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空を駆ける光 エクレアという名の盗賊娘

作者: 紺野夏月

 ロイは暗闇の中で目を覚ました。体の芯が氷柱になってしまいそうな寒さの中で、よく眠れたものだ。

 目を開けると、石壁を四角く抜いた窓から月の光が差し込んでいて、床の一部分だけを白く染めていた。日光と違って暖かくはなさそうだが、そのまぶしさに惹かれた。ロイは光の差す場所まで行って、そっと両手を広げてみた。月光はロイの体に惜しみなく降り注ぎ、体の奥底にまでしみ込んでくるようだった。

昨日まで、月光がこんなに明るいものだとは知らなかった。もっとひそやかで、寂しいものだと思っていた。きっと、人が灯すろうそくの炎に惑わされていたのだろう。


 ロイはつい数時間前まで、王子として多くの家臣を従えていた。そしていつの日か、父の後を継いで国を治めるはずであった。でもそんな希望に満ちた未来は、父王がワインを飲んで倒れた瞬間に消えてなくなった。ロイは大臣に捕らえられ、抵抗もむなしく塔牢に放り込まれた。

 『王を毒殺した謀反人』

 罪状はそんなところだったか。確かに、父のグラスにワインを注いだのはロイだった。だが、そのワインを準備したのは自分ではない。しかし身に覚えがないと叫んでも、大臣は聞く耳を持たなかった。それどころか、丸みを帯びたその顔には、悪意をたっぷりと含んだ笑みがくっきりと浮かんでいた。

その時ロイは悟った。大臣が父を殺し、ロイを嵌めたのだと。


 ロイは窓に近づいて、そこから下を見下ろした。高い塔牢から見下ろすと、城の居館も家臣たちの屋敷も、すべてがあまりにも小さい。

―あんなおもちゃのような建物の中で、人間は殺し合い、裏切るのだな……。

冷たい風が吹き込んで、髪をなびかせていく。寒さはさらに増したが、それを感じることができるのもきっと後わずかだ。あの大臣が、ロイを生かしておくはずもない。ロイは風に向かって両手を差し出した。今なら、自然が生み出すすべての現象を愛することができそうだった。

 その時、ロイはふと目の端で何かが動くのを見た気がした。あわてて視線を動かすと、すさまじい勢いで屋根の上を駆けていく、細い人影を見つけた。

―あれは……。


 『今、巷では、エクレアと名乗る盗賊娘がもてはやされているそうですよ』

 数日前、家臣の一人がロイに教えてくれた。

 『エクレア?なんだ、そのふざけた名前は』

 『異国では、『稲妻』という意味があるそうです。屋根を走り回る様子が、まるで稲妻のように早いので、誰かがそう呼び始めたんだとか。今ではその盗賊娘も、自分から『エクレア』と名乗っているようです。そのエクレア、盗むのは金持ちの家からばかりで、盗んだ金や物は貧しい民に与えてしまいます。ですから民からの人気は高まるばかりですよ』

 『盗賊がもてはやされるとは、世も末だな。きちんと取り締まっていかなければ』


 しかし、いま塔牢の窓辺にもたれ、ロイはその盗賊の姿に魅入られていた。ほっそりとして柔らかな肢体は音もなく屋根を駆け、危なげなく次の屋根へと飛び移る。

―……まさに稲妻……。

 エクレアは町の家並みを駆け抜けると、あろうことかそのまま城壁へと飛び移った。それから木々を伝って、居館の屋根へ到達する。

「うそだろ……」

 『盗賊だ』思わず叫びそうになって、ロイはあわてて口をつぐんだ。この城のすべては、もはや大臣のものだ。好戦的な大臣は、城の金品をすべて軍備へとつぎ込むだろう。それがいくらかでも貧しい民に分け与えられるのなら、その方がましというものだ。

 エクレアが隣の塔に入るのを見届けて、ロイはそのまま窓際に座り込んだ。

―人間があのように動くことができるとは……。まるで天使か女神だ。いや、盗賊娘が天使や女神であるはずもないか……。

「ずいぶんと殺風景な部屋ね、ここは」

 突然聞こえてきた声に、ロイははっとして顔を上げた。今まで自分以外誰もいなかった部屋に、いつの間にか女が立っている。女は、漆黒で体にぴったりとした上下つながりの服を着ていた。服と同じ漆黒の髪は、後ろで一つにくくられている。ただその顔だけは抜けるような白さで、月の光を浴びてきらきらと輝いていた。そしてそこに刻まれた端正な顔立ちは、今まで会ったたくさんの姫たちの誰よりも美しかった。

「……まさか……君はエクレア……?」

 ロイは半信半疑だったが、女は深くうなずいた。

「そうよ。……でも、城の住人がわたしの名前を知っているなんて思わなかった。とても光栄だわ」

「それが牢に繋がれている男でも?」

「城の住人に変わりはないでしょ」

 エクレアはそう言って笑った。笑うと急に幼く見える。彼女が十八のロイより年上なのか年下なのか、判断するのは難しかった。

「それにしても……君は盗賊だろ。だったらどうして塔牢なんかに来たんだ?」

「それはね……あなたの髪」

「髪?」

「窓から一瞬だけ、金色に光るものが見えたのよ。きっと黄金か何かだと思った。でも違ったわ。あなたの髪、月光に照らされてると本物の金より輝くのね」

 エクレアに見つめられて、ロイは自分の髪が熱くなって今にも燃え上がりそうな気がした。思わず一歩後ろに下がると、エクレアは怪訝そうな顔になった。

「どうしたの?」

「……いや、別に……。それより、僕の髪を盗むのはやめてくれるとありがたい。まだ坊主にはなりたくないんだ」

「そうね。確かにあなたには似合わないわ」

 エクレアはくすくすと笑い出し、つられてロイも笑った。捕まった時は、もう一生笑うことなどないと思っていたのに、今こうやって盗賊娘と二人、いつまでも笑っている自分が不思議だった。

 その時、塔の下からこつこつと石段を上る音が響いてきた。誰かがロイの様子を見に来たのかもしれない。ロイは慌ててエクレアを見た。

「君、早く逃げないと捕まるよ」

「そうみたいね」

 エクレアは素早く窓辺に寄って、そこに腰掛けた。

「ねえ……お願いがあるんだけど」

 近づいてきたロイに向かって、エクレアはいきなりその細い腕を伸ばした。

「ちょっとだけ手を握っていてくれる?子供の頃から軽業かるわざを仕込まれてきたわたしでも、飛ぶ直前は迷子の子猫みたいなものよ。体が震えて仕方がない」

「いいよ」

 差し出されたエクレアの手は、本当に震えていた。ロイはその手を両手で握りしめる。華麗に屋根を跳び回る盗賊エクレアでも、怖さに震える時があるのだ。

一この娘は、天使でも女神でもない。ただの人間なんだな……。

「ありがとう」

 彼女は突然ロイの手を放し、宙を舞った。その足が塔の壁を蹴り、一瞬その姿がかき消える。やがて居館の屋根に、ほっそりとした影が降り立つのが分かった。

一よかった……無事で……。

 ロイが思わず安堵のため息を漏らした時、牢を閉ざす鉄格子の向こうから声が聞こえた。

「ロイ王子」

 その声をロイは知っていた。振り向いたロイの前には、昨日までロイの従者であった男が立っていた。

「明朝、日の出とともに、王子の処刑が執り行われます。どうかご覚悟をお決めください」

 男はうつむいたまま、ロイの顔を見なかった。

 この男は、最初から大臣と通じていたのかもしれない。でも、もうそんなことはどうでもよかった。むしろ、いままでロイのために忠実に仕えてくれていたことがありがたかった。

「わかった。知らせてくれてありがとう」

 ロイは静かにそう言った。すると男は、突然両膝をついて声を詰まらせた。

「……まさかこのようなことになるとは……。王子のお命だけは助けていただけるものと思っておりましたのに……」

「もういい、早く行け。時間がかかっていると、お前まで妙な疑いをかけられるぞ」

 ロイの言葉に、男は深く頭を下げその場を後にした。

 男が去ると、ロイはもう一度窓辺に寄って下を見下ろした。もうエクレアの姿は見えない。夜の闇の向こうに消えてしまっていた。

一でもあの姿は、まだ瞼の裏に焼き付いている……。

 ロイは目を閉じて、エクレアの姿を思い浮かべた。

一できることなら、もう一度だけ会いたかった。……でもそれは、かなわぬことなのだな。

ロイはひざまずき、静かに涙をこぼした。



 夜の間、ロイは一睡もせず窓際の壁にもたれていた。

 様々なことが頭をよぎり、すぐに消えていく。でも最後には、エクレアの面影だけが残った。今のロイにとって、彼女に出会えたことが唯一の慰めだった。

一……もうすぐ、夜明けか……。

 外がわずかに白んできた気がして、ロイは立ち上がり窓から顔を出した。見ると、東の空の端に光の帯が見える。そのきらきらとした輝きは、エクレアの瞳を思わせた。

「きれいだ……」

 引き寄せられるように見つめていると、突然その光の帯から何かが飛び出したのがわかった。それは空を飛び、すさまじい速さでこちらに向かってきていた。

「……鳥……か……?」

 やがてその姿がはっきりとしてくる。飛んでいるのは空鳥と言って、この国だけに棲んでいる巨大な鳥であった。生まれたときは真っ白だが、年を経るにつれてその翼が茶色に変化する。この鳥はまだ若いのか、翼は白に近く、わずかに黄色みがかっていた。

一なぜあんな鳥がここに……。

 その時、ロイは空鳥の上に人が乗っていることに気付いた。その人は、黒い服を身にまとい、長い黒髪を後ろになびかせていた。

「……エクレア……」

 彼女に焦がれすぎて、幻を見たのかもしれない。最初はそんなことを疑った。でも、彼女は幻のように消えたりはしなかった。エクレアを乗せた空鳥は、猛烈な勢いで近づいてきてロイのいる窓をかすめた。

「次に来たら飛び移って」

 空鳥が通り過ぎる瞬間、エクレアの声が聞こえた。ロイは思わず息を飲んだ。

 そっと下を見下ろすと、相変わらずおもちゃのように小さな家々が見える。ここから鳥に飛び移る……そんな荒業が自分にできるのだろうか。

 恐怖が足元から這い上ってくる。見ると、自分の手足は小刻みに震えていた。

一ああ……昨日のエクレアと同じだ……。

 彼女はいつも、こんな恐怖に打ち勝ってきた。

『自分にはできない』などと泣き言を言っていたら、エクレアに笑われる。

 ロイは窓の縁に手をかけ、体を持ち上げた。東の方から、翼を広げた空鳥がこちらに向かってくる。上に乗ったエクレアが両手を広げた。ロイはそのまま、彼女に向かって体を投げ出していた。


 宙にいた時間はどのくらいあったのだろう。一秒か二秒。いや、もっとわずかかもしれない。それでもロイには、永遠に感じられた。このまま地上に叩きつけられるのか。そんな不安が体を硬直させた。

 でも彼女の暖かい腕が、ロイの不安をかき消した。

「案外筋がいいわね。盗賊になったら?」

 耳元で囁くエクレアの声が聞こえる。ただそれだけで、全身に力がみなぎるようだった。

「いや。僕には無理だよ。心臓がいくつあっても足りない」

 ロイの正直な言葉に、エクレアは声を立てて笑った。そして手に握った手綱を引き絞った。

「城の兵に見つかる頃よ。もっと高く飛ぶわ。体を伏せて」

「わかった」

 空鳥が首を上げ、大きく羽を動かした。ロイは体を倒す。直後に、すぐ下で

たくさんの矢が風を切る音が聞こえ始めた。しかし、矢はすべて眼下を通り過ぎ、弧を描いて地に落ちた。そしてロイが閉じ込められていた塔が、瞬く間に見えなくなっていった。



「もう、大丈夫ね」

 やがて彼女の声が聞こえて、ロイはのろのろと体を起こした。二人を乗せた空鳥は、悠々と空を飛び続けている。激しい向かい風がロイの体をなぶっていたが、それはむしろ心地よかった。

「気分はどう?」

 エクレアは首をかしげてロイの顔を覗き込んだ。

「……悪くはないよ。……でも、どうして僕のことを助けてくれたんだ?」

 わずかな沈黙の後で、エクレアは心持ち背筋を伸ばした。

「わたしは、怪盗としての自分に誇りを持ってる。だから、一度忍び込んだ塔から手ぶらで帰るわけにはいかないの」

「それで……僕を……」

「そう。きれいな金の髪を持つ王子様を連れ出した」

「君は……知っていたのか?」

 ロイは、自分の身分を彼女に知られているとは思っていなかった。一抹の不安が、ロイの脳裏をかすめた。

「……僕をどうするつもり?」

「そうね。あなたほどの器量と王子の血筋があれば、人買はいくらでも金を出すでしょうね。世の中には、あなたを欲しがる金持ちがいくらでもいるのよ」

「…………」

「でもね。わたしはそんなつまらないことはしない」

 エクレアはいきなりロイの顔を引き寄せ、ロイの唇に自分のそれを押し付けた。暖かくて柔らかな感触が、ロイの思考を麻痺させる。ロイは固まったまま動けずにいた。

「わたしが盗むことにしたのは、素敵な金髪王子の唇。二つとないお宝を、価値のわからない人買や金持ちに売ったりするものですか」

 ロイは半ば口を開いたまま、エクレアの顔を見つめた。

「どうしたの?そんな顔をして。わたしに唇を奪われたことが許せなかった?」

「……あの……今のキスなんだけど……。もう一回……今度は僕の方からってわけにはいかないかな。……さっきは驚きすぎて、よく覚えてないんだ……」

 ロイはしどろもどろになりながら、何とかそれだけを口にした。

「ふうん、そうね」

 エクレアは少し頬を上気させ、かすかに口角を上げた。

「わたしは盗賊でしょ。だから盗まれることには慣れていないの。でも、たまにはいいかな。盗まれるってどんな感じなのか、わたしに教えてくれる?」

 エクレアがそっと目を閉じる。ロイは彼女の肩を抱いて、薄桃色の唇にキスをした。彼女の体温が、自分の体温と混じり合う。彼女が相手なら、奪うのも奪われるのも、同じくらい心地いい。目くるめくような恍惚だ。

 しかし、この幸せは長くは続かなかった。エクレアが突然ロイから体を放し、空鳥の手綱をつかんだからだ。

「これから着陸するわよ。しっかりつかまって」

 空鳥が頭を下げ、急激に高度を落とす。ロイはキスの続きをあきらめて、エクレアに従うしかなかった。



「ここは……」

 空鳥が下りた高原の真下に、広大な城の敷地が見えていた。ロイも何度か訪れたことのある、隣国の城だ。

「この城には、僕の姉が嫁いでいる」

「そうね。よい国づくりをしている王家よ。きっとあなたの力になってくれるわね」

「……エクレア……」

「ここで準備をして、いつかわたしたちの国を取り戻してね。あなたはきっと、いい王になるから」

「ありがとう」

 エクレアの心遣いがうれしくて、ロイはこみあげてきた涙をこらえた。

「さあ、降りて」

 エクレアに促されるまま、ロイは空鳥から降りた。しかし、エクレアは座ったままだった。

「エクレア。もしよかったら、僕と一緒に来てくれないか」

 ロイは必死だった。満ちてきた別れの予感を、どこかに吹き飛ばしたかった。

「あなたと一緒に?それは騎士としてかしら。それとも軽業士かるわざしとして?」

「君が望む形で構わない」

「だったら『盗賊』よ。決まってるじゃない」

「それは……」

 エクレアはロイの手を握った。夕べ塔から飛び降りた時のように、冷たく震えていたりはしない。優しい陽だまりのような手のひらだった。

「わたしは盗賊として生きる。あなたは王子として。お互い絶対に譲れない。だからさよならしなきゃね」

 エクレアが手を放して、空鳥の手綱を引いた。空鳥がふわりと舞い上がる。

「エクレア!」

 ロイは、空に向かって声を張り上げた。

「いつかまた会える?」

「きっと無理ね。わたしは稲妻の名前を持つ盗賊よ。あなたにわたしは捕まえられない」

 エクレアは投げキッスを飛ばし、そのまま急浮上した。空をかける光となった彼女は、本当にきらきら輝く稲妻のようだった。

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