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ささくれ

高校は三年間、ひとりで昼食をとっていた。

 クラスメイトと話をしないわけではなかったが、会話らしい会話もなく、およそ親しい友人と呼べるような人物はできなかった。

 さびしくなかったといえばうそになる。それでも友人をつくろうという気にはなぜだかなれなかったし、何よりも同級生たちの輪に入っていける自信がなかった。

 だから自分から行動は決して起こさなかった。自然にできたらそれはそれで、なんて思っていた。

 僕は人付き合いが苦手なのかもしれない。そう思ったのは卒業間近になってからだった。

 気づくのが遅すぎるといわれるかもしれないが、それまでは自分ではそんなつもりもなかったのだから仕方がない。

結局ずっとどのクラスに馴染めないまま三年間を過ごした。クラス替えなんて僕にとってはあってないようなものだった。声をかけてくれる人はいたのだけれど、なんか鬱陶しかったからあんまり反応せずにいたら離れていった。

 そういえば、卒業式のあとみんなどこに行ったのだろうか。実際に行ったのかどうかもわからないし、まるで見当がつかない。……ま、関係ないけれど。

 高校卒業後はさほど有名ではない大学に一応は入学したものの、二年で辞めてしまった。

 大学生活にそれほど大きな夢を持っていたわけではない。だけど、なんか違うと思ってしまった。それは通過点として無視できないほどの違和感で、結局そこでつまずいた。

 僕にとって大学の講義は意味のあるものに思えなくて、そんな意味のないことを、身にならないことをするために毎日通うことが急にばからしくなった。

全く、無為な時間をすごしたものだ。

 両親には申し訳ないことをしたと思っている。でもなんだか、すっきりした気持ちにもなっていた。

 学生でないことがこんなに自由なのかと今は思う。

 大学を辞めた後は、いくつかバイトを掛け持ちして生計を立てたが、どれもあまり長く続かなかった。

唯一長く、未だに続けているのがファミレスである。

 なぜ続けているかは謎のままだ。コミュニケーションは下手だし、まともに客に愛想を振りまくことができているとも言い難い。

 ほんと、なんでなのだろうか。

お金を稼ぐとか、生活のためとかいってしまえばそれまでなんだろうけど、やはりよくわからない。

他にも仕事は選択をしなければ山のようにあるかもしれないけれど、今のバイト先のファミレスは落ち着く場所の一つになっていた。

生活は楽ではないけれど、家賃とか生活費諸々を差し引いても多少の余裕が出るので文句もない。これといって友人もいないので交友費がかかることもない。

毎日生きていければ十分だし、それに付加価値があるなんてもうこれ以上ない幸せなんじゃないだろうか。

今日はうまく生きることができただろうか。わからないまま人生は進んでいく。

ポケットの中に手を入れると、くしゃという感触がした。それをつかんで取り出し、広げると、請求書だった。

最近の生活費を切迫している原因。これさえなければなと思う。

しかしこればかりは仕方がないことで。請求書を丸めてもう一度ポケットに突っ込んだ。夜も更けこんでだいぶ冷えてきた。そろそろ帰ろうかと考えているところで、店の入り口から人影が見えた。

          

          ***

砂利を踏む音がした。

「こんなところで何を黄昏ているんだ、少年」

暗がりから声をかけられる。

「もう日は完全に落ちてますけど」

 時刻は深夜2時半を過ぎたところだ。今さっきファミレスの営業時間が終了した。

地方都市でしかも中心街とは少し離れているとはいえ、いまどきは二十四時間営業ぐらいしてもいいはずなのに、なぜかこの店は2時に終わる。客が来ないからだろうか。それとも地方だからだろうか。全国平均を知らないからそこらへんはよくわからない。

絢さんが言葉を返してきた。

「そういうことを言ってるんじゃない。雰囲気の問題だ。雰囲気の」

「知ってますよ、言ってみただけです」

「で、実際のところは何をしていたんだ」

「何もしてないですよ、ちょっと考え事を」

人生について軽く振り返ってました。

「そうか」

「絢さんこそ、何しに来たんです」

「何って…ここは喫煙所だぞ」

そういえば、そうだった気がする。

喫煙所とは言っても、スタンド灰皿があるというだけの場所だけど。

彼女は煙草をとりだし、ライターで火をつける。少し風があるからかなかなか火がつかない。

「絢さん、まだ吸ってたんですか。ずっと幼児体型のままになっちゃいますよ」

「うるさいな、いいだろ別に。おまえが気にすることじゃない」

少し怒っているところがかわいい。5歳も上だとはとても思えない。

「でもほら、大変でしょ。中学生に間違えられてよく補導されちゃうから」

「そんなことはない」

「いや、でもこの前見ましたよ、補導されているととこ」

絢さんは顔をしかめた。

「……なんで知ってるんだよ」

「……まじっすか」

カマかけただけだったんですけど。

やってしまったという表情をし、先輩はあいている方の手で顔を覆う。

つい吹き出してしまった。

「……笑うなよ」

「俺の勝ちですね。絢さんにはなかなか勝てませんから嬉しいです」

「たまたまだ」

それでも嬉しい。

「でももう慣れたでしょ」

「ああ、残念なことにな。世の中ロリコンが多くて困る」

煙草をくわえながら先輩が言った。

「絢さんがいうと説得力があります。自覚あったんですね」

「長年付き合っているからな。いやでもそのカテゴリに分類されるであろうことはわかる」

楽しい人生ですねって言ったら、全然楽しくないって返された。

「そういえば絢さん、仕事はいいんですか」

「……いまさら何を」

絢さんは煙を吐き出す。

「終わったからここにいるんだろう。お前こそいいのか」

「俺も自分の担当は終わってますけど」

「ちがうよ、あれ、……混ざらなくていいのか」

そう言って絢さんは、店内を指さす。閉店はしているが、一応後片付けの最中なので電気はまだついている。そしてあまり年の変わらない同僚たちが片付けそっちのけで話に花を咲かしているようだ。

「それこそ今更ですよ。絢さんも知ってるでしょ。俺のコミュニケーション能力」

「お前はないわけじゃないだろ、ただなんだ、その、人格に問題あるだけだ」

「さらっとひどいこと言いますね」

「……私はおもしろいと思うけどな」

「フォローになってませんよ、それ」

「で、どうなんだ。中に戻らないのか」

「……俺が入ったところで気まずくなるだけですし、それ以前にあの輪には入れません」

向いていないのだ。仕事以外でのコミュニケーションの取り方が分からない。彼らのノリにもついていけない。

「絢さんこそ、いいんですか。俺ほど浮いてないですよね」

「ほどってなんだよ。私はお前とは違う。それに私もああいうのは好きじゃない」

「絢さんも人格に問題ありですもんね」

「うるさいな。……かわいいかわいい後輩が一人さびしく過ごしていたからきてやったんだよ」

「そういって、煙草吸いたかっただけでしょ」

「まあな」

そう言って煙を吐き出す。白煙が空に拡がり、夜の深い色に浸食され、霧散してゆく。

素直に肯定されるとちょっと傷つく。

「……絢さん」

「なんだ」

空を見上げたままこちらを見ずに先輩は返事をする。

「好きです」

空を見たまま僕は告げた。

絢さんはちらりと目線を向け僕を見た後、視線を正面に戻す。

「私も好きだぞ」

「いや、そうじゃなくて」

多分伝わってないな、これ。

それともわざとやっているのだろうか。

今度は正面を向いて伝えよう。

「絢さん、もう一度言うのでこっち向いてもらえますか」

絢さんは煙草をつぶした。スタンド灰皿を挟んで向かい合う形になる。

店内からひときわ大きい笑い声が聞こえた。

「好きです」

「…………そうか」

「はい」

「わかった。私は――」

「絢さん、次のシフトいつですか」

話題を変えた。これ以上は話す必要がない。

「ん……明後日だけど」

「そうですか。俺これから一週間休むんですよ」

「旅行にでも行くのか」

「そんなところです」

出来る限りにこやかに答えた。

「なので、続きはまた来週に。寒くなってきたので体、気を付けてください」

そう告げて、立ち去る。店内に荷物は何も残してなかった。

「おい、ちょっと待てって、」

声をかけられたけど、振り返らず帰った。

「はぁ、なんなんだよ一体……」

二本目の煙草を取り出して火をつける。

彼女のつぶやきは、吐き出した煙と一緒に夜に溶けた。

          

          ***

告白されてから数日、あいつは宣言通りバイトには来なかった。

この前の真意は聞けずじまいだ。それについては少しもやもやしていた。

「お疲れ様でした」

 今日のシフトは夕方までなので、5時には仕事が終わる。

面倒なので客足が増える前にさっさと店を後にすることにした。この後には所属する劇団の稽古がある。

とはいえ、まだ時間があった。移動時間を差し引いても1時間は余裕がありそうだ。

今日の稽古は少し早めからだけど、それでも待つには長すぎる。どこかで時間でもつぶそうか。

そんなことを思いながら、カバンの中を探る。

……本がない。どうやら準備するのを忘れてしまったようだ。

入れ忘れたのだろうか。今朝の行動を思い返してみるが、記憶にない。

台本を読んでいてもいいが、それについては飽きるほど読み込んだつもりだ。今更何か新しい刺激があるものではないだろう。

稽古場の最寄り駅まで行き、近くの本屋に入ることにした。

駅に併設されている本屋に入ると文庫本の棚を見て回った。

しかし正直、惹かれる作品がなかった。

好きな作家の作品は全部家にあり、今更買うものではない。かといって、興味のない作品を買ってまで時間をつぶそうとは思えなかった。

まあいい。このまま本屋にいれば時間もつぶせるだろう。

ハードカバーを見てから雑誌コーナーでも行ってみようか。

文庫本のコーナーを後にして、ハードカバーのコーナーに移る。

装丁がきちんとされていることもあり、やはりハードカバーのコーナーは少し重々しい感じがした。

新刊から見て回るが、特にこれといった感想は抱けない。

やはり、ハードカバーでも買いたいものもないな。雑誌でもみるか。少し時間は早いが、早く着いたら着いたで待てばいいことだ。

雑誌コーナーへと移動中にふと、書店員おすすめの本というコーナーに目がいった。

そこに置いてある本は、名前は知らないわけではないが、特に有名な作家ではないという本が多く、積んであってもにあってもせいぜい2冊というところだろう。

あれ、これって確か……。

一冊の本を手に取る。あいつとの記憶が再生される。


バイトの休憩中のことだった。

「先輩は本とかって読みます」

「誰に向かって言ってるんだ、当たり前だろう」

「いや、当たり前って言われても知らないですよ」

「じゃあ知っとけ」

「わかりました。心の端にメモしておきます。それで、最近おすすめの本を見つけたんですよ」

「珍しいな、お前が何かを勧めてくるなんて」

「倉橋通って作家知ってますか。その人の『黒い蝶の夢』って本です」

「聞いたことない。おもしろいのか?どんな内容なんだ」

「主人公がひたすら真っ暗な道を歩くいだけの話です。すっごいつまんないです」

「面白くないものは普通人に勧めないだろ」

「いや、面白くないんですけど、なんか魅かれるんですよ。ぜひ読んでください。感想を聞いてみたいので」

「……気が向いたらな」


そうだ、確かに倉橋通といっていた。

「この本つまらないんじゃないのかよ」

迷ったが、その本を手に取った。展示してあった最後の一冊だった。もしかしたら、初めから一冊しかなかったのかもしれない。

レジに持っていき購入して鞄に入れる。

鞄が重くなった。そのことについては買ってから少し後悔した。


本屋に寄っているうちに、喫茶店でゆっくりしている時間は既になくなっており、そのままスタジオへ向かう。

 スタジオに入ったものの、稽古まではまだ少し余裕があった。他の劇団員も誰も来ていない。

先ほど買った本を取り出して読む。

場所はわからない。何も見えない。たたただ真っ暗な世界。主人公はなんでそこにいるのかもわからないらしい。それでもなにか手がかりを探してひたすら歩く。ただ、歩くだけ。匂いもしない音もしない何もない世界。ひたすら自問自答するしかない。本当にこの世界は真実なのか。夢の中ではないのか。わからない、わからないからただ歩く。

…………つまらないな。ほんとにあいつの言った通りの内容だった。なんであいつはこんな本を勧めたんだろうな。

意味がわかないまま読んでいると、声をかけられた。

「先輩、なにしてるんですか」

声のするほうを向く。

「ん、ああチリか」

「チリですよ?なにしてるんですか?こんなところで?」

「早く来たから本を読んでたんだよ。見てわかるだろ」

「早く来たんですか?みなさんもう揃ってますよ?」

時計を見るともう時間は過ぎていた。

慌てて本をしまい、中へ入る。

するとチリの言った通りすでに劇団のメンバーが揃っていた。

「……お前ら、私の前を素通りしていったのか」

奥で準備をしている美夏が口を開いた。

「だって絢って変に声をかけると機嫌悪くなるから」

「いや、そこは声かけるべきだろ」

「自然と気付くかなって」

「気付かなかったから今こうなってるんだけどな。お前ら全員素通りは冷たくないか」

「めんどくさいよりはいいだろ」

柾木が口を挟んできた。

「んな――」

「そろそろはじめるぞ」

 柾木が全員に聞こえるよう言う。

「だって絢さんにどうやって声かけたらいいかわからなくて」

「自分もっす」

「めんどくさいのは勘弁な」

「絢、早く準備しな。柾木君に怒られるよ。あ、あと何読んでたの。あとで教えてね」

私の横を通り過ぎる時に皆が好き好きに声をかけてきた。

私は嘆息し、着替えを取り出し、おとなしく準備を始めた。


私の所属している劇団は柾木を筆頭として大学のサークルの同期があつまって作ったものだ。だからメンバーは同期と、大学の後輩が大半を占める。それに加えてそれぞれの知り合いが入ってきていまの形になった。

 だが、他の多くの劇団の例にもれず、経営は非常に厳しい。世の中そんなにあまくない。

 全員が演劇の道一本でやっていこうというわけではなく、サークルの延長のような感じになってしまっている。

 みんな甘くないことは承知だが、甘えたいという思いは漏れ出てしまっていた。

 大学をでて半数は正社員として就職、半数は私のようにアルバイトをして生計を立てている状態だった。

どっちつかず。覚悟を決めきれない連中の集まりのように見えても仕方がなかった。

次の公演以降も今の状態が続けば、解散も仕方ないのかもしれない。

それでも、みんなでお金を工面しあってなんとかやっている。いつ解散してもおかしくない状況でも一生懸命活動していた。きっと、好きだから。

私たちの劇団は脚本、演出は全て座長の柾木が仕切っており、スタッフもおらず、役者しかいない。なので、役者が交代でスタッフを兼ねる。

私は次の舞台の主演だった。

別に初めてというわけではないがやはり毎度緊張はするものだ。だから入念に下読みをして、準備はしてきた。

それに、今回の公演は柾木の中でも出来が良いものと感じているらしく、熱の入りようが違った。

「だからそうじゃないって」

柾木から檄が飛ぶ。

「なんでそこの演技がそうなるんだ」

「お前の指導は自己満足なんだよ。見ている方にとってはこっちの方が断然映える」

「違うな。それこそお前の自己満足だよ。解釈が違うんだよ。ちゃんと台本読んだのか」

「穴が開くほど読んだよ。それで伝わらないなら、お前の脚本が悪いんだろ」

私は負けじと言い返す。私が間違っているなんて思えない。

「まあまあ、ふたりとも落ち着いて」

 美夏が仲裁に入る。

「美夏は黙ってろ」

柾木が鋭く言い放つ。

「お前、美夏にその態度はないだろ」

「はっ、そもそもな、美夏も美夏だよ。全然なってない。いるのかわかんねえよ」

「それは私もそう思う」

 柾木に同意する。

「え、あたし?」

「で、だ。さっきのことなんだが――」

私は話を戻す。

そこからしばらく柾木と口論した。

結局その日の稽古はあまり進まなかった。

私と柾木の口論なんてこの劇団では日常茶飯事なので、みんなは慣れた様子だった。だから、いつものことかなんて様子で見られていたかもしれない。

私が間違っているとは思わなかった。だけど、まあ、柾木の言い分もわかるかなって帰り道に思った。


          ***

 一週間経った。けれどあいつは結局バイトには顔を出さなかった。

 私は相変わらず、ほどほどに忙しく働いて、劇団では稽古をしていた。


***

 「お疲れ様です」

 タイムカードを押す。

あいつの分は、まだあった。

 着替えてフロアに出る。

 少し、ぼーっとしていた。

――世界は回っている。いつだって同じように。

今日も客が来て、店員がせわしなく働き、食事を――満足したかどうかは知らないが――したら客が帰る。

なにも変わりやしない。

違いといえるのは、ロッカーに花瓶が置かれ、一輪の花が挿してあるということだけだった。

でも、それすら、何の影響力もない。一週間もしたらたぶん、もう何事もなかったように片付けられているだろう。

呼び出しのランプがついたので、それを解除しフロアに出て、注文をとりにいく。

若いカップルが仲睦まじく会話をしている。これからの買い物の予定とか、見たい映画のことを話している。

彼らは何も知らない。なんだかそのことに少し腹が立った。理不尽だろうとは自分でも思うのだけれど。

雑に言葉を吐き、注文を繰り返す。

失礼な態度になったかもしれない。多分、店長に見つかったら怒られる。でも、そんなことは関係ないと思えた。

今は他人の都合すら、どうでもいいという気分だった。怒られたら怒られたで意外とすっきりするのかもしれない。

それでも仕事はきっちりこなすよう心がける。

キッチンに戻り、注文を伝えた。

厨房には、二人、レジに一人。また一人、注文を伝えに戻ってきた。

彼らは知っている。けれども何も変わった様子は見せない。仕事中だからだろうか。

それとも、何か変化はあるのだろうか。見た目だけは全くわからない。

これは私だけなのだろうか。

わからない。わからない。

笑顔を絶やすことはないようにしよう。仕事はしなければいけない。

先程のようなことはしてはいけない、これは義務だ。自分に言い聞かせる。

私は弱いのだろうか、それとも、強いのだろうか。

働くことで気がまぎれるとはよく言ったものだ。

全然まぎれやしないじゃないか。

そんなことを考えているうちに今日の仕事が終わる。

今日もまた最悪の一日だった。

「お疲れ様です」

そう挨拶をして、さっさと着替えを済ましファミレスをあとにする。

喫煙所は素通りした。そういえば、あの日以来煙草を吸っていない。以前はあんなに吸いたくなったのに、今はその欲求がまったくなかった。

いつか吸いたくなるのだろうか。

……吸いたくなったころには、忘れているのだろうか。

それは、明日か、明後日か、それとも十年ぐらいかかるのか。

店内の暖房で暖まった空気が肌に触れる。まったく、いやな空気だった。対照的に外は曇天で寒そうだ。

どうせなら、雨が降ってほしかった。いっそその方が、すっきりする。

明日も晴れなのだろうか。


次の日のバイト終わり、ロッカーから会話が聞こえてきた。

「そういえばさ、あの人なに考えてるかわかんなかったよね」

「そうそう。話しかけづらいし、正直ちょっと厄介だったな」

「わかるわかる。なんか人生終わってましたって感じ」

「ちょっとそれ冗談になんないじゃん」

「あははは、ごめんごめん」

「あの人、大学中退したって話でしょ」

「そうなんだ、初耳。ついていけなくなったのかな」

「かもね。有り得る。うちの大学にもさ、いるんだよね、ああいう人」

「あ、バイトが一緒じゃなきゃ一生関わり合いにならないよね」

 また笑いが起きていた。

ばんっ、と勢いよくドアを開けた。

「……お疲れ様」

「「お、お疲れ様です」」

 彼らが慌てたように挨拶をする。

今の姿は彼らにどう映っただろうか。

今の私は周りにどう映っているのだろうか。

着替えを済ますと、部屋を出た。

「なんかさー、機嫌悪くない」

「だよねだよね。ここ最近ずっとあんな感じじゃない」

「やっぱりさ、あの噂本当だったのかな」

「うそ、やっぱりほんとなのかな。だったらありえないんだけど。だって相手あの人だよ」

「ほんとだよね」

……全部聞こえてるっての。ドア越しに聞こえた会話に辟易した。

確かにここ最近はおかしいのかもしれない。いや、かもしれないじゃないな。

自分でも変だってわかっている。それでも、どうすればいいのかなんてわからなかった。


店を出て携帯電話を見ると、着信履歴が複数あった。

 誰かと思って確認してみると、柾木と美夏からだった。柾木にいたっては数回もある。

ふたりして電話があるなんて、同じ要件だろうか。

少し気になったが、そのままにしておいた。大事な要件ならばまた連絡が来るだろう。そう思って店を出た。

店を出たところで着信があった。携帯が震える。

携帯を取り出すと、どうやらメールのようだった。

美夏からだ。

件名はなし。本文には、

『時間あったら話したいことがあるんだけど』とあった。

なんだか気になったので、すぐ返信した。

明日はバイトが休みなので、今からでもいいなら、と送った。

時間は十一時をまわろうとしている。

返事はすぐに来た。

『いいよ。じゃあ申し訳ないんだけど淵見橋のファミレスに来てくれる?』

あたしはメールを見ると荷物を持ち直してファミレスに向かった。

今、ファミレスから出たばかりなんだけどな。


ファミレスに着くと柾木と美夏が二人並んで座っていた。やけに早いなと思った。

「なんだよ。改まって」

ファミレスから帰ってファミレスにいるのはやっぱり複雑な気分だった。

「あのね……」

美夏が言う。

「なんだよ、お前らついに結婚でもするのか」

「えへへ、そうだったらいいね」

「……」

美夏ははにかんで柾木を見上げた。柾木は相変わらずの仏頂面だ。

柾木が口を開いた。

「実はな――」

「実はね」

美夏が柾木の言葉を遮った。

「実は、劇団を解散しようと思ってるの」

「お前、それは座長の俺が言うべきだろ」

「もうこれ以上祐介君に負担かけられないよ。劇団解散するのだってどれだけ悩んだかあたしは知ってるんだから。あたしにもなにか、せめてこれくらいさせてよ」

「そうはいったってお前な――」

「あーー、えっと、盛り上がってるとこ悪いんだが……お前ら、言うことはそれだけか」

「これだけじゃないよ。祐介君にはまだまだ言いたいこといっぱい――」

「いや、そっちじゃなくて、解散っての。変なメロドラマ見せられても困るんだが」

「……絢、冷静なんだね」

「お前らのおかげでな。誰かが盛り上がっていると冷静になれるらしい。それに劇団が厳しいのは知ってるよ。あたしをなめるなよ」

「……なめてたわけじゃないけどな」

「でも、気に食わないことがある。解散を勝手に決めたことだ。片山は知っているのか。あいつにも相談なしで決めたのか」

「……そうだよ」

「気にくわねえな」

「……お前らには関係ないことだからな」

「てめっ」

立ち上がると飲み物が零れた。

零れたコーヒーからは何の臭いもしなかった。

あたしは、机から滴り落ちるコーヒーをただ見続けていた。

「……わかった。もういいよ」

「絢っ」

美夏が止めるのも気にせず、あたしは店を出た。言いたいことが次々に出てきたけれど、すべて飲み込んだ。

代金を払っていないことに気が付いたのは、店を出てしばらくしてからだった。

             

             ***

 解散の話を聞いてから一日たって、すんなりと話を受け入れられた。いつかは来るだろうと思っていたからなのだろうか。

劇団の稽古は、ここ最近すっと乗り気ではなかった。それに拍車がかかってしまった気がする。

「ちょっと止めてくれ。なあ、今日はやめにするか」

稽古を中断し、あきれ顔で私に向かって柾木が言う。

「……そうだな」

 私は肯定した。

「そうだなってお前……もうちょっとあるだろ」

「悪い。たぶんもう、あたしには無理だ。乗りきれない」

「お前なっ」

彼が怒鳴る。いつも通り美夏が仲裁に入った。

「まあまあ、落ち着いてって祐介君。絢も調子悪いんだよね。それならもう帰った方がいいよ」

「でも――」

彼はまだ食い下がる。

「大丈夫だよ。あとの確認はあたしたちで出来るし。必要な時はあたしが代わりにやるから」

「ごめんな。ありがとう」

美夏に素直に感謝の意を告げて、帰らせてもらうことにした。

別に体調が悪いわけでもない。

でも、明確に私の中の何かが狂っていた。


「待ってくださいよ」

着替えを終えて帰ろうとする私をチリがひきとめる。

「……チリか」

「チリですよ?先輩どうしたんですか?こんなの先輩らしくないですよ?」

「私は私だよ。らしいもらしくないもない」

「じゃあなんで引き下がったんですか?いつもなら言い返すところなのに?なんでいつもみたいに言い合わないんですか?」

「悪いな」

それだけ告げて帰った。


帰宅して、この前買ったハードカバーの本を開いてみる。続きを読もうか。

そういえば、あれからだろうか、それともその前からだっただろうか。あいつには何かとつまらないものを奨められた気がする。

「これつまらないですよ」

そう切り出して小説や映画などいろいろ勧められた。

前置きが「つまらない」から始まっているので、何を奨められたかはほとんど覚えていないけれど。

かさり、とページをめくる音だけが響く。

相変わらず話はまるで進まない。

いつになったらこの旅は終わるのだろうか。読み進んでいるのか。それとも読んでいないのか。それさえもわからなかった。

……面白くない。なのに、ページをめくる手が止まることはなかった。


          ***

明日も稽古がある。

私がいなければ、困るのか。

代役を立てて終わりじゃないのか。

思い始めたら最後、ついにその思考から抜け出せなくなった。

多分美夏あたりがきちんとこなしてくれるだろう。前向きにそう捉えて、稽古には行かないことにした。行ける気分じゃなかった。

気分のすっきりしないままその日は過ごした。

次の稽古の日も行かなかった。

サボることは甘美だ。

その日以降私は稽古には参加しなくなった。

そうして、なにもしないままの日々が過ぎてゆく。

ただ、バイトに行って、いつも通りの接客をして、帰宅する。

なにがしたいんだろうな、私は。

かまってほしいのだろうか、お前が必要だと言われたいのだろうか。

自分の代わりなんていくらでもいる。そのことを否定してほしいのだろうか。

この歳になって、とんだ駄々っ子だな。


劇団に行かなくなってからは時間に余裕ができるようになった。

はじめは時間を持て余すため、暇つぶしだったのだが、次第に色々と作品をを探すようになった。

つまらない小説を。つまらない漫画を。つまらない映画を。

たくさんの映画を見た。たくさんの本を読んだ。けれど、私の現状を解決する方法なんてどこにもなかった。

もう劇団に行く気は毛頭なかった。演劇もやめようと思っていた。

私に未来はないと本気で思っていた。

心機一転と新しいバイトや就職に関連するサイトを覗いてみたけれど、しっくりとくるようなものはなにもなかった。

結局今に至る。

ひたすら本や映画を見ているのはまだ未練があるからだろうか。

映画を見終わると、次の映画のDVDを手にした。

これは……。オーディションを受けた作品だった。

レンタルするときに適当に選んだから混じっていたのか。

オーディションを受けたことがないわけではない。私だって欲はあった。大きいところで演技をしてみたかった。別に舞台にこだわっていたわけではない。

それでもよくてエキストラのひとりで、いまこんな状態なのが現状。つまりは、成果はなかった。

仕方なく映画を見る。ああこの役、こういう人になったんだ。

なんのコネもツテもなく、私がヒロインなぞなれるわけもなく、受けた役だって端役にすぎない。それでも、私が選ばれなかったことに今更ながら、重たい感情が胸に押し寄せた。


          ***

次の日も家に帰る前に本屋に寄った。

この数週間で何冊の本を買っているのだろう。

どれくらい映画を見たのだろう。

でも、なんかすっきりしない。

本を読めば、この登場人物はどういう風に演じてみようだとか。

映画を見ては、ここはこうすべきだとか、あの展開はどうだとか。

そういうことが気になってしまう。

結局私は作り手の側に、演じる側にいたいのだということを実感した。

それでも、もう劇団には戻れないと思っていた。

戻りたくないと思っていた。

自分の安心する場所があることが嫌になっていた。


帰り際、駅を通ると、駅前で誰かが歌っていた。アコースティックギターを弾いて歌っていた。

下手くそな歌、ではない。うまい。

聞いたことのない曲。オリジナルだろうか。

気付くと、立ち止って聴いていた。

次第に人だかりができる。

一曲歌いきると、彼女は頭を下げた。拍手が起きる。

これだけできる人で、これだけ人を集めたって、世の中から見ればひどくちっぽけだ。

うまくたって陽の目をみることのない人だってたくさんいる。

うまくなくたって陽の目を見ることもある。

ただの機会なのだ。チャンスをつかむかどうかなのだ。

彼女はチャンスに恵まれなくても歌い続けるのだろうか。

そんなことを考えていると、ふと、涙が流れていた。

彼女は歌い続けた。何曲も。

時間が過ぎるにつれて見ている人数も減り、わたしともう一人だけになった。

ギターを置いて彼女がこちらに近寄って来る。

「あの……ありがとうございました」

「いや、礼を言われる筋合いはない」

「でもでも、涙を流して下さって、あたし、そんなことはじめてで、なんだかうれしくなっちゃって」

ああ、この子はなんてかわいいのだろうと思う。

同時になんて傲慢なのかとも。

自分のために涙を流していると感じるなんて。いや、曲を聴いて涙流していたら素直にそう思うのか。わたしが捻くれているだけだな。

「これ、よかったらもらってください」

CDを差し出してきた。

「いや、でも……」

「これは気持ちです。もしかしたら迷惑かもしれないですけど、もらってくれたら嬉しいです」

そんなこと言われたら断れないじゃないか。

「わかったよ。ありがとう。……また聴きに来るよ」

 CDを受け取って、その場を後にした。


          ***

「おい」

ファミレスでのバイトの帰り、柾木が待っていた。

「なんだよ、こんなところまで――」

「なんで、稽古に来ない。もう1週間だぞ。公演まであと1週間を切ってる」

「……そのことか」

 当然か、それ以外にこんなとこくる用事ないよな。

「どうだ、みんな元気か」

「元気か、じゃないだろ。なんでこないか聞いているんだ」

「行きたくない気分だからだよ」

「お前は学生か」

「見た目はな」

「そういうことじゃないだろ」

「すまんすまん。どうせ誰かが私の代役をやっているんだろう。なら、わたしじゃなくてもいいじゃないか」

 私は自嘲気味に言った。

柾木はそのことに気を悪くしたみたいだった。

「ひとりひとり役割がある。そう簡単に抜けられても困るんだよ」

「でも現状滞りなく回っている。違うか?」

「そういう問題じゃない」

「代役は美夏か。美夏なら大丈夫だろ。私よりも華がある。適役じゃないか」

「そう簡単に変えられるものじゃないことはお前だってわかるだろ。誰でもいいわけじゃないんだ」

 柾木は努めて冷静を装っていた。

「なにが気に入らなかったんだ。……まさか、解散のこと気にしているのか。それでやけになって」

「いや、解散のことは関係ないよ。それに別にお前らに文句があるわけじゃないんだ。これは私自身の問題だ」

「なんだよお前の問題って。話さなきゃわからないだろ」

……言ってもどうせわからないだろ。

「なにか言ったか」

「なんでもない」

「いやなことがあったら言え、善処する。それともこの前のことが原因か。俺たちがぶつかったことなんていつものことだろ。そんなことで弱るなんてお前らしくない」

「あれはそんなに気にしてないよ。なんていうか……やる気がなくってな」

「お前、いい加減にしろよ」

「……関係ないだろ」

正面から柾木の顔は見ることができなかった。視線が痛くて顔をそむけた。

「これが俺たちの劇団の最後の公演になるんだぞ。おまえひとりの問題じゃないんだ。お前の都合なんて知るか」

「は、私の都合だって。いままでだってお前の自己満足で続けてきただけじゃないか。何をいまさら――」

「なんだと」

彼は激昂し、私の胸倉をつかんできた。

「じゃあ、お前は今回の話、おもしろいと思うのか」

「面白くなかったら、没にしてる。自信があるからみんなの前に出している」

「私はそうは思わない。それに何度も言ってるだろ。自分たちが面白いと感じるものと客が面白いと感じるものは違うんだよ」

 私は臆せず柾木に言った。

「そんなことわかってるよ。それを踏まえて面白いものをつくればいいんだろ。それに、客にとって面白いものだけが良い作品だとも思わない。そうだろ、自分たちが満足しないでどうすんだ」

「その結果が現状じゃないか。結果劇団の運営はどうなった」

「っ――」

柾木は手を放した。

「いいか、お前の代わりはいない。今更キャストを変える余裕もない」

「今更キャストを変えられないっていうのが本音か。でも私の代わりなら美夏がつとまるじゃないか。現に今だって練習は続けられている」

「あくまで急場しのぎだ。本番を今のままやるつもりはない。お前の勝手で舞台を台無しにするのか」

「そうだよ、私の勝手だよ。勝手にふるまって何が悪い」

あー、私開き直っているな……。そうはわかっていてももう止められなかった。

「勝手にされた方の身にもなってみろ」

 勝手にされた方か……。

「……どういう気分だ」

「は?最悪だよ。怒ってるよ。見て分かんないのか」

「そうだよな。怒るか、あきれるかだよな」

「お前何言ってんだ」

「だったら……私はあいつにどういえば良かったんだ。どう答えれば正解だったんだ」

30センチ以上も高い彼の胸ぐらをつかみ返す。

「だから何言って――」

「なあ、教えてくれよ。私は何をすればいい」

「……おまえ、もういいよ。こなくて。中途半端な気持ちのやつに主役を張られても迷惑だ」

「是非そうしてくれよ。その方がきっと喜ぶ」

誰が、とはいえなかった。


二日後、今度はファミレスに美夏がやってきた。

「かわるがわるおせっかいな奴らだな」

「今日、バイト何時上がり?」

「あと2時間で終わるよ」

「じゃあそれまで待ってるね。なに頼もうかな……」

「どうぞごゆっくり」

バイトが終わって店の中を見ると美夏の姿はもうなかった。

私は外に出た。

「お疲れ様」

「ああ」

「この前は、大変だったね」

「まあまあだな」

「祐介君のことは悪く思わないであげて、彼もいいものをつくろうと必死なんだよ」

「さすがは彼女。言うことが違うな」

「もう、それは関係ないよ。で、なんかあったの」

「……主役になったんだろ。どうだ、間に合いそうか」

「……流れは全部覚えてるし、台詞も何とかなりそうだよ」

「そうか、さすがだな」

美夏は昔から華がある。決して美人と言うわけではないが、人を引き付ける魅力のようなものを持っていた。

「たぶん、お前が主役の方が合っていたんだよ」

「そんなことないよ。祐介君、始めから絢を主役にと思って脚本書いてたもん」

「どうだかな」

「それで、話そらさないでよね。何かあったんでしょ。昔から絢が休んだことなんてなかったじゃん」

「そうだっけか、結構サボってた気もするけどな」

「嘘ばっかり、納得いかなかったら、完璧になるまでやって仕上げてきてたくせに……失恋でもした?なんて、絢に限ってそんなことはあり得ないか」

「……あり得ないっていうのは失礼だろう」

「ごめんごめん、そういう意味じゃなくて、そんなことぐらいで休むわけないってこと」

彼女は苦笑気味に答えた。

「……よくわかんないんだよ。急に何をしたらいいかわからなくなった」

「よくわからないってなに。もしかして、あいつってのが関係あるの」

「ちっ、そんなことまで話してやがったのか。プライバシーもへったくれもないな」

「彼女だからね」

「都合のいい時だけ使いやがって」

「で、だれなの。あいつって」

「……後輩だよ。バイト先の」

それから私はあの出来事を彼女に話した。そしてその後の顛末も。

もしかしたら、初めてかもしれない。こんなに自分のことについて話したのは。

「そっか。で、絢はどう思ってたの」

「別に何も。それはほんとだよ」

「じゃあ、なんで気にするの」

「なんか今の状況を考えちゃってな」

「どういうこと」

「なんていうかさ、あいつは何がしたかったんだろうとか私は何がしたいのだろうとか、」

「その彼のこと、気になってるんだね」

「そういうわけじゃない」

「それって、恋じゃん」

「ちがうよ。それは否定できる」

「じゃあ、なんなの」

「それがわかったら苦労しねーよ」

「そっか、で、どうするの。ほんとにもう来ないの。稽古」

「まあな、行く気はないな」

「……わかったよ。それが絢の決めたことなら」

「……聞き分け良いな」

「昔から、絢はこうと決めたら動かないもんね」

美夏は笑った。少し悲しげな笑顔に見えた。

「じゃあね、ばいばい。よかったら見に来てね」

 そう言って美夏は帰って行った。

 あたしはポケットから煙草を取り出して、灰皿を見つめ、またポケットにしまった。


          ***

劇団の最後の公演は客席で迎えた。

今までは、舞台の上にいたことがほとんどだったから、自分のいた劇団を客席で迎えるなんて、思いもしなかった。

だから、どうなるんだろうなんて初めは思っていたけれど、すんなりと現状を受け入れてしまって、私は客席にいることがひどく自然なことのように思えてしまった。

幕が上がり、公演が始まる。

美夏は立派に主演を務めあげていた。

みんな立派だった。

自分なんてまるで最初からそこにいなかったように滞りなく公演は終わる。

少しだけ、なんで私はそこにいないのだろうと思った。そうしたらなんだか客席にいることに急に違和感を覚えた。

公演は最後まで見続けた。

目をそらしたらいけないような気がした。

私は終幕まで見ると、すぐに会場をあとにした。

 私には何も残っていないと思った。

 そう思ったら少し晴れやかな気分になった。


家に帰ると、ポストにチラシがあふれるほど入っていた。

なんだと思って、部屋に持ち帰ってみると、全てオーディションについて書いてあるものだった。中には雑誌の切り抜きもある。

なにかの嫌がらせかと思っていたら、今度はURLが大量に書かれたメールが送られてきた。

柾木からだった。

そのURLのうちから一つを選び、開いてみるとやはりオーディションの知らせだった。

それを見たとき、なんだか笑みがこぼれてしまった。

美夏に電話をする。なんだか柾木に直接電話をかけるのは気恥ずかしかったからだ。

美夏は出ない。多分みんなで打ち上げでもやっているんだろう。

『ストーカーはやめるように言っといてくれ』

留守電にメッセージを残しておいた、

もしかしたら美夏にはなんのことだかわからないかもしれない。

でもそれでいいと思った。いつか伝わればいいか、なんてそれくらいで。

入っていたチラシひとつひとつに目を通した。他の劇団や声優の養成所の案内まである。

ほんとおせっかいなやつだな。URLまで確認したら意外と時間かかるかもしれない。

考えているとまた笑えてきた。

あいつは私になにを期待しているんだろうな。

着替えもせずにひたすら見ていた。

そしてチラシの束の中からひとつ掴み取り、ぎゅっと握りつぶした。

さて、履歴書買ってくるか。着替えをしていなかったので財布を手に取りそのまま家を出る。

扉からは錆びた音がした。夜風が冷たく頬をなでる。

ごめんな。ここにはいない誰かに呟いた。これからもっと寒くなるだろう。私はあとどれくらいこうしていられるのだろう。不安定な人生に不安は尽きない。

なあ、お前はどういう気持ちであんなこと言ったんだ。

本気だったのか、冗談だったのか。多分考えたって私にはわからないだろう。答えは本人の中にしかない。

こわかったか。ドキドキしたか。恥ずかしかったか。

冗談だったら……一発殴らせろ。

私は進むことにするよ。もう戻る場所もない。これから先は進むしかないんだ。

覚悟を決めて一歩、玄関から踏み出した。


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