雪の日に
しんしんと雪が降り注ぎ周囲の音を吸収していく中、雪を踏みしめる音だけが耳に届く。
天気予報が噂していた通り、雪が降った。空を黒い雲が覆いかくし、雪の白さが目に付く。
閑静な住宅街を歩いて、黙々と目的地に向かう。車はおろか、人通りもほとんどない。
時間は……まだ大丈夫。時計を見て確かめた。
彼女はもう来ているのだろうか。いや、さすがにまだ待ち合わせの時間には早いのだから、来ていないか。
それとも来ないだろうか。そんな嫌な思考が浮かぶが、無理やりに頭の隅に追いやる。
来ないかもしれない。そのリスクは重々承知で足を運んでいる。
夜も深さを増してきてなってきて、一層寒くなる。
一歩、また一歩とその場所に向かう足取りが重くなるように感じた。
音を立てて風が舞う。
手袋をしてこなかったことを後悔した。かじかむ指を温めようとコートのポケットに手を入れる。するとそこに入っている四角い物体にあたる。二、三度と手を握っては開きを繰り返し、そしてそれをしっかりと握りしめた。
目的地の公園が見えてきた。
そこに傘をさした人影も見つけた。
もう、いたんだ。
十分覚悟をしてきたつもりだったが、できればもう少し時間が欲しかったとも思う。
心臓に手を当て、唾をのみ込み、大きく息を吐き出す。
少し歩調を早め、公園の中に入った。
そこで、彼女がこちらに気付いた。
「あ……」
彼女がこちらに気付く。
やあ、と片手をあげて挨拶をした。
「……待った?」
「ううん、そんなには待ってないよ」
「さっき来たとこ、とか言わないんだね」
彼女の態度はいつもあいまいだけど、言葉だけははっきりしていた。高校時代からそうだった。
「……ああ、そうか、そうだよね」
彼女は少し俯く。
別に、責めたつもりはないんだけど、うまく伝わらなかったかな。
デートとかそういうわけでもないし、気を使う必要もないから構わないのに。
なんて、自分で言ったことが発端なのに思ってしまう。
「わたしっていつも間違えちゃうんだよね」
こちらを見ないで彼女は言った。乾いた笑みが彼女からこぼれる。
「……」
「……」
お互いに空を見ながらただただ並んで立っていた。
なんて言葉を交わせばよいかわからない。
「寒く、ない?」
「……うん、寒い」
「そっか、待たせてごめん」
「……うん」
「……」
「……」
「何かあったかいもの買ってこようか」
そう言って駆け出して、公園の隅に鎮座している自動販売機を目指す。
街灯しか明かりがない中で、それはまばゆく光っていた。
自動販売機についたものの、いざ買おうとすると手がかじかんでうまく財布を開けられない。ようやく小銭を掴めたと思ったら、今度は硬貨の投入口にうまくお金を入れられなかった。
お金を自動販売機が飲み込んでボタンが点灯する。
なににしようか迷っていると、後ろから手が伸びてきてミルクティーのボタンをその指先が押した。
そっとそちらを向いた。案の定彼女だった。
「わたし、コーヒー飲めないんだ」
そう言って彼女は笑った。
しばし呆然としていた。何か言おうと思ったけれど、その笑顔を見た瞬間にすべて吹き飛んでしまった。
もう一度効果を財布から取り出し、自動販売機に入れる。
今度は迷わずコーヒーを買った。十分が飲む分だ。
缶を開けようとするが、手が再びかじかんでしまってうまく開けられない。
ああ、やっぱり手袋して来ればよかったと思った。
「で、どうしたの」
ミルクティーを飲んで少し落ち着いたのか彼女は、ほっと息を吐き出して質問してきた。
「あ、うん。ごめん、いきなり連絡なんかして。……その上、いきなり呼び出して、びっくりしたでしょ」
話を切り出した。
「うん、びっくりは、したかな。鴨井君とは話したこともなかったし……」
「……それそうだね」
「連絡先、沙希から聞いたんでしょ。沙希と仲良かったんだ?」
「まあ、それなりに、かな」
……ここ最近仲良くなったというべきなんだけど。
「……そっか」
「それで、本題なんだけど、」
覚悟を決めた。こういうことは早いほうがよい。もっとこの時間を感じていたかったけれど、どうやらそうもいかないみたいだ。
「なに?」
「今日呼び出したのは他でもないんだけど……」
「うん」
「ええと、だから、その……」
ポケットの中からケースを取り出し、彼女の前に出す。
「俺と……結婚してください」
「えっ」
彼女は僕を見つめた。何を言っているか分からないという顔で。
「だから、これ指輪……」
やや強引に彼女の方へ突き出す。
「ちょ、ちょっと待って。えっと、何を言ったか整理させてもらえるかな」
「うん」
彼女はしばし黙考する。
「わかった……これは何かの冗談だよね。いきなり結婚とかいわれても困るし、まずは付き合ってくださいとか、いや、付き合ってくださいって言われても困るんだけど。それ以前に私鴨井君のことあんまり知らないし……」
先ほどよりも少し饒舌になった彼女は見ていてかわいかった。けれど、もう一度はっきり伝える。
「結婚してください」
彼女は少したじろいだ、ように見えた。
「いきなりで困るのはわかってる。でも、本心だから」
彼女の狼狽は当たり前だと思う。俺だってあまりよく知らない人からいきなりプロポーズされたら困る。
「ううんと、うれしいんだけど、やっぱりそういうことは、もっときちんとまずは段階を踏んでからというか」
彼女は悩みながら言った。
「返事はいいから」
要件は告げた。だから踵を返す。
「でも、」
彼女はまだ何か言いたげだった。
「今日は寒いからはやく帰った方がいいよ」
そう言って少し逃げるように、来た道を戻った。散々待たせたのは自分なのに。
うまく伝わっただろうか。
いや、伝わっているわけないよな。でも、これでいい。目的は果たした。
あとは彼女がどう返事してくるかなんだけど。
まあいいか。もう関係ないし。あとは彼女に任せよう。
そして駅に向かって歩き出した。
前を歩くオレンジ色の傘を見つめながら。
Yu’s turn
ビニール傘越しに眺めてみても、見える世界は変わらない。
家への帰り道、熱心に雪を降り注ぎ続ける空を見上げて思った。
空を見ようとすると、自然に周囲の住宅の光も視界に入る。
その明りと街頭に照らし出されて見える景色はいつもとなんら変わりなかった。
待ち合わせ場所は家から少し離れた、駅にほど近い公園だった。
このあたりは車や人通りが少ない。夜になると、とても静かになる。
ずっと都会で暮らしてきたからかなんだかそんな落ち着いたところを気に入っていた。
さきほどの出来事を振り返る。
よく知らない人と待ち合わせをして、一緒に飲み物飲んで、そしてプロポーズされた。
誰が信じるんだろう、こんな話。
誰かに話してみようかな。いったい何人が信じてくれるのだろう。
でも、実際に起こった出来事なのは確かで。鞄の中にはもらった指輪が入っている。
さすがにもらえないって返そうとも思ったけれど、展開についていけなかったし、彼もすぐ帰ってしまったから、結局返せずじまいだった。
もしかしたら追いかければよかったのかもしれないけれど、なんだかそういうことをする気にもならなかった。
「結婚してください、か」
言葉には使用回数みたいなものがあるんだと思う。
だって、使えば使うほど重みが減っていくから。もちろん、使い方とか場面とかで付加価値は付くけれど、それは所詮付加価値でしかない。
例えば、初めて言った「好き」ともう今の「好き」では重さが違う。
ちょっと訂正、意味を知ってからかな。
「好き」
誰に向けてかわからない、吐き出した言葉は雪にかき消された。
あたしが今呟いたこの「好き」という言葉もこの瞬間に重みが減った。
軽くなる。軽くなる。
彼が言った「結婚してください」というあの言葉はどれくらいの重みがあったのだろうか。
きちんと意味を知っていた?
もちろんそのはずだ。もう子供じゃない。
きっと、初めて口にした言葉だろう。私と同い年でどれだけの人間がその言葉を使っているのだろうか。
たとえ冗談だったとしても、意味を知って、初めて口にする言葉はやはり重い。
本気ならばなおさらだ。
わたしは、そんな風に思えるだろうか。
少なくとも、今の私には無理だ。今の私の放つ「結婚して下さい」にはどれだけの重みがあるんだろう。
スマホを取り出して、彼氏にメールを打ってみる。
『結婚して』
もちろん冗談だ。
『こっちこそ、よろしく』
スマホをしまうよりも早く彼から返信がきた。
たぶん、彼も冗談で返した。
わたし達にとっての結婚なんてそんなものだ。
***
「ただいま」
家に帰り、家族への挨拶を済ませる。やや過保護なお父さんは、どこ行ってたんだ、とは聞くけれど、友達のとこ、と言えばそれ以上追及してこなかった。お母さんはお母さんで、何を考えているかわからないほど、放任主義なんだよね。
二階にある自分の部屋にあがり、着ていたコートを脱いでベッドに置いた。
そしてわたしもそのままベッドに倒れこんだ。
…………。
まだ私は同じことを考えていた。
見知らぬ男性にいきなり告白されました。
こう言ったら信じてもらえるだろか。んー、十中八九信じてもらえないだろうな。
正確にいえば、見知らぬ男性ってわけじゃないんだけど。
どうしよっかなあ、これ。
もらった指輪を箱から取り出し、天井の光にかざす。なんか高そうだよ。
そして指にはめてみた。
鴨井君、これ、ちょっと大きいよ。
まあ、わたしの指のサイズなんて知るはずないんだけどね。
サイズのあわない指輪を薬指に通したまま考えてみた。そういえば、世の中の人たちはどうしているんだろうか。やっぱりそれなりにお付き合いとかしてサイズとかは熟知しているのかな。
プロポーズされるなんてこと初めてだったのでよくわからない。
指輪だって、ちゃんと彼氏に買ってもらったこともそういえばなかった。
びっくりは、した。
まさかあんなことあるなんて思ってもみなかった。
鴨井君から連絡が来たときは純粋になんでだろうと思ったし、会いたいって言われた時も、告白ぐらいはあるのかもって少し覚悟して言ったし、けれどそんな程度じゃなかった。
プロポーズされるなんてもっと先のことだと思っていた。
だいたい、まだ学生だし。
……とりあえず、沙希に電話しようかな。
『もしもし』
「あ、沙希?あのね、えっとね、プロポーズされたんだけど」
『……そっか』
「あれ?あんまり驚かないんだね」
『え、ああ、じゅうぶん驚いてる。いきなりそんなこと言われるからさ、びっくりしてうまく驚けなかっただけ』
なんか沙希の反応に疑問を感じたけれど、その場はそのままにした。
「ねえ、どうしたらいいと思う」
『どうもこうも、受けるか受けないかじゃん。どうせ受ける気ないんでしょ』
「そりゃそうだよ。だって鴨井君のことなんにも知らないし、いきなりあんなこと言われても困るし……」
『じゃあ、何で悩んでんのさ』
「どうやって断ろうかなって」
『うん、その気がないならさっさと断ったほうがいいよ』
「でも、指輪ももらっちゃったし、なんか高そうなやつ」
『もらっちゃえばいいんじゃないの。くれたんだし』
少し沙希の返事は投げやりに聞こえるのは気のせいだろうか。
「そうもいかないじゃない。それにね、あんなに真剣に告白されたのって初めてだったから」
『あんた告白されたことなんてあたしと違って何回もあるでしょ。今までのは真剣じゃなかったの』
「そういうことじゃなくてね。真剣にね、指輪まで用意して、結婚してくださいなんていわれたことなんかないもん」
『お、それがプロポーズの言葉なんだ。シンプルだね』
「シンプルだからこそ、なんか響くじゃない」
『そうかな。あたしはそうは思わないけど。あたしは、まあ確かにそんなこと言われてみたいけど、いきなり言われてもどうも思わないかな』
「沙希はあっさりしてるからだよ。あたしはそんなに割り切れないよ」
『あんた告白されるたびに言ってることとおんなじじゃない。真剣に言われたらどうこうだとか』
「そうだっけ」
『そうだよ。あんたにプロポーズしても響かないなんて鴨井もかわいそうだね』
「あれ、あたし鴨井君にプロポーズされたって言ったっけ」
『え、いや、いったじゃん。…まったく自分の言ったことも覚えてないの』
「ごめんごめん」
あたし言ったっけ……。
『で、どうするの』
「それがわからないから沙希に電話したんだよ。わたしのアドレス教えたのも沙希なんでしょ。仲いいんじゃないの」
『……それなりに、かな』
「鴨井君もおんなじこと言ってた気がする。高校時代は話しているとこみたことないけど」
『特別仲がいいわけじゃなかったよ。ちょっと話したことがある程度』
「へえ、知らなかったな。鴨井君いっつもひとりでいたように見えたから」
『まあ、あいつは基本一人だったよ』
「わかった。もうちょっと考えてみるね」
『いきなり話を戻さないでよ。ってあれ、断らないの』
「返事はいらないっていわれたんだけど、プロポーズされたわけだし、そういうわけにもいかないよね。普通の告白だと思えばさ、ほら」
『あんた今、彼氏は』
「いるよ」
『だったら迷うことないじゃん、断りなよ』
「ううんと、こら、それとこれは別っていうか」
『ほんと、うらやましい……』
「何が?」
『いや、なんでもない。……あんたって、見た目とキャラ違うよね』
「それはいい意味なの?」
『いい意味だよ』
「そっか。それじゃ、ありがとね。鴨井君のことは、もう少し考えてみるよ」
『うん、わかった。男関係はきちんとしときなよ。ってあんた言っても無駄か……。ばいばい。おやすみ』
まあ、沙希にはああいったけど、受ける気なんてさらさらなかった。
やっぱりまだ学生だし。なんて言い訳をしてみたけれど、ただこの状況を楽しみたかっただけだ。こんな経験めったにできるものでもないし、誰かが私のこと思ってくれているのならそれは嬉しいことには違いはない。
そういえば、鴨井君はなにをやってるんだろう。
進学したか就職したとかなんにもしらないや。興味ないし。
いっか。とりあえず、これはしまっておこう。
机の引き出しにほかのアクセサリーと一緒に入れておいた。
スマホを見ると、彼氏から連絡があった。
どうやらさっきの一件でなにか疑問を抱いたみたいだ。
私は、なんでもない、とだけ返しておいた。
……なんだか余計意味深になったかもしれない。
案の定彼からは、気になるって旨のメールが来た。
もう一度、なんでもないと送る。
彼氏から電話が来た。
子どもでもできたか、なんて聞いてきた。
わたしは無視して切った。
そのあとも何回か電話がかかってきたけれど、無視した。
勘違いされたかな。
でもそれはそれでいいのかもと思うことにした。
***
シャワーを浴びてから部屋に戻った。殺風景な部屋。部屋の角には読み終わったファッション誌が積んである。
他に本といえば部屋には少年漫画と教科書しかなくて、しかも漫画もギャグもの。それも最近は全く買っていない。
まったく経験がない出来事に対してなにか参考にならないかと部屋を見渡したけど、参考になりそうなものは何もなかった。少女漫画とかならこういうのもあるのかな。
少女漫画は嫌いだった。恋に恋して、きらきらしてて、そのことに嫌悪感を抱いていた。
ありえるとかありえないとかじゃなくて、妬んでいるとかそういうのでもなくて、ただなんだろう、なんとなく嫌いだった。
別に少女漫画すべてがとは言わないけれど。
だからといって恋愛が嫌いってわけじゃない。
それでも、恋愛映画とか恋愛小説とかもよくわかんなくて、ただただあの世界がなんか気に食わなかった。
少女漫画に憧れて、こんな恋したいというやつみんな気持ち悪い。本気でそう思っている。だってそうでしょ。あんなのあり得ないじゃん。理想を抱きすぎ。もっと現実は残酷なんだよって教えてあげたい。まあ、そんなこという大半の人は顔が悪いんだけどね。
人間て所詮顔でしょ。だって性格がいいとか、相性がいいとかそんなこと思う前に顔がよくなかったら付き合えないじゃん。恋人なんて装飾品みたいなもんだし、私を引き立ててくれる。そうじゃなかったらなんなのだろう。ハイセンスだったり、マニアックだったり、所詮わたしという人間のアイデンティティを補うものでしかない。それ以上に価値を見いだせない。
鴨井君は、どうなんだろう……って考えるまでもなく不合格かな。機をてらったものとしてはありかもだけど、私は勘弁だなあ。
そういえば、沙希が鴨井君のこと好きだって噂が高校のときにあったっけ。
もしかしたら、沙希、私に嫉妬してたりして。
高校か……。楽しかったのかな。どうなんだろ。
まだ思い出になるほど、月日は経っていない気がするけれど――。
高校時代、好きな人がいた。
でも、その人には彼女がいた。
わたしよりかわいくなくて、明るくて、すてきな彼女。彼にとってはきっとそう。
だから彼に告白することもなかったし、わたしは素知らぬふりしてずっと過ごしていた。
彼氏がいなかったわけではない。というか、3人の男の子と付き合った。
全部告白されて付き合った。
一人目は、好きだった彼に少し似ている人。やさしくて、純粋で私のこと大事にしてくれた。
でも、おもしろくはなかった。無味無臭。一緒にいてもなんか、なにもなくて、別れた。
二人目は、先輩で、好きだった彼とは正反対のタイプだった。おもしろくて、若干不良っぽくて、清潔感のある彼とは似ても似つかないと思った。ずっと彼と比較してた。
その先輩と初めて夜を過ごした。わたしに残ったのは少しの痛みだけで、結局他には何も残らなかった。
その彼氏は高校の中で一番長く続いたけれど、結局別れた。
わたしはずっと彼のことが好きだった。
3人目は、眼鏡をかけたおとなしめの男の子、一人目と少し似ていた。
3人の中では一番疲れなかった。きっとそのころには、私は目を細めて付き合うとい
すべを覚えたのだと思う。
好きだった彼とその彼女は卒業まで別れなかった。
わたしは、三人目の彼氏と卒業式の日に別れた。
もうその頃には、わたしは誰が好きで何が好きなんだかわかんなくなっていて、正直誰でもよかった。そんな気分だった。
なんで彼のことが好きだったのかもわからなくなっていた。
でも、思い続けたままだった。
お父さんの転勤で家族で引っ越すことになっていたから、大学までの距離はちょっと遠くなった。
大学だってどこでもよかった。お父さんはしきりに気にしていたけど、お母さんはどうせいつか嫁にいくんだからどこでもいいって感じだった。
だからわたしもどうでもよくなって、適当に自分の学力でいける大学を受験した。一応塾には通っていたけれど、真面目に勉強していなかったのによく受かったなって思う。安全圏のとこを選んだからだろうか。
引っ越しが決まったとき、大学生になるんだし一人暮らしでもいいみたいなことを言われたけれど、面倒そうだから家族と一緒に住むことを選んだ。どっちにせよ面倒だった。一人暮らしになれば家事も全部やらなければいけないから。
私の選んだ大学にお父さんは少し不満を持っていたみたいだけれど、手元に娘がいることに安心したようで、私が予想してたよりも何も言われなかった。
大学に入ってすぐ彼氏ができた。でも二か月で別れた。語学のクラスメイトだった。二番目の彼氏に少し似ていた。次にできた彼氏とはちょっと長くて、今でも付き合っている。
***
プロポーズされた次の日は大学の冬休み前の最終講義がある日だった。
目覚めが悪いわけでもないし、昨日は特別眠れなかったこともない。いたって普通の朝だった。
起き上がり、時計を見る。大学に行くには少し早かった。
せっかく目覚めてしまったので、髪をあげて顔を洗って鏡を見る。
うん、今日もかわいい。
そのあとは時間までスマホをいじって過ごして、いつも通りのメイクをして家を出た。
大学までは、一時間半かかる。
電車の中はとても退屈だ。
外を見ると、どの建物も雪化粧が残っていて、白い。電車に揺られながら、私は思考を止めた。
何も考えない時間が一番心地よかった。
大学につくと、同じ講義をとっている友達と会い、普通に講義を受けた。
いつも通り授業はろくに聞いていない。さすがにしゃべることはしないけれど、やっぱりつまらない講義には変わりない。
プロポーズされるってこんなものなのかな。あまりにも普段と変わらないのでびっくりだ。
もしかして私の意識の問題なの。不思議に思って誰かに聞こうとしたけど、どうせ誰もわからないだろうと思ってやめておいた。
次は家族社会学の講義か。面白いといいけれど――。
期待するだけ無駄か。
***
家族社会学の講義で女性の就業と結婚のことを話していた。
今でもあるけど、昔はお見合い結婚が普通で、もっと昔は半ば政略結婚みたいになっていて。相手もろくに知らないのに、結婚しなきゃいけなくて、それって幸せだったんだろうか。
それとも、無感情に過ごせたのだろうか。だんだん好きになったの。そんなこと関係なかったの。結局、よくわからない。質問すればなにかしら返答返ってくるかな。いいや、面倒だからやめておこう。
このまま鴨井君と結婚したらなんかそんな感じかなって思った。
今の彼氏と結婚するなんて考えられない。まだまだ自由でいたいし。
両親見てて憧れるとかそういうのも全くないんだよね。お父さんは典型的な仕事人間だと思うし、お母さんも別に幸せそうに見えない。なんか狭い世界で生きている感じがする。
ああ、この人なにが楽しくて生きてるんだろうなとか時々思っちゃうんだよね。
だったらわたしは一人がいい、自由でいい。もし子どもなんてできたらそれこそ、自分の時間奪われるんだろう。それのなにが楽しいんだろうね。第一私子ども嫌いだしさ。
でも、そんなことを言ってもいつかは結婚するんだろうなって気がする。それこそ子供が先だったりするかもね。わかんないけど。
***
「おい、優」
彼氏だった。家族社会学の講義を終えたところで、彼氏に出会った。講義終わりの教室にやってきたのだ。
「わざわざ来たの?今日講義ないでしょ。バイトは?」
「バイトはこれから行くんだよ。それより、昨日の電話なんなんだよ。なんで出ないんだよ」
彼は少し怒っているみたい。
「だから、なんでもないよ」
「そのあとも電話に出ないし、メールしても反応ないし」
私はスマホを取り出し確認した。
確かに何通もメールが来ていて、電話もかかってきていた。
「ストーカーみたいだね」
「はい?」
「しつこいと嫌われるぞ」
かわいく言ってみた。
「何言ってんだよ」
どうやら逆効果だったみたい。
「ごめんね、気づかなかった」
「……で、どういうことなんだよ」
「だから気紛れだよ」
「だから、その……子供が、できたとか、そういうのじゃないの」
だんだんと声が尻すぼみになっていった。
ああ、そういうことか。それが大事だよね。
「……できたって言ったら」
「……本当なのか」
「うん、嘘」
テヘ、とかわいく言ってみた。
「お前、ふざけてんのか」
「いや、いたって真面目だよ」
彼は握り拳を作った。周りがみんなみてるよって言ってあげたかった。
でも何も言わずに私はずっと彼の目を見ていた。
「殴らないの?」
「もういい」
彼はそのままどこかへ行ってしまった。
大丈夫、友人が心配して声をかけてくる。いまや教室中の注目の的だった。
「わたし、今ヒロインみたいじゃない?」
それだけ友人たちに言っておいた。
***
年末は彼氏と旅行に行った。前から予定入ってたし。この前の一件で空気悪くなった気はするけど、この旅行でなんとかすればいいかって考えてた。
結論としては、まあ成功だったのかな。
普通に楽しく過ごせたし、まだしこりは多少残っていた気もするけど、彼だってそんなに気にしていないだろう。
この前のことなんてまるでなかったように振る舞って、楽しく過ごした。
でもやっぱり、彼と結婚することはないだろうなって思った。
年が明けてからも特別変わりはなかった。
結局、あのプロポーズの日以来鴨井君から連絡は一度もない。
私から連絡するのもなんだか変な気がして、そのままにしておいた。
何か問題があるわけじゃないんだけれど、私だってそれなりな人間だし、心のわだかまりはあって心のわだかまりはあって、それは時間が解決してくれればいいなって思ってた。
それに、いつか連絡来るんじゃないかって期待もしてた。
そうしたら、一回くらいはデートしてあげてもいいと思う。
***
毎年恒例の親戚の集まりに家族で顔を出した。私は行くのは億劫だけど、お金ももらえるし、お父さんがうるさいので毎年行くことにしている。
年齢を重ねるたびにいることがつらくなる。そろそろ結婚だとかまだ早いだとか、私の頃はどうだったとか、お見合いだとか、みんなお互いの話なんてろくに聞かないで好き勝手に言い合って、お酒飲んで、それで満足している。私は、話のタネにされるだけで、蚊帳の外だ。
……入りたいとは思わないけれど。こんなことに意味はあるのだろうか。
気になって、一度お母さんに聞いてみたけれど、お互いが元気なのを確認してるのよって言われて納得した記憶がある。
盛り上がっているのを横目に見て、私もいつかあの輪の中に入っていくのかなって思って気分が悪くなった。
***
冬休みが終わって学校が始まると、テストの時期が近づいてきた。
普段はめったによらないのだけれど、この時期だけは、サークルに顔を出すようにしている。情報収集のためだ。
そうじゃなければこんなところにくる理由がないし、入っている理由もない。
私はいわゆる幽霊部員みたいなもので、気が向いたら顔を出すようにしていた。
結局、気が向く日がほとんどないので、月一回行けばいい程度、三か月顔を出さないなんてこともあったっけ。
……ま、いろいろあったしね。
それでも単位は落としたくはないので、テスト時期だけは必ずと言っていいほど、頻繁に顔を出すようにしていた。
私が行くと、女の子はあからさまに嫌そうな顔をする。私もそれを感じないほど鈍感ではないので、男の子と主に話して、テストの情報集めという目的を果たす。
そうすると、更に怪訝な顔をする人もいる。
なんでなんだろうなって思う。せっかく避けてあげているのにね。
それでも、私のことを嫌いな人ばかりでなくて、女の子にだって私の味方はいる。
希望に会うこともひとつの楽しみだった。
学部も違うし、額内で会うこともめったにない。
希望はバイトが忙しいらしく、サークルの活動日でない日はほとんどバイトをしていた。だからあまり遊ぶこともなかった。
でも、私には何が楽しいのかさっぱりわからないのだけれど、サークルには必ず顔を出しているみたいだった。
希望は誰にも嫌われない。見習いたいとは全く思えないけど。だってそれって誰にも好かれないってことじゃないかな。まあ私のこと邪険にしないからいいやつだし、かわいいから私は好き。希望と一緒にいると、私の価値も上がる気がするんだよね。気のせいかな。
希望と久しぶりに会って、適当にテストの情報集めたら、私はサークル棟を後にした。
希望と話すのは楽しいのだけれど、いかんせん空気が悪いよね。
***
テストが終わって大学は休みに入った。
結局、鴨井君に返事はしなかった。
返事しようと思ったけれど、悩んでいるうちに彼と連絡が取れなくなった。
沙希に聞いたけれど、
「あたしも知らない。返事いらないっていってたしいいんじゃない」
なんて言っていた。
だからあんまり重大に考えていなかった。
春休みにも、一度も会うこともなく、連絡をとることもなく、まるで、プロポーズされたことなんてなかったようだった。
決して忘れたわけじゃないけれど、ただの告白と一緒でそれ以上の意味はなかった。
机の引き出しをあけるたびに見える指輪だけはどうしようかずっと悩んでいた。
さすがに、つけるわけにも、捨てるわけにもいかないから。
春休みはそのことについてなにも考えなかった。
久しぶりに沙希ともあったけど、お互いその話題には触れなかった。
大学生活も所属するゼミが決まって、就職活動を控えてくる時期ということもあって私は少しだけ忙しい日々を送っていた。
***
少しして、彼氏と別れた。お互い忙しくなったし、なんかもう必要ないかなって思って。
そのあとは何人かと短い期間ずつ付き合った。告白されたらほとんど断らなかった。体だけの関係だってあった。装飾品だっていろいろ欲しいかった。
だってみんな真剣だから断ったら失礼じゃない。なんて周りには言っていた。
ちょっと距離を置かれた感じもする。
サークルの先輩に呼び出されたこともあった。
なんでも、目をかけていた男の子を私がとったとかなんとか。実際に付き合っていたところをとったとかなんとか。よく覚えてないけれど、そんなことを言っていた。
それ自体はどうでもよかった。
でも叩かれたのは、ちょっと痛かったかな。
そのあとも若干サークルに居づらい空気があったけど、あたしは抜けることはしなかった。なんか負けたみたいで、悔しかったし。あんまりもともと行ってないけどね。
でも、そんな空気も、同性に嫌われることも慣れていた。
慣れるのって変なのかな。
でも昔から、よく気に食わないみたいなことを言われた気がする。
思い当たることと言えば、物事をはっきり言うところかな。
誰かが誰かを好きと言えば、その人がかっこよくないとか、だれかがあの漫画で感動したといえば、わたしは嫌いっていったり、なんかそういうことはした。
あ、化粧した誰かにもなんか言ったかも。なんだったけ。
でも、それは純然たる事実であって、間違ったことは言ってなかったと思うんだ。
それに、事実なのだから別に否定していない。
貶めたり、悪く言ったりはしてないつもりだ。
なのになぜか嫌われる。
高校時代にいじめられてなかったのは、沙希と仲が良かったからなのかなって今では思う。
だってわたしの大学生活ちょっとだけピンチだし。
とはいえ、いやならやめればいいだけだし、幸いにも味方がいないわけじゃない。
だからあたしはこうして過ごしていられる。なんて恵まれているのかしらね。なんてポジティブに考えた。
***
就職先は七月に決まった。事務職。大学と同じで適当でいいかなって思ってたんだけど、それでも、大学ほど簡単には決まるはずもなくて、なんでもいいなんていう私の考えを見透かしてなのかなかなか就職先が決まらなかった。でも無事に決まってよかったと思う。
仕事先も実家から程よい距離を選んだからまだ家を出ていくことはなさそうだ。
そうしてあたしの大学生活は幕を閉じだ。
5years later
「結婚しよう」
目がキョトンとなった。そののちに、笑みがこぼれた。
「ふふ、ありがとう」
食事の手を止めて言った。
「なんだよ、笑うなよな。こっちは真剣にいってるんだ」
「ごめんね、茶化しているわけじゃないんだよ。ちょっと昔の事を思い出しちゃってね」
「昔のこと?」
「……実はね、私、プロポーズされるのこれで二回目なの」
「え、それって……」
「あ、ええと、勘違いしないでね。別にバツついてるとかそういうわけじゃないから」
「そっか。まあ、そういうことは関係ないけどな」
「ありがとう」
「で、昔のことって?」
「気になる?」
「そりゃあ、気になるだろ。そんなこと言われたら」
「ほんとにね、その人とはなにもなかったんだよ」
「なにもって?」
「付き合ってたとか、そういうの」
「なんでそれでプロポーズ」
「ほんとだよね、わかんない」
そうしてまた優しい笑みを浮かべた。
「高校の同級生だったってだけ、大学の時にね、いきなりプロポーズれたの。それまで、会ってもいなかったんだよ」
「すごい勇気だな、そいつ」
「ほんと、不思議な出来事だったなぁ。今何してるんだろう」
「同窓会とかで、会ったりすることあるんじゃないの」
「そのあとに、同窓会は何回かあったんだけど、そういえばいなかったかな」
「なんだかそいつ悲惨だな。せめて覚えててやれよ」
「覚えてるよ。忘れたわけじゃないってば。そりゃさ気になるよ。でも、今さらだよ。だって――」
真剣な顔をして、向かい合った、
「よろしくお願いします」
唐突に返事をした。
「こ、こちらこそ」
彼も慌てて返答した。
「えへへ、なんだか照れるね」
「ほんと、照れるな」
「さて、じゃあ、帰ろうか」
会計を済ませて外に出る。
「外、寒いかな……」
天気予報では雪が降るかもしれないと言っていた、
食事していたレストランの窓からは雪の影は見えない。
あのときも雪が降っていて、寒い夜だったなあ。
ほんとに、今何してるんだろう。
会計を済まして、彼が出てくる。
「じゃあ、いこうか」
差し出された手を優は握った。
あったかい。
この手のぬくもりの様な暖かい幸せが続くといいな。
そして、彼にも幸せになっていて欲しいと願った。
***
家に帰って荷物を置く。
「結婚かあ……」
結婚は好きだからとか安定を求めてだとかじゃなくて、もちろん嫌いじゃないのだけれど、ただ単にそういう時期かなって思ったから決めた。
この頃、よく鴨井君のことを思い出す。なんとなくそろそろ結婚を意識していたからだ。
もしあのときのプロポーズを受けていたら、なんてね。
二十代も半ばに入ったら、大分考えが変わったと思う。学生時代だったら絶対結婚なんて考えられなかったし。年を重ねるってこういうことなのかもね。
大学を卒業してからは少しは落ち着いたと思う。彼氏だって、今の彼で二人目だ。
結婚を意識したのも最近で、それまではそんなことはやっぱり考えてなかった。
今の彼と付き合うときに、一人暮らしをすることを決めた。
少し、一人の時間が欲しくなったから。
大学のときよりも会社での人間関係はうまくいっていた。わたしだって学習はする。
波風立たないように過ごしてきた。それでも、ちょっとはあるけれど。社会ってそんなもんだよねなんて割り切って過ごしていた。
社会に出て初めに付き合った彼氏が同僚だったこともあるのかもしれない。
結婚したら仕事はどうしようか。そういえばそういうことは全然話さなかったな。今までも話したことないし。まあ、プロポーズされたその日に話すことでもないのかな。
今の彼は違う会社で、友達の紹介で知り合って、付き合ってもう三年になる。やっぱここへんが潮時なのかな。まだ早いともちょっとは思うのだけれども。
彼の年収なら別に家庭に入っても大丈夫なんだろうけど、やっぱりなるべく働いて痛いかな。なんか家庭に入ると狭い世界に閉じこもってしまう気がするって考えは変わりない。その辺はまた彼と話してみようかな。
お風呂に入ってそんなことを考えて、髪を乾かして沙希に電話をした。
「あのね、沙希、わたし結婚することになったよ」
『うん、そっか。おめでとう』
「ねえ、彼今何してるか知っている?」
『彼って?』
「鴨井君」
『……どうしたの、今頃』
「今日ね、プロポーズされたときにふと思い出しちゃって」
『なるほどね、それでか。何してるんだろうね。私も全然知らないよ』
「あんなことがあったのにね」
全然彼が何してるかなんて考えたこともなかった。
『あんなことがあったのに、ね。……もし、なにかわかったら、教えてあげるよ』
「いいのいいの、無理には。ちょっと気になっただけだから。幸せになってたらいいなって」
『少なくとも、今のあんた以上に幸せではないかもね』
「えへへ」
『それじゃあ、式の日が決まったら教えて。……大丈夫。ちゃんとはがきも返送するよ。うん、じゃあまた』
とりあえず沙希には報告した。なんかちょっと元気なかったかな。
今度買い物にでも誘ったあげようかな。
***
そのまま日付は過ぎて、結婚式のことも二人で具体的に考えるようになった。
新居も二人で決めようとしていた。
年末、バタバタと色々とことが進み、ちょっと疲れていた。
会社の忘年会もあったし、彼といろいろ決めなくちゃいけないし。
ちょっとつらいなあ。
それでも楽しみは楽しみで。
式場のパンフレットを見返しているときだった。
沙希から電話がかかってくる。
『もしもし、優?あのね、言ってなかったことがあるんだけど――』
唐突に沙希がきりだした。
「――え?」
『ごめんね、優。聞いてる?』
「う、うん。大丈夫。それっていつのこと――」
どうやら、あの冬の日には私の知らないまだ続きがあったみたいだ。