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熊猫パンチドランカー  作者: 藍澤ユキ
17/18

ファイティング中央パーク/バベルの都庁

 ※ ※ ※


 たとえ望まなくとも、変わらずにはいられない。

 あなたも、わたしも。

 そのままではいられないのだ。どんなに強く願ったとしても。

 そして、いつかは忘れてしまう。

 なにを願ったのかも。


 ※ ※ ※


 日曜日、新宿中央公園ではバザーが行われていて、いつもよりも多くの人で賑わっていた。


 そんな賑やかな公園を、陰鬱な面持ちの晶良が俯いたまま通り抜けようとしていると、聴き覚えのある声に呼び止められた。


「晶良くんっ!」


「――せ、仙波!?」


「こんにちは。今日はいい天気だね」


 燈子が青空を眩しそうに見上げながら、ゆっくりと近づいてくる。


「なんで、ここに?」


 なんとなく警戒心が働いて、晶良は身構えてしまう。


「バザーに来たの。ってのはウソで、晶良くんの部屋へ行くところだったの。よかった、途中で会えて」


 にこっと微笑む燈子の眼は、口元ほどには笑っていなかった。


「連絡してくれればいいのに」


「連絡したら晶良くん、逃げそうなんだもん」


 燈子が小さく笑い声をたてる。


「んで、何の用なの? 俺、行くとこあるんだけど」


 そうは言ってみたものの、南口の楽器店にギターの弦を買いに行くだけだったので、大した用事でもなかった。


「冷たいなぁ、晶良くん。かおるんとうまくいかなくて、落ち込んでるんじゃないかと思ったから、慰めに来てあげたのに」


 燈子が意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「なっ!? 仙波、何か知ってるのか!?」


 不意打ちを喰らった晶良は動揺を隠せなかった。


「ううん。知らない。でも、晶良くんのことは知ってる」


「えっ?」


「晶良くんのことだから、好きだって言われて、かおるんのことを受け入れそうになったんじゃない?」


 自信ありげに燈子が問いかける。


「……」


 燈子に言い当てられて、晶良は言い返すことができなかった。


「やっぱり。だって、晶良くんは意思薄弱の優柔不断くんだもんね。好きだなんて言われたら、相手のことが好きになっちゃうでしょ? 優しくしちゃったんでしょ? でもね、それって優しさじゃないよ」


 徐々に燈子の声に鋭さが混じる。


「優しさってね、強さなんだよ。時には自分の心が痛んでも決めなきゃいけないの。優柔不断はただの弱さ。流されるのなんて、もう、ぜんぜん違う。それを優しさと混同しちゃダメなの。だから、晶良くんのは優しさじゃない」


 まったくなっていない、とばかりに、燈子が首をゆるゆると左右に振る。


「――じゃあ、どうしろって言うんだよ?」


 燈子に痛いところを指摘をされて、不愉快そうに晶良が言い返す。


「晶良くんだって、ホントはわかってるんじゃないの? ってか、みんながわかってる。わかってないのは本人だけなのかな? まぁ、自分のことって結構わからないもんねぇ」


 決定的な何かが明るみに晒されるような、そんな直感に晶良が声を低める。


「なんのことだよ」


 すると、燈子は晶良をまっすぐに捉えながら、じとっと醒めた目を向けてくる。


「――知ってた? 晶良くんはいつもシーナちゃんを見てるよ」


 そして、面白くなさそうに燈子がたたみ掛ける。


「かおるんだって、それ、ちゃんと知ってるんだよ。なのに優しくなんてして……残酷だと思わない? そんな簡単に、誰にでも優しくなんてしないでよっ!」


 燈子は声を震わせながら語気を荒らげると、その先を、かすれるような押し殺した声で続けた。


「――わたしねぇ、晶良くんがわたしのこと、どう思ってるか知ってるよ。晶良くんはねぇ、わたしがからかってたと思ってるでしょ? ふざけてキスしたと思ってるでしょ? でもね、それって違うよ。先に勘違いしちゃったのは、わたしなの。晶良くん……誰にでも優しいのにさ、わたしにだけ優しいのかと思っちゃったんだよね」


 晶良を見つめてくるその瞳は、憂いに揺らいでいた。 


「――仙波……」


「ホント、バカみたいだよね。まぁ、昔の話だけど。でも、晶良くんは今でもそれをやってた――」


 そして、燈子は深く息を吸い込んだ。


「――ムカつくんだよっ! この優柔不断野郎っ!」


 燈子が声を張り上げると、何人かの通行人が視線を向けてきた。しかし、一瞥すると、すぐに興味を失ったように行ってしまう。


「……ごめん」


 思わず視線を逸らした晶良が、ぽつりと洩らすと、間髪入れずに燈子が被せてくる。


「謝んないでよ。なんかわたしが負けたみたいじゃん」


「いや……そういうつもりじゃ……」


 晶良は言うべき言葉を持ち合わせていなかった。


「シーナちゃんにもフラれたらさ、」


 燈子の声が平素の柔らかい、甘えたようなものに戻る。


「フラれてぼろぼろになったらさ、その時は、わたしが付き合ってあげる。そして、惨めな晶良くんを大笑いしてあげる」


 そう言うと、燈子は今までに見せたことのない、完璧な笑顔をしてみせた。


 しかし、その表情は、誰をも惹きつけるほどに柔らかく魅力的なものなのに、どこか寂しげな色が透けていた。


「じゃあね、今日はもう帰るね」


 燈子はくるりと踵を返すと、そのまま一度も振り返ることなく行ってしまった。


 独り取り残された晶良の胸中には、様々な想いが入り乱れていた。


 燈子を傷付けていながら、今まで気が付かなかったこと。良かれと思って取った行動が、薫を更に悲しませていたであろうこと。そうした事実を、指摘されなければわからなかったこと。


 そして、シーナのこと……。


 まずは、薫と話をしなければならない。晶良はスマートフォンを取り出すと薫の番号を呼び出した。


「都庁の展望室に行きませんか?」


 連絡をした時には渋谷にいたという薫は、新宿までやって来ると晶良にそう言った。


 都庁の展望室へ上がると、一面の大きな窓から差し込む光と、開けた眺望が二人を迎えた。


「晴れてるから、すごい遠くまで見えますね」


 薫は窓まで走り寄ると感嘆の声を上げた。


「俺、初めて来たよ」


 密集した建物が、どこまでも連なる光景は非日常的だった。


「わたしは前に来たことあります。あっ、ほら、あの辺りが遊鳴荘ですよ」


 そう言って薫は下の方を指差した。


「この街で、みんな暮らしているんですね……」


 景色を眺めたまま、薫は眼を少しだけ細めて呟く。


 そんな薫の背中に向けて、晶良は話し始めた。


「薫ちゃん。俺、謝らないと……。薫ちゃんがどういう想いでいたか、全然わかってなかった。わかってもいないくせに、あんな風に言うべきじゃなかった。無神経だったよ……ごめん」


 窓から下界を眺めたまま、薫が振り返らずに応じる。


「そんなことないですよ。わたしも、わかっていてやったことですから……。アッキーさんが思っている以上に利己的ですよ、わたし」


 薫は少し顔をあげると、窓ガラスに映った晶良の姿をちらりと見やった。


「いや、でも……」


 晶良が言葉に詰まると、薫が先に口を開いた。


「――わたしはシーナさんになりたかった。シーナさんと同じ世界を見ることができれば、あんなかっこいい女の子に、自分もなれると信じていたんです。……おかしいですよね?」


 ゆっくりと晶良の方へ向き直ると、薫は自嘲するようにシニカルな笑みを浮かべた。


「だからシーナさんのことを、二人のことを、ずっと見ていました。そうしたら、いつの間にか、わたしもシーナさんと同じ気持ちでアッキーさんを見ていることに気が付きました。でも、アッキーさんが見ていたのはシーナさんで、わたしじゃなかった。やっぱり、わたしはシーナさんにはなれませんでした」


 そこで一旦区切ると、薫は視線を少し落として続けた。


「シーナさんと同じ世界を見ても、わたしは、わたしでしかなかった。何者にもなれなかった。でも、もう止められなかったんです。全部わかっていたのに……誰が傷付くことになっても、たとえそれがわたし自身であっても、もう止められなかった……そういうことなんです」


 そこまで一気に話すと、薫はまた自嘲的に口元を歪める。


「――自分だけ傷付いたような顔しておいて、けっこう利己的だと思いませんか、わたし。謝って損しちゃいましたね、アッキーさん」


「――いや、薫ちゃんをもっと知ることができたよ。だから尚更……ごめん」


 晶良は真っ直ぐに薫の眼を見つめた。


「そんなのやめてくださいよ、なんだか惨めな気持ちになります」


 薫が逃げるように少しだけ視線を逸らす。


「――行くんですか、シーナさんのところに?」


「――そのつもりだよ」


 その瞬間、晶良の胸に鋭利な痛みがチクリと刺さる。


「そうだとわかったら、なんだか欲が出てきちゃいました……」


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。すっと薫の手が晶良の両頬に添えられたかと思うと、柔らかくて温かい感触が晶良の唇を覆う。


 近すぎて焦点が合わない。晶良が身じろぎひとつできずにいると、薫は重なった唇を小さく動かして、晶良の下唇を軽くついばんだ。そして、ゆっくりと離れていく。


「先に行ってください。わたしは、もう少しここにいますから」


 薄っすらと頬を染めた薫が、上目づかいに晶良を見上げて微笑む。


「……薫ちゃん」


「シーナさん、暇してると思いますよ。さっきわたしがドタキャンしたんで」


 そう言って薫は笑うと、晶良の背中に手を当てて、ちょうどやって来たエレベーターへと晶良を押しやった。


「行ってらっしゃい」


「あぁ、確かめてくるよ……」


 晶良がエレベーターに乗ると、扉は音もなく閉まる。


 展望室に独り残った薫は、エレベーターの前に立ったまま、閉じられた扉をいつまでも見つめていた。

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