雨の観覧車
曇り空は世界の終りを連想させる。
カーテンを開けて窓際に立ち、窓の外の芳しくない天気を見ながらそんなことを考えた。
ふああ、と大きなあくびがでた。
まだ眠い。なんか最近よく眠れない気がする。もう一度ベッドに戻ろうと思い、窓から離れてベッドの方に向かった。
寝汗かいたのかな。体がベタベタしていることに気が付いた。なんだか気持ちが悪い。腕をさすり、着ている寝間着の中を見る。シャワー浴びたいなと思った。
今の季節は涼しい。というか寒さすら感じる。そんな季節で汗をかくのはなんだかおかしい気がした。
悪い夢でも見たのだろうか。未だ寝ぼけている頭で必死に思い出そうとする。
だめだ、全く覚えていない。いったい何なのだろうか。天井を見上げて考えてみる。
最近、いやなことがあったからもしれない。夢は現実を映す鏡みたいなものだと聞いたことがある。
あれ、違ったっけ。深層意識がなんとかだったかな。
ともかくあたしのなんらかが関係していることにちがいはない……よね?
まあいっか、とに気にしないことにした。ネットで検索でもすれば、わかるかもしれないけれど、それすら今のあたしには億劫だった。
もう一度振り返り、窓の外、空を見る。
今日はもう晴れそうにはないなと勝手に予想した。
ベッドに戻り、掛け布団をかぶる。それでも未練がましくまた夢について考えていた。
やっぱり、あれかな。でも、なんで今になってなの。なんだかわけがわからなくなってうわーって叫びたくなった。
原因となるようなことで思いつくのはひとつだった。
そうしながらもすっきりしないこの状況の原因になりそうなことを思いだしていた。
三日前彼氏にフられた。大学に入って付き合った初めての彼氏だった。
突然の別れ、というわけではなかったけれどやはりショックな出来事には変わりない。
数か月前から空気は感じ取っていた。
マンネリというか、なんか刺激がないというか。居心地がいいといえばそれまでだけど、なんだか、どうして彼なんだろうって思ってきていた。わたしは経験豊富じゃないからわからないけれど、たぶんお互いに興味が無くなったような感じで。それでもお互い別れを切り出さずにいたのは、少なからず執着があったからだと思うし、それでいいのかなんて思っていた。長く付き合うとこんなもんなのかなって。
そしたらある日突然、彼氏に別れを切り出された。
その時の状況を考えれば確かに納得はできるが、やっぱりフられたという形になるわけで。
それまではずっと一緒ってわけじゃないけど、そばにいるのが当たり前のような生活をしていたから、なんとなく喪失感が付きまとっているのも事実だった。
失って気付く当たり前の日常なんてものがほんとうにあるのかはわからないけれどもしかしたらこれがそうなのかもしれない。
今でも彼のことを好きかと聞かれれば、関係を戻したいかと問われれば、そうでないというだろうし、嫌いかと問われれば、そうでもないと答えるだろう。
つまりは、まだよくわかんなかった。別れるときってこういうものなのかな……。
今度美沙に聞いてみよ。気分は晴れないがとりあえず保留とした。
今日は大学の講義がある。
訂正。今日も、か。
講義には行きたくなかった。勉強がいやとか面倒だとかはもちろんそうなんだけど、きっと彼も出席するだろう。
今は顔を合わせたくない。泣くとかそんなことはしない。けれど、なんだか嫌な気持ちになりそう。子供っぽいかななんて思ったけど、やっぱりイヤなものはイヤだった。
今日は寝ていようかな。このまま寝ていられたら幸せだなと思う。
眠りにつこうとして寝返りを打ったとき、ベトつく肌にまた不快感を覚えた。
だめだ一度シャワーを浴びてからにしよう。そして着替えてから考えよう。
そうしてベッドからのそのそと這い出し、立ち上がる。
着替えを用意して風呂場へ向かおうとした。
その前に、今何時なのだろうか気になった。そういえば時間を確認していない。
もしかしたらもう講義は始まっているかも。そしたらしょうがないな。なんて言い訳してみる。
時間を確認するためにスマートフォンを手にとり、画面を覗く。目覚まし時計があるのに携帯電話を見るようになったのは、携帯を持ち始めてから自然としていることだった。
――スマホには見慣れない表示があった。
なんだろうと新着情報のそれに触れる。フリックして確認すると、登録しているSNSにダイレクトメールが届いているらしい。
スマホを操作し、SNSの画面を開く。
差出人は――かつて好きだった人からだった。
***
高校時代、片思いをしていた。
彼は部活に入ってはいなかったと思う。休み時間、誰かと一緒にいるところはほとんど見たことないし、話している姿もあまり見かけたことはない。
そんな人をなんで好きになったかははっきりと覚えていない。
もしかしたら羨ましかったのかもしれない。周囲となじまない彼に。
一人でいることが格好いいとかじゃなくて、誰にも合わせない姿勢とか、うまく合わせられないところとか。そんなところがよかったのかもなんて今は思う。
でも最初は同情とか、疑問とかそんなことだった気がする。
いつもひとりでいることがふと気になってしまった。
それがきっかけだったんだろう。
だから気になってからは自然と彼のほうに目がいくようになった。
彼は、どこか違う世界にいる住人のような気がしていた。あたしには入り込めない世界の中に。
声をかけることは一度もなかった。
――そういえば、一度お昼に彼のことが話題になったことがあった。
たしか、あたしがずっと見ていたからだ。
あれは、いつだっけ――^
「なに、沙希どうしたの、鴨井なんかじっと見て」
その視線に気づいた真心が話しかけてきた。
「え?ううん。なんでもない」
「なんでもないってことはないでしょ、あんなに熱心な視線を送ってたんだから」
真心が意地悪そうに状況を楽しんで笑う。
「あ、沙希まさか……」
「ちがうって、だからなんでもないってば。疲れてたの、眠いの」
「ほんとに?……まあ、バレー部朝早いもんね~。今日も朝練だったの?」
真心は興味をなくしたのか、元からなかったのかあたしに話を合わせてくれた。
「月曜以外毎日だよ」
「そりゃご苦労さんで」
いる?と真心が飲みかけのコーヒー牛乳のパックを差し出してきた。
「いらない。ほんとだよ、まったく。疲れたよー。眠いよー」
「おーよしよし。これでも食べな」
あたしの頭をなでた後、あたしのお弁当を差し出してきた。
「それ、あたしのだから」
「こりゃ失敬」
そういいながら真心はひょいと私のおかずを摘み上げ、食べた。
「あ、マコひどい。それ楽しみにとっておいたのに~」
「いらないのかなと思って」
「いるってば」
「でもさ、そんなに練習してるんだからうちのバレー部って強いの?」
「ん~都大会のベスト4くらいかな」
「それってすごいの?」
「わかんない。まあ、そこそこ強いほうだと思うけど」
「そかー」
「あんたあんまり興味ないでしょ」
「そんなことないさー。沙希は結構試合出てるんでしょ」
「まあ、三年だしね」
「エース?」
「残念。あたしはぎりぎりコートに立ってるだけです。エースは三嶋夏姫」
「はー姫ってすごいんだ」
「姫?」
「夏姫に姫って字あるでしょ。だから姫」
「ふーん。姫っぽくはないけどね」
「だからいいんじゃん」
「よくわかんないけど」
「でもいーなー。うちも沙希ぐらい身長欲しいよ。やっぱバレーとかやってると大きくなるのかな」
「そういうのよく言われるけど、関係ないと思うよ。それに、あたしの身長だと中途半端だし、そりゃあたしより小さい人は多いけど、競技的にはそんなに大きいほうじゃないしね。むしろあたしはあんたぐらいのほうがうらやましいよ」
「いくつあるの、身長」
「えっと、この前測ったときは172だったかな……」
「うう、贅沢者め。ちょっとはよこせー」
「いいじゃん、ちっちゃいの可愛らしくて」
「なんだとー。怒っちゃうぞー」
あたしたちがじゃれあっていると、それまで黙々とお弁当を食べていた若菜が口を開いた。
「あ、どっかいく」
「「え?」」
「だから鴨井、どこか行くみたい」
若菜が突然口を開いた。
「あんたもみてたんかい」
「沙希から引き継いだ」
「勝手に引き継がないでよ……」
「で、どうする?追う?」
若菜は弁当箱を片付けながら淡々という。
「あんたってやっぱりとんでもないよね」
あたしの言ったことの意味が分からないようで若菜はきょとんとした顔をしている。
「行ってきなよ、沙希」
再び興味を持ったのか、マコが囃し立てる。
「だからなんであたしが」
「じゃあ、私が行く」
「なんであんたがいくのよ」
若菜は言動も行動も読めない。
「それじゃあわたしもついてこー」
歩き出す若菜に真心がトコトコとついていった。
「ちょっと待ちなさいって、あんたたち」
広げていた弁当箱を急いで片付けて二人の後を追った。
「まったく、なんであたしが」
そういいながらもいかないという選択肢はあたしの中になかった。
「あ、いた」
若菜が呟く。
「おお、やっぱりきたんだね」
真心があたしに言ってきた。
「あんたたちが勝手に行くからでしょ。あたしは止めにきたの。帰るよ」
「まあお待ちなさいって。若菜、まだいる?」
若菜は親指を立てたポーズをとる。
「なに覗いてるの?」
あたしが顔を出そうとすると
「隠れて」
若菜に頭を抑え込まれた。
「なにすんの――」
シッっと今度は人差し指をあたしの唇に当ててきた。
これだから若菜って子はもう……。
もう観念してその場に一緒にいることにした。
「誰か来た」
「どれどれ」
彼の方に一人の女の子が近づいてくる。
「わ、きれいな子……」
「彼女……かな?」
「沙希、残念でした。おお、あのリボンは、下の学年だな。あいつも一般人なんだなー。っていうか、話せるんじゃん」
「いや、授業中とか声は出したことあるでしょ」
あたしがツッコミを入れる。
「ああそっか」
「声だせないわけじゃないんだから」
それにしても、ほんとにきれいな子だな――。
「なにはなしてるんだろーねー」
「あれ、あの子って確か」
若菜が何かに気付いた。
「なに?若菜知ってるの?」
「ある筋では有名」
「どの筋よ。あんたってほんと、ときどき怖いわ」
「ほんとに知らない?」
若菜が不思議そうな顔でこちらを見る。
「ん~~、下の学年の美人で、夏なのに長袖のあの恰好……。あ、もしかして――」
「うん、そう」
「なになに?あんたたちなんか知ってるの」
「結構有名になった話だよー」
「なんなのよ」
あたしはわけがわからなかった。
「ま、それはおいおい話すさ。それにしても鴨井があんな子とねー。似た者同士ってやつ?」
結局、彼は数分間、彼女と言葉を交わして離れた。
「待ち合わせかな」
「どうだろうね、あそこ、一応移動通路だし。あんまり人通らないけど」
実際はどうだったんだろう。それは今でもわからない。
「ま、いいや。なんか疲れた。教室戻ろー」
「ちょっと待ってって」
……そんなこともあったな、自然と笑みがこぼれていた。なんか懐かしい。
高校時代は訳もなく楽しかった気がする。それに比べて今はどうだろうかと思うと少し憂鬱になった。
彼の行動を追ったのはそれきりだった。元々若菜もマコもそこまで彼に興味を持っていたわけじゃない。あれはほんの遊びだったのだと思う。
だからそれきり。彼のことで、からかわれることもあったけれど、だんだんとなくなったし、彼が話題にのぼることもなくなった。
それでも、あたしは彼を見続けていたんだけど。
結局なんの発展もないままに過ごしただけだった。おんなじクラスだからチャンスは
あったはずなんだけど、やっぱり周りにからかわれたりなんてことを考えて気後れしてたところもあった。
そしたら、ただただ月日が流れた。
卒業式の日のこともはっきりと覚えている。
その日もあたしは彼のことを見ていた。
でも、見ていただけ。
人並みに第二ボタンがほしかった。でも彼への思いを結局誰にもはっきりとは打ち明けてはいなかった。
だから、写真を撮ると友人たちに呼ばれて、彼女たちについていって。
結局、そのまま彼と会うことはなかった。
あの日の後悔は時々思い出す。誰かが茶化してくれでもすればちょっとは口実になったのにな。
そしてもしも、思いを告げてたらどうだったのだろうか。
せめて勇気を出して、彼に第二ボタンをもらいに行ったらなにか変っていたのだろうか。
昔のことを思い出して、胃が少し重くなった気がした。
ドキドキする。そんなことを思いつつ恐る恐るメッセージの画面を開いた。
『久しぶり。高校の時以来ですね。覚えてますか?』
文章での彼は少し硬かった。
『もちろん、覚えているよ。でもいきなりどうしたの?』
そういえば、彼と会話するのは初めてかもしれない。画面越だし、しかも文字だけど。
『ちょっと話したいことがあって…』
すぐさま返信がきた。さっきのメッセージっていつ送ってきたやつなのかな。返信早いな。あたしに話したいことってなんだろう。
『なに?』
色々と疑問は浮かぶけれど、なんて返したらいいかわからなくて簡単な返事をすぐに出した。
でも、彼からの返信はこなかった。
待っている時間が待ち遠しく感じたのなんて久しぶりだ。
『うーんと、直接会えないかな?』
十分ぐらいだろうか、あたしの感覚では結構待ったのちに唐突な返事が返ってきた。
いきなりそんなことを言われても困る……。
どうしようか。なんだか即決できない自分が少し情けないとは思いつつも、悩んだ末に今日は返信するのをやめた。
再び、布団をかぶる。自分の気持ちがよくわからなくて、結局その日は一日中部屋で過ごした。
***
次の日はさすがに講義に出ることにした。
昼休みの喧騒の中、大教室で昼食を食べていると、後ろから声をかけられた。
「沙希、昨日はどうしたの」
美沙だった。なんだか美沙と会うのも久しぶりな気がする。この前会ったのっていつだっけ。
「ちょっとね。それよりも昨日のノート見せてくれない」
何も伝えず話を切り上げた。
「ふーん…。そっかそっか。なるほどね」
「なにがなるほどなのよ」
あたし何か顔に出た?
「いやいや、こっちのはなし」
美紗には何も話していないはずなんだけど。昨日はあれ以降一日中誰とも連絡取らなかったし。でも彼女は勘がいいのでなにか気づいているのかもしれないなって思う。もっともこの状況で何かわかったらそれは超能力とでも言わざるを得ないんじゃないだろうか。
「彼氏となんかあった?」
ああ、そっちか。そっちに勘が働いたのね。
「なんにもないよ。いつも通り」
誰かに聞いたのかな。別れたこと。フられたこと。でもここはそしらぬ振りをしておきます。
――まあ、あっちが誰にも言ってないとも限らないんだけど。
「それよりもノート。あとでコピーとらせてよね」
なのでこっちの話題もパス。いまはなにも突っ込まれたくない。
「はいはい。わかりました。あたしもお昼食べよっと」
いつか彼女に話す時が来るのだろうか。彼女とは同じゼミだし、授業も一緒にとったものが多い。だから必然的に一緒にいる時間も長くなる。休日だってたまに遊ぶ。
話したほうがいいのかなと思う反面、ほっといてとも思う。
美沙がなにか話かけているけど、あたしは曖昧な返事ばかり返していた。
「美沙、ほんとになにかあった。なんか変だよ」
「大丈夫。なんでもないってば。それよりなんの話だっけ」
「だから、吉岡がね――」
結局、教授が来て講義が始まるまで話半分で美沙の話を聞いていた。きちんと返事していたかどうか自信がない。
次の講義も、きっと頭には入らないだろう。普段から頭に入っているかどうかは別として。
今日は一日中うわの空だ。スマホを取り出し彼のメッセージを見返す。これで何度目になるだろうかというくらい見た。
昨日からずっと彼のことばかり考えていた。
夜、バイトが終わって帰宅すると、着替えもままならないままに意を決してSNSのメッセージ画面を開く。
丸一日悩んだ末に直接会うことに決めた。
『いいよ。会ってあげる。いつがいいの?』
あれ?なんか高圧的だったかも。少し後悔。
とりあえずメッセージを送り、安心して着替えていると、スマホが音を出して揺れた。
『こっちはいつでもかまわないよ。でも、なるべくはやめがいいかな。できれば今週中がいい』
その返事を見て私はスケジュール帳を取るために鞄に手を伸ばした。
そういえば、何時の間にか彼の敬語がとれている。
そんなことを思いつつ、スマートフォンを置いて、スケジュール帳を取り出した。
予定を確認する。
『明日はどう?』
明日はバイトはないけど、講義はある。でもその日が一番都合よかった。さすがにバイトは休めないけれど、彼のことはほかの予定よりも優先したい事柄だった。
それにしても明日なんて急だったかな。大丈夫だろうか。
『いいよ、明日で。こっちもそのほうが都合いい。時間は夕方ぐらいでいいかな』
まさか了承してくれるとは思わなかった。自分で言っといてなんだけど。
『わかった。場所はどうするの?』
『場所についてはまた連絡するよ。それでいい?』
『わかった。待ってるね』
いったいどんな用事なのだろうか。わざわざコンタクトをとってきたのだから気になる。
それもそうだが、彼が今現在どんなふうになっているのかも気になった。
変わっているのかな。
彼のことだから、そんなに変わってないだろうな。なんて勝手に彼の性格を想像してみる。
あの頃から彼は大人びていた。少なくともあたしにはそう見えていた。
連絡が来て以来、彼のことばかり考えている。昔のことを思い出している。
彼のことを考えては、少しドキドキしていた。
明日の夕方までは、まだ長い。
***
翌日、彼との待ち合わせ場所は、あたしたちの通っていた高校から二駅ほど離れたところにある喫茶店だった。
……チェーンじゃない喫茶店入るのなんてはじめてで緊張する。
どうしよう。これ、どこに座ったらいいのかな。
「何名様ですか」
店内に入り、きょろきょろと周りを見渡していると店員が尋ねてきてくれた。
「えっと、二人です」
「それでは、奥の席へどうぞ」
促されるままに席に着く。
ああ、早く来ないかな。店員が去った方向を見る。
――でももうちょっと、来てほしくないな。
手鏡を取り出して、前髪をさわり、身だしなみを確認する。
いつもより化粧に時間もかけてみた。とはいえたかが知れてる。
服も十分悩んだ。あんまり気合入ってるとも思われたくなくて、結果いつも大学に行くようなラフな格好に落ち着いてしまったけれど。
不安は尽きない。失望だけはされたくなかった。
――たとえ、期待されていなかったとしても。
「ご注文は何なさいますか」
店員さんがお水を持ってきた。
「……待ち合わせしているので、その人が来たら一緒に頼みます」
努めて平静を装い、そう告げた。
「わかりました。ごゆっくりどうぞ」
店内にはゆったりとした、たぶん、ジャズが流れている。お客さんはわたしの他にはスーツ姿の男の人が2人と女の子がひとりいる。女の子は室内にもかかわらずつばの広い帽子を被っている。変なの。でも、女の子が一人いるというだけで大分気分が和らいだ。
彼はこういうところよく来るのだろうか。
スマートフォンを取り出して、彼とのSNS上でのやり取りを確認する。
そういえば電話番号も、それどころかメールアドレスも知らないや。
彼からメッセージが来て、SNSでのやりとりが始まって、突然会うことになった。
なんが急展開過ぎるなと思う。
彼氏に振られたばかりなのに。なんかすごいタイミング。もしかして彼は知っていたのだろうか。なんてね。あるわけないか。
こんなタイミングだからこそ彼に会う気になったのかな。自分にはそういう節操ないところがあるのだろうか。
「いらっしゃいませ。一名様ですか」
「いや、ふたりで、待ち合わせしているんですけど……」
ぐじぐじ悩みそうになっていると、彼が来た。
一目でわかった。高校卒業から三年は立っているけれど、やっぱり彼に変化はなかった。
たった三年しかたっていないからともいえるかもしれないが。
「ごめん。待った?」
「ううん。大丈夫」
待ったとは言えなかった。
「ご注文は何にしましょうか」
店員が水をもって注文をとりに来た。
「なんか頼んだ?」
彼が尋ねてくる。
「ううん。まだ何も」
「そっか。……じゃあブレンドで」
彼が注文をする。あたしも慌ててメニューを見た。
「えっと、わたしはアイスコーヒーで」
「かしこまりました」
店員が去った後少し沈黙が訪れた。雰囲気のいいジャズだけが、私たちの間を埋めている。
なんとなくその空気に耐えきれなくて、メニューを見ていた。
なんか視線を感じる。
ふと、顔をあげると、彼がじっと私を見ていた。
なんか、恥ずかしい。
「な、なに?」
おずおずと尋ねてみる。
「なんか、変わってないなって」
「そ、そうかな。結構変ったよ。……ほら、髪とか」
髪をつまんでみせる。
「うん、そうかもしれないけど、すぐわかった」
「ありがと、でいいのかな」
頬が緩んだ。
「私の方こそ、すぐわかったよ。そっちこそ、全く変わってないよ」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
ぎこちない笑みを浮かべた。なんだかまだお互いに牽制しあっている感じがする。
どうすればいいんだろう。
「失礼します。ごゆっくりどうぞ」
店員がブレンドとアイスコーヒーを持ってきた。
私はミルクとガムシロップを手にした。
実はあまりコーヒーは得意ではないのだけれど、少しかっこつけてみたかった。
ストローを口につける。今は苦さが心地いい。
「そういえば、話すの初めてだよね」
「そうだっけ。……まあ、高校時代はクラスメイトとはあまり会話してた記憶ないかな」
「鴨井君近づきづらかったもんね」
「そんなオーラでてた?」
「でてたでてた」
「別に意識してなかったんだけどな。単に嫌われているのかと思ってたよ」
「そんなことないと思うんだけど」
少なくともあたしは嫌ってなかったし。
彼の胸元から携帯の鳴る音がした。
「ちょっとごめん」
「どうぞ」
「……ったくなんだよ」
彼はスマホを見て何事か呟いた。
「どうかした?」
怒ってる?
「いや、なんでもない。こっちの話。なんか迷惑メールで」
また彼のスマホが震えだす。彼はそれを無視した。
「見なくていいの?」
「大丈夫。どーせ迷惑メールだから」
「ふーん。そっか」
未だ震え続けるスマホを操作した後で、彼はごめん、と言った。
再びストローに口をつけた。
そして一息ついたところで話を本題に移した。
「それで、話って何?」
「それなんだけど……」
なんだか彼の歯切れが悪くなった。どう言うべきか探っているみたいだ。
彼の視線が宙をさまよう。そして意を決したように口を開く。
「ちょっと尋ねたいことがあって……」
「なに?」
「金原優と仲良かったよね?」
……なんだ、私のことじゃなかったのか。気が削がれた。
「優と?」
「そう」
「うん、いまでもわりと連絡は取り合ってるかな」
「頼みがあるんだけど、いいかな?」
「もしかして優と連絡とりたいとか。優もSNSやってるから直接言えばいいんじゃないの?」
私にしたみたいに。
彼は口をつぐんだ。
なんか言い方、冷たかったかな。彼と視線を合わせずにコーヒーを飲んだ。
だって、そんなこと聞くために呼び出したのなら彼が悪い。
あたしがそんなことを思っていると再び彼は口を開いた。
「そうじゃなくて、彼女に」
彼女に?
「彼女に……プロポーズしたいんだ」
思わず、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。
「えっ?」
「だから、プロポーズ」
少し恥ずかしそうに彼は言った。
「――じょ、冗談でもそういうことはいうもんじゃないよ。それにそういうのは手順があるんじゃない?」
「えっと、冗談じゃない。常識として変なこともわかってる。だから、付き合ってほしい」
「付き合ってほしいってどういうこと?優とじゃなくて」
なに?言ってる意味が分からないよ。私の頭では整理できません。
「そうじゃなくて、ちょっと出かけるのに付き合ってほしいんだ。行きたいところがあって……」
まだなにをいっているのかわからなかった。
「ごめん、ちょっと整理させて。えっと、とりあえず席外すね」
あたしは立ち上がり、バッグを持ってトイレへ向かった。
個室に入るとしばし呆然と立ち尽くす。あいにくと洗面台や鏡はなかった。
とりあえず深呼吸。
告白されるより衝撃を受けた。告白を期待してたわけじゃないけれど、でも会いたいってことはなにかあるんだろうなってことはわかってたつもりだ。
だから、やっぱりちょっと期待してたし、心が弾んでた。
それが、なんだかよくわからない展開になってしまった。
ついていけない。
ここのところなんだか悩んでばかりいる気がする。白髪とか生えてこないかな。
どういうこと、プロポーズってなに。そんであたしに付き合ってほしいって――。
やっぱりわけがわからなかった。
とりあえず、彼は優にプロポーズがしたい。ここの時点でなにかよくわからないけど、それはいい。そんで、その準備のためにあたしに付き合って欲しいところがあるってことでいいのかな。う~んと、これであっているのだろうか。
どうしようか悩んだけれど不思議とここで彼の誘いを断る気は起きなかった。
一緒に出掛けるくらいいいじゃないか。
だから席に戻ってあたしは返事をした。
「いいよ」
なんて、気軽に。
「えっ」
「だから、付き合ってあげる。なにか用事があるんでしょ」
なにを驚いた顔をしているのだろうか。
「あ、うん。ありがとう」
彼は素直にお礼を述べた。
あたしだってできればこんなことはしたくないと思った。だって不審すぎる。
それでも了承の返事をしたのは彼に興味があったのだ。なんでいきなりあんなことを言い出したのか。どういうつもりなのか。意図を図り損ねていた。それに遊び半分で優に近づいてほしくもない。これも本音だ。
だから生意気にも見極めてやろうなんて思っていた。
そして、もうひとつ。彼と出かけられることに素直に喜んでいる自分がいた。
彼との再会は終始混乱で終わった。
矢継ぎ早にいろんなことが押し寄せてきた気がして正直まだ整理がついていない部分もある。そりゃ、なんとなく話はわかるけどさ、納得はできないよね。
突然の出来事は整理のつかないことでいっぱい。
彼から連絡来るなんて思ってもみなかったし、ましてや、あたしに用事はなく、あたしの友達にプロポーズをしたいだなんて誰が予測できるだろうか。
カフェでのことを思い出すとなんだか笑えてくる。初めのあたしの態度も、彼が言い出したことも、なんだか彼がいたことに現実感がない。
それでもなんだかおもしろくなってきたなんて思った。どこか非日常の世界にいるみたいに。
とりあえずメールアドレスと電話番号は彼と交換した。
それは、一歩前進かな。
***
次の日のバイトのお昼、休憩時間にスマホを見ると、メールが来ていた。
期待通り初めての彼からのメールだった。嬉しくなる。
はじめましてって件名で、どんな内容なんだろうって緊張してメールを開くと、明日空いてる?って簡素な内容。
どうしよう、あたし誘われた。……そういえば、昨日もう誘われてたっけ。
それでも嬉しかった。保存したいくらい。
それから、バイトが夕方に終わって、帰ってからも、ずっとメールでのやりとりが続いている。
バイト中もスマホが気になってしょうがなかった。はやくバイト終わればいいのになんていつも以上に思ってた。
ただし、メールの内容については、主に聞かれるのは優のことだったけれど。
着信があるたびにウキウキして、メールを見るたびにがっかりする。そんなことが続いていた。
けれどあたしは律儀に優のことを教えてあげていた。
少しでも彼と連絡をとっていたかった。
あたしに興味はないのだろうか。なんだか悔しくて優のことで知ってることはなんでも答えようって思った。男性遍歴とか、秘密とかそんなもの全部。
優、ごめんね。そう思いつつもやめなかった。聞かれたら素直に答えた。聞かれてないことも答えた。
だって今のあたしたちをつなぐものはそれしかなかったから。
メールを終えてスマホを充電器につなぐと、ベッドに仰向けに寝転んだ。
明日、彼とまた会う。
……早いなあ。なんでこんな急なんだろう。
ま、予定が入ってないあたしもあたしなんだけど。
なんていうか、これって……デートだよね。やっぱり。
どうしよう、何着てこうか。
月並みだけど、悩んでなかなか決まらない。こう、服とかいっぱい並べたらそれらしくなるのだろうか。
うん。散らかるからやめておこう。
しょうがない。ここは姉に相談するか。
「おねえちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど――」
ドアをノックして尋ねる。
「なに?入りなよ」
部屋に入ると、姉は煙草をくわえてパソコンに向かっていた。
「ねえ、明日何着てったらいかな」
「要件もいわずにいきなりそんなこと言われてもわからんよ。――その顔はデートかい。あれ、でも別れたんじゃなかったっけ」
椅子を回転させ、振り向いて尋ねてきた。
「顔も見てないし、適当なこと言わないでよ。聞いてるのはこっち」
あたしは無視して質問を続けた。
「ははーん。別の男か。案外やるねえ、妹」
けらけらと笑いながら姉は言った。
姉はあたしの恋愛事情をすべて知っている。それはよくあたしが相談しているからなのだが。
「で、どんなやつなの」
今度はニヤニヤしながら聞いてくる。
「……わかんない」
「わかんないってなにさ。まったく見知らぬやつでもあるまいに」
「だって、よくわかんないんだもん」
そう、彼については未だ謎のままなのだ。
結局彼が今どこでなにをやっているかは――たしか大学には進学したはずだけど――わからずじまいだった。
詮索することは気が引ける。何も聞いてないしい、彼は話さない。まあ、まだ再会してまだ間もないんだけれど。
「まあ、いいさ。あんたのことだ。自由にやりなよ。で、なんだっけ、服?」
「ありがと、お姉ちゃん」
なんだかんだであたしのことを気遣ってくれるので姉のことは好きだった。
「とりあえず、普段のあんたでいいんじゃないの。わかんないなら尚更着飾ったってしょうがないでしょ」
「なにそれ、相談した意味ないじゃん」
「感謝の言葉はあとで聞くよ。頑張りな」
そう言って姉は机に向かい直した。
結局、相談にならなかった。まあ、いつもこんな感じなんだけど。それでも姉と話していると安心する。だからいつも相談してしまう。答えは何も返ってこないってわかっているのに。
はあ、どうしようか。
溜息をついて部屋に戻り、クローゼットを開いた。
……だめだ、決まらない。
あたしはクローゼットの前でしばらく立ち尽くしていた。
***
やば、遅れちゃう。
デート当日。昨日の夜さんざん服やらなんやら悩んでいたせいで、ちょっと寝坊した。
急いで待ち合わせ場所に向かうと、彼はもうついていた。
「ごめん、遅れた?」
「まだ時間じゃないよ」
「よかった」
改札から走ったせいで少し息が切れている。
「どこかで休もうか」
彼が提案してくれた。
「いいよいいよ。気にしないで」
「でも……」
「大丈夫だよ。それよりさ、今日は何するの」
「前に言ったと思うんだけど、行きたいところがあるんだ。でも、とりあえず、そのへんぶらぶらしようか」
そう言って彼はあるい出した。
「う、うん。いいけど」
あたしたちは慌てて追いかけて彼に並ぶ。隣を歩く彼を見上げる。
彼の目線は私より少しだけ高い。前の彼氏はおんなじくらいだったからなんか新鮮。あ、前の彼氏だって。鴨井君は今の彼氏でもないのに。
自分の思考に少し恥ずかしくなって歩調を速めた。
休日の大型ショッピングセンターは大勢の人でにぎわっている。
当然、カップルも多いわけで。
――あたしたちもはた目からはカップルに見えるのかな。そうだったら嬉しい。彼との距離を少し詰めて歩いてみた。
「なんか欲しいものある?」
周りを眺めながらそんなことを考えていたら、ふいに彼に声をかけられた。
「え、あ、うん。欲しいものっていきなり言われても……」
色々あるはずなのに、とっさのことだと思いつかない。
あたしはしばらく考えながら歩いた。その間あたしたちに会話はなかった。
ふと、アクセサリーショップが目に付いた。そこに飾ってあるティアドロップのペンダント。
量販店の安物のアクセサリーショップには少し似合わないようにも感じるし、ありそうだといえばそんな感じのするものだった。
だけど、惹かれてついじっと見てしまった。
「欲しいの?」
その視線に彼が気付いた。
「え、違うよ。見てただけ」
嘘をついた。正直に言えば、ちょっと欲しいなって思った。
しかし値段を見てあきらめた。無理をすれば買えなくもないが、そうまでして買うべきものかといえばそんなことはないと思った。
買ってもらうわけにもいかないしね。
「次いこっ。鴨井君はなんか欲しいものないの」
彼の肩を押す。後ろ髪をひかれつつもその場は後にした。
「お昼、おごるよ」
彼がそう言いだしたのは、午後一時を少し回った時だった。
「いいよ。悪いし」
この前の喫茶店の代金だって彼が払っていた。
「こっちが誘ったから。それくらいの御礼はさせて」
彼の行為を無碍にするのも失礼な気がして、素直に好意に甘えることにした。
ちょっと遅めのお昼ご飯を食べた後は雑貨屋に入った。
時期が時期だからか、冬をテーマにしたものになっており、若干クリスマス仕様になったいる。
彼が立ち止ったのは、スノードームの前だった。
「きれいだね」
あたしは彼に言った。
「そうだね」
それだけ彼は返した。
「海、いきたいな……」
スノードームを見ながらあたしはそう口走った。
「海?」
彼はとても不思議そうな顔をしている。
なんかとても場違いなことを言ったと自覚して恥ずかしくなる。
近くにいた女性二人組の視線が痛い。
ああ、彼氏の前でかわいくみせようとして、とか思われているんだろうな。
あ、彼氏だって。なんかついその気になっちゃった。反省。いやまあ、間違ってはないけどさ。もちろん、かわいく見せたいって方ね。
でも、あたしだったらそんなこと言ってるやつ見つけたら殴りたくなる。
……あたし殴られちゃうんだな。どうかあの二人組がこっち来ませんように。
一応神様に祈ってみた。
なんか恥ずかしいこと言って、でもそんなの関係なくて、彼と一緒なら楽しくて。
バカップルってこんな気分かも。
カップルじゃないのにね。
「海か……」
彼はまだスノードームを見つめていた。
「やっぱ、面白いね。その発想はなかった」
こちらに向かって真面目に言ってきた。
頬が上気するのがわかる。
「そ、そうかな」
穴が入ったら入りたいとはこういう気分なんだね。
「行きたいなぁ、海」
彼が何を想像しているかはあたしにはわからない。
その想像の中で彼の隣にいるのがあたしだったら嬉しいなって思った。
そのあともお互いの服をみたり雑貨を見たりしていたら、あたりが薄暗くなってきた。
冬の太陽は沈むのが早い。
「――そろそろかな」
「何か言った?」
「今日の目的のとこ、行っていい?」
そうだ、今日彼は何をしに来たんだろう。
あたしは従うしかないので、黙って彼についていった。
「行きたいとこって、ここ?」
ショッピングセンターから出て向かった先は、宝石店だった。
「だってプロポーズするんだから、指輪は必要かなって」
「なんか、こういうところって格式高いというか、場違いというか」
「こっちもビビってるんだから、あんまり不安を煽らないでほしい」
そういいながら、おそるおそるふたりで中に入る。
出迎えられたが、店員は一瞬怪訝な顔をされた気がした。気のせいかな。本心はひやかしとでも思っているんだろな。プロ意識だな。なんてことを思っていた。
ああ、服、失敗したかも。こんなとこに入るんならもっとちゃんとしておけばよかった。
あたしがそう思っている間にも彼は真剣に指輪を見つめていた。
「どんなものをお探しでしょうか」
店員が声をかけてくる。
「婚約指輪です」
そういうところ堂々と言える彼はすごいと思う。
「まあ、おめでとうございます」
にこやかな笑顔を店員はあたしに向けてきた。
「ご予算はどれくらいでしょうか」
「25万くらいで」
驚いた。まさかそれほどのものを彼が買うとは思っていなかった。
正直未だに疑っていた、どこか冗談だろうと。そして淡い希望も抱いていた。冗談であってほしいと。
彼と店員が熱心に話し込んでいる。どこか手持ち無沙汰な私を見かねてか、店員がこちらに話を振ってきた。
「これなんていかかです」
シンプルなシルバーのリングだが、真ん中にダイヤモンドらしきものがはまっていた。
聴かれても私に価値なんてわからない。だいたい婚約指輪の相場っていくらなの。
こんな高そうなものをプレゼントされたことなど一度もないわけだし。
「指のサイズなんだっけ」
彼に聞かれた。けれどもちろん測ったことなんてない。
「合わせてみましょうか」
そういって、店員がサイズリングをもってきた。
彼が聞いたのは、優の指のサイズだ。多分あたしの方が太い。
それでも、いまさら別人のものを買っているとも言えずにあたしの指のサイズで測る。
十号。それがどんなのかはわからない。
彼も何も訂正せずに、結局その大きさの指輪を買うことが決まった。
「よかったの、あたしのサイズで」
「大丈夫だよ。サイズがどうとかよりもこういうのは気持ちが大事」
だったらあたしがいなくてもよかったんじゃないの、なんて思ったりした。
彼は指輪を購入した。それを見ているあたしはすこしはがゆい気持ちになった。
そのあとも少し店を見て回った。
なんだかあたしは少しぎこちなかった気がする。うまく笑えていただろうか。
彼と一緒にいる時間は楽しかった。それはほんとの気持ちだ。
ほとんど一緒にはいなかったけれど、高校時代を思い出せたような気がして。
それでいて、新鮮だった。
今日一日で知らなかった彼のことがいっぱい知れた気がする。
時間が巻き戻った気がするのと同じように、彼への思いも巻き戻っていっていた気がした。
ああ、そっか。
やっぱり好きなんだ。隣にいる彼を見上げる。
それを自覚してから受け入れるのに時間はかからなかった。
帰り際、唐突にあたしは質問をした。
「ねえ、あたしといて楽しい?」
あたしはつい彼に聞いてしまった。
元彼にされた質問を彼にしてしまった。
バカだなって後悔した。
でも聞かずにはいられなかった。
――だってそれが、あたしのフられた理由だったから。
「楽しいよ」
彼は笑顔でそう答えてくれた。
それでも心配してしまう。
「ほんとに?」
あたしは彼の中にいたかった。あたしの居場所が欲しかった。
「ほんとだよ。今日はありがとう」
拠り所をなくしたあたしはフラフラで、こんなに弱かったのって思った。
「こちらこそ、ありがとう」
今日一日彼と一緒にいてわかった。
結局男に頼るなんてサイテーだと思う。
それでもそうすることしかできなくて。あたしはあたし自信を支えられなくて。
……これって恋愛体質?
う~んと、あたしの知らなかったあたし自身の一面を発見した気分。
この年でも自分自身の新たな発見があるなんて人生って奥が深い。
こんなんでいいのかななんて思ったけれど、いまは溺れていたかった。
もうひとつ、聞きたいことあったけど、なんであたしなのって。
でもそれは聞かないでおいた。
なんか聞くことが、怖かった。
***
「あ、」
土日を挟んで彼とデートして3日後、大学に行ったら彼氏と遭遇した。
彼氏じゃない。元カレか。
「よお……」
彼が声をかけてくる。
ぎこちなさ丸出しじゃん。
「じゃ、俺ら先言ってるわ」
「おい、ちょっと」
彼の友人たちはなにか気を利かせたらしく、どこかへ行ってしまった。
「いいの、次」
「……大丈夫。一コマ空いてるから」
「そっか」
「……最近どう」
なんなんだよ。最近どうって。
もっと他に何かあるでしょ。
「……別に」
わたしたちの間には柱一つ分距離が開いている。
エスカレーターの音だけが響いている。
「……あのときは、ごめんな」
「……あのときって」
「ちょっと言い過ぎたなと思って」
「俺といて……ってやつ?」
「うん」
彼からの別れの言葉は、俺といて楽しいか、だった。とらえ方によっては、自分に自信がない人の言うことにも聞こえるけど、結局そこにある意味は、自分が楽しくないってことで。わたしはそんなこと考えたこともなかったから。
素直にわかんないって答えた。
ふたりで映画を見ているところだった。フランスの古い映画。彼の趣味の一つだった。
そしたら見ている最中に別れようっていわれた。それがことの顛末。
「でも俺は間違ったことは言ってないと思ってるから」
そうですか。
「そう……それだけ?」
だからなんなのよ。わざわざいうことじゃないよね。
「……あたしたちのことまだ言ってないの」
あたしは尋ねた。
「あ、ああ、うん。なんか言い出すタイミングなくって」
「そう」
「そっちは」
「あたしもそんな感じかな。別に言い出す必要もないことだし」
「そうだよな」
「あんたは早く言ったほうがいいんじゃない。新しい彼女できないよ」
「余計なお世話だよ。お前の方は、いや、必要ないか。……友達がさ、昨日お前見たっていうんだよ」
「えっ――」
見られてたの。いつ、どこを。
「ほかの男と一緒にいたって」
「もう関係ないでしょ」
ぶっきらぼうにあたしは言った。少し焦っていた。
「……だよな」
そう、関係ない。
「もう用はない?ならあたしは行くね」
「ああ。……またな」
彼の前を横切った。きっと同じ方向に行くのだろうけど、彼は動かなかった。
彼なりに気を使ったのかもしれない。
それにしてもまたってなんだよ。またって。またこんな機会があると思っているのだろうか。
できればいまは、会いたくない。もうなくていい。
あんなに好きだったはずなのに、今は嫌いなところばかり目につくようになっていた。
***
『ねぇ、この、前はあたしがつきあったんだから今度は付き合ってよ』
その日の夜、憂さ晴らしでもするように彼を遊園地に誘った。
この前のデートからまだ三日しかたっていない。
『それはいいけど、いつ?』
『木曜日はどう』
3日後。……ちょっといきなりすぎるかな。
『いいよ』
そんな心配をよそに彼はあっさりと承諾した。
なんか、拍子抜けだな。ちょっと覚悟して、ちょっと勇気出したのになんだったんだろうって思わないこともない。
彼との二度目のデート。
彼は優にプロポーズをする。それはわかっている。
しかし今現在彼は誰とも付き合ってないわけだし、問題もないだろう。
優に対しての罪悪感はある。でも常識から考えて彼はおかしいことをしようとしているわけだし、そこまで彼にも優にも義理立てする覚えはない。
何より、今は彼との時間を満喫したかった。
彼の心を少しだけでもあたしの方に傾かせたかった。
そういえば、優のアドレス教えたけど、メールしたのかな。
***
水曜日はあいにくの雨だった。
天気予報を見なくなったのはいつからだろうか。
傘がなくて困った経験なんて何度もある。
それでも天気予報を確認しようとは思わなかった。
そういえば、あいつがいつも傘持ってたんだっけ。元彼のことを考えた。
だからだろうか、あたしはいつのまにか傘を持つ習慣がなくなっていた。
困ったら傘を差しだしてくれる人がいたし、そうじゃないときは、買えばいいかなんて考えていた。
おかげで、うちにはビニール傘がいっぱいあるけれど。
たわいもないことを思い出していた。まだ元彼に未練があるのだろうか。
いや。それはないと自分の中で否定する。
たぶん、一昨日会ったせいだろうな。
それ以前に、まだ別れて一週間ぐらいだし、こんなもんなのかな。
教室から外を眺めて考えていた。
講義中だけどもはや教授がなにを話しているかなんて聞いてない。
なんかすごい一週間だったなあ。
色々あったよ、ほんと。
久しぶりに天気予報を見た。
どうやら明日も天候はよくないが、幸い曇りらしい。
夕方から雪になるかもしれないという。
曇りならいいかとは思いつつ、晴れたらいいなと願った。
***
木曜日、デート当日。
目覚ましの音で目を覚ます。いつもよりもだいぶ早い。
ズルズルとベッドから抜け出し、窓の外を見ると天気予報の通り曇りだった。
空が重く感じる。雪というより雨が降りそうな気配がする。
雪だったらならいいんだけど。
雪にロマンチックな幻想を抱きながら、準備をする。
昨日のうちに選んでおいた服をきて、鏡の前でチェックする。
やっぱり今日も化粧には気合を入れる。
とはいえ普段は化粧っ気のないものだから、やり方に詳しいわけでもなく、たかがしれていた。
家を出ると、冷え込んだ空気が体にまとわりつく。
邪魔になるからと、傘はもたなかった。あわよくばなんて、思ったりもした。
この前彼と一緒に出掛けた時に、新しいコート買っておけばよかったかな。
レインブーツはどうしよう。
悩んだ末に、レインブーツは選ばなかった。
家を出ると一段と緊張の度合いが増した。
待ち合わせの駅につくと彼はまだきていなかった。
これてってデートなんだよね。わかりきっていることなのに、再確認してしまう。
あたし、大丈夫かな。
今日もコーディネートを見直す。遊園地だしこの前みたいな失敗はないだろうけど、変に気合入ってると思われるのはやっぱり嫌だった。
とはいえ、今更彼のことを好きという気持ちも隠そうと言う気にもなれなかった。それが悩んだ末の結論だった。
少しだけ、彼の心を傷つけたかった。
そうすれば、彼の心の中に私が残っていられるような気がしたから。
前回の反省から早めに家を出た。慣れない早起きをして。
待ち合わせの駅で待っていると彼がやってきた。
「待った?」
彼はいつも通りだ。何も変わらない。
もっとも、彼の普段をそこまで知っているわけじゃないけれど。
ちょっとはドキドキしてくれてたらいいなって思った。
「待った。遅い」
今度は待ったって言ってやった。
「ごめん。でも、まだ待ち合わせ時間には早いんだけど」
「こういうのは、先に来て待ってるもんでしょ。男が」
「それは失礼いたしました」
おどけた調子で彼が返す。
こういうやりとりはなんか楽しい。
「で、どうしよっか」
「とりあえず、向かおうよ」
待ち合わせは遊園地へつながる電車の駅のひとつだった。
二人の家からの距離を考えて、そうした。
ここから遊園地へは1時間半ほどかかる。
あ、一時間以上彼と一緒に電車か……。何をしゃべったらいいんだろう。
考えていたらあくびが出た。開園時間が早いから、ずいぶん早起きした。大学の怠惰な生活の代償かな。
「眠い?」
彼が尋ねてきた。
「ちょっとね」
「俺も正直眠い」
お互いちょっと笑った。
あ、あたしクマとかできてないかな。うまく隠せているかな。急に気になってきた。
電車での移動時間はは長い。幸い、いくつか駅を進むと、時間が早いせいもあってか、座ることができた。
触れ合える距離、ふたり並んで座る。なんでこんな他愛もないことに緊張するのだろうか。
この前は久しぶりだから、なんとなく高校を卒業してから何をしていたとかそんな話もできた。お店に入って、商品について話すこともできた。
でも、今は手ぶらだ。なんにも話のタネがない。
ふたりで電車に乗ったけど、並んで座っているだけになってしまって、気まずい沈黙が訪れたような気さえした。
しかもこの前とは違い、わたしははっきりと好意を自覚している。好きなのだ。下心あって彼を誘った。
「……朝、早くなかった?」
なんかもっと気の利いた話題ないの、あたし。さっき聞いたじゃん。
「ちょっとね」
「そうだよね。でもその分楽しみだよ」
また会話がとまる。
すると彼はスマホを取り出して、なにやらしだした。
そういえば、この前も頻繁にスマホ見てたっけ。
誰かと連絡取ってるのかな。
そうやって誰かかと連絡を取っている彼を想像する。
わたしのことを言っているのだろうか。なんてそれは自意識過剰かな。
スマホを操作する彼を見ていると彼を独り占めできないことがもどかしかった。
***
遊園地についた。まだ開園から少したっていたがチケット購入の列ができている。
天気予報に反しての盛況だった。
これでも少ない方なのかな。頻繁にくるわけじゃないしわかんないや。
チケットを購入する。
「お二人様ですか」
「はい」
なんかペアでとらえられるのはまだ照れる。
「あ、」
また彼が代金を支払った。
チケット売り場から少し離れたところで、彼に声をかける。
「これ」
お金を差し出した。
「悪いから。この前から払ってもらいっぱなしでしょ」
彼は困った表情を見せて逡巡したあとに、お札を半分だけとった。
「気持ちだけもらっとく」
それ、気持ちだけじゃないけど。
彼の優しさに笑みがこぼれた。
園内に入ると、思っていた以上に人がいた。
平日だから家族連れは少ないけれど、カップルはやはり結構な数いる。
「なにから回ろうか」
「とりあえず、ジェットコースターがいいかな」
今日は思いっきり遊ぼう。そう思っていた。
カップルに見られているといいな。
少し先に走り出して、こっち、と彼を呼んだ。
案内図を見ていた彼に、ジェットコースターはそっちじゃないよといわれた。
午前中は絶叫マシーンを中心に乗った。わたしもあんまり得意じゃないけど、楽しかった。
待ち時間の長さだってデートだと思うと気にならなかった。
昼食をとったあとに後におばけ屋敷に入った。昔からお化け屋敷は怖い。
なぜだろう。ドキドキしながら彼と一緒にばけ屋敷に入る。
彼といるときとは違うドキドキ……だと思う。
吊り橋効果なんてものがあるけれど、果たしてどれほどのものなのか。
あれって二人ともドキドキしてなきゃしょうがないよね。片方がドキドキしてない場合はどうなんだろう。彼の方を見た。彼は全く何でもないといった風に見える。彼の感情はわからないというかつかみどころがないように見えた。
ふいに目の前に何かが出てきた。
「ひゃっ」
うう、変な声でた。
彼は笑っていた。……なんかずるい。
あたしは足が少し震えている。情けないのだけれどなかなか前へ進めない。
彼はどんどん前へ進んでしまう。
「ちょっとまってよ」
つい、彼を呼び止めた。
あたしにまったく気が付いていなかった彼もようやく足を止めて、こちらへ戻ってきてくれた。
今なら、いけるかな。
なんかベタでそれはそれでいやだけど、そんなことこの際言ってられない。
どさくさに紛れて。近寄ってくる彼の手を握った。
握ってから、少し汗ばんでたかもしれないと後悔した。
でも、彼は放さなかった。
それは嬉しかった。
それでも幸せは長くは続けられなくて、お化け屋敷を出るときに手を放した。
さすがになんか、これ以上は無理だった。
そのあとは、メリーゴーランドに乗って、またジェットコースターに乗って。
あたしは、はしゃいでいた。
途中からは遠慮なく彼の腕をとって走ったりした。
さっきまでの遠慮がウソみたいに。
ただただ、楽しかった。
夕方になると、雲行きが怪しくなり、雨が降り出した。
雪って言ってたのに……。
雨が降り出すと、周囲のお客さんが一斉に反応を示した。折り畳み傘を出す人、急いで屋内へ走り出す人。遊園地が遊ぶところだからなのか単に邪魔なだけなのか―両方かもしれないけれど―普通の傘を持っている人はあまりいなかった。少しはいたのかもしれないけれど、少なくともあたしの視界には入ってこなかった。
あたしはというと、遠くのジェットコースターをただただ見つめていた。電灯で見える線の多さが雨の強さを物語っていた。
ああ、この雨じゃジェットコースターは止まるだろうなって思った。
「うわ、降ってきた」
彼が言う。
メリーゴーランドは相変わらず愉快な音楽を流しながら回り続けている。
「あたし、傘持ってない」
そういうと彼は折り畳み傘を取り出してさしてくれた。
あたしが派手に濡れることはなくなった。けれど折り畳み傘は少し小さくて、彼の右肩はずぶ濡れだ。
そのやさしさはなんだか痛かった。
空は灰色というより、黒に近い色に染まっている。
「どうしようか。とりあえず、あれ乗る?」
そういって彼が指示したのは観覧車だった。
観覧車か。とりあえず雨はしのげる。
幸い観覧車は空いていてすぐにのることができた。
「少し濡れちゃったね」
晴れてたらここからはさぞいい景色が見られるのだろう。
だが、曇り空と雨粒のせいで今は何も見えない。
雨粒が観覧車にあたる音がやけに大きく響くような気がした。
「みんな帰ったのかな……」
なんだか正面に座る彼を見れなくて、あたしは窓の外を見ながらつぶやいた。
「どうして」
「観覧車、空いてたから」
「どうなんだろ。元々観覧車ってそんな人気じゃないからじゃないかな」
「そっか……」
「……」
会話は長く続かない。
観覧車の中、狭い空間。
これってチャンスじゃないの
でも――と躊躇いが生まれてしまう。
彼が好きなのは優だ。だってプロポーズするんだもん。
でもどうせプロポーズなんてしたってふられるに決まってる。
そのあと慰めてあげよう。
そっちのほうが確率が高い。
なんて半分は打算的に、もう半分は勇気がなくてそうやって考えていた。
ごめんなさい、嘘です。言う勇気がないんです。
「観覧車ってだいたい一周十分ちょっとなんだって」
彼が言った。
「そうなんだ」
十分か。今のあたしには、それは短いようでとても長い。
「雨、なんかすごいね。なにも見えない。雪っていってたのにね」
予報が外れると天気予報士に文句を言いたくなってくる。
「そうだね……明日、雪降るかな」
彼が外を見ながら呟いた。
「え?」
「いや、明日は天気どうなんだろうって」
「あ、明日ね。どうなんだろ。あたし天気予報みないからわかんないや」
明日も雪の予報だってことは知っていたけど、つい誤魔化してしまった。
彼は再び視線を観覧車の窓の外に戻した。
彼は観覧車が頂上に着いてもあたしとまともに視線を合わせることがなかった。
時々視線があってもやさしく微笑むだけ。
ああ、そっか。そうなんだ。
なんだ、あたしバカみたい。
最初から、あたしのことなんて見てないじゃん。
たったそれだけのことを、たったこれだけのことで自覚してしまった。
そこからの半周は、とくに何も会話をせずにただただ無言で過ごした。
彼も何も言わなかったし、あたしも何も話さなかった。
観覧車から降りると、予想以上に雨が強かった。
やっぱり折りたたみ傘くらいは持ってくるべきだったかな。
これ、お気に入りの服だったんだけど。
仕方ないか。
「これ」
降り続く雨を見ていると、彼が傘を差しだした。
「入る、でしょ」
「う、うん」
彼が差す傘の中に入った。
「もう帰ろうか」
彼が言った。
「雨、強くなってきたから。たぶんこの分じゃアトラクションもやらないだろうし」
そういって、彼は駅へ向かおうとする。
私は立ち止った。彼は気づかない。思えば彼は今日一日すっと遠くを見ていた。
彼の傘から離れ、雨粒が当たる。服が濡れる。冷たい。
彼はあたしに気付いて立ち止る。
「どうしたの」
彼との距離がそのまま心の距離のような気がした。
彼がかけよってきて、傘を差してくれる。
「濡れるよ」
彼は駆け寄って傘を差しだしてくれた。
「うん。ごめん」
そのままあたしは俯いて歩いた。
「ここまでくれば大丈夫かな」
駅舎が近くなると、屋根がある場所に出る。
歩いてきた方向を見ると、思っていた以上に雨は激しかった。
「さ、帰ろうか」
彼は傘を畳み、ホームのある方向へ歩き出そうとした。
彼が離れていく。
なんだかその背中をもう見れない気がした。またすぐ会える、そのはずなのに。なんだか急にさびしくなった。
何か言わなきゃ。あたしに襲い掛かる衝動はい今までにないほどものすごくて。
「ちょっと待って、えっと…好――」
好き、そういおうとして言葉を飲み込んだ。
「ううん、なんでもない。……いつプロポーズするの」
彼は悩んで返事をしたように見えた。けれど、それは悩んだふりをしていることはわかった。
あたしももう決まりきっている答えを聞いていた。
「いつにしようかな」
今、彼は優のことを考えているのだろうか。
自分で話題を振っておきながら、今ここにいない友達に嫉妬を覚えた。
だめ。今言っても彼には響かない。
わかっている。わかっているのに。
「――ごめんね。好きなの」
泣いていた。彼の裾を掴んて引き留めた。
「……ごめん。俺、これからプロポーズするんだ」
振り返って彼が言う。
「知ってるよ、バカ」
涙が止まらない。なんで泣いているのかなんてあたしにはわからなかった。でも涙が流れていた。雨とは違って、温かみのある雫が確かに頬をつたっていた。
人目もはばからずに泣いたのなんて何年振りだろうか。自分がこんなにも弱い生き物だなんて思いもしなかった。部活の引退試合だって、フられたときだって泣かなかったのに。
何時の間にかこんなに彼に頼っていたなんて。
「楽しかったよ。この前も今日も。連絡取り合っている間もずっと」
ずるい。なんでそんなこと言うんだろう。
「多分、俺も好きだった。このままいるのも楽しいだろうなって思った。でもゴメン。やっぱり、プロポーズはしたいんだ」
「何でよ。なんで優なの」
彼に縋り付くようにして抱きつく。
彼は優しくあたしを引き離してまた、ごめん、といった。
「それは俺にもわからない」
そう続けた。
「なにそれ。だったら――」
もうやけになっていた。愛情じゃなくて憐憫でも同情でもなんでもいい。ただ、もっと彼と一緒にいたいとそれだけだった。
もっと並んで歩いていたかった。
「でも、もう決めたことだから」
彼は優しく微笑んだ。
きっとその表情は優にしかさせることができないと思った。
「……わかった。こっちこそごめん。変なこと言って」
「大分助かったよ。ありがとう」
これ、感謝の気持ち。そう言って彼が差し出したのは初めてのデートの日、わたしが見ていたペンダントだった。
「この前の店のみたいに高級な物じゃないけどさ」
「つけて」
これくらいは許されるだろう。ペンダントにはネックレスチェーンがついている。
「え?」
彼は戸惑いを隠せないようだ。
「お願い、つけて」
私はもう一度言った。
彼が緊張しながらも私に近づき、かがむ。
緊張しているのか。うまくできない。
顔が近い。そのことにすごくドキドキする。
キスだってできる距離。
でも、しなかった。
「できたよ」
「ありがとう」
「それじゃ、またね」
あたしは彼の背中を見送った。
「うん、バイバイ」
その日は、遊園地の最寄駅で別れた。
5years later
「うん、そっか。おめでとう」
電話越しに結婚報告をしてくる親友に祝福の言葉を告げる。
彼女から結婚の話を聞くのはこれで、二度目だ。
今度はプロポーズされた、ではなく、結婚することにしたという報告だ。
そういえば、あのときも電話で相談されたんだったなあ……。
知らないふりするのが意外に大変だったことは覚えている。
『ねえ、彼今何してるか知っている?』
「彼って」
『鴨井君』
「……どうしたの、今頃」
『プロポーズされたときにふと思い出しちゃって』
「なるほどね、それでか。何してるんだろうね。私も全然知らないよ」
嘘をついた。
『あんなことがあったのにね』
「あんなことがあったのに、ね」
彼女がいうあんなこととはどのことだろうか。
彼が彼女にプロポーズした後のことは、彼女には伝えていない。私が伝えると言っただけで、結局伝えなかった。
彼を私の中だけに閉じ込めておきたい。そんな心境だったのだと思う。
「もし、なにかわかったら、教えてあげるよ」
『いいのいいの、無理には。ちょっと気になっただけだから。幸せになってたらいいなって』
「少なくとも、今のあんた以上に幸せではないかもね」
『えへへ』
冷蔵庫から、缶ビールを取り出し、プルタブを開ける。
「それじゃあ、式の日が決まったら教えて。……大丈夫。ちゃんとはがきも返送するよ。うん、じゃあまた」
電話を切った後で、少し胃が痛くなった。
ビールが沁みてくる。
彼女はきっちりと前に進んでいる。
私はあの日以来、進めないままだ。
私は無自覚に胸のペンダントを触っていた。
シャワーを浴びて、部屋着に着替えると、スマホが点滅していた。
フリックして画面を開くと、どうやらメールらしい。
高校時代の部活仲間だ。
年末に同学年で少し集まらないかということだった。
私の返事は決まっていて、丁寧なお断りをしておいた。
大学に入ってバレーはやめた。
高校が厳しくて嫌になったこともあるけどそれ以上に、バレーを続けていて何になるの、何があるの、プロにはなれないだろうし、じゃあ趣味として?なんてことをうだうだ考えていたら続ける気がなくなった。好きかどうかすらわからなくなった。
だからやめた。
別にスポーツ推薦じゃなかったしね。
……あたしはいつでも言い訳がましい。それは昔から変わらない。
それから、いつものように、メール画面を開く。
宛先を選んで、『会いたい』ただそれだけのシンプルなメールを送る。
すぐに返信はきて、それを見てあたしは画面を消す。
もう何年も繰り返している行為だ。
どれだけ待っても、どれだけ繰り返しても欲しい返事は来ない。
わかっている。わかっているのにやめられなかった。
きっと自分が後生大事に抱え込んでいるものなんて他人にとってはひどくどうでもいいことなのだろう。でも、それを知るとひどくがっかりする自分がいる。
他人にとって無価値なものをなんで自分は大事に抱えているんだろうって思って、ひどくどうでもよくなる。
それでもなかなか捨てられない。
高校時代とか告白されたことはなかったわけじゃないけど、そういうのとはまた違う。
彼氏に振られたときとも、また違う。
今一歩踏み出しきれない理由がそれだった。
***
朝のラッシュ時、満員電車で、人の波につぶされながら出勤する。
今の会社に入って四年目。仕事にも慣れ親しみ、後輩もかなり増えた。
何か楽しいことがあるのかといえば、決して胸を張ってこれだと言えるものがあるわけでもない。それでも仕事ってそういうものだと割り切っているつもりだし、後悔もない。
つまりは現状、満足していた。
年末だというのに今日も電車は混んでいる。いや、年末だからなのかな?もうすこし休むべきだと思う。
まあ、私も出勤しているんだけど。
最寄駅に着くと、考えるのをやめて歩きなれた道を進む。
駅から程よい距離なのだが、駅から会社までの道にあまり店がないのが少し残念だ。
反対側いけば結構あるんだけどな。通いなれてくるとさすがに不満や要望も出てくる。
そうしているうちに会社についた。
「おはようございます」
「おはよう。今日、大丈夫?参加できる?」
挨拶もそこそこに開口一番先輩が尋ねてきた。
「大丈夫ですよ。いけます。」
「そっか、楽しみ」
先輩から念を押される。
今日は忘年会がある。年末の恒例行事。
先輩が狙っている後輩がいるから、今日をきっかけに仲を少し取り持ってほしいとのことだった。
そしてその後輩はなぜか私になついているらしかった。
青井祐樹は、わたしより2年後輩の社員だ。
高身長で、イケメン。学歴はよく知らないけど、まあ女子社員何人かが目をつけるには十分だった。
最初は緊張していたのか、周囲とあまり馴染んでいない印象だったが、新入社員歓迎会をきっかけに印象はだいぶ変わった。
よく気が利くし、おまけにおもしろい、いわゆる愛されるキャラクターというやつで、よく笑っていた。
それをきっかけに、すっかり職場になじんだ彼はみんなともよく会話するようになった。
男女分け隔てなく、それでいて先輩後輩をきっちりわけて接する態度はみんなから愛された。
でも、なんだかギャップがかっこいいというよりは、友達ならいいんだけど、なんて思われたようだった。
それでも何人かが告白したという噂は聞いた。彼が誰かと付き合っているという噂はまだ聞いたことがない。
新人研修も終わり、彼は当初営業のほうにいたが、2年後にはわたしとおんなじ部署に移ってきた。
彼がうちの部署にきたときに、色々と教えることが多くなり、なかば教育係のようなものになってしまった。
その縁もあってか、わたしが彼と話す機会が増えた。部署では話せないこともあるのかもしれない。というのは私の勝手な思い込みだろうか。
会社は結局いまだ男社会なのであって、業種によるのかもしれないけれど、それはうちの会社でも例外ではない。
彼が早々と私のいる部署に移ってきた理由はわからないが、なにかあったのかもしれない。
それでも彼は陽気に笑っていた。
彼の営業成績は決してよいものではなかったらしい。人当たりのよさだけが唯一の長所と思われていたようだ。今の業務だって決してできる方ではない。ミスもある。とはいえ、許容範囲のものだし、誰でも犯す可能性があるもので、悪いことではない。けれど、前の部署は合わなかったみたいだ。
彼がよく話しかけてくることに関しては、同期入社のゆっこにいわせれば、「うらやましい」なんて言っていたけれど、私は少し煩わしいとも感じていた。
「イケメンがそばにいるだけで、人生三割は得しているんだよ。贅沢なんだよ」
ともゆっこは言っていたけれど、付け加えていった。
「まあ、青井君はちょっと残念さんなんだけどね」
やはり彼の評判はよくわからない。少なくとも、好意の対象からは外れているみたい。
それでも、狙っているいまだ女子社員は多いと聞く。
まあ、これもゆっこに聞いた話だけれど。
「沙希はさ、もうすこし、色事に関心持ったほうがいいよ」
とも言われた。余計なお世話だ。
ともあれ、青井君が私になついてしまったせいで、先輩との間を取りもつなんて面倒な役を押し付けられてしまったわけで。
義務感で毎年参加しているけれど、今年ほど切実に帰りたいと思った忘年会は初めてだった。
店につくと、幹事が席を決める。
上司を上座に座らせて、次第に席が埋まっていく。
私は先輩を彼の正面に座らせて、その隣に座ることにした。
適当な時間になったら席を移動しよう。
先輩は顔立ちが悪いわけではない。かわいらしい雰囲気を持っている。
そんな先輩が積極的にいって、意気投合すれば自然とうまくいくのではないか
と思っていた。
***
私を少し交えての会話はなかなかうまくいったようだ。
先輩は意気揚揚と青井君の趣味やらなんやらを聞き出している。
なんか今蒼井君が一瞬こちらをうかがった気がしたけど。先輩になんか変な勘繰りされたらいやだからやめてほしいな。そういうの。
話は和やかに進んでいく。
「彼女いないの?」
ついに先輩が聞く。
「え、いないっすよ」
「そっか、こんなにかっこいいのにもったいない」
先輩は嬉しそうだ。
そういえば、彼女いるかどうかなんて知らなかったな。というか、さっきの趣味とかもそうだけど、青井君のことなにも知らないや、なんて今更ながらに思った
「先輩は恋人いないんですか」
青井君が私にいきなり私に話を振ってきた。
「私は――」
「沙希はまったくそういうのないのよ。もう何年だっけ」
「さあ、何年でしたっけ。もう覚えていませんよ」
胸元のネックレスに意識がいった。肌にあたって少し冷たい。
「そうなんですか」
「沙希、あんたも頑張りなよ」
「は、はあ」
「あ、青井君グラス空いているね。ビール注ごうか」
「ありがとうございます。いただきます」
そういって彼は空のコップを前に出した。
なんだろう。酔っぱらったのだろうか。少し気分が悪くなってきた。
なんだか、揚げ物もアルコールもこれ以上体が受け付けそうにない。
気分が乗らない。
忘年会もほどよくなってきたところで私は抜けることにした。
「それじゃあ、私は、ここで」
「え~、帰っちゃうの」
「ごめんなさい。明日朝早くに実家に帰らなければならないので」
「それもっと、遅い時間でいいんじゃないの」
「いえ、そういうわけにもいかないんです」
嘘をついた。実家に戻る予定はない。
これ以上追及される前に店を出てしまおう。
気分が悪いからとはえない。
「これ、会費です。それでは、お先に失礼します」
会費を払い、店を出た。
冬の夜風は心地いいを通り越してもはや寒い。
途中から妙に彼のことを思い出すようになっていた。
明日、雪だっけ。
雨にならなければいいな。
「ちょっとまってください」
店を出て五メートルほどのところだった。
青井君が追いかけてきた。
「どうしたの、何か用?」
彼は逡巡し、言葉を発した。
「……先輩、好きです」
最初、何を言っているのかわからなかった。
だって彼のことはただの後輩としてしか見ていなかったから。
「酔ってるんでしょ。そういう冗談はやめときなさい」
「本気です」
彼の赤みがかった顔からでも真剣さが伝わってきた。
「……ごめん」
「先輩ずっと恋人いないんですよね。なんでなんですか。いいじゃないですか」
「随分と食い下がってくるね。そうだなあ……好きな人がいるから、かな」
「会社の人ですか」
「ううん、違う人。ずっとずっと、遠くにいる人」
私は空を見上げた。今宵は雲に隠れて月がはっきりと見えない。
「そんなにいいやつなんですか」
「そうだなあ、キミの方が断然カッコイイと思う」
「じゃあ、なんで」
「それがわかったら苦労しないよ」
「苦労してるんですか」
「そりゃね。もう大変だよ」
そう答えて私は笑った。
「俺、あきらめませんから。何度でも言いますし、この気持ちは変わらないですから」
「ねえ、明日雪、降るかな」
「雪……ですか」
彼は少し困惑した表情で尋ねた。
「うん、雪」
「天気予報じゃそんなこといってたような気がしますけど。それ今関係ありますか。明日のことなんてどうでもいいじゃないですか」
「明日なんてどうでもいいか……。若さだね」
「先輩だって十分若いです」
「ありがと。もう帰りなよ、あんまり遅いとみんな心配するぞ」
青井君に背を向けた。
数メートル歩いたところで立ち止る。
「頑張れよ、青少年。その情熱は誰かほかの子にぶつけてあげな。きっと喜ぶよ」
まだその場に立っていた彼に振り返ってそう付け加えてみた。
青井君はなんとも言えない顔をしていたけれど、もうこれ以上言っても響かないと観念したのだろうか。何も言ってこなかった。
ふと、思いついたようにスマートフォンを取り出した。
まだ起きてるかな。早めに抜け出したとはいえ、もう夜中だ。
起きていればいいな。
3コール目で彼女は電話に出た。
「もしもし、優?」
これで何かが変わるとも思えない。少なくとも彼女は関係ない。これは私の問題だということはわかっている。でも、言ってみたかった。
あの日、言えなかったことを。
彼女はどんな反応をするだろうか。
「あのね、言ってなかったことがあるんだけど――」
私はまだ、立ちどまったままだ。
優に伝えたら、私は前に進めるのだろうか。