4.襲撃
『棗の木』を出た嵐の耳を不吉な羽ばたきが打った。視線を上げた先では、いまだ空を斑に染めて蝙蝠の群れが飛び交っていた。
視線を落とすと、街中にいた者のほとんどは既に屋内に避難した後のようであった。それでも逃げ遅れた者や、逃げる途中で蝙蝠に襲われて傷を負い、動けなくなった者、または逃げたくとも動けなかった者など、まだまだ何人もの人が屋外で蝙蝠の群れから身を守るのに必死の状況であった。そして嵐よりも先に飛び出していった戦士たちも、やはり彼らを放っておくわけにもいかず、そこここで蝙蝠退治をしたり逃げ遅れた人の避難誘導をしたりと、辺りは騒然としていた。
(しかしこれではきりがないのう)
蝙蝠相手に武器やら布やらを振り回している彼らの様子を見ながら、嵐はそう思う。
まず、蝙蝠というものは動きが複雑で先の予測がつけにくい。もちろんそれは他の野生動物にもいえることであるが、蝙蝠の動きは、似たように翼を持つ鳥よりもさらに変化に富んでいて、どちらかというと昆虫の動きに近い。規則性があるようでいてなく、動きの先読みがしにくい。かといって後を追うにも人間の追いつけるスピードではない。狙うとするなら正に攻撃を仕掛けてくるとき、なのではあるが、それも先ほど『棗の木』店内で紅珠や嵐がやってみせたように、少数であるからこそ可能なことなのであって、多勢に無勢ではそれもあまり効果的な方法とは言えない。
(それにもう一つ、引っかかる点もあるしのう…)
眉を顰めつつ考えを廻らしていた嵐に、羽ばたきが近づいてきた。
はっとそちらに目をやった嵐は、間一髪、右腕の袖を振るって蝙蝠の攻撃をかわした。
(…ぼうっと考え込んでおる場合ではなかった)
内心で己を叱りつつ、嵐は駆け出した。動いている方が攻撃の対象になりにくいと判断したためである。その嵐を、先ほど攻撃をかわされた蝙蝠が空中で転回すると追ってきた。嵐は聴覚と全身の感覚を総動員してその気配を追う。
(3……2…1)
そしてタイミングを計って地面に身を投げる。地面で一回転する嵐の頭上を、再び攻撃をかわされた蝙蝠が飛び去ってゆく。一方、素早く身を起こした嵐は左手の杖で地面に自分を囲む円を描いた。そして張りのある声で宣言する。
「是は祓われた地なり。悪しきもの踏み入ること能わず」
そのときもう一度空中で転回した蝙蝠が再び嵐めがけて空を飛んできた。しかしそれは途中で阻まれる。地面に立て膝ついている嵐に届く前に、蝙蝠は見えない壁にぶつかり、弾かれる。そしてまるで雷撃に撃たれでもしたかのように全身を奇妙に痙攣させつつ、ぼとりと地面に落ちた。
「ふう……」
地面に落ちても尚びくびくと全身を痙攣させている蝙蝠を見て、嵐は大きく息をつく。
このとき嵐が使ったのは身を護る「結界」である。結界といってもこれは最も原始的なもので、何らかの方法で囲われた「陣」を、「それはどんな場所か」と宣言することによって意味付け、力を持たせるというものである。この場合は杖で地面に描かれた円が、嵐が作り出した「陣」であり、そこを聖域であると宣言することによって、目に見えない防御壁を現出させ、それに触れた蝙蝠を撃退した、というわけである。
「やはり、これはこいつらに対して有効なようだのう」
地面で痙攣を繰り返す蝙蝠から左手の杖に目をやって、嵐は呟く。
嵐の持つ杖はただの木の棒ではない。護身の力の秘められた、お守りであり防具であり、そして応用すれば武器にもなるという、非力な旅人にとってはうってつけの道具なのである。
先ほどの「結界」も、理屈だけなら誰にでも、どんな道具ででも可能なものなのではあるが、実際に力を持たせるには、それ相応の条件が必要になる。
例えば呪言を操ることによって様々な現象を引き起こす能力を持つ「呪言士」ならば宣言の言葉そのものに力を込めることができる。あるいは様々な超常的な能力を有する「術士」ならば、各々の持つ能力を護身の力に変換することによって結界を生むことができる。しかし嵐のように特別な能力を有していない者でも、何らかの力の込められた道具を使うことによって彼ら能力者と同様な現象を操ることが可能となる、というわけであった。
ふと視線を感じて嵐はそちらに目を向けた。すると傾いた天幕の陰で、さらに崩れた籠やそれに積まれていたのであろう果物の山の陰で、幼い子供が真っ青な顔をして震えながら、嵐の方を見ていた。
「おぬし…大丈夫か?」
はっとして嵐は立ち上がると、その子供の方へと駆け寄った。そして支えてやりながら先ほど作った結界の中に連れて戻る。見たところ7〜8歳くらいの痩せた少年であったが、よく日に焼けた、腕白小僧といったところであった。しかし彼も蝙蝠に襲われたらしく、頭から血を流しており、恐怖のためか顔からは血の気が引いている。嵐はその傷がそんなに深いものでもなく、既に血も乾きつつあるのを見て取って、少しほっとする。とりあえず応急処置にもならないが、懐から取り出した手拭いで傷口を縛ってやると、初めて少年が少しだけ笑顔を見せた。少年がありがとうと礼を言うのに、嵐は無言で頭を撫でてにっこりと笑ってやることで応える。
「にーちゃん、すごいねえ。もしかして術士かなんか?」
人見知りという言葉からは縁遠いらしい少年が、嵐に興味津々といった表情を向ける。嵐はそれに苦笑で答える。
「いや、わしはそんな大層な者ではない。ただこの杖がすごい力を持っておるだけなのだよ」
「へえ、じゃあこれって魔法の杖なんだあ。すっげー初めて見たよ、俺」
嵐が示してみせた杖を、少年はきらきらと目を輝かせて見つめる。その純粋な好奇心と尊敬の態度が嵐にはなんともくすぐったく、自然と全身の力が抜ける。
「…へえ、じゃあこれで囲んだところにはあいつら入ってこれなくなるんだ。だったらこの街全部囲っちゃえばいいんじゃないの?」
求められるままに簡単な説明をしてやった嵐に、少年が当然の疑問、あるいは提案を返す。しかしその言葉に嵐は頭を振る。
「いや、これはあくまで『外から入るもの』を入れないようにするためのものなのだよ。だからこれで囲んだ中に既にいるものには何らの効果を与えることもできないのだ。だから、今更この街を結界で包んでも意味がないのだよ…何とか、根本的にあやつらをこの街から追い出す算段を立てねばのう…」
呟きつつ嵐は視線を空に向ける。こうやって二人が話している間にも数匹の蝙蝠が二人を包む結界に撃退され、地面で無様に痙攣している。その様子をぞっとしない表情で見やってから、少年は視線を上げる。その先にある嵐のやや厳しい横顔を見ながら、ふと少年が嵐を呼ぶ。
「それにしてもにいちゃん」
ん?と振り返った嵐はどう見ても少年の両親よりも年上には見えない。下手をすると近所の少し年上の友達と同じくらいにすら見える。しかし。
「なんか、にいちゃんの話し方変だよ。うちのじいちゃんみてえ」
少年ゆえの邪気の無さで言い切られ、さすがに嵐は脱力した。自分でも自覚はしているしそう言われることにも慣れてはいたが、やはり直球を投げつけられれば多少は痛い。それで傷つけられるほど彼は若くも繊細でもなかったが。
「ちなみにおぬし、わしは幾つくらいに見えるかのう?」
ふと嵐が悪戯っぽい表情と口調で少年の目を覗き込んだ。
「ええ?……うーんと、浩にいちゃんぐらいかなあ…」
少年は近所の遊び友達の名前を挙げる。当然嵐にはそれが誰なのかはわからないが、その辺りには深く追求しなかった。
「そのホンとやらはいくつ何歳なのだ?」
「確かこないだ17とか言ってたかなあ」
「そうか…その者と同じくらいに見えるのだな」
くすくすと嵐が笑う。いや、その表情を見ればどちらかというと『にやあ』といった表現がふさわしいかもしれなかったが。それがどうかしたのか、と少年が問おうとしたとき、僅かに表情を変えた嵐がそれを制して立ち上がった。そして何かに耳を澄ませている。厳しい、と言うほど緊迫した表情には見えないが、それでも何かを感じて少年はじっと黙ってそんな嵐の様子を見つめる。
ややあってふっと表情を緩めた嵐が、少年の視線まで下りてきた。
「すまぬ。おぬしともっと一緒にいてやりたいが、そろそろわしは行こうと思う」
「……なんかあったの?」
「うむ、何とかなるやもしれぬと思うのだ」
あくまでも飄々とした表情と軽い口調で答えると、嵐は少年の頭を撫で、立ち上がった。
「おぬしはこの結界から出ぬようにな。その線さえ消えねばめったなことでこの結界が壊れることはないからのう。ああ、それから…」
結界を出ようとしたところで振り返った嵐が、極めつけに悪戯っぽい表情で笑ってみせた。
「ちなみにわしはおぬしの“ホンにいちゃん”の倍ぐらいは生きておるようだぞ」
そう言うと嵐は結界を出て走り去って行った。
後に残された少年はやや呆然とした表情でその後姿を見送っていた。
当初よりはやや蝙蝠の数の減った街中を、嵐は杖で身を守りながら駆け抜けていた。時折足を緩め、上空に目をやって何かを確かめるかのように耳を澄ませ、そして再び走り始める。
嵐を導くものは聞こえるか聞こえないかの、微かな音であった。高く高く、集中しないと聴き取れないほど微かな音。しかし気になり始めるとやけに鼓膜を振るわせる、耳障りな音である。
(そもそもおかしいと思っておったのだ)
最初の疑問は、「蝙蝠が人間を襲う」ということ自体。蝙蝠の習性を考えれば、まずありえないことである。たまたま大群で移動してきて、その途中にたまたまあったこの禾峯露の街を襲った、という可能性も考えないではなかったが、行きずりの襲撃にしては、妙に移動速度が遅い。
(最初はもしかしたらすぐに奴らは去っていくのではないかと思っておったのだが、そうもいかぬようだし。それに何より、しつこい)
次なる疑問。何故蝙蝠はまるで意思を持っているかの如く、執拗に襲ってくるのか。
たまたま自分達の進行方向に目障りなものがあるから、それを排除しようとしたり、自分達のテリトリーを確保したりするために他者を襲う、ということは、動物達が自然に持っている本能の内の一つである。もし仮にこの蝙蝠の行動をそのようなものと考えるにしても、その行動はいささか行き過ぎである。家屋の窓を破ってまで攻撃を仕掛けるなど、常識では考えられない。
これらから導き出される結論、それは「蝙蝠達は自分達、あるいは何らかの意思に基づいて襲撃を行なっている」というものである。
(ではその「意思」はどこにあって、それはどのようなものなのか?)
その意思が蝙蝠達のものでないとしたら、誰かが何らかの方法で操っている、そう考えるのが自然である。
(ではそれは何者で、どんな方法でこれだけの数の蝙蝠を操っているというのか?)
その疑問に対する答えを、嵐は高く響くその音に賭けてみたのである。
(確か蝙蝠には人間には聞き取れぬほど高い音を聞き取る能力が備わっているはず。通常ではそれを仲間内での情報交換の手段としていると考えられている。また弱い視力を補うものとしてもその能力を応用している。故に彼らは変幻自在な動きが可能となり、衝突の危険を回避したり、獲物の正確な位置を知ることも可能となるという。
では、もしそれを応用し、利用することができたとしたなら…?)
全ては推論である。そしてまた、彼の知識もあくまで「知識」であり、彼自身が実証したものではない。しかしこの「情報から現状を打破する方策を練る」能力、これが、純粋な戦闘能力という面では「人並み」の域をはるかに超えることのない嵐の持つ、特化した能力なのである。
はっきり言って、嵐は非力であった。それなりに体も鍛えていたし、人並みに武器を扱うこともできたが、決して人並み以上の力は持っていなかった。見た目の貧相さに反して体力はけっこうあり、持久力もあったが、腕力は人並みで、差し引きしてやはりどこまでも嵐の戦闘能力は「人並み」を超えることはないのである。彼の武器はあくまで彼の頭脳と左手の杖一本のみであった。
(この場を収めることは彼ら戦士たちに任せておけばいいだろう。何より、わしにはどうしようもない。この杖でできることはせいぜい、暫くの間身を護ることだけ…)
身を護る力を応用すると、先ほどのように結界を張ったり、杖で蝙蝠を叩き落したり、といったようなこともできるのである。「過剰防衛」あるいは「攻撃こそ最大の防御なり」ということである。
(高く響く、風を切り裂くような音――おそらく『笛』の音。その発信源さえ、つかめれば……)
走りつつ考えを廻らせ、そして全身の感覚を微かにしか聞き取れない音に集中させている嵐の目の前に、何匹目かの蝙蝠が現れ、反射的に振るわれた杖に叩き落される。しかしやや反応が遅れたためか、衝撃が反動として嵐の姿勢を崩す。
とっさに目の前にあった柵に掴まって転倒を免れた嵐は、ふうっと大きく息をついた。そして息を整えつつ視線をゆっくりと上げる。
いつの間にか嵐は街外れにまで来ていた。嵐が掴まったのは街境の柵で、そこから山に向かって踏み固められた土の道が続いている。おそらく畑仕事や放牧に向かう者達の使う道なのであろう。そして嵐を導いてきた音も、確かにその先から聴こえてくる。
「さて、……行くか」
(なんなんだ、一体こいつらなんだってんだよーーー!!)
『棗の木』を飛び出してきた戦士たちは、かなり混乱していた。
各自、経験に差はあるものの、いずれも腕に覚えのある者たちばかりである。店内での喧嘩に売り言葉に買い言葉で飛び出してきてしまったとはいえ、それはまったくの衝動ではなかった。自分たちの能力には些か以上の自信を持っていたからこそ、あの時投げつけられた『木偶の坊』『役立たず』の言葉に反発したのである。そして自信があったからこそ、こうして外に出てきてしまっている。しかし今、その自信が揺らぎ始めていた。
「限がないぜ…」
大剣を握った男が、大きく息を吐く。手に親しんだ剣でさえ、今は重く感じられる。時間的にはそんなに経過していない。いつもならば疲労など感じるはずもない。しかし今は剣を構えることさえつらいと感じてしまう。集中力も途切れがちである。
宙を舞い、攻撃を仕掛けてくる蝙蝠たちは、その数をやや減らしたように見える。しかしそれでも大群であることには変わりがないし、こちらが疲労しているのに比べて、まったくその動きに衰えが見られない。明らかにこちら側が翻弄されている。加えて蝙蝠の特徴。よみにくい行動。体の大きさ。黒く不吉な色合いに不気味な印象を与えるその姿。その全てが攻撃の腕を狂わせる。
「どうすりゃいいってんだよ…」
圧倒的に不利な戦況。しかし彼は逃げることはできなかった。それは彼の自尊心が許さなかった。そしてまた、戦う力を持たない者を守る、という彼の戦士としての誇りにかけても、今の状況に背を向けることは、少なくとも彼にはできなかった。
集中力に欠けた彼の耳が、空を切る音を捉えた。はっと顔を上げようとしたとき、いきなり彼は背後から突き飛ばされた。動転したままの彼の回転する視界に、長い黒髪の後姿が割り込む。その人物の細身の刀が鋭く空を裂く。ちっと何かが弾けるような音がして、僅かに赤い血煙が空に散る。
ぎゃあぎゃあと耳に煩い泣き声を上げながら蝙蝠が急上昇していった。その右の羽が不器用に羽ばたいているところを見ると、どうやらそちらに傷を負ったものらしい。微かに舌打ちをした人影が、彼を振り向く。顔に落ちかかった長い黒髪を煩わしそうにかきあげる、美しいその人物を、彼は知っていた。
「あ…あんた…」
名を呼ぼうとした言葉を、鋭い言葉が遮る。
「ぼうっとしてんじゃないよ!」
秀麗なその容貌に相応しくない言葉遣いも、よく知ったものであった。
「すまん…おかげで助かった。礼を言う。紅珠」
「礼なんていらない。それよりもとっとと立って」
紅珠の言葉に苦笑しつつも、彼は立ち上がった。
「あんたも出てきてたのか」
問うと、紅珠は微かに眉を顰めた。
「…ほっとけないからな」
その言葉にほんの僅か含まれた不本意そうな感情に、彼は少々意外そうな視線を返す。その視線を感じたのか、紅珠が彼の目を見上げる。
「私が出るまでもないと思っていたのだ。黙って待っていれば奴らはどこかへ行ってしまうだろうから。確かに異常事態ではあるが所詮は動物の行動。本能的な行動を人間の力でどうこうできるものではない…少なくとも、おまえもそう考えていたのであろう?」
類稀な美貌を至近距離に目にして、彼は些か動揺を覚える。普段は特に意識することのない、僅かに赤みがかった美しい瞳に、思わず魅入られてしまう。――どこか高圧的な言葉にも不快感を感じないほどに。
「嬰巾。私はあなたのことを…少しは知っている。あなたは腕力のみの考え無しの人ではない。……そうでしょう?」
紅珠はそう言って、軽く微笑みを見せる。同時に少し和らいだ口調に、彼――嬰巾の理由のない緊張がほぐれる。
「ありがとうよ、紅珠。…だが、あの時頭に血が上っていたのは事実だからな。――あんたは、それで出てきたのか。俺たちが飛び出してきちまったから」
「それもある。しかし少々悠長に構えてもいられなくなったのでな…」
今度は明らかに眉を顰めて、紅珠は言う。そして店内にまで蝙蝠が侵入してきたことを手短に説明する。
「なるほどな。そりゃあのんびりしてられねえ…でも、なんか手立てはあるのか?」
その問いには答えず、紅珠は早足で歩き始めた。嬰巾は慌ててその後に続いた。紅珠はちらりと振り返ったが、無言で歩を進める。
「…この辺りに術士か呪言士はいないのか?」
紅珠が振り返らずに問いを発する。
「そりゃあいてもおかしくはないが…どうしたんだ?」
「ちなみにあなたは?」
「俺か?俺は…多少明かりを灯すぐらいならな…」
その答えに紅珠がくるりと振り返った。
「“火”が使えるということか?」
嬰巾が頷くと、紅珠は少し考えるように俯いた。そして辺りに目をやって、一軒の民家に目を止めた。
「…!紅珠、また来た!!」
嬰巾が紅珠に鋭い言葉をかける。その言葉に紅珠は素早く周囲に鋭い視線を投げて確認すると、タイミングを計ってその場を跳び退った。嬰巾は紅珠とは反対側に跳び退きながら剣を振るが、ひらりとかわされる。その間に、紅珠は更に跳んで民家の壁際まで退く。その民家の壁際には三つの甕が並べられていて、しっかりと木の栓がしてあった。それを紅珠が手早く開けて中身を確かめる。甕の中の液体は黄味を帯びてとろりとしていて、仄かに甘い香りがした。紅珠の思った通り、それは油であった。
そのことを確認するが早いか、紅珠は自分の着物の裾を少し裂いて取り、それを甕の中の油に浸す。そしてその甕を抱えて立ち上がった。ちなみにその甕の大きさは紅珠が胸に一抱えするほどもあり、重さは幼児ほどもある。それを軽々と抱え上げることができる紅珠は、やはり見た目でははかれなかった。
一連の作業の間も目で追っていた嬰巾の方に向き直ると、凛とした声を張る。
「嬰巾!」
呼ばれて嬰巾が振り向く。
「あなたの火は飛ばせる!?」
突然の問いに嬰巾は面食らうが、頷く。
「少しなら飛ばせる。それがどうした!?」
その答えに紅珠は満足そうに頷いた。
「ならば手を貸してくれ。私が合図したらこれに火を!」
そう言って手の中の油に浸した布きれを示すと、答えを待たずに紅珠は行動に移る。
甕を抱えたまま紅珠は駆け出し、表の通りまで出る。わけがわからないまま、嬰巾もその後に続いた。少し開けた場所で紅珠は立ち止まり、嬰巾に視線を向けると手の中の布を示して放り投げた。
「嬰巾!頼む!」
言いつつ、その後を追うように甕の中の油を撒く。嬰巾が指先に生み出した火の玉を布に向けて放つ。宙に弧を描いて落ちる布が一瞬にして燃え上がる。炎の塊となって地面に落ちる布に、弧を描くように撒かれた油が触れる。炎は一気に回り、燃える帯となって地面に落ちた。更に紅珠は甕の中に残った油を地面にたらし、何かの文字のようなものを書く。その文字にも炎が燃え移る。
嬰巾がその場に駆けつけたときには、紅珠の作業は全て終わっていた。直径2メートルくらいの大きさで燃える炎の側で、さすがに大きく息を吐きながら、紅珠が嬰巾を迎える。
「…何をしたんだ?紅珠」
嬰巾が問うと、紅珠はそれには直接答えず、近くの木を見上げる。そちらに目をやった嬰巾はギョッとした。背の高い木の枝が黒々と膨れ上がるほど、蝙蝠がたかっている。嬰巾は思わず腰の剣に手をかけて後退ろうとするが、紅珠はじっとその場に立ったまま動かない。そしてじっと木にたかっている蝙蝠たちの様子を見つめる。
すると異変が起こり始めた。木に黒々とたかっていた蝙蝠たちの動きが、急にせわしなくなってきた。ざわざわと不吉な羽音がだんだんと大きくなってくる。周囲にいた者たちも異変に気付き、思わず視線を紅珠と彼女の見つめる木に向ける。
「おい紅珠…」
その場の妙な緊張に耐えかねたように嬰巾が紅珠を呼ぶ。しかし紅珠は何も感じないかのように身動きすらしない。炎は相変わらずごうごうと燃え上がっている。そして紅珠の見つめる先で、木にたかっていた蝙蝠たちが一斉に飛び立った。
「!!!」
反射的に剣を抜いた嬰巾は、しかし蝙蝠たちが奇怪な叫び声を上げながらふらふらと飛び去っていくのを見て、呆気にとられた。
「ふう」
紅珠が息を吐いて肩の力を抜いた。蝙蝠達はふらふらと狂ったように互いにぶつかり、木や家屋の屋根に激突したりしながら逃げるように飛び去ってゆく。やや呆然としたまま、嬰巾が紅珠に近づいた。
「…何をやったんだ?紅珠」
問うと、紅珠がゆっくりと振り向いた。
「見た通り。火を焚いただけだ」
「それは見ればわかる。だが何だってそれだけで奴ら、逃げ出していったんだ?」
重ねて問うと、紅珠が嬰巾に歩み寄る。そして背の高い嬰巾を正面から見上げてくる。二度目ではあるがやはりその美貌を至近距離で見つめるのは心臓に悪い、と嬰巾は思った。紅珠は真っ直ぐに嬰巾の瞳を見上げながら言う。
「ちょっとした思い付きだったのだ。蝙蝠は光や熱を嫌う。だからもしかしたら炎には近づかないのではないかと。…まあ、ここまで威力があるとは正直思っていなかったのだがな」
最後は苦笑のような表情になった紅珠は、ふっと目を伏せると再び顔を上げる。
「どうやらこれは効果があるらしい。退治するまではいかなくても多分追い払うくらいはできるんじゃないか」
「そうだな…確かに1匹1匹切り捨てるよりはよっぽど確かだな…」
嬰巾が頷く。紅珠も頷いてみせた。
「やってみる価値はあると思う。頼めるか」
「俺にか?」
嬰巾が目を見張って紅珠を見下ろす。
「頼む……幸い、皆も見ていたみたいだし」
紅珠が周囲に視線を向ける。道のあちこちで傷だらけの男達が呆然とした表情でこちらを見つめている。
「手分けすれば何とかやつらを町から追い出せるんじゃないか?」
紅珠が嬰巾に視線を戻して口許を緩めてみせる。その表情に、なぜだか嬰巾はほっとする。
「そうだな……で、おまえはどうするんだ?」
「私は私でやる。どこにやつらが入り込んでるかわからないからな。…頼んだ」
そう言ってさっさと踵を返す紅珠に、嬰巾が追うように声をかける。
「あ…おい、火は何でもいいのか?」
「ああ、なんでもかまわない」
紅珠は一度だけ振り向いて答えると、駆け出していった。
「……何か、訊きたいことがあったような気がするんだが」
どことなくぼんやりしたような頭をぶるぶると振ると、嬰巾は早足で歩き始めた。
昼日中に飛び回る異常性。奇妙に執拗な攻撃性。
炎を嫌う習性。そしてもう一つ。
「…認めたくないけれど、多分間違いないのだろう…」
空に視線をやって蝙蝠の群れの向かう方向を確かめながら、紅珠は町を駆け抜けていく。
そのことに気がついたのは、おそらく偶然であった。『棗の木』で襲われた女性を助けようと蝙蝠を切り捨てた後、その場を立ち去ろうとしたとき、ふと床でもがいている蝙蝠の姿が気になった。だから確かめた。そして彼女が得た結論は、非常識でにわかには容認しがたいものであった。しかし、可能性が1でもある限りは、それをまったく切り捨てるのは愚かなことであると彼女は考えていた。
「この分だと…向かう先は山…か」
それはある程度予想できていたことで、紅珠は不審には思わなかった。
山に入る道に出るため家の角を曲がって、紅珠は奇妙なものを見た。地面に蝙蝠たちが落ち、その真ん中に少年が一人座り込んでいる。
「……君、どうしたの?こんなところで」
紅珠が声をかけると少年が顔を上げた。頭に巻かれた布に僅かに滲んだ血が痛々しいものの、少年は元気なようであった。怯えてもいないようで、なんとなく紅珠はほっとする。
「これは、結界か?」
紅珠が尋ねると、少年は頷いた。
「君がかいたの?」
「ううん。俺じゃない。変なにーちゃんがつくったんだ」
少年が頭を振って答える。紅珠は頷いて、更に尋ねる。
「私も入っていいか?」
少年が頷くのを見て、紅珠は結界内に足を踏み入れた。
「!!!」
結界内に踏み入った瞬間、紅珠の全身を風が包み込んだ。否、正確に言えばそのような感覚があったということである。見えない壁ひとつを隔てて、外と中ではまったく空気が違った。
(気がつかなかったけれど、ずいぶん空気も汚されていたのか…)
それとも単に結界内の空気が清められているということか。紅珠は瞳を閉じて深く息を吸い込んだ。
沙漠の乾いたひりつく空気とはまるで違う、肌に柔らかい穏やかな空気。例えるなら深い森の中のような、濃い緑の水分を含んだ風。しかし森で感じるような重さはまるでなく、あくまでその風は軽く爽やかに、足下の大地から天へと吹き抜けていた。それは紅珠にとっては初めて感じる感覚であった。しかし今まで感じたどんな空気よりも穏やかで心地良かった。
(こんなに初歩的な結界なのに。何故こんなにも美しい空間を造ることができるのだろう)
「ねえちゃん?どうかした?」
呆然としたように立ち尽くしている紅珠に、少年が不安そうに声をかける。
「ああ、いや、なんでもない」
紅珠は気を取り直して少年に微笑んでみせる。
「この結界が、どうかしたの?」
どうやら先ほどの紅珠の態度が少年に不安感を与えてしまったようだ。拙いことをしてしまったと紅珠は反省した。
「そんなことはない。この結界はずいぶん立派なものだ。…あなたもこの中にいて、怖い思いはしなかったでしょう?」
紅珠は少年の目線に合わせてしゃがみながら、微笑みかける。紅珠の柔らかい声音に、少年もほっとしたように頷く。
「うん、あいつら全然入ってこれないし、なんとなく気持ち悪かったのも治ったし、何かすげえ安心できるんだ。変なにーちゃんだったけど、実はすごい奴だったんだね」
「その“にーちゃん”はどんな人だったの?」
紅珠の何気ない問いに、少年が答える。その証言が告げる男の特徴に、紅珠は心中目を見張る。
痩身短躯。赤茶けたくしゃっとした髪に十代半ばの少年にしか見えない容貌。左手には一本の杖。
心当たりがありすぎて、その意外性に紅珠は驚かざるをえない。しかしそんな感情は微塵も表に出ることはなかった。
「で、その人はどこへ行ったの?」
乱れた長い髪を手早くまとめ上げながら、紅珠は更に少年に尋ねる。
「あっちの方…多分、山に向かう方だと思う」
よくわかんないけど、と付け加える少年に、紅珠は頭を振った。
「いや、かまわない。――では、私はもう行くから。君はもう暫くここでじっとしているんだ。いいね」
髪の毛をまとめ終えて、紅珠は立ち上がった。瞬間、少年の表情に僅かに不安な影がよぎるのを見て、紅珠は軽く微笑んで見せる。
「大丈夫だ、もうすぐこの変なことも終わる。――終わらせてあげるから。だからもう少し、我慢してくれ」
「…本当に?」
「ああ。嘘は言わない」
頷いてみせると、紅珠は結界を出た。そして先ほど結界を張った人物が去ったという方向へと駆け出した。