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熊猫パンチドランカー  作者: 藍澤ユキ
11/18

ブラックアンドブルー

「ここでいいんだよね……」


 シーナは恐る恐るインターフォンを鳴らす。しかし、中からは何の反応もなく、そもそもインターフォン自体が鳴っているのかどうかもよくわからなかった。


 表参道から青山の方へ入っていった裏通り。時代を感じさせる古めかしい石造りのアパートメントの一室。そんな小女子の部屋の前にシーナは来ていた。


 この前、小女子からもらった封筒には、部屋の鍵と住所が書かれたメモ用紙しか入っていなかった。小女子と連絡を取るためには、こうして訪れる以外にシーナには手段がなかった。


「これ、使うの……?」


 シーナはポケットから鍵を取り出して、しげしげと見つめた。いまのシーナには出直すという選択肢はなかった。小女子を訪ねる決心が鈍ってしまうことを彼女は懸念していた。


 手にした鍵を鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回していく。しかし、心のどこかでは、このまま開かなければいいとシーナは思っていた。自分に言い訳をして問題を先送りにしたい。そんな気持ちがないわけでもなかった。だが、そんなシーナの心情などお構いなしに、錠は軽く簡単に回ってしまう。


 ――カチャン


 シーナはドアノブを掴んで大きく深呼吸をすると、意を決して扉をゆっくりと引き開けた。その途端、ルームフレグランスなのか、甘い香りが漂ってきた。部屋の中は薄暗く、奥の様子はよくわからなかった。


 やっぱり不在なのではないかとシーナが中を窺っていると、部屋の奥の方からベースの低い音と、ドラムパターンが薄っすらと聴こえてくることに気が付いた。


「ちょっとーっ、いるのーっ!?」


 大きめに声を張って、部屋の奥へと呼びかけてみる。しかし、これといった反応もなく、低音だけが響いていた。


「入るわよーっ!」


 シーナは靴を脱いで薄暗い廊下へ上がると、音の聴こえる方向へと歩き出した。すると、何か柔らかいものに頭が当たった。


「んわっ、って、なにこれ?」


 頭に当たったものを掴んでみると、それは天井から紐でぶら下げられたクマのぬいぐるみだった。目を凝らすと、廊下の天井には無数のぬいぐるみが吊り下げられていた。鈍い光沢を放つ、生命を持たない空虚な眼がシーナを無言で見下ろしてくる。


「うへぇ、悪趣味……」


 言いながら、シーナがぐるりと廊下をよく見回してみると、天井にも壁にも、何か大きな絵が描かれていた。おどろおどろしさを感じさせる色使いで、妖怪なのか人魂なのかよくわからない、抽象的な物体が縦横無尽に飛び交う様子が描かれていた。


 そんな妙に人を不安な気持ちにさせる絵を見ながら、シーナがさらに奥へと進んでいくと、リビングルームと思われる広い部屋へと出た。


 中央に置かれたヴィンテージ風の真っ赤なレザーソファーと、宇宙的なデザインをしたルームランプ。その周りを取り囲むように、所狭しと並べられた奇妙な形状をした無数のオブジェ。


 壁一面を覆う大量のレコードジャケット。天井から吊り下がるぬいぐるみ群。クラシックなジュークボックスにピンボールマシン。


 そして部屋の隅では、どこから持ってきたのか、フルサイズの首振りペコちゃん人形が白いエルヴィスのジャンプスーツを着込んで佇んでいた。


 そんなカオス状態のリビングは、まるでそれ自体がひとつの前衛アートのようだった。


「どんな感性してんのよ……これ」


 眉根を寄せて部屋を眺めていたシーナの耳に、明瞭に音が聴こえはじめる。


「『Fool To Cry』……?」


 そのR&Bのバラードは奥の部屋から流れてきていた。


 シーナは奥へと歩いていき、部屋の扉の前に立った。


 ミック・ジャガーの歌声がはっきりと聴こえる。


「小女子、いるの? 入るわよ」


 ノックをすると、シーナはドアノブに手をかけて扉を押し開けた。


 大音量で溢れ出るストーンズ。


 そこはベッドルームだった。その途端、シーナの動きがピタリと止まる。


 彼女は部屋の中の一点を見つめたまま、言葉を失ってしまった。


 淡い薄明かりに浮かぶ重なる裸体。


 絡み合う四肢。


 擦りつけられる肌。


 次の瞬間、『Fool To Cry』が静かに終わった。


 室内に空白の瞬間が訪れる。


 無音の部屋に響く、艶声と荒い息遣い。


 そして、次の『CrazyMama』をストーズが気怠げにはじめる。


 ――あんたは狂った母親だよ


 ミックの絡みつくようなボーカルと、キースのピーキーなギターの音が耳に飛び込んでくる。


 すると、ベッドの上、覆いかぶさっていた方のピンク髪がシーナに気付いた。そして、そのまま身体を起こして床へ降り立つと、シーナの眼の前までゆっくりと歩いてやって来た。


「いらっしゃい、シーナ」


 一糸纏わぬ姿の小女子が、妖艶に微笑んでみせる。


 その顔に、いつものメイクはなかった。


「……ブ、ブラックアンドブルー、ね」


 動揺したシーナはアルバムのタイトルを口走る。


「言ったでしょ、ストーンズは好きだって。それに、セックスの時はこのアルバムが一番いいの」


 そう言って、小女子は柔らかい仕草で手を伸ばすと、シーナの両頬を掌で包んだ。


「あなたがよければ、シャワーは浴びなくてもわたしは平気よ。むしろ、そっちの方が好き」


「い、いやいや、そうじゃないからっ! そのために来たんじゃないわっ!」


 シーナは慌てて小女子の手を振り払った。すると、小女子が降りてきたベッドの方から声がした。


「こうなちゃん……どうしたの?」


 視線を向けると、こちらを見つめる女の子の姿があった。剥き出しの露わな上体を起こして、艶やかな長い黒髪を不安げに撫でつけている。


「あっ、いや、ホントごめんっ。あたし、そんなつもりじゃないから、邪魔しちゃって……お、お気になさらずに、続きをど、どうぞ。終わった頃にまた来るから……」


 まずは女の子に謝ると、次にシーナは小女子へ目配せをして踵を返そうとした。すると、その腕を小女子がそっと掴んだ。


「あの娘なら気にしなくていいわ。帰らせてもいいし、なんなら三人でだって平気」


「こうなちゃんっ!?」


 小女子の酷い言い様に、女の子が怒気を孕んだ声をあげる。


「……柚子希(ゆずき)、今日はもう帰って。いますぐ」


 柚子希と呼ばれた女の子の反応が気に入らなかったのか、小女子が醒めた声音で冷たい態度をみせる。


「そんな……こうなちゃん?」


「早く帰ってっ!」


 芯の通った小女子の声が、ストーンズのロックンロールを一瞬だけ搔き消した。


 柚子希は肩をビクッと震わせると、唇を噛み締めながら、ベッドに散乱していた着替えを胸に掻き抱いた。


 そして、そのままベッドを降りると、シーナと小女子の横を、無言で小走りに通り過ぎていった。


 柚子希は部屋を出るまで、ずっと小女子の様子を窺っていたが、小女子は一瞥もくれてやることはなかった。


 部屋の扉が閉められると、あらためて小女子がシーナの手を取る。


「さぁ、いらっしゃい。綺麗な子猫ちゃん」


「だから違うって!」


 またもや、シーナが小女子の手を振り払う。


「お行儀の悪い野良猫でも、わたしは躾けられるわよ」


 そう言って、小女子は酷薄そうな微笑を浮かべる。


「そういうのはさっきの娘とやってよっ! ってか、あの娘いいの!? ほっといて!?」


「ふんっ、あんな娘ならたくさんいるわ。ちょっと優しくしてあげたら勘違いしちゃって。くだらない娘」


 小女子は鼻で笑うと、またシーナへと手を伸ばした。すると、その手をシーナがしっかりと掴む。


「あんたもわかんないわねぇ。違うって言ってるでしょ!? あたしは、あんたのバンドとジャムりに来たのっ!」


 シーナは、その猫目で小女子を射るように睨みつけた。


「まぁ、入りはそれでもいいわ。あなたがわたしのモノになるのは時間の問題だから」


 小女子はシーナの鋭い視線を軽くいなすと、ベッドへ向かって歩きはじめる。


「いえ。入りなんかじゃなくて、それがすべてよ。だいたい、なんであたしをバンドに入れようとするの? 恋人にしたいなら、バンドに入れなくてもいいでしょ? それに、あんたには、あんたがやりたいようにできるバンドが、ちゃんとあるじゃない」


 すると、小女子が大声をあげて笑いだした。


「あはははっ、だからよ。あなたがそれだから声をかけたの。前にね、あなたのバンドのライブを観たわ。あなたと、あなたのバックバンドって感じだった。あれなら、バンドの形にこだわる必要はないでしょう? バンドはあなたに貢献するけど、あなたはバンドにどんな貢献をするの? バンドの意味なんてあるの? わたしがやりたいようにできるバンド!? 違うわ。わたしがやっているのは、わたしたちがやりたいことをやるバンドよ」


 小女子は笑いながら、仰向けにベッドへ倒れ込む。


「わたしね、躾けるのは得意なの。だから、あなたのことも躾ける自信があるわ。誰かのエゴでしかないバンドなんて、最高につまらない。制約に軋轢。苦しみからしかブルースは生まれないの。自由になんでもできるってことは、結局、なんにもできないってことよ。あなたのバンドがそれ。でも、エゴのないバンドもダメね。これもつまらないわ。予定調和のルーティンワーク。垂れ流すような馴れ合いと惰性。くだらないわ。わたしは、自分たちのバンドに緊張感をもたらしたいの。だから、エゴの肥大化しているあなたを選んだのよ」


 言うと、小女子は身体を起こしてベッドの上に胡座をかいた。その顔には挑発的な笑みを浮かべている。


「あ、あたしが……自分のエゴでバンドをダメにしてるっていうの?」


 言語化すると実体を持つようになる想いがある。それまでは抽象的で捉えどころのなかった概念が、言葉になった途端、突如として明確な形を持って現れる。


 小女子の指摘は、シーナにとってまさにそうだった。モヤモヤと胸の内に燻ってはいたけれど、それが何なのかわからなかった想い。それをシーナは突き付けられた。


「だって……やりたいことをやるために、やっと手に入れたバンドなのよ? どうしろって言うの……?」

 

 困惑したシーナは、呆然と小女子を見つめる。


 その小女子がベッドから降りようと脚を伸ばすと、彼女のなめらかな腹部の上端で、銀のボディピアスが暗く鈍く煌めいた。

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