音がしている。」蔵書保管室は部室棟の四階、屋上を除けば最上階の端の方にある。空いている部屋が其処だけだったというのが理由らしいが、正直本を持っていく場所としては階数が不適切過ぎて決めた側の神経を疑う。その最上階である四階は特に体育館等別の共用部屋を使用する部の部室がある階で、人の出入りというのは放課後の最初と最後くらいで他の時間帯は疎らである。そんな中、補習で遅れた生徒二、三人が部活に向かおうとしたときに、階の隅の方、蔵書保管室から物音がしたのだと言うのだ。図書委員に聞いても、今年に入ってからはまだ本の入れ替えはしていないから行くはずが無いし、そもそも鍵が掛かっていて入れないはずだと言っていた。なのにそこから音がしている・・・これは幽霊の仕業なのではないか、とその通報してきた生徒は怯えながら言うのである。それが一人であれば正直気のせいだろうと聞き流すところだが、それがその補修で遅れた全員となれば放っておくわけにも行かない。明日になれば噂が噂を呼び、尾ひれが付いて騒ぎに発展する可能性もある。そういう訳で風紀委員を代表して私が調査しに来たという訳である。他の風紀委員が来なかったというのもあるが。
まず本棟の職員室と別館の図書室に行き、最近蔵書保管室に行った人は居るかと司書の木坂先生に尋ねようとしたが、どちらの部屋にも不在だった。代わりに発見があった。蔵書保管室の鍵は職員室にあるはずなのだが、それが無かった。となると不審者の可能性が高い。私は防犯スプレーを用意した上で件の部屋に向かうことにした。
前述の通り蔵書保管室は四階であり、職員室は本棟、更に図書室は別館・・・私は校舎横断リレーでもさせられているのか?私は本を運ぶ訳ではないので重い荷物を運ぶ苦労は無かったが、あちらへ行ったりこちらへ行ったり、たかだか異音のために振り回されていることに、若干の苛々を伴いながらの道中だった。
部屋の前に着くと確かにガサゴソと音がする。何者かが居るのは間違いない。私は自分で言うのもなんだが、それなりに腕は立つ方なので、不審者であれば対処出来る自信はあった。もし逢引等であれば冷静に説教する心の準備もした。防犯スプレーも一応持っている。完璧だ。私は自分にそう言い聞かせると、扉に手をかけた。そして不審者を驚かせる目的も兼ねて扉を勢い良く開けると、私は叫んだ。
「誰よ!!この部屋に勝手に入っているのは!!」
部屋の中には前述の通り乱雑に本が積まれていて、倉庫の相を呈していた。その倉庫の奥に170センチくらいの本を持った人影が見える。それが何者か私が判別しようとしていると、その前に人影が慌てる様子も無く話しかけて来た。
「勝手にとは失礼ですね。僕はちゃんと先生に許可を貰っていますよ、風紀委員長の宝野さん。」
私は驚いた。何故かというと、声の主は本を読んだままこちらを一瞥もせずに私の事を言い当てたからだ。私は思わず尋ねた。
「何故私の事を?」
その質問に対し声の主は答えました。
「簡単な推論です。聞いてもつまらないですよ。それより、司書の木坂先生から聞いていませんか?この部屋、普段使わないとお聞きしたので、クラブ活動で借りることになってるはずですが。」
初耳だった。木坂先生は不在だったので聞けていなかった。何でも他に用事があるとかで今日は行けない、行くとしても遅くなると言っていた、と図書委員から又聞きしていた。それを伝えると彼は不思議そうに頭を斜めに傾けた。
「用事?僕が鍵を借りに行った時は職員室に居ましたよ。」
木坂先生の件はどうでもいい。それよりその時私が気になっていたのは、私を判別した方法だった。私はその事を尋ねると、彼は溜息を吐きながらようやくこちらを向き、そんな事かと言うのは無しですよ、とこちらに求めてきた。まるで小説に出てくるホームズの真似事だと思いつつも、私が頷くと、彼は話し始めた。
「絞り込みが出来たのは貴女の足音ですね。」
「足音?」
「そう。四階はこの時間帯は静かなのもあって、足音が部屋からでも聞こえるんですよ。急ぐ人だったらバタバタと足音の間隔が短くなりますが、貴女の足音の間隔は普通に歩く人の速さ程度でした。なので部活動の生徒の可能性は低い。それに、部室に向かう生徒とは思えないような、ドシドシという足音が聞こえたんです。でも息切れする声はしなかったし、足音もある程度一定で疲れた様子もないので、太った人が歩く音でも無さそうです。・・・苛々すると自然と足に力が入る人って居るでしょう。貴女はその典型ですね。多分「何で私がこんな事を」とか考えていたんじゃないですか?それで知らず知らずの内に足に力が入っていたと。そしてその足音はこの部屋の前で止まった。となると考えられるのはこの部屋に用事がある人です。誰だろう。足音の主が苛々していることを考えると、考えられるのは説教をしに来た人です。でも私は、少なくともここを管理している木坂先生には話を通しているし、別に成績が悪い訳では無いので教師の線は短い。次に考えられたのが風紀委員です。この学校、何か問題があると風紀委員が動くことが多いですからね。後何より。」
「何より?」
「貴女が廊下で生徒から、部室棟の四階に幽霊が居るという話を聞いているのを、この部屋に来る途中で見ていたからです。」
「なんだ、そんな事か。」言った後にそれが禁句だったことを思い出した。彼は露骨に嫌な顔をすると、ホームズが実在したらこんな気分だったんでしょうねぇ、等と愚痴を吐いた後、シッシッと手を払った。出て行ってくれというハンドサインである。しかし私は風紀委員、ここで引き下がるわけには行かない。
「いや、それよりクラブ活動って何よ。生徒会に申請は出しているの?こちらにはそんな話下りて来てないわよ。」
「・・・。」
黙った。ということはクラブ活動の申請を
「申請をしていない可能性が高い。先輩に舐めた口を聞いた罰だ。これを切欠に叱り付けてやろう。―とか考えてますね?顔に出てますよ。」
図星である。そんなに顔に出ていたのだろうか。鏡があったら見てみたいところだが、今目の前にあるのは山のような本と、ニヤけた顔をした男性一名のみである。
「そ、そうだけど。どうなのよ、そこのところ。」
出来る限りの虚勢を張って尋ねると、彼は本を閉じ、すみませんと頭を下げた。そしてこちらを向いてこう言った。
「すみません、まだなんです。顧問の先生が見つからなくて。でもこの部屋を使う事自体は、管理者である木坂先生に許可頂いていますから、問題は無いはず、ですよね?」
「・・・。」
今度は私が黙らされてしまった。確かにその通り、木坂先生の許可があるなら、すぐに問題になるようなことではない。私はどう反応するのが最も風紀を守れるか一瞬思考した後、答えた。
「そうね、問題無いわね。」
そう言うと彼はニコリと笑った。少しイラっとしたが続けた。
「私、この部屋には幽霊が出たって話で来ただけなのよ。許可貰ってる行為なら問題無いから、生徒達には私から説明しておくわ。ただし、クラブ活動として継続的に活動するなら、ちゃんと申請しなさい。顧問の先生も探すこと。校則だから。・・・それでいいわね?ええと・・・」
「鳥栖正誤。しょうごのごの字は誤りの誤です。分かりました。後程正式に申請します。」
そう彼は答えると、では読みたい本があるので失礼します、と言い、手に持った本を読み返し始めた。こちらを眼中に置こうとしない態度に少しイラッとしたが、あまり怒ってもこの男には何も通じないような気がしたので、早々に引き上げることにした。じゃあちゃんと申請するのよ!!と言って戸を閉めた。どこか負け惜しみのようになってしまった気がして、また少し怒りが込み上げてきた。私はぐっとこらえると、また大きな足音を立てて保管室を後にした。そういえば何クラブだったのかを聞きそびれていたが、大したことではないだろう。
風紀委員室に戻って、幽霊話を持ってきた生徒に一連の説明をすると、彼女達は安堵したようで、お礼を言って去っていった。ああ、このくらいさっきの男に愛想があれば苛々も募らないのになぁ、と思いに耽った後、ふと時計を見ると五時を指していた。そろそろ帰ろうかと思って帰宅の準備をすると、廊下を駆ける音が外から聞こえてきた。そしていきなり部屋の戸が勢い良く開けられた。そこに居たのは、さっき木坂先生の所在を尋ねた時の図書委員だった。
「ちょっと、廊下は走っちゃダメよ。それに戸ももう少しゆっくり・・・」
「そ、それどころじゃないんです!!」
「え?」私は聞き返した。
「木坂先生が、木坂先生が倒れてるんです!!図書室で!!血も出てて!!保健医の先生も居なくて!!ど、どうすればいいかわからなくて!!それで!!」
・・・この人何言ってるの?何かのドッキリ?その時はそう思った。数分後、私は彼女に連れられて向かった図書室で、それが現実であることを知った。