クラリネットを吹く保父
某説話の現代風味、的な、的な。
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帰り途で見かけた張り紙に、裕治は思わず目を留めた。家庭用のカラープリンターで刷ったと思しき手作り感満載のポスターはある種不安にさせられるが、待機児童を抱えた親の身には、その安っぽい広告でさえ魅力的に感じられる。もはや藁をもすがる思いで、彼はその宛先をメモしてからアパートに帰った。
「ただいま、そんなとこで寝てると風邪ひくよ」
妻の貴子はさっきまでリビングのソファでうたた寝していたようで、彼が声をかけると面倒そうに身を起こした。息子の保育園が一向に決まらなくて、ここ最近は彼女もすっかり気疲れしている様子だ。育休期間の満了が近づくにつれ日ましに機嫌が悪化する貴子に対しておむつを買ってくるくらいでしか報いられなかった裕治だったが、今日はいいニュースを聞かせられる。彼は努めて明るい声で、保育園の広告の話をした。
「――それで? その話だけでどうやって判断しろって?」
が、貴子は余計に機嫌が悪くなったように捲し立てるだけだった。
「敷地の広さは? 衛生環境は? それに肝心の保育料は具体的にいくらなの? どうせ無認可なんでしょ、そんな得体の知れないとこに健一を預けようって? 普段ロクに保育園選びも手伝ってくれないくせにそんな適当な情報をさも手柄のように言わないでくれる?」
返す言葉がなくてしょげていると、ご飯にするよー、と面倒そうな声で言われたので、裕治は部屋の隅のベビーベッドにいた健一を抱きかかえ、食卓に座らせた。今年で一歳になる息子は、親の心配事などどこ吹く風とばかりに、だーだー、ぱーぱー、と無邪気な声を発している。どうかその調子ですこやかに育ってほしいものだ。
「とりあえず、下見に行ってから決めようよ。無認可だからって悪いところばかりじゃないし、こんなこと言ったらあれだけど選り好みしてる場合でもないしさ――」
離乳食の準備を手伝いながら、根気強く裕治は妻の説得にかかる。その甲斐あって、健一の食事、入浴、うんちの世話を終えた頃には、どうにか下見を了承してもらえた。
翌日、ちょうど仕事が休みだった裕治は、貴子と健一を連れ立って件の保育園の見学に向かった。最寄りの駅からバスで二十五分。アクセスに恵まれているとは言い難いが、その分地価も安くなっているのだろう、予想していたより園の敷地はずっと大きかった。むろん、道中のベビーカーはずっと裕治の担当だ。
「見学を申し込みました佐藤です」
「おー、佐藤さん! こんにちは、当保育園の園長、高倉です」
園長を名乗る中年の男性が、にこやかに出迎えてくれた。パンチパーマにサングラスと、むしろ組長と呼ぶのが相応しいような外見をしていたが、意外にも物腰は柔らかく、少し会話しただけで父親と母親の彼に対する警戒心は解かれていった。
佐藤一家は、組長のような園長に色々と園内を案内される。敷地内には小さいながらも園庭があり、晴天下で三歳から年長くらいの子どもたちと数人の保育士が遊んでいた。
貴子がふと、疑問を口にする。
「なんか男の子が多いですねぇ、子どもも保育士さんも」
それを聞いて、裕治も改めて辺りを見渡した。確かに園庭を構成しているのは若い男性の保育士とやんちゃ盛りの男の子たちばかりだ。男の子の方が外で遊びたがるのは分かるが、大人まで男の割合が高いのは一般的な保育園のイメージとは異なる。数多くの保育園を見てきた貴子としても珍しい光景だったのだろう。
「それがうちの保育園の特色というか難しい部分でございまして……。うちでは他の保育園よりも男性保育士の雇用を多くしているのです。ほら、男の保育士ってどうしてもあらぬ偏見を向けられたりするでしょ。僕も若いころは苦労したもので……」
とほほ、と寂しそうに笑いながら、園長は説明してくれた。
「せめて自分の保育園は男性保育士の働きやすいところにしたい、という思いがありましてね。しかしそんな方針なので、やっぱり女の子の親御さんの中には心配する方もいらっしゃるみたいでして。おかげさまでこのご時世には珍しい、いつでも子どもたちの不足している保育園となっているわけですよ。健一くんは男の子なので割かしここには馴染みやすいとは思うのですが……」
もしかして園長の見た目に問題があるのでは、と思ったが、さすがにそうも言えず、裕治は愛想笑いで返した。貴子の方もその説明で納得したようで、それ以上の追及もなく、園内の見学に続いた。貴子の話では無認可保育園の良し悪しは室内の衛生環境によく表れるそうだが、この保育園は至って清潔な様子だった。健一がはいはいをするようになったので、床は特に念入りにチェックしたが、幼児室の新品のフロアマットにはシミひとつない。園長いわくマットは毎月張り替えている、とのこと。母親から見ても及第点だったようで、貴子もこれには満足げに頷いていた。
と、乳児用のベッドルームやトイレを確認した辺りで、園内に笛の音が響き渡る。音色は柔らかく響き渡り、保育園じゅうが安らぐように感じられた。曲は恐らく「きらきら星」だろう。
「クラリネットですか? 上手ですね」
貴子が園長に言うと、彼も楽しそうに首肯した。
「鼠田先生が吹いているんですよ。子ども想いの優しい先生でしてね、外遊びはあまりしないのですが、代わりによくクラリネットを吹いて聴かせてくれます。不思議なもので、それまでぐずっている子も、彼の演奏を聴けば大人しくなるんですよ! ――それにしても、よくクラリネットだとわかりましたね、お母さん」
「学生の頃、吹奏楽をやっていたもので……」
きらきら星の演奏はワンコーラスで終わったが、すぐに別の曲が流れ出した。よほど気にしているのか、園長は再び男性保育士の利点――男の子の遊び相手に向いている、だの、子どもが大人の男を苦手にならなくなる、だの――を説き始めたが、貴子は相槌を打つばかりで心はどこか別のところにあるようだ。裕治は、彼女がもうこの保育園に決めているだろうという確信を抱いた。
案の定、保育園の下見を終えて街中でお出かけや買い物を済ませた頃には、あの保育園にするね、とぽそっと彼女が呟いた。
「なー、見に行ってよかっただろ?」
「そんな深く考えてなかったくせに。でも、ありがと」
貴子に子育てのことで礼を言われるなんて滅多にないことだ。うん、と短く返事して、裕治はベビーカーを押す足を少し早めた。
貴子には、あのときのクラリネットの簡素な演奏が福音に思えてならなかった。この保育園こそが、息子にとって最適の場所に違いない、という。
出産後一年間の彼女の育休は、ほとんどが保育園探しに費やされた。何しろ待機児童が社会問題になるほど、世間では保育園が不足しているのである。区内の認可保育園はもちろん、未認可でさえ空きがないと断られ続けた。何度も区役所に足を運び、ようやくいつでも入園できる未認可を教えてもらったと思いきや、そういう場所は経営に問題があったり、ゴキブリの湧くようなひどい衛生環境にあったりで、とても子どもを安心して預けられる水準にない始末。結局、年度が変わって新たな受け入れが始まるのを待つしかない、と途方に暮れていたところに、夫が思わぬ手柄を挙げてくれたのである。それまでロクに気にかけてくれている様子がなかった彼が、実は暇さえあればちらちらと保育園探しをしていたことを知り、貴子は感謝と同時にストレスで彼に厳しく当たっていたことが少し申し訳なくなっていた。落ち着いたら何かお礼を返そうと思っている。
「お疲れ様でーす」
健一を迎えに行くため、事務作業を定時で切り上げて退勤した。家や職場からずいぶん遠いのが、あの保育園の残念な点だ。本当は裕治と当番制にしたいのだが、彼の職場は子育てを理由に早抜けするわけにもいかないらしく、お迎えはもっぱら貴子の役目になっている。
園に着いてみると、幼児室にはこの時間でも多くの子どもたちが残っていた。園長いわく、保護者のお迎えのピークは午後八時ごろらしい。今はまだ午後六時半なので、こんなものなのだろう。
「おおー佐藤さん、今日はお早かったですね」
「いつもお世話になってますー」
高倉園長が、子どもをおんぶしながら挨拶に来た。相変わらず、ヤクザのような見た目に似合わない柔和な人当りだ。
「ケン君、最近よちよち歩きが上手になりましたね。きっともうすぐしっかり歩くようになりますよ」
「はい、そろそろこいつの手の届くとこに物を置かないようにしないといけないですね――」
園長と会話しながら、貴子は部屋の隅で積み木をいじっていた健一を抱き上げた。保育園に入ってから、ずいぶん息子の身体も重くなった。
連絡帳を受け取りながら、子どもの近況をあれこれ聞く。以前まではいはいで家を荒らし尽くしていた小さき怪獣は入園後すっかり行儀よくなったらしく、ほかの子どもたちと仲良く積み木で遊び、鼠田のクラリネットの演奏が始まると、じっと黙って聴き、ときどき積み木を食べそうになる以外は大人しくしているらしい。
「鼠田先生の演奏は本当に効果テキメンでしてね! 喧嘩をしてようがみんな静かになるんですよ、もう僕たちも大助かりで」
「わたしたちこそ。いつもありがとうございます」
園長に頭を下げ、幼児室を後にする。育休が満了してはや三か月。息子の行き先が決まらず不安に苛まれていた育休の頃には想像もつかなかった日々に、貴子は胸がすくような思いだった。
健一を抱きかかえて外に出ると、夕焼けが照らす園庭に人影があった。
「鼠田さん、何をなさってるんですか」
短髪で目の細い華奢な青年の姿を認め、声をかける。
「ああ、いえ……。ひと段落ついたので休憩していました」
「そうですか、お疲れ様です」
「お、お世話様です」
鼠田はしどろもどろに話した。当初は気味悪いと感じていたが、いつもこんな調子なので最近ではすっかり慣れてしまっている。如才なく会話することができないとしても彼はそう悪い人ではなさそうだし、何よりそのクラリネットの演奏を彼女はとても気に入っていた。
と、健一が期待を込めた眼差しを鼠田に向けていたので、彼に訊ねる。
「今日はもうクラリネットは吹かないんですか?」
「あ、はい。今日は……」
「そっかー、残念」
こんなとき、彼の機嫌が良ければクラリネットを披露してくれるのだが、今日は生憎気分じゃないらしい。
「また今度聴かせてくださいね」
「えっと、そうですね、是非」
やはりしどろもどろなままの鼠田にひらひら手を振って、貴子は保育園を後にした。なんとなく、彼がまだ話したそうにしている気配を感じたが、あまり長話をしても健一が駄々をこねるので仕方ない。裕治は今日も残業らしいので、先に食事と風呂と息子の寝かしつけを済ませてしまうことにした。夫を待ちたかったが、健一が自分の世話を自分でできるようになるまでは二人の時間を犠牲にせねばならない。妥協と忍耐は、まだしばらく続きそうだった。
貴子におぶられた健一が、リズムに乗るように、一定の周期で身体をゆすりはじめる。クラリネットを毎日聴いているからか、最近はよくリズムを身体で表現するようになった。音楽の素養が育っているのではないかと、母親としては楽しみになるところだ。
先に異変に気付いたのは、裕治の方だった。
保育園に通わせてはや半年、健一ははいはい歩きから両脚だけで歩けるまでになった。行動力が上がってさらにその怪獣ぶりに磨きがかかる、と思いきや、歩き方がステップを踏むようにリズミカルだったり、無駄なジグザグ歩きを始めたりする。
それだけならさほど気にしなかったのだが、極めつけは裕治が残業で夜遅くに帰ったときの光景だった。彼が母子の寝静まる寝室を覗くと、がくんがくん、と健一が寝ながら頭を前後に揺すっていたのである。貴子はかなり眠りの深い体質で全く気付かないようだったが、それが夜ごとに何遍も続いたので裕治はさすがに怪しんだ。
「軽度の神経障害かも知れませんね」
小児科に連れて行くと、医者からはそう告げられた。
「何らかの外部からの刺激のせいだと考えられますね。お子さんのストレスになるような騒音や激しい音楽の鑑賞は控えてください。それでしばらく様子を見ましょう」
診察の間、健一はずっと椅子に座って、メトロノームのように一定周期で両脚をぶらつかせていた。何度注意してもすぐにまた始めてしまう。思ったより重症だ。
帰って貴子にその話をすると、彼女は手で口許を押さえてじっと考え込んでしまった。何か心当たりがあるのか、と訊いても、首をかしげるだけ。
「俺は保育園のクラリネットじゃないかと思うんだ。だって健一が症状の出るほど繰り返し聴いてる音なんてそれくらいしかないだろ」
「それは考えたけど……害のあるような音でもないし、むしろリラックスできそうな演奏なんだけどね、うーん」
やはり何だかはっきりしない返答だったので、
「何か隠してないか? なんかあの保育士を庇ってるみたいに聞こえるんだけど」
カマをかけてみる。鼠田というクラリネット保育士と妻が親しいことは、彼女の日頃の会話からなんとなく察していた。普段子どもの迎えに行けない裕治はその男のことを直接は知らないが、疑惑の対象にはとうになっている。貴子は保育園が決まってから裕治の帰宅を待たなくなったし、最近は夫婦の営みもすっかりご無沙汰。彼としては最悪の事態を想像してしまうのだった。
「本当に分かんないだけよ」
「なら良いけど。……その、子どものためにも、変な気は起こさないでくれよ」
「ねえちょっとそれどういう意味」
「子どもの前で言い合いは良くないから後でな」
貴子は何か言いかけた口を閉ざし、裕治を睨んだ。たぶん彼のかけた疑惑の意味するところが分かったのだろう、眦を怒らせながらも、その表情は哀切だった。
諍いの最中、健一はただぼんやりしていた。両親の雰囲気が悪いと子どもは自然と察するものらしいのだが、彼がこの不穏な空気を感じ取っているのかどうかもよくわからない。本当に、いつの間にこんな状態になってしまったのか。
とうぶん思い出したくもないような夫婦喧嘩を経た翌日、裕治は珍しく健一を迎えに行った。昨晩の話し合い――と呼んでいいのかも分からない罵り合い同然のものだったが――で、試しに数日、彼がお迎えを担当してみることになったのだ。
「おや、今日はお父さんですか、お久しぶり」
「はい、妻の仕事が忙しいみたいなんで」
「そうでしたか、いつもお疲れ様ですと伝えてください」
見学のとき以来のヤクザ園長に、丁寧に出迎えられる。この人の良さそうな中年男が、もしかすると息子のおやつに毒を盛っていたり、ひどい虐待をしていたり――。あれほど根気強く妻に勧めていた保育園の全てを、今は疑いたい気分だった。
女性の保育士に率いられた健一を引き取る。まるで人形の貸し借りでもしているようだった。もうすぐ二歳になる幼児にしては、どうも大人しすぎる。
「あの、いつもクラリネットを吹いてくれる先生って」
「鼠田先生ですね。何かご用が?」
「いえ、お礼がてら少し話したいな、と」
「そうでしたか、今呼んできますね!」
園長が奥に引っ込み、鼠田を連れてきた。本人を見るのはこれが初めてだったが、思ったより朴訥とした印象の青年だった。センスをひけらかすような、もっといけ好かないのを想像していたが、よくよく考えればそんな男は保育士にはならないのだろう。
「うちの健一が世話になってます。それと、妻がいつもちょっかいをかけているようですみませんね」
「あっ、はい、いや、そんな……」
しどろもどろで、落ち着かない返事。いつもこんな調子で、子どもの相手などしていられるのだろうか。
「健一が騒ぎ出したら、またクラリネットを聴かせてやってください」
「はぁ、あの、喜んで」
これ以上探りを入れてもしょうがないので、裕治は適当に彼に挨拶をして帰ることにした。ぼうっとしている健一の背を押して回れ右をさせたとき、不意にクラリネットの音色が聴こえた。ぎょっとして振り返ると、鼠田が園庭まで出てきて笛を吹いているではないか。曲目は「クラリネットが壊れちゃった」のようだ。縁起でもない選曲もさることながら、何故このタイミングで吹くのか、まったく不可解な行動だった。
と、今まで借りてきた猫のようだった健一が、突然繋いでいた手を離して鼠田の方へ走りだす。ここのところ見なくなった活発ぶりで、裕治は反応が遅れた。健一は鼠田の傍までぴたりと寄って、食い入るように笛吹き男の指使いを見つめる。
ぼくの大好きなクラリネット
パパからもらったクラリネット
とっても大事にしてたのに
壊れて出ない音がある――
メロディの合間にアドリブで音を挟むような、独特のリズミカルな演奏には確かに惹かれるが、所詮保育士のお遊戯の域は出ていないように思える。音楽的感性が乏しいだけなのかもしれないが、裕治にはその音色の何が健一や貴子をそこまで魅了しているのか判りかねた。
「すみません、ちょっと夜風に当たりながら吹きたくなったもので」
ワンコーラスで演奏を切り上げ、鼠田ははにかみながら会釈した。先ほどのしどろもどろな態度よりは幾分か活き活きしている気がする。
「健一は先生のクラリネットが本当に好きなんですね。まるで魔法みたいだ」
「魔法……確かに。音楽は簡単に脳に入り込みますからね――」
不敵な微笑みを浮かべて、鼠田は語る。裕治はうすら寒くなった。どこをどう間違えて、この男は町はずれの小さな保育園で保育士などすることになったのか。
彼は健一の頭を抱えるようにして一撫でしてから建物に戻った。いつでも健一を攫うことができる、と警告しているようだった。
もう健一を通わせるのはやめよう、と、裕治は帰るなり突然言いだした。お迎えももうごめんだ、とも。
昨日の今日で、さすがに自制できなかった。子どもの目をはばからずに爆発する貴子に、最初は喧嘩腰だった裕治も次第に宥める側に回り、結局は貴子がその日の家事を全てボイコットする形でケリがついた。元から分担制だったので、彼はさほど苦にもしないで健一の世話から夜洗濯までこなした。面倒だったのか、いつも貴子が担当している食事は出前で済ませていたが。
ぼーっと健一の頭を撫でながら寝ていた貴子の隣に無言でもぐる気配を感じ、貴子は昨晩のことを反芻してはばかばかしい気持ちになった。普段から家のことに協力的なのはいい、鼠田との浮気を疑っていたことも腹こそ立つがまだ許せる、問題は彼が貴子に対していちいち信用がない点である。自分しかこの状況を打開できないと信じ込んでいるときの裕治が、彼女はいちばん嫌いだった。入園のときはあんなに貴子の意見を尊重してくれたのに……。
結局ろくに寝られないまま朝を迎え、寝ぼけた頭で家族全員分の弁当を作る。どんなに体調が悪くても、身体は習慣づけられたルーチンワークを勝手に始める。裕治に一番声を大にして伝えたいのが、早起きしなければいけないことの辛さだ。家事を分業してくれるだけマシなのだろうが……。
弁当と朝食を作り終えてから二人を起こしに寝室へ行くと、健一の様子がおかしくなっていた。白目を剥いて、手足を痙攣させている。額に触れると、手が焼けそうなほど熱かった。貴子は救急車を呼びながら、昨晩まで一緒に寝ていた自分でも今の今まで気づかなかったことを不審に思った。
「なに呑気に寝てんの! 健一が大変!」
裕治を無理矢理起こす。彼は寝起きながら、妻と子のただならぬ様子をすぐに察し、正義感を湛えた眼差しで健一を抱きかかえ、外へ飛び出したかと思うと、
「どこ行くの! 救急車ならさっき呼んだんだけど」
「やばい、健一を外に出さないで!」
熱にうなされる息子を貴子に押しつけ、すぐまた外へ戻った。何があったのかと、健一を抱いたままアパートの廊下に出ると、彼は切羽詰ったようにして手すりから見下ろしていた。
「な、なんで来たんだ!」
「なんでって――」
貴子も倣って下の駐車場の辺りを見ると、そこにはまさかの人物がいた。短く刈り上げた髪で、片の丸い中肉中背の目が細いその男は、まさしく鼠田だった。保育園でしか会ったことのない青年を家の前で見るのは異様な光景である。彼は巧みな指使いで相変わらずのクラリネットを吹いていたが、三階までかすかに届く音色はいつもの愉しげな童謡と打って変わって、不気味な、旋律の成立していないような曲だった。
「なに、あれ。どうして鼠田君があんなところであんなこと」
わけが分からないでいると、今まで高熱でぐったりしていたはずの健一が突然、気が狂ったように暴れ出した。母の手から逃れようとしているみたいに、今までにない勢いで手足をジタバタさせる。慌てて裕治が押さえつけたから事なきを得たが、あのままだと手すりから滑り落ちるところだった。
夫婦そろって身動きもとれずにただ青年を眺めていると、次の瞬間不思議なことが起こった。近隣の家やアパートから一人、また一人と、子どもたち――年長から小学生くらいまで――が飛び出し、彼の傍にわらわらと寄っていったのである。十人ばかり集まったところで青年はちらりとこちらを一瞥し、口を裂けそうなほど歪めた恐ろしい笑みを浮かべ、子どもたちを引き連れて歩き去って行ってしまった。健一はずっとあちらに混じりたそうにジタバタしていたが、救急車のサイレンの音で我に返った二人は、慌てて家に戻り、家族ぐるみで救急車に乗り込むための最低限の準備をした。
一家が救急病院に到着した頃には、息子を苛んでいた奇妙な痙攣は収まり、あとには高熱のみが残された。程度のひどい風邪だと診断されたが、痙攣の方の原因は最後までわからなかった。
結局、揉めていたのが嘘のように、夫婦そろって『ハーメルン保育園』を退園させ、住居も今のアパートよりさらに都心から離れたところに引っ越すことで見解が一致した。退園の連絡をした際、園長は電話越しで最後まで気の毒そうにしていたが、本当のことは言えなかった。彼が本当に無関係かどうかは分からなかったからだ。
あの恐ろしい朝の後、二人とも息子を如何なる保育園にも入れる気になれなかった。ではどうしたのかと言うと、共働きをやめたのだ。収入の低かった貴子の方が退職し、専業主婦をして健一の面倒を見ている。良い職場だったが、仕方ない。夫は残業代を稼ごうとしてさらに帰りが遅くなり、帰宅しても疲れて寝るだけになった。夫婦の時間は、さらに減った。
健一の神経障害は思ったより深刻だったらしく、退園してしばらくは後遺症が見て取れたが、一年経った今ではたまに落ち着きなく身体を揺するくらいで、何事もなく近所の公園で遊べるようになっている。相変わらず表情の変化は乏しくて言葉の発達も遅いのだが、貴子はもう、彼が無事でさえいれば他に構わなくなった。いずれは小学校に入れなければならないが、正直言えば気が乗らない。次こそは完璧に、我が子の入るべき学校を見定めてやらなければならないと思っている。
ほかに変化があるとすれば、時折明晰夢を見るようになったことか。その夢では、さまざまな年の頃の子どもたちがどこかの草原で仲良く遊んでおり、その真ん中では田舎風景に良く似合う素朴そうな青年が柔和な笑みをたたえて、クラリネットを吹いているのだ。それが起こる度、貴子はあの日笛の音につられてどこかに消えていった子どもたちを思い出す。夢の中の光景のように、どこかで元気に暮らしていればいいのだけれど。




