5.反撃
禾峯露は沙漠の中継地として賑わっていたが、さほど大きな街ではないので商業のみでは生活は成り立たない。そこでこの街に定住する人々は、基本的に農業と放牧で生計を立てていた。この付近は乾いた土地ゆえ、低地に耕地を求めるのは非常に難しい。しかし禾峯露は背後に峻険な山を抱えており、そこが耕地や放牧場となっていた。山の下から階段状に畑が作られ、登るのが困難になる辺りから柵が設けられ、そこから上、森林限界までが家畜の放牧場となっている。
しかしそうは言っても拓き易い場所のみが拓かれているわけで、山全体が切り拓かれているわけではない。ほとんど未開といってもよい森が、耕地や放牧場の脇に黒々と横たわっている。そしてそちらへ向かった嵐は、藪の中に身を隠して、大きく息をついていた。
「むう〜〜…ちと参ったのう…」
呟いてふうっと溜息をつく。藪は身を屈めた嵐がちょうど隠れることができるくらいの高さで、外からは様子を窺うことができなくても中からは外の様子がだいたいわかる。そして溜息をついて天を仰いだ嵐の視線の先、鬱蒼と茂る木々の間を飛び交う蝙蝠の様子が、嵐にはよく見えた。
「まあ、予想はしておったとはいえ…ちと数が多すぎる。これでは動くに動けんのう…」
聴こえるか聴こえないかの笛の音を頼りに山の入り口まで来た嵐は、森に入る獣道を選んだ。どう考えても畑や放牧場に怪しい輩がいるとは考えにくかったからである。
今は日中である。畑仕事や放牧場に出ている者もいる。そんな人目につくところに見慣れぬ余所者がいたりしたら、いくら外来客が多く、それに慣れている禾峯露の住民であっても何者か、何をしているのか、怪しむに違いない。何かことを起こそうとするのにそんな危険を冒す必要は全くない。普段ほとんど人の入らない森という好都合な場所があるのだから。
その嵐の判断は恐らく正しかった。森に一歩足を踏み入れるなり、気味の悪い羽音が森中を飛び回っているのがはっきりわかった。奇怪な鳴き声も聞こえる。いくら初めてこの森に入った嵐でも、これが異常な事態だというのは疑いようがなかった。
最初のうち、嵐は先ほどまでと同様に杖で寄って来る蝙蝠を叩き落としながら道無き道を進んでいた。しかしなにぶん数が多すぎた。ただ真っ直ぐ歩くことさえ困難な状況に、嵐は一時休憩を選ばざるをえなかった。見ると体中、傷だらけである。幸いどれもかすり傷程度であるが、無傷ではないというだけで精神的にも疲労がたまるものである。
「…しかもなんだか気分まで悪くなってきたのう…毒気にでも当てられたか…」
ふうっと嵐は大きく息をついた。気を取り直そうと陣を張った杖で軽く額を叩く。
結界はこのような場所であっても有効であった。藪の中に身を隠してはいるものの、その気になれば蝙蝠は彼を襲ってくるであろう。それが全くないのは、彼が身の回りに小さく張った結界のお陰である。しかしいつまでもこの中に隠れていても仕方がない。
「陣を張りつつ前進するというのも手だが…そんなことをしておっては日が暮れるしのう」
恐らく今の嵐の採れる方法で最も安全なそれは、避難するという場合ならば有効であろう。しかし今はこの事態を収めようとしているのである。そんな悠長なことはしていられない。なにか、別の方法を考えなければならなかった。
「…わし自身に、結界を張ることは…できんかのう?」
嵐は左手に握った杖をじっと見つめた。
この杖は彼が旅に出るとき、授かったものである。それまでは、多少使い方を習ったことはあったが、それも彼の勉強の一つでしかなかった。旅に出ると正式に決まり、そして彼の望みどおり、一人で、ということが決定したとき、この杖を授かった。
『外の世界は危険だ。お前を守るものはお前自身でしかない。生き延びたくば、この杖を使いこなすことだ』
「…使いこなすというてものう……」
嵐は目を伏せてそっと杖に額を寄せた。こうしているとなんとなく気分が良くなってくる。呼吸も楽に、疲労も軽く。杖の持つ浄化の力が働いているのかもしれない、嵐はそう感じた。
(確か『聖域』の基本定義は「何らかの手段によって聖別されたもの」。場所や空間に対して当てはめると「結界」もしくは「陣」と呼ばれるものになる。しかしものを聖別することもできたはず――…ならば――)
嵐は両手で杖を握ると、改めてじっとそれを見つめて精神を集中した。精神が集中するほどに意識が澄み、それとともに外界の全てが朧になってゆく。だんだんとクリアになってゆく意識の中で、幾つかの道を手繰り寄せる。その中に、彼の求めるものが垣間見えた。
(これか…)
嵐はそれに意識を集中する。全て邪なものから聖なるものを分け、別なものとして明らかに区別をする。悪しきもの、邪なもの、全ての穢れを寄せ付けない、聖なる存在。それを、可能とする力。
(そを、我が身に――)
強く念じる。一瞬、嵐の意識の中で白い光がはじけ、そして彼は一点に収斂していくイメージを見た。
ゆっくりと、嵐は目を開けた。何とはなしに、全身が軽くなったような気がする。全身の傷はそのままで、いまだ血が滲んでいたが、その痛みもあまり気にならなかった。
(いける、か――?)
ゆっくりと嵐は立ち上がった。目を上げて飛び交う蝙蝠たちを見るが、先ほどまでなら姿を見るなり飛び掛ってきていた蝙蝠たちがなんとなく遠巻きにしている。
「いこう」
低く、自分に呟くと、嵐は藪から踏み出た。
不穏な空気は変わらないままであったが、今は進める、そう嵐は感じた。
(あとは、どこまでもつか、という気もするが――)
嵐の周囲を蝙蝠たちが飛び交っていく。真正面から飛びかかってきて、寸前で慌てたように僅かに進路を変える。
とりあえず進むしかない、そう嵐は腹を括ると、足を速めて歩き出した。
山の中の道を歩む嵐の耳に、蝙蝠の羽ばたきに紛れて笛の音が聞こえている。街中にいるときには微かな響きのみしか聞き取れなかったものが、ここに来て確かな音として聞き取れるようになっていた。その場所に、確かに近づいているのである。
しかしその場所へ近づくにつれ、困難も増える。蝙蝠の群れは既に濃厚な密度をもって嵐の行く手を阻もうとする。羽音に鳴き声、羽風に乗る息の詰まるような臭い。嵐自身はその身を守る結界のために実害というものはないものの、気分のいいものではない。
(気持ちが悪い…)
嵐は小さく息を吐いた。大きく息を吸い込むこともできない。空気そのものが穢れているような気さえする。息が詰まって、眩暈を起こしそうになる。
はっとした彼の目に、真正面からつっこんでくる蝙蝠の姿が映った。目の前に黒い毛に覆われた蝙蝠の腹が大写しになる。思わず嵐は両腕を上げて顔を庇った。何もぶつかりはしなかったが、嵐の体が大きく傾ぐ。思わず目を瞑った嵐の脳裏に何かが小さくはじけるようなイメージが浮かぶ。
(結界…が……!?)
鈍い衝撃。無意識の内にとった受身のために後頭部強打はなんとか避けたものの、尻と背中をしたたかに地面に打ち付けて、衝撃に息が詰まる。
「う……!」
嵐は思わず呻き声をもらす。
「あ……っ!」
そのとき嵐は自分以外の者の声を聞いた。ざざっと草を掻き分ける音も聞こえる。嵐が目を上げると、何者かが草を掻き分けて跳びこんできて、地面に転がる彼の手前で大きく跳躍する。そして高く跳んだ空中で、両手で掴んだものを振りかぶる。嵐が見ると、それは大きな松明のようなものであった。そして低い気合とともにそれを大きく振り回す。炎が大きく弧の軌跡を描いて弾けた。飛び交っていた蝙蝠たちが一際耳障りな鳴き声を上げて一斉に飛び去っていく。
きれいに円を描いて飛び散った炎の欠片がちりちりと草を焦がす、その中にふわりと人影が着地する。そして膝を付いた姿勢からゆっくりと立ち上がった。そしてゆっくりと首を廻らして嵐に視線を向ける。左右の腰に下げられている刀の鞘が僅かに音を立てる。黒いチュニックの背中で無造作に束ねられた長い黒髪。振り向いた顔は非常に整った端正さで、ただしそこに浮かぶものは実に複雑そうな表情であった。
「…大丈夫、ですか」
「ああ、うむ」
答えながら嵐は半身を起こした。したたかに打ち付けた腰が痛んだが、特に怪我をしたわけではなさそうであった。
「助けられたようだのう。すまぬ。感謝する、紅珠」
「…いいえ。大したことではないから」
ぱんぱんと土埃をはたいている嵐を、紅珠は眉を顰めながら見下ろしていた。
「…何か言いたそうだのう」
視線を感じて嵐が紅珠を見返す。紅珠は険しい表情で何か言いかけて一旦口を閉じる。それから再びゆっくりと唇を開く。
「…あなた、馬鹿でしょう」
簡潔すぎる言葉に一瞬反応することも忘れて、嵐はまじまじと紅珠の顔を見上げる。
「あなた、どうやってここまで生きてこれたんです?あなた、戦える人じゃないでしょう。武器も持っていない、体術もさほどではない、あまりにも無防備すぎる。…どうしてそんなんでここまで来たんですか」
紅珠の口調には容赦がない。呆れとも怒りとも取れる言葉に、内心嵐は苦笑する。しかし彼はそれを表には出さない。
「そういうおぬしも随分とタイミング良く割って入ってきたではないか」
表情を消した嵐を、紅珠はじっと見つめる。
「タイミングが良すぎたのう。まるでずっと様子を見ていたようだったわ」
「…別に他意はない。恩を売ろうとも思っていない。成りゆき上だ。…と言うか」
紅珠の表情も口調も冷静なものであった。
「正直、ここまで戦えないとは思っていなかったのだ。一人で店は跳び出していくわ誰にも声をかけずにこんなところまで入り込んでいくわ…」
一つ頭を振って続ける。
「あなた、ただ無謀なだけじゃないですか」
(…反論はできぬがのう)
嵐は内心苦笑を禁じえない。紅珠の指摘することは一々もっともなのだ。嵐は自分の無謀さを承知の上で、しかしここまで来ている。無謀さは承知しているが、実のところ無策では、なかったりするのである。
「…戦士どもが頼りにならんからのう」
嵐がぼそりと呟く。それを紅珠が聞き咎める。
「なに?」
「無謀なのはわしではないであろう。頭に血を上せててんでんばらばらに店を跳び出していくわ、その上無策のまま蝙蝠どもに翻弄されておるわ…その上それを見殺しにする奴もおるし。頼りになる者がおらんのでは、非力でもわし一人で動くより他ないではないか」
飄々として嘯く嵐に、紅珠がさっと頬を紅潮させる。
(この人…!!)
しかし瞬間的に上がった体温は一瞬で戻る。平静に戻った心中で紅珠は深く深く溜息をついた。
(…一番係わり合いになりたくない人種だわ)
常に平常心を保ち続ける自分の冷静さを、このときばかりは紅珠は恨めしく思った。そして常に本質を探りそのときの状況に最適の結論を見出そうとする自分の優秀な現状認識分析能力を。
「…で、どうします?このまま不毛な会話を続けていても意味がないと思いますけど?」
結局先に折れてしまった自分を、紅珠は苦々しく認めた。嵐はそんな紅珠の様子に、悟られないくらい小さく笑みを浮かべると、改めて紅珠に視線を向けた。
「それでおぬし、何故ここに来たのだ?」
「何故…って」
それは私の方が聞きたい、と紅珠は思った。彼女は嵐を追ってきたわけではない。彼女の行った先に嵐がいたというだけのことである。
「宿でのおぬしの発言を聞く限りではおぬしは出てこんように思えたがのう」
嵐は紅珠に視線をやりつつ自分の着物の袖を裂いて血のにじむ傷口を縛って応急処置をしている。紅珠はそっと半眼を伏せて、口を開いた。
「確かに。あのときは外へ出るつもりはありませんでした。でもそういうわけにもいかなくなったのでね」
嵐が憮然としたような紅珠の台詞に意味ありげな視線を向ける。しかし彼女の表情は読めなかった。
「最初は本当に放っておこうと思ってたんですがね。別に私が何かする必要もないかと。でもどうやら早々に収拾をつけないといけない状況らしいとわかったので。ここに来たのは別に思いつきでもないしあなたを追って来たのでもないですよ。私は私なりに確証を得たからここへ来たんです。この事態を収拾させるためにね」
そこで紅珠は目を上げた。そして嵐に視線を据える。
「私の方こそ訊きたい。あなたはどうしてここにいるのです?」
紅珠の視線は真っ直ぐで、強い。少しの嘘も見逃すまいという光に満ちている。
(…我の強い奴だのう)
そう思ったが、しかしなんだか少し楽しいと嵐は感じていた。
嵐がふと表情を変えたことに、紅珠は気がついた。嵐が視線を上に向けた。
「おぬし、聴こえぬか?わしには笛の音が聴こえるのだが」
「え…」
突然の嵐の言葉に、紅珠は少々戸惑いつつも嵐の視線を追う。
「わしはこう考えたのだ。蝙蝠は人間と同様の思考を持つことはない。あやつらはあくまで野生の動物なのだから。その行動は基本的に本能に従っているはずだと。蝙蝠の行動は食料調達に繁殖行動。しかも基本的に草食でおとなしい。小虫を食べるということはあるが他の動物を襲うなどということは聞いたことがない。しかしあやつらは明らかにわしらを攻撃対象としてとらえておる。執拗にわしらにつきまとい、戸や窓を破ってまで攻撃を仕掛けておるのがその証拠。これは通常の奴らの行動ではない。では、それは何故か」
「…何者かに操られているとでも?」
紅珠が低い声で言う。彼女はやや眉を顰めた表情をしているものの、とげとげしい印象は薄らいでいた。
「そうだ。おぬしも知っておろう?蝙蝠の特徴。奴らの耳は非常に発達しておってほんの微かな音でも聞き分けられる。そしてそれを互いの意思疎通の手段としておるということ」
「超音波、でしたかね。通常私たちの耳に聞こえるよりも遥か高音域の音」
紅珠の受け答えに、嵐は満足していた。
(思った通り、こやつ頭が良いわ)
知識があるというだけではなく、理解力にも優れている。
「なるほど、音か……」
一方、紅珠は何やら考え込むように視線を落としている。嵐が黙って見ていると、紅珠はややあって視線を上げた。素早く右の手が腰帯の間から一本の細いナイフを抜き出す。そしてそれを一つも無駄のない動きで投じる。さすがに驚いて目を見開いた嵐のすぐ脇をナイフが飛び、どす、という鈍い音と小さな悲鳴が彼のすぐ後方で起こった。嵐が振り向くと、地面に深々とナイフの刺さった蝙蝠が一匹、落ちていた。紅珠は無言でそれに歩み寄ると、まだぴくぴくと蠢いているそれにもう一度ナイフを深く突き立て、それから抜いた。そして嵐を振り返る。
「…これを見ていただけます?」
紅珠はナイフで蝙蝠の額の辺りを示している。嵐はかなりこわごわ屈みこんで、彼女が示す辺りを見る。紅珠は額の辺りにナイフの腹を当て、ぐ、っとそれを押しやる。それにつれて黒い剛毛に覆われた肉が僅かに動いた。その下から現れた、硬質な濡れた黒。
「…目玉?」
嵐の呟きに、紅珠が小さく頷いた。
「『三眼飛鼠』という名を知っていますか?」
紅珠の告げた名に、嵐は少し記憶を辿る。
「三つ目蝙蝠、ともいうようですけど」
「サンガン…おお、確か西方の国の神話にその名が現れておったな。邪悪な神の手下であったか」
嵐の答えに、紅珠は数度目を瞬かせた。
「よく知ってますね」
「と言っても知っておるのはそのくらいだ。どこの国の話であったか…今はちと思い出せん。ほんの下っ端の幻獣であるということぐらいしかのう…」
それでもそれだけ知っていれば大したものだと紅珠は思う。しかも彼は『三つ目蝙蝠』ではなく『三眼飛鼠』の方に記憶が引っかかっている。更にそれが西方の神話であるということも知っていた。だから、彼女は素直にその思いを口にする。
「いえ、それだけ知っていれば大したものです。大抵の人は知りませんよ…『三つ目蝙蝠』なんて言ってもそれがどんな存在であるかなんて、知らない人がほとんどでしょうね」
言いながら、紅珠は軽く肩を竦める。嵐はそんな彼女を興味深そうに見る。
「おぬしはよく知っておるのか?」
「よく…というほどではありませんけど…」
軽く首を傾げてみせながら、紅珠は手短に説明した。
『三眼飛鼠』は西方から吐蕃に伝わってきた神話の中に登場する。ちなみにそのストーリーは吐蕃では断片的にしか知られていない。恐らく伝わってくる途中でそのほとんどが散逸してしまったものと思われる。元のストーリーを探ろうにも、どうやらその神話の語られていた国は既に滅びて久しいもののようで、原本が喪失してしまっているらしい。当然『三眼飛鼠』とは吐蕃の言葉である。本来その国でどう呼ばれていたものか、今でははっきりとはわからない。
それはともかく、三眼飛鼠はその名が示す通り、三つ目の蝙蝠である。その姿は一見、普通の蝙蝠と変わるところはない。しかし全身くまなく黒くて短い、硬い毛に覆われており、三つの目も黒い。それはやはり普通の蝙蝠とはやや異なっており、不気味である。そしてその気性も、異なっている。
三眼飛鼠は邪神に仕える幻獣であり、基本的には闇を好む。しかしそれは光の下では全く生息できないということではない。ある程度の条件が整えば、光の中でも活動できるのである。それは彼らが邪神の手下の中でも一番の下っ端であるということが、かえって良い方に働いた結果でもある。その神話の中では邪神は光とは正反対の暗黒の存在であり、光を最も苦手としているのである。ゆえに、その神話の中で三眼飛鼠は邪神の先鋒という役割が与えられている。
「世の乱れる時、三眼飛鼠が蔓延り始める。不安と恐怖と闇の種が撒かれ、人心が乱れ始めたとき、邪神が動き出す――と、その神話では語っているようですね。うろ覚えですけれども」
「にしてはよく知っておるのう」
嵐の言葉に、紅珠は苦笑を返した。
「私はこの沙漠で生きてきましたから。西の情報にはかなり詳しいんですよ」
それにしても詳しいと嵐は思った。嵐は今までにかなりの量の本や資料を読み漁り、知識を蓄えてきた。それは地理や歴史に始まり、算術や天文学、更には建築学や力学、植物学や地質学に至るまで、この世のありとあらゆる知識を読み漁り、蓄えてきた。その範囲は大陸の東西を問わない。全て、知り得る限りのものを吸収しようとしてきた。そのことに関して、彼は自分自身に絶大な自信を持っている。しかしそんな彼にしても、紅珠の語る西方の神話は、未知の分野であった。
(いかんいかん、今はそんな場合ではない)
思わず知的好奇心が疼きだしている自分を、嵐は諌めた。その間にも、紅珠の話は続く。
三眼飛鼠の特徴は何よりも三つの目。そして明るい昼日中でも活動できること。そしてもう一つ。
「火を嫌うのです」
「火?」
「そう、火というか、炎です。それは特に三眼飛鼠に限った特徴ではありません。邪神に仕えるものは並べて炎を嫌います。それは邪神が炎を最大の弱点としていることによるものだそうですが…」
「それで、そのトーチか」
嵐が紅珠の左手に目をやった。紅珠が頷く。
紅珠は山に入る前に手近な道具でトーチを作っていた。やや長めの棒に布を巻きつけて固定し、それにたっぷりと油を染み込ませて火を灯す。最も原始的で簡単なトーチである。棒はその辺りに落ちていたもの。布は見当たらなかったため、自分の着ていた上着を使った。ややもったいないようではあるが、こういう点で彼女は思い切りが良かった。
「それで、今やつらは近づいてこないのだな」
嵐が上空を振り仰ぐ。嵐の張った結界は既に壊れている。やはり自分自身に張る、というのはかなり無理があったようで、集中力の途切れた瞬間、自分の中で何かがはじけてしまったのを、嵐は感じた。にも関わらず、こうして彼らが話している間、蝙蝠はほとんど近づいてこようとしない。
「時間の問題ですけどね。このトーチもそう長くはもたない。その前になんとか根本的な原因を取り除かなければ…」
紅珠が形の良い眉を顰める。
「おぬしには原因がわかっておるのか?」
嵐の言葉に、紅珠は暫く迷うような表情をしてから、頭を振った。
「はっきりとは…何しろ、幻獣の話ですから。基本的には現実世界には存在しないものでしょう?少なくとも現実的に考えれば」
「だが今のこの状況は夢でも幻でもないぞ」
紅珠は頷いた。神話の話を全面的に歴史的事実に直結させることは、彼女はしない。しかし直面している事象を無視してまで「理性」や「常識」にしがみつくほど、頑なでもなかった。
「こいつらが三眼飛鼠であると考えると…恐らく、近くにこいつらを操っているものがいると思われます」
嵐が強い視線を紅珠に向ける。
「それも神話の話か」
「…そうですね」
紅珠は肩を竦めてみせる。
「もちろん、そう思ったからこそ、私もここまで来たわけですから」
「…その辺はわしの判断とさほど変わらないと考えてよいのか?」
嵐の言葉に、紅珠は少し間を開けて、頷いた。
「そうですね。変わらないでしょう。笛の音には私は気付きませんでしたし…」
もちろん今では紅珠にも嵐の聞いていた音が聴こえている。それにしても街からこの音を聞き分けてここまで来たのだとすれば、かなりの集中力、かなりの聴覚である。恐らく嵐の感覚が並外れて鋭いのだろう、と紅珠は思う。
「…それに、間違いなく何かの気配がありますしね」
紅珠がすっと視線を動かす。その瞳からは先ほどまで嵐と話していたときのやや穏やかな光は消え、一転して鋭く、冷たいものに変わる。その視線の先には木々の間に隠れて深い藪が見える。そしてその先にやや草のはげた、土や岩の剥き出しになった斜面と、窪んだ影。
「洞窟、かな」
「恐らく」
短い会話が交わされる。
「行くか」
嵐が立ち上がろうとして、僅かによろめいた。紅珠がはっとして腕を差し出そうとする前に、何とか嵐は杖で体を支えた。
(先ほど腰を打ったせいか?しかしもう、ほとんど痛みはない…貧血を起こすほど出血もしておらん…では、この妙な息苦しさは…)
紅珠はそんな嵐の様子を眉を顰めて見つめていた。そして探るように視線を周囲に向ける。そして何かに気がついたかのように目を見張り、少し考え込む。
「大丈夫ですか?…ええっと…」
紅珠は嵐を呼ぼうとして、まだ名前を知らなかったことに気がついた。
「……ああ、嵐だ。そなたの名前は知っておる。この辺りでは沙漠の戦士・紅珠とは随分有名人であるそうだからのう」
「それは光栄です。それで――嵐さん?これを…」
「嵐、でよいよ」
言いつつ、紅珠が腰に下げた袋から取り出したものを受け取る。それは半透明の琥珀色をした小さな豆のようなものだった。
「体がだるいのではないですか。これで少しは楽になると思います」
言いつつ、紅珠は自分自身も同じものを口中に放り込む。それを見て、嵐もそっとそれを口に含んだ。ほのかな甘味と苦味が口中に広がる。飲み込むんですよ、との紅珠の言葉に従って、嵐はその苦味を飲み込んだ。
「薬丹か、これは」
「そんなものです。すぐに効き目は顕れると思いますよ」
紅珠の言葉の通り、嵐は全身の気だるい感じが薄らいでいくのを感じた。動いても眩暈を感じない。
「では、行きますか」
紅珠が右の手に刀を抜くと、草を掻き分けて歩き始めた。その後に、嵐が続く。紅珠の手にしたトーチの炎が近づくと、行く手の蝙蝠たちが慌てて逃げ去り、遠巻きに騒ぎ立てる。
行く手に森が途切れ、藪に半ば隠された洞窟が見えてきた。