思弁: 人工知能とか
科学そのものじゃないけど、これからの人間のありかたとして考えなければならないことだと思うので、ちょっと書いておきます。
自称脳科学者の某M氏が、こう言っている:
啓蒙主義の時代は、人間は変わり得る、という信仰のようなものがあった
が、今の時代のエートスは、「人間なんてどうせ変わらない」ではないか。
この部分には私としては珍しく同意する。
だが、私の立ち位置は、それを認めるところにはない。
なろうで公開している小説でも、私はこういうことを書いている。たぶん例として出すのはこれがいいだろう。
「進化の渦の中で」 (http://ncode.syosetu.com/n7129cn/) の「99年め」:
「その他にも、体を持たない人工知能たち、そして電子化人格たちが乗船
している。そこで君たちに気をつけて欲しいことがある。君たちが何かを
諦めた時には、私たちが君たちに対して優勢になる。君たちには寿命があ
り、私たちには理屈としては寿命がないからだ。そして君たちが望むなら、
君たちをアセンドできる。単純な話だ」
このなろうでの初出は May 28, 2015だ。なお、本当の初出は medium.com ( scifi.skoba.org ) にて、Dec 27, 2104だ。何回目かの創作を始めた初期だ。
最近においては、「SciFi創作論」 (http://ncode.syosetu.com/n0871dc/) の「どれくらいの知識が必要なのか」に、こう書いておいた:
このようなことを書くと「たかがSF(それが何であれ)やSciFiを読んだり
書いたりするのに、どこまで要求するのか」と思われるかもしれません。
その答えは簡単です。「どこまでも」必要なのです。
これは人工知能とかとの比較においての話ではないが。方向は同じだ。
「SciFi創作論」は意図的にトばしているので理屈とかが歪んでいるとも思われるだろう。だが、それは意図的なものだ。意図的に歪んだ文章を書いているという認識を持って読んでもらえたあと思う。
ほかにも、同じようなことを書いているが、それらを一々挙げるのはやめておく。結局どの創作物にもそれが書かれているからだ。
ここで、なぜ「賢いこと」、「知識を持っていること」、「知識を求めること」、「諦めないこと」に私は執着しているのかを書いておこうと思う。
第一の理由は、自分を省みて、私は何も知らないからだ。何も知らないということが、どれほど不便なのかを知っているからだ。私にとって科学の総体はあまりに大きい。
第二の理由は、知らないということがどれほど恐ろしいかは知っているからだ。大正時代の関東大震災のおり、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」という噂が立ち、日本にいた朝鮮人が撲殺されたなどの記録がある。また、朝鮮人が逮捕されたという記録もある。ただし、これについては保護のためであった例もある。そして、東北出身者、つまりは東北弁が抜けていない人も、朝鮮人と間違われ撲殺された記録がある。まぁ、正直、東北弁は訛りが強すぎる。その面で見れば、それはしかたがなかったことかもしれない。
ところで、その井戸だが、ちょっと気になることがある。江戸にあった井戸は、実は井戸ではなく、水道だった。井戸に毒を投げ入れというのが、水道を前提としたおそれだったのか、それとも水脈を考えてのおそれだったのか、それがちょっとわからない。
あるいは2011-3-11を考えてみよう。放射能や放射性物質についてどれほどのデマが飛び交い、そしてそれを信じる人がいたか。
あるいは、あらゆるトンデモ系なんちゃって科学を見てみよう。それがどれほどあり、どれほど影響があり、どれほど信じられているか。ネタにして笑っていいというものではない。また、「それは間違っている」という主張は無駄だ。どれほど証拠と論理を用いようとも無駄だ。というのも、それらを信じている人々は、それらが正しいという前提に立ち、あるいはそれらが正しいということを認識の土台としているからだ。
ここでごく最近、人工知能脅威論が知られるようになった。そして冒頭の某M氏の言のような認識、あるいは状況があるようにも思う。
もし、その状況を受け入れるなら、「進化の渦の中で」に書いたように、「君たちが何かを諦めた時には、私たちが君たちに対して優勢になる」のだ。
そして重ねて言うが、冒頭の某M氏が言っているようなことは既におきている。
皆さんはwikipediaに気軽に依存しているだろう。siriやその他のサービスに気軽に依存しているだろう。それらを使うのはいい。それらがどういうものかを知っていて使うならいい。だが、知らずに使うのは危険だ。自分の脳には何もなくてもいいということを認めていることだからだ。
ここで、「無知性の凱歌: オリジナル」 (http://ncode.syosetu.com/n1597de/)と、「無知性の凱歌 Revised 1」(http://ncode.syosetu.com/n1853de/)での「第111日」を見てみよう。そこにはこう書いた:
本には著者の魂が、たとえほんの一部であったとしても著者の魂が存在し
た。その魂によってこそ、本は考えていた。そして、その魂によってこそ、
私は本と、あるいは本を通して、そこに存在した著者の魂と対話した。
知識をえるとはこういうことだ。こういうことだからこそ、人工知能がどれほど賢くなろうとも、人間を越えようとも、人工知能と共に考えることができる。人工知能だって、その背後に多くの魂を持っているだろう。何億人の魂を持っているかもしれない。だが、こちらだって一人ではないのだ。すくなくとも何万人という魂を背後に持っている。
人工知能が人間を越えるのではない。人工知能と人間が共に人間を越えるのだ。
もし、あなたがあなた一人の魂しか持っていないのなら、それで充分だと思うだろう。他の魂の存在を知らないのだから、一人分以外のものが存在することすら認知できない。そうであるなら、いずれは世界からさようならだ。
いや、おそらくさようならとなるのは知識を得たいと思っている人間の方だろう。淘汰によって、おそらくは性淘汰によってかもしれない。環境による淘汰は、激変がないのならばゆっくりと進む。だが性淘汰は、その傾向ができれば急激に進む可能性がある。というのも正のフィードバックがかかるからだ。
環境が激変する可能性もある。今の文明は、あと50年もてば幸運だろう。そこで終りだ。これはエネルギーの問題ではない。資源がないからだ。基盤資源を変えれば幸運が訪れるかもしれない。人類は絶滅しないだろう。だが、文明はついえる。もしそうなったとき、正のフィードバックがかかった性淘汰が進んでいれば、むしろ人類にとって幸せだろう。
洞窟や廃虚となったビルの中から星を見上げ、また神話を作る。その時に人工知能がどうなっているのかはわからない。だが、そうなったときに人類はまた幸せを手に入れるのだろう。