3.『棗の木』
その日はよく晴れて風も穏やかな日であった。通りをゆく人も日よけ程度の被り物の軽装の人が多かった。背に行李を背負って歩いている嵐も、赤茶けた癖っ毛をさらして、袖や裾の解放された軽装でその中にいた。
通りを行き交う人波の中にあって嵐は、ひとことで言うなら目立たない存在であった。何よりも背丈が大抵の成人男子よりも頭一つぶんほど低い。無論、砂漠の旅がかなりの難路であることを考えれば、ここに集う人間は並の人間よりも屈強な体格と強靭な精神力をもった逞しい人間であることは当然のことであるので、嵐が格別に貧相だという証拠にはならない。しかしそれでも嵐の背丈が平均値よりも少し低く、逞しさからは程遠い体つきをしていたのは事実であった。
そんなわけでのんびりした表情でのんびりと通りを歩いている嵐ではあったが、この人通りの多い街路を歩くのはけっこう大変なことであった。むしろ人波を抜けてさっさと歩くほうが楽であったろうが、それでは情報が全く耳に入らない。とにかく今は何よりも少しでも多くの情報を手に入れたい嵐としては、苦労をしてでものんびり歩く必要があったのである。
人々の会話に耳を傾け、時には会話に参加しつつ、旅に必要なものを買い揃える。そうしているうちに嵐は街の中心にある酒場に辿り着いた。
重い両開きの分厚い木でできた扉を押し開けて中に入ると、まだ早い時間にも関わらず薄暗い店内には既に相当な人数の客がたむろしていた。扉を開けた正面がカウンターになっていて、左右の奥に卓と椅子が配置してある。カウンターの奥には階段があり、吹き抜けの二階には幾つかの扉が並んでいる。典型的な旅人の宿、といったところであった。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうででっぷりと太った男が愛想のいい笑いで嵐を迎えた。その身なりや如才無い態度から、彼がこの店の主人らしい、と嵐は察した。
「おや、お客さん一人かい。まあ、お好きな席にかけてくださいな。何か要るかい?」
如才無いというよりはただ単に商売熱心なだけなのかもしれない。男の妙に威勢のいい声に内心苦笑しながら、嵐はカウンターの端に座った。
香辛料の効いた数種類の豆の煮物に薄い固焼きパン、それに砂漠の入り口であるからこそ手に入る新鮮な果物。店主のお勧めを聞きながら、それらで嵐は少し早めの昼食を摂ることにした。
「…へえ、それじゃお客さん、お一人で砂漠を越えるつもりなんで?見た目によらず大胆だねえ。まあ、若けりゃあ何でもできるからねえ」
「若けりゃ…ね」
店主の言葉に嵐は微かに苦笑いをした。それはよく見なければ分からない程度のものであったが、店主は敏感にそれに気がついた。
「おや、だってお客さんまだ随分お若いだろう?いいねえ、まだまだ先のあるもんは。私なんかもう40になりますからねえ。いや、私もお客さんぐらいの歳の頃には随分冒険もしたんですよ。そもそも私の生まれは東国の方でねえ、親父はそりゃあ勤勉な農夫だったんですが…」
何故か唐突に身の上話を語り始めた店主に適当に相槌を打ちながら、嵐は出てきた料理を食べ始めた。話し好きで陽気な店主は料理の腕もなかなかのものであるらしく、嵐はかなり本気で料理に集中していた。
「親父さん、相変わらずだねえ」
新たに三人連れの客がカウンターに着いて親しげに店主に声をかける。ちょうど話に一段落ついていた店主が、嵐に一つ会釈をしてから新たな客に笑顔を向ける。
「ああ、いらっしゃい。毎度毎度ありがとうございます」
店主の声も親しげなものになる。どうやら常連がついているらしいな、と嵐はその様子を見るともなしに眺めながら、彼らの会話を聞いていた。そして何気なく嵐は店内に目をやった。そこで嵐は一人の人物に気がついてふと視線を留めた。
(あれは……)
嵐から見て右側の店の奥、大きなテーブルの一角に一人の人物がいた。遠目にもそれとわかるほど美しく長い黒髪に白く端正な顔。細身の身体を戦士の装いで包んだ、女。
昨夜宿屋で見かけた女であった。
この酒場、『棗の木』は主に旅行者や冒険者の情報交換の場として利用される店であり、店内のあちらこちらで商人が商談を行なっていたり、旅の情報を交換し合っている集団があったり、または旅の道連れを探す人がいたりと、様々な人で賑わっていた。その中には自分の能力自体を売る者――つまりは傭兵や用心棒として雇い主を探す者もいた。彼らは情報交換の必要性もあって大体一つところに集まっており、この店ではそれが店から入って右側奥の大テーブルであった。そこに紅一点として混じっている彼女は、非常に目立っていた。
まず第一に屈強な男たちの中にあって、彼女は非常に華奢に見えた。もちろん女としては体格のいい方であるが、それでも際立って体格がいいというわけではなく、周囲のいかにも鍛えられた体格のいい戦士達と比べると、かなり見劣りがした。
第二に彼女は非常に寡黙で、表情にも乏しかった。もちろん彼女は戦士であって商人ではないのだから雄弁である必要は無いし、口数の少ないことが問題になる職業ではない。しかしそれにしても周囲の戦士達と比べても彼女の寡黙さは際立っていた。もちろん全く周囲の会話に参加していないわけではなかったが、それにしても笑顔一つ見せないあたり、やはり変わっていた。
第三に――恐らくこれが一番目を惹く点であろうが――彼女は非常に美しかった。
昨夜嵐が宿屋の乏しい明かりの下で、しかも遠目で見たときにも美しい女だと思ったものであったが、今それよりも明るく近い場所で見た彼女は、文句の付けようのない美貌の持ち主であることがはっきりとした。
こちらに見せる横顔は砂漠の日差しにも負けない白さで、くっきりとした鼻筋が印象的であった。髪の毛は黒く長く、後ろで束ねたその先は腰の辺りまで届いていた。時折向きを変える顔の中で瞳は澄んだ強い光を湛えた濃い色をしていた。恐らく体格は自分と同じくらいであろう、と嵐は見た。しかし自分よりもずっと鍛えられた体格であることは、剥き出しになった肩や腕からも明らかであった。彼女は腰帯に細身の刀を差し、両の手に革の手甲をはめてはいたが、他に身を具うものは着けておらず、全体的に涼しげな軽装であった。
嵐自身は意識していなかったが、よほど長いこと嵐は彼女を見ていたらしい。嵐の隣に座った三人と話をしていた店主が嵐に声をかけてきた。
「お客さん、彼女が気になりますか」
そう言われてようやく嵐は自分が彼女を随分長く見つめていたことに気付き、きまり悪そうに苦笑した。
「いや…気になるというか何というか、あれで戦士だというのがのう…」
そう言う嵐に、隣に座った商人達も揃って頷く。
「そうだよなあ、どう考えても不思議だよなあ、あれで、あの容姿で戦士をやってるっていうんだから」
「しかも相当腕がいいっていうんだから、ますます不思議だよなあ」
「不思議というよりももったいないと思わないか?あんないい女なのに。ありゃあ、どこへ持っていっても恥ずかしくない器量だぜ?ちょおっと飾ってみりゃあ、そんじょそこらの貴族の姫君よりもよっぽど映えること、間違い無しだぜ」
「ほう、そんなにあの者は腕のいい戦士なのか?」
嵐が彼らに水を向けると、店主も含めて全員が大きく頷いた。
「いいってなもんじゃない。今まで傭兵やってて負けなし、契約違反なし。彼女がついた旅じゃあ何にも心配がないってことだ」
「負けなし…と言ってもあの者はまだ随分と歳若いであろう?」
「ああ、確かにまだ若いな…まだ20にはいってないだろう?」
「ああ、確かそうだ。だが傭兵のキャリアはけっこうなものだろう?噂では10になるやならずといった頃から戦士をやっていたって話だしな」
10になるやならずの幼女が剣を握って戦士として戦う…いくらなんでもそれは伝説めいていて、嵐にはにわかに信じられなかった。
「確かにそれは噂の域を出ませんがね、少なくともここ5年近くの彼女の戦歴は立派なもんですよ。最近ではティタニスの辺りに出没していた盗賊団を撃退したということですし。負け無しという噂は伊達じゃありません」
ティタニスとは嵐の記憶に間違いがなければ砂漠の中ほどにあるオアシスのことであった。確か数年前に鉱石が発掘されて十数人の人が住み着いて村のようになった所である。
その後も彼女に関する彼らの話は続いた。それによると彼女の名前は紅珠。どこの組織にも国にも人にも属さないフリーの戦士で、傭兵やボディーガードとして働いている。この砂漠の道では知らぬ者のないほど有名な戦士で、その美貌とあいまって既に伝説めいた人物になっているらしい。しかし彼女の素性は一切謎で、誰も彼女がどこの生まれでどこで育ち、何故女だてらに戦士などやっているのか、そもそも誰に戦士としての技を授けられたのか、プライヴェートなことは全くわからないのだという。その謎めいた部分がまた彼女の魅力にもつながり、傭兵としての戦績が彼女の名を上げているようであった。
「もしもお客さんが旅の道連れを望むなら、彼女は確かにお勧めですよ。ただし今や彼女を雇うにはけっこうな代価が必要ですからねえ…正に高嶺の花ですよ、紅珠は」
店主の言葉に商人たちは揃って深々と頷いた。そんな彼らから嵐は視線を移した。戦士達の集う卓でカウンターの噂の主は、それとも知らずに静かに変わらずそこにいた。
にわかに陽光が陰った。嵐が透明なガラスをはめ込んだ窓に目をやると、先ほどまで一点の曇りなく晴れていたはずの空が、薄墨に染まって見えた。気のせいか、ざわざわという音も聞こえる。
(雨…?まさかのう、こんなところで……)
かといって日が陰る時間にはまだ早すぎる。嵐が小首をかしげていると、その視線に気付いたカウンターの客たちも窓外に視線をやり、不思議そうな表情になる。ちなみにカウンターに座る客は少しずつ増えており、現在では15人ほどがL字型のカウンターに並んでいた。そしていつの間にか嵐はカウンターの端から席を移動して彼らの中心で話に興じていた。カウンターの客はほとんどが旅の商人たちであり、話題も情報も豊富であったし、基本的に人見知りをするものはいなかった。そのせいもあってか、嵐はすっかり彼らとうちとけてしまっていたのである。
「なんだあ?…いくらなんでもおてんとさんが陰るにゃあはやいんじゃねえか?」
「あったりまえだろう。まだまっぴるまだぜ」
窓の外の様子に、不審の声があがる。
「雨でも降ってるんじゃないんですか?ほら、なんかざわざわいってますよ」
耳に両手を当てて聞き耳を立てるようにしながら言う男に、隣の男が呆れ声を返す。
「馬鹿言ってんじゃないよ。まだ雨期には早すぎるぜ」
「でもほら、スコールとかもあるじゃないですか」
それでも彼はあきらめきれないらしく、ねえ?と店主に相槌を求めた。しかし店主も首をかしげる。
「いや…まあ、全く降らないってこともありませんが、それにしても時間が早いし、何より雨の音とは違うようですけど…」
その頃にはカウンター以外の席の客たちも異常に気付き始めた。『棗の木』は卓ごとに違う話題が違う言語で話されているとも言われるほどの店で、しかもその話題のほとんどが契約や商談話であったため、まず窓の外をゆっくり眺めながら食事をする、などという優雅な客はいない。しかも建物自体も屋外の暑熱を防ぐために開口部を少なくしてあり、窓もやや小さめで数も少なかった。基本的に通気口は天井と壁の一番下部にあるのである。そのために屋内の人達が外の出来事に気付くのが遅れるのは、無理もないことであった。
窓際の客が外を覗いて、息を呑んだ。そして慌てて振り返るのと店の入り口の扉が外から大きく打ち開かれるのがほぼ同時であった。
「た!たすけて……!!」
息も絶え絶えに転がり込んできたのは若い男女の一組であった。男が女の頭から防塵ケープをすっぽりとかぶせて庇うように抱えている。そして彼も彼女の被った防塵ケープも鉤裂きだらけで、男は頭から血を流していた。
「な、何があったんです!」
店主が仰天した声を上げてカウンターから駆け出そうとする。店内の客も一挙に騒然となった。戸口に近い者がそれを開けて外を覗こうとするのを、転がり込んできた男が振り返って慌てて制止の声を上げる。
「だ、だめです!!開けちゃあ、外に出ちゃあ……!!!」
そう言っている間にも、再び扉が壊れんばかりに打ち開かれて、二人、三人と転がり込んでくる。皆一様に傷だらけで、息を切らして店内に転がり込むと、呆然として床にへたり込んでしまった。店主は慌てて裏から薬箱を持って来るよう店員に指示をし、自身も入用なものを取りに駆け出した。店内の人間も騒然としてある者は窓に群がり、ある者は続々と転がり込んでくる怪我人たちの周りに集まってくる。
「何があったのだ?」
嵐が最初に店内に飛び込んできた男女に手を貸して手近な席に座らせながら尋ねる。女の方は余程恐ろしい目に遭ったのか、ただ泣きじゃくるばかりで上手く喋れない。男の方もがたがたと全身震えていたが、それでも何とか息を整えて、嵐にすがるような目を向ける。
「と、鳥が……!!いや、鳥じゃない…何かが、ばけものがいきなり大群で襲ってきて…!!!」
「蝙蝠だ!あれは鳥なんかじゃなかった、気味の悪い姿で、嫌な羽音をさせてやがった…思い出すだけでも気味が悪い!!」
他の客に手を貸してもらって机の脚にもたれて床に座り込んでいた男が声を上げる。その男も全身傷だらけで顔は恐怖に歪んでいた。窓から外を覗き込んでいた客も、悲鳴に近い声を上げる。
「蝙蝠だ!大群で人間を襲ってやがる。なんなんだよ、一体…!!」
次々に窓外の様子が報告される。嵐は店主を手伝って転がり込んできた怪我人たちに水を渡してやりながら、内心首をひねっていた。
(蝙蝠…?何故いきなり奴らが襲ってくるというのだ?この辺りに生息している蝙蝠は羽虫や植物につく虫を餌とする、おとなしい種のはず。人間を…他の動物を襲うなどという話は聞いたことがない。そもそも蝙蝠の活動時間は日の陰る夕刻からだ。だいたいこんなに天気の良い空気の乾いた日では餌になる羽虫も大量にいるはずがない。この日、この時間に、しかも日が陰るほどの大量の蝙蝠が、一体何処から出てきて何故人間を襲うというのだ?)
周囲の喧騒の中で酷く冷静に考えている嵐の耳に、鋭い声が響いた。
「!!危ない!窓から離れろ!!」
低音の、よく響く女の声の一瞬後に、甲高い破砕音が響いた。窓の側に群がっていた客たちの悲鳴とガラスの割れる音が連鎖する。
『棗の木』店内にとりどりの悲鳴が反響した。
破られた窓に駆け寄る者。怪我をした者を安全地帯へ引きずり出そうとする者。我先にカウンターの奥へと転がり込もうとする者。卓の下に潜り込む者。うまく動けず転ぶ者、それにつまずく者、目の前の背中を押し退けようとする者。その中で何人かが迅速に動いていた。
「雨戸を閉めろ!」
「扉から離れろ!」
「開口部を塞げ、手を貸してくれ!」
数箇所から指示の声が飛ぶが、ともすればその声すら悲鳴にかき消されそうであった。
「きゃああ!」
女の悲鳴が響く。カウンター付近で店の人間たちを手伝って怪我人の手当てをしていた嵐がはっと顔を上げると、二階の部屋の一つから女が転がり出てきた。二、三羽の蝙蝠に襲われている。女は頭から被っていたショールを打ち振りながら蝙蝠を追い返そうとしていたが、それをかいくぐって蝙蝠の嘴や翼や爪が女の体に傷を増やしていく。
「助けて、助けてぇ!」
女は恐怖に引きつった表情で、それでも何とか助けを求めようとしていたが、周囲の人もひらひらと飛び交う蝙蝠を捕らえることは至難の技で、手をこまねいているような状況であった。しかし嵐が見る限り、それ以前に我が身の安全を図ろうとする者の方が多かった。
「…そういえば二階の様子はまだ…」
店主の呟きが聞こえる。
見かねて嵐がそちらに行こうとしたとき、視界の端に黒い影が躍った。はっとしてそちらを見ると、長い黒髪の人物が卓を蹴って人々の頭上を越えていくところであった。両の手は腰の刀に添えられている。
(あれは…紅珠とかいう…)
人の間をすり抜けて走りながら、嵐は目を見張った。
紅珠は階段を三段飛ばしで駆け上がると、手すりを踏み台に、大きく跳躍した。そして襲われている女を囲む人垣の内側に両足で着地すると、同時に弾むように一歩、踏み出した。
白刃一閃。ちょうど踏み込みの先にいた蝙蝠が両断され、ぼとぼとと床に落ちた。
(ほう、なかなか……)
ようやく階段下に辿り着いた嵐は、素直に感心していた。
(あれが噂に聞く『居合切り』とかいうものか。一瞬で対象を把握する能力、無駄のない身のこなし、攻撃の瞬間に全ての気合をぶつける、呼吸の計り方、そして迷いのない剣捌き。全ての技術が噛み合ってはじめて成功する技だ。実際見るのは初めてだが…しかし、あれは…)
考えつつも階段を二段飛ばしで駆け上がっていた嵐は、人の間を器用にすり抜けて輪の内側に出る。腰の後ろに差した杖を手にして見ると、紅珠は女を庇いつつ蝙蝠を追い払おうとしていた。刀は右手に抜いたまま機をうかがっている様子であったが、変幻自在の蝙蝠の動きを捕らえきれないようであった。
(やはりな。あれは一撃必殺の技。それゆえに二撃目以降は極端に威力が落ちる。ましてや動きの予測のつけにくいものが相手では…)
「もういやああ〜〜」
そのとき半泣き状態の女がいきなり、叫びながらショールを握った手を大きく振りかぶった。そしてそれを闇雲に振り回す。側にいた紅珠が慌てて避ける。大きく広がったショールが蝙蝠の翼を叩いた。空中でバランスを崩した蝙蝠が、そのまま進行方向を変える。
「あっ!!」
周囲の人垣が慌てて後退し始める。
「危ない!」
誰かの叫び声がする。攻撃対象を変更したらしい蝙蝠が、真っ直ぐに小柄な赤毛の人物に向かっていく。しかしその人物に届く前に、蝙蝠は空中で叩き落された。
「ふむ、なるほどこういうことか」
自分以外には聞こえない声で嵐は呟いた。その左手には今しがた蝙蝠を叩き落した杖が握られていた。
「早く!全部の部屋の雨戸を閉めるんだ。それからみんな部屋から出ろ。念のために戸を閉めて」
ぼうっとしている人々の上に、紅珠の鞭打つように厳しい声で指示が飛ぶ。目の前で繰り広げられた光景にいささか気を抜かれていた人々も、その口調に打たれてはっと気を取り直した。わらわらと動き始めた人々を見やってから、紅珠は刀を収めた。そして周囲には気付かれないくらい小さく息を吐き出した。
「大丈夫か、おぬし?」
気遣うような柔らかい言葉に、紅珠は振り返った。その言葉が自分に向けられてのものと思ったからではなく、若い男の声とそのいささか時代がかった言葉遣いが妙にアンバランスであったからである。
振り向いた先では、蝙蝠が撃退されて気が抜けたのか床にへたり込んでいる女を、男性にしては小柄な人物が助け起こそうとしているところであった。
(ああ、さっきの…)
紅珠はその人物が先ほど蝙蝠を杖で叩き落した男であることに気がついた。先ほどは体勢を崩した状態であったためにはっきりとは見えなかったのだが、その服装は確かに女の体越しに見えたものであった。男の背丈は紅珠と同じくらい。赤茶けた癖っ毛に瞳は深い森の色。見たところ年齢は自分とさほど違わないように、紅珠には思えた。
(それにしては言葉遣いが時代がかっているようだけれども…)
しかしとりあえずそんなことはどうでもよいことであった。今自分がしなければならないことを思い出して、紅珠は踵を返そうとした。
「おぬし、手伝ってくれぬか。この人を下まで連れて行きたいのだが」
背を向けかけた紅珠に、そのとき嵐が声をかけた。呼び止められた紅珠が首だけで振り返る。
「あなたひとりで大丈夫でしょう?私は一応他の部屋の様子を確認してきますので」
紅珠の口調に、嵐が微かに眉を顰めた。一方、気を取り直した女は、思いの外元気であった。
「大丈夫ですわ、お二方。おかげさまで助かりました。一人でも歩けますので…」
「いや、そういうわけにもいかぬであろう。わしが肩を貸す。…行こうか」
体格的には同じくらい――性差のためかやや女の方が大きく見えるくらいである――の二人が立ち上がってゆっくりと歩き出すのを見て、紅珠は再び歩き出そうとした。嵐は女に肩を貸して歩き出しながら、ちらりと背後を振り返った。既に紅珠は背を向けて歩き出そうとしているところであった。
そのとき、騒がしかった階下から、一際高い怒鳴り声が聞こえてきた。
「何だと!?もういっぺん言ってみやがれ!」
嵐は驚いて声のした方に目をやった。するといきりたっている戦士らしき装いの男が見えた。対するのは若い男である。どうやら彼も襲われて逃げ込んできたらしく、頭に巻かれた包帯が痛々しい。顔色も青ざめているが、それは怪我による出血のためだけではないらしい。青ざめた顔の中で、目だけはギラギラとして目の前の大男を睨みつけている。
「何べんでも言ってやるよ!あんたらはがたいだけの木偶の坊だ。こんだけ雁首揃えといてあいつらに何の打つ手もなしかよ!こんだけ怪我人が出てるんだぜ。あんたら戦士だろ、何とかしろよ!!」
男は多少上ずった声で、それでも一気にそこまでまくしたて、ぜいぜいと荒い息をついた。彼らの周囲には何人もの人がいたが、誰も二人を止めようとしない。むしろ彼ら二人の熱が周囲にじわじわと伝染しているかのようである。怪我をした者、怪我はせずとも襲われる恐怖を味わった者、何とかしたくとも戦う力がない、足りないことを自覚している者たちが、男の言葉に同調している。いや、男の言葉そのものが、その空気を代弁して出てきたものだったのかもしれない。
(…まずいな)
嵐は内心舌打ちしていた。
男の言い分を間違いだとは思わない。しかし、今この場で、この状況で言うことは、やはりまずいと言うしかない。誰も喜んで手をこまねいているわけではないのだし、全員がそうだとは言えないにしても、今、この状況で一番歯痒い思いをしているのは、やはり何とかしたいと思い、またそれなりに能力もあるのに、それをどう活かしたらよいのかわからない、彼らのような戦士たちであろうから。
(早まった行動にでなければよいのだが…)
嵐は眉を顰めながら、階下の状況を見守っていた。
何とか宥めた方が良い、そう考えつつ騒ぎを見ている嵐であったが、階下の雰囲気は急速に険悪なものになっていった。何とかその場をとりなそうと店主が間に入ろうとしたが、熱くなっている人々には制止が効かない。逆に店主に殴りかかろうとする者まで出る始末で、それはさすがに付近の者が制止していた。
(かと言ってわしが出て行っても意味がないしのう…)
自分の外見に威厳がないことを、嵐は誰よりも承知していた。
ふ、と何の気なしに視線を動かした嵐は、こちらに背を向けてしゃがんでいる紅珠に気がついた。
(なんでこやつ、まだこのようなところに居るのだ?)
彼女は確か先ほど「他の部屋の様子を見てくる」と言っていたはずであったが。しかし今、彼女の存在は有難いことかもしれない。そう嵐は思った。
「そなた…紅珠といったか」
嵐が声をかけると、その人物は多少間が開いてから、振り返った。
「…呼んだか?」
わざとなのか無意識なのかにわかには判断できかねる無表情さで紅珠が答える。答えるまでの微妙な間が気にはなったが、とりあえず今は無視することにする。
「おぬし、何とか彼らを宥めてやってくれぬか。このままでは不測の事態に陥りかねん。それは避けたほうがよい。…おぬしは有能な戦士として皆から一目置かれていると聞いた。おぬしが声をかけてやれば、皆も落ち着くかもしれん」
そしてどうかのう?と紅珠の顔を見つめる。
紅珠は嵐の言葉に一瞬目を見張り、そして微かに眉を顰める。そのまま視線を階下の騒ぎに向けた紅珠の視線はやや険しい。
「…断る。私には無理だ」
あまりにもあっさりきっぱりと断りの言葉を返され、嵐は固まる。嵐に肩を借りて寄り添うように立っていた女も、ぽかんとした表情をする。彼女は戦士の紅珠の噂を知らなかった。しかし紅珠の剣の腕は先ほど助けられたときに見て知っているし、感謝もしている。何より紅珠は女である彼女でさえ見惚れるほどの美人であった。その美貌にはどこか高貴ささえもそなわっている。その圧倒的な外見と実力があれば、大抵の者が彼女を尊重するだろう。現に紅珠の言葉は蝙蝠の襲撃に気を抜かれていた人々に活を入れた。紅珠の言葉には…いや、紅珠の存在には何か、力があるのだ。そう彼女は思う。
「何故そう思う」
気を取り直した嵐が低く尋ねる。
「何故無理とわかるのだ」
あくまでも嵐の声音は平静である。しかし嵐に支えられている女は急に肌に感じる空気が冷えたような気がした。そんな様子に気付かぬはずもないだろうに、無表情に戻った紅珠には微かな動揺もない。
「無理というか、無駄だろう。ああも熱くなっている人たちに何を言おうが言葉は届かない。正論を説いてもかえって火に油を注ぐ結果になりかねない」
「だが何もせずばその先の結果は明白であろう?むざと破局を待つより、無駄と思いつつも動いた方がよいではないか。いや、何より無理とか無駄とか決めつけるにはまだ早いとわしは思うが?」
その声音に咎める響きはない。むしろ落ち着いたやりとりにさえ聞こえて、かえって場の空気が冷えてゆく。
紅珠は溜息のように小さく息を吐くと、初めて真っ直ぐに嵐を見つめた。
「確かに理屈ではそうかもしれない。だけど根本的なところで私に頼むのは筋違いだと思います。私は確かに戦士であるし、その方面ではそこそこの評判を得ています。だけどそれはあくまで戦士としての腕が認められているということ。私は人格者ではないし、彼らに尊敬されているという事実もない。私に彼らを何とかする力はない。…その資格もない」
「資格とは何だ」
最後には表情を僅かに苦いものに変えて吐き棄てるように呟いた紅珠の言葉を、嵐がとらえる。
「資格とは何だ。人にものを言うに資格が必要か?意見を述べるのに資格が必要か?他者より優れていなければ己の思いを述べることも叶わぬとでも言うのか?
もし仮に資格が必要だとしても。それは決して何もしない者に与えられるものではない。ただ優れていれば与えられるというものでもない。それは動く者に与えられるものだ。そしてそなたにはそれだけの条件が揃っている。他者に働きかけるだけのちから能力を持っている。動くに動けぬ者もいるのに動ける者が動かぬのは、それは罪なことではないのか」
「あなたはずいぶん口が達者でいらっしゃる。それにずいぶんと甘い理想をお持ちのようだ」
紅珠が僅かに眉を顰めながら言う。しかしその声は冷えたままで、僅かに眇められた瞳の色も冷静なままであった。
「甘い?」
「ええ、甘いですね。間違っているとは言わない。そうできれば理想的でしょう。しかし私はそんなに甘くはなれない。甘さを持って生き延びられるほど、この世界は優しくないのだから。そしてそれは彼らとて同じこと」
紅珠がちらりと階下に目をやった。そこでは各所で睨み合い、罵り合い、果てには掴み合いまで生じつつある。
「彼らは子供ではないのだから。その生き方に責任を持つべき人たちだ。より良い選択を、判断を自分自身のためにすべき人たちで、それだけの経験も学習も積んできているはず。もし判断を誤ったなら、それはすなわち自分の身の破滅につながること、百も承知のはず」
いっそ冷たくさえ聞こえるほどの冷静さで紅珠は続けた。
「一時の激情に判断を誤るというなら、それはそれまでのものだったということでしょう」
嵐は一つ大きく息を吸って、吐いた。そして女を支えていた腕を外すと、紅珠の方に一歩、踏み出した。紅珠は真っ直ぐに嵐を見据え、動かない。
「あっ………」
女の声に、二人が振り返った。見ると階段に座り込んでいた女が、階下の様子に息を呑んでいた。階下からは乱暴にドアを開け閉めする音や耳障りな金属音、そして複数の靴音。女が二人の方に縋るような目線を向ける。
「あ、あの……なんだか、外に出て行かれる戦士の方々が…」
嵐は身を翻して手すりから身を乗り出し、階下を覗き込む。紅珠は顔を顰めながらも足早にその後に続く。
「おやめなさい!外に出て行って何ができるんです!勝算はあるのですか!?」
店主の必死の声がする。
「うるせえ、ああまで言われて黙ってられっかよ。ようはやつらをぶっ殺してくりゃあいいんだろうが。やってやるよ!!!」
大柄な、まだ若さを残す戦士が縋りつくように引き止める店主の腕を振り払うと、そう言い放って出て行った。
「へっ!臆病もんに何ができんだよ!!」
その背中に捨て台詞を吐く者。どうやら先ほどの戦士にであろうか、殴られたらしい頬が赤く腫れていた。さらに二、三人の者が捨て台詞を吐きつつ外へと駆け出してゆく。
「ど、どうしましょう。大丈夫でしょうか、あの方々は…」
おろおろしたように女が言い、二人の方を見る。
「…馬鹿なことを」
紅珠がぽつりと呟いた。その呟きを耳にして、嵐の眉が跳ね上がる。
ひゅっと空を切る音がして、二階にいた人々が息を呑む。嵐の杖が紅珠の鼻先にぴたりと突きつけられていた。
「もうよい。おぬしには頼まぬ」
静かにそう言い捨てると、嵐は身を翻し、階段を駆け下りていった。そして思わず道を開ける人々の中を通り、誰にも止める暇を与えず、外へと飛び出していった。
暫く沈黙していた店内が、呪縛が解けたように一気にざわめき始める。
様々な感情の入り混じった囁きの中で、紅珠は暫く身動きできずに立ち尽くしていた。
(…何故私があのように言われなければならないの)
理不尽だ、と紅珠は思った。彼女は間違ったことを言ったつもりはない。言ったことを訂正する気も翻す気もない。先ほどの言葉は間違いなく紅珠の本心であったのだから。
(それは確かに売り言葉に買い言葉になってしまった気はするけれども…)
恐らく常ならば紅珠はもっとうまく言葉を選べたことであろう。確かに彼女は世辞を言うのは下手であったが、求めて他人といざこざを起こそうとしたことはない。
(……少々気を取られすぎていたのか…)
紅珠はふっと視線を動かし、先ほど自分がいた辺りに目をやる。そこには彼女に切り捨てられた蝙蝠と、嵐が叩き落した蝙蝠が落ちていた。紅珠がそちらに歩を向けると、周囲にいた何人かが無言で退く。紅珠自身は意識していなかったが、彼女はずいぶんと剣呑な雰囲気を纏っていたのである。
床に出来た小さな血溜まりの側で紅珠は膝を突いた。嵐に叩き落された蝙蝠はまだぴくぴく動いていたが、頭が変な方向に捩れている。蘇生することはないだろうと確認した上で、紅珠は用心深くその体を調べた。そして自分が先ほど抱いた疑問が正しかったことを確信する。しかしそれは更に彼女の疑惑を深める結果となる。
(…何故、このようなものがここに…いえ、それ以前に何故、存在しているのだろう……)
じっと考え込んでいる紅珠に、おずおずと近づいた男が声をかける。
「紅珠さん…」
はっとして紅珠は振り返る。その表情は既に常の冷静さに戻っている。
「あの。二階の部屋の窓、全部雨戸を閉めてきました。それから全員部屋から出てもらって、とびらは念のために机とか椅子とかで押さえておきました。…大丈夫ですよね、もう」
男の不安げな視線を受けて、紅珠は相手を安心させるように軽く口元に笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫だと思います。一匹二匹ならともかく、大量に入ってこられるのが厄介なだけの相手ですから。あとは早く立ち去ってくれるのを待つだけですが…」
言いつつ、紅珠はふとあることに気がついた。そしてばっとばかりに立ち上がり天井に目をやる。そして手すりに飛びついて階下のカウンターの方に向かって怒鳴る。
「マスター!天井の通気孔を閉めて!早く!」
それでなくともよく通る紅珠の声は、ざわめきの中にいる店主の耳に間違いなく届いた。はっとして階上の手すりから身を乗り出さんばかりにしている紅珠の姿を認め、店主は彼女の言わんとしていることに気がついた。慌ててカウンター内にいる店員に通気孔を閉めるよう、指示を飛ばす。
「うわああ!!」
紅珠の背後で悲鳴が上がる。
体ごと振り返った紅珠は、天井に目をやって舌打ちする。ぱたんぱたんと軽い音をさせながら閉ざされ始めた通風孔の影で、小さく光るものが幾つか見える。なにやらもぞもぞと動く音もする。
(遅かったか…!)
いくら自分でも全部を切り捨てる自信はない。彼女は自身の力量を正確に把握していた。
(それに下手をすればこの店内が恐慌状態になって大惨事が引き起こされる可能性もある)
むしろその方が恐ろしい。店内には元々いた客と避難してきた人々で既に満員状態である。中には老人や子供もいる。パニック状態になれば彼ら弱い者を守ることがほぼ不可能となってしまう。
(あいつらが動く前にあそこに留めおければいいのか…)
やや混乱していた紅珠の思考も、急速に落ち着いていく。この辺りが紅珠の戦士としての名声を支えている要因、つまりはいついかなるときも冷静な判断力を失わない、という点である。
分析と思考はほぼ一瞬の間に、完璧なポーカーフェイスの内で行われた。そして対応も素早かった。
紅珠は自分の髪をまとめている幅狭の布に手をやり、それを一気に解いた。ふわりと翻る布の裏面には何やら文字が書き込まれている。そして反対の手で懐を探り、ナイフを取り出す。しかし一本では足りなかった。普段はもう少し身につけているのだが、今は軽装であり装備もほとんど持っていない。階下には自分の荷物も置いてあるが、それを取りに戻っている暇はない。
「誰か、ナイフを持っていたら貸してくれないか?」
辺りにいる人々に目をやると、何人かが強張った表情のまま、何とか頷く。彼らからナイフを借りると、紅珠は何やら文字の書かれている布に、少しずつ間隔を空けてそれらを結びつけると、それを天井に投げ上げた。ナイフ投げの要領で天井に大きく円を描くよう、布を縫い止める。最後の一本が天井に刺さると、一瞬ぼうっと布が赤く光った。
「な…何ですか、あれは?紅珠さん」
いつの間にか上がってきていた店主がぽかんと天井を見上げる。
「…結界…のようなものです。あの布には守護の言葉が書かれているんです。あれを邪な気持ちでもって破ろうとすれば強い反発力が生じます。…とりあえず、あの程度の数ならあの場に留めておけるでしょう」
「はあ…結界、ですか…さすがですねえ、紅珠さん」
店主の言葉に紅珠は苦笑する。
(でもあれはあくまで“守る”だけ。根本的な解決にはならない。それに効力はあまり長続きしない。あれが効いている間に何とかこの事態を解決しなければならない…そのため、には……)
考えるまでもなかった。既に紅珠の中では結論が出ている。
「ああもう!!!」
突然怒鳴り声を上げた紅珠に、隣にいた店主が飛び上がる。紅珠はきっ、と顔を上げるとやけに凄みのある表情で店主に視線を向ける。紅珠はかなりの迫力美人であったから、凄みをきかせた表情は似合いすぎて、かなりこわい。
「いいですか、私が戻るまで、絶対に誰も外に出さないこと。あの天井のナイフを抜いたりしないこと。いたずらに皆を不安にさせたりしないこと。お願いできますね」
「は…はい…」
こくこくと店主は頷いた。それを見届けてから、紅珠は身を翻して階下に下りた。そして壁際に放り出されていた自分の荷物から細長い包みと小さな皮袋を掴み出すと、そのまま無言で黒髪をなびかせて店を飛び出していった。