聖女と枢機卿
イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家・バチカン市国。
カトリック教会の総本山であるこの国では、今朝から世界中から集まったマスメディアの報道陣が、東京ディズニーランドよりも小さい国土にひしめいていた。
バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂で、統治者であるローマ教皇選出の為のコンクラーベが開始されたからだ。
宮殿から少し離れたカフェの一角で、報道の喧騒をニュースで観ながら、テーブルの上でそっと手を握り合っている若いカップルがいた。
男は二十代前半位だろうか。プラチナブロンドにロイヤルブルーの甘い瞳。貴公子然とした完璧な美貌で眩しい笑顔を目の前の少女に向けている。
一方少女はと言えば。十代の後半位の、幼さと成熟の狭間にある可憐な容姿。シンプルな紺のワンピースの肩に、くせのあるブルネットの髪を上品に垂らしている。
だが、彼女のペリドットの瞳は、何故か眼前の男にではなく、テーブルの上にしっかり固定させられてしまった自分の手の方に、釘付けになっていた。
テレビの画面を指差しながら、男が笑顔で少女に解説する。
「ほら、今映ったのが、今回のコンクラーベの最有力候補と言われているグレギウス司教枢機卿だよ」
しかし彼女は画面には眼もくれず、引き攣った顔を赤く染めながら、何とか捕らわれた自分の手を逃そうと、空しい努力を続けていた。
傍からすれば、単にラブラブな恋人同士の戯れにしか見えないのだが…………。
「その横にいるのが、首席枢機卿のドミンゴ枢機卿だ。彼は野心家で、今回も自ら教皇候補に名乗り出たのだけれど、恐らくまた落選するだろうね」
相変わらずにこやかに少女の意志を無視する彼に、彼女がとうとう懇願した。
「あ、あの、司祭様、手を放して下さい!」
「司祭様、とはよそよそしいね。クリス、と呼んでくれないかい、フローラ?」
「ク、クリス……さん、分かったから手を放して下さいっ……!」
手を卓に押し付けていた力がふいに解かれ、右手がすっと軽くなる。
安堵の息を吐きかけた彼女だが、次の瞬間、短い悲鳴を上げると、全力で彼に抗議した。
「なっ、何するの、クリスさん!」
彼女の手の甲から唇を離すと、麗しくも悪意を感じる微笑を浮かべたクリスが、退路を塞ぐかのように、優雅に足を組み替えた。
「駄目だよ、そんな他人行儀じゃ。約束したよね。コンクラーベが終わるまで、恋人の振りをしてくれるって」
それとも、唇にじゃないと不満?と、聖職者にあるまじき蠱惑的な仕草で、彼女を引き寄せようとする。しかも右手は握ったままだ。
「わ、私、もう炊き出しのボランティアに戻らないと!」
ほとんど半泣き状態の彼女に向って、うさん臭い程清々しい笑顔で彼が応える。
「君の代わりなら、とっくに頼んであるから大丈夫だよ。それにしても、君、どこかで会わなかった?」
更に顔を近付けようとするクリスを牽制しながら、フローラが叫んだ。
「バチカンに来たのはこれが初めてです!早く放してくれないと、妖精が……!」
「……妖精!そうだ、君、去年の五月際で、五月の(・)女王に選ばれなかったかい?確か、精霊達の姿が見えるメイ・クイーンだって話題になったはず……わっ……?!」
クリスの両足が、突然宙に浮いた。
まるで椅子ごと乱暴に投げ出されたかのように、後方のテーブルに突っ込み派手な音を立てる。
何が起きたのか理解出来ずに呆然としている彼を、フローラが慌てて助け起こしてくれた。だが……。
「良かった……!」
自由になった右手を、左手で包みながら、明らかに安堵の溜息を漏らしているではないか。
これには内心呻いたクリスが、わざと大袈裟に歎いて見せる。
「確かに君の手はようやく僕から解放されたわけだけれど、そう言われると流石にちょっと傷付くな」
「あっ、いえ、違うんです!私、緊張すると手足が勝手に暴走する癖があるので、その前に手が離れて良かったと……。きっといつものように、妖精達が先に助けてくれたんです。私がブーツの爪先でクリスさんを蹴り上げるか、拳で殴るかする前に」
信じられないかもしれませんけれど……と小さく呟いた彼女の目線を追うと、足元の至極頑丈そうな編み上げブーツが視界に入った。
もしあれが急所にでも当たっていたら、無事ではいられまい……。
「思い出した。君、五月際で、メイ・クイーンに祝福のキスをしようとした国王を拳骨で殴って、一躍有名になったんだっけ」
「………………」
フローラが熟れたトマトの様に真赤になって頬を抑えた。さすがに気の毒になったクリスが、そっと彼女の右手を離してやる。
(精霊、か……)
彼女の言う事を疑う気は毛頭無かった。彼自身、子供の頃は常に精霊が見えていたのだから――――そう、あの事件が起こるまでは。
神の声さえも聞こえていた、今は遠い昔の記憶を掘り起こす。
(だが、僕にはもう、何も見えない。何も聞こえない)
それでも、自分はいま暫くの間、司祭のままでいなければ。
あの人が教皇になる、その日までは。
「僕も、ね。昔は君みたいに精霊が見えたんだよ」
「クリスさんも……?」
驚いたフローラが、再び上気した顔で真直ぐ彼を見る。
「神の声を聞いて、津波が来る前に、ナポリの人々を高台へと避難させた事もあったしね」
「え、まさか、クリスさんて、『ナポリの奇跡』を起こした、あのクリストフ少年なの……?!」
彼女の顔色が急に変わった。
『ナポリの奇跡』とは、少年が神の導きにより、大津波から数多のナポリ市民の命を救ったという、有名な現代の奇跡だ。
だが、少年にはその後、不幸が襲う。
彼の起こした奇跡が、まやかしの物だと批判していたカルト教団の信者が、ある日彼の自宅で家族を惨殺したのだ。
一人残ったクリスを、犯人が手に掛けようとしたその時。偶然訪れたバチカンの助祭枢機卿に、運よく命を救われたと報道されていたのだが……。
「正解だよ。そして、両親が殺された時に、僕を助けてくれたのが、新教皇最有力候補のグレギウス司教枢機卿なんだ。その後彼は僕を引き取って、実の息子同然に育ててくれた。お蔭で、聖職者としてはやる気の無い僕でも、何とか司祭にまでなれたんだよ」
「それなら尚更、こんな所で恋人ごっこなんてしている時じゃないわ。バチカンで待機していた方がいいのじゃないかしら」
「ところが、そうでもなくてね。前枢機卿と彼のカメルレンゴが、同時期に逝去されたのは覚えているかい?」
「ええ、それが何か?」
カメルレンゴとは、教皇が生前指名しておく枢機卿のことである。教皇の不在時には、彼が教皇の権限を移譲され、指示を出す役割を負う。いわば影の教皇とでも言う存在だ。
クリスが声のトーンを落として呟く。
「実は彼らの死には、暗殺の疑いが濃厚なんだ。確たる証拠はいまだ無いそうなんだけれどね。そして今回のコンクラーベは、教皇だけでなく、カメルレンゴも不在のまま始まった。つまり、新教皇が選出され、バチカン宮殿内のパウロ礼拝堂で、新カメルレンゴから『漁夫の指輪』を受け取るまでは、ごく一部の者を除いては、誰が新カメルレンゴになるのかは、まだ知らされてはいないんだ」
困惑顔のフローラに、彼は続ける。
「今回のコンクラーベでは、グレギウス枢機卿が選ばれるのはほぼ確実だ。だとすれば、彼の養子であるこの僕が、新カメルレンゴになるのでは、と考えている人も多いんだよ」
「……クリスさんは、新カメルレンゴに指名されているの?」
「まさか。僕はただの司祭で枢機卿じゃないし、カメルレンゴは慣例として、もっと天国に近い年齢の聖職者がなるものさ」
さり気無い笑顔でフローラの質問をかわすと、黒いハイネックのセーターの下に鎖で下げられた、大きな印章の存在を、確かめるかの如くにさり気無く触れてみる。
外側から見れば、セーターの上にかけている大きな十字架のネックレスだけしか目に入らない。だが、その下に隠された印章は。
紛れも無く、新教皇の印章である『漁夫の指輪』だった。
クリスの言う通り、カメルレンゴは枢機卿団の中から選ばれるのが慣習だ。
だが、実際には通例、司祭の地位さえあれば、誰にでも枢機卿団に選ばれる資格はあるのだ。新教皇決定後に枢機卿となって、カメルレンゴに指名されることも、今回のような特別な事情の下では不可能ではない。
「グレギウス枢機卿には暗殺の危険も危惧されているけれど、コンクラーベの最中にはさすがに手は出せないだろうね。そして、もし彼が狙われているとすれば、当然、彼のカメルレンゴと噂されている僕も、前カメルレンゴ同様に狙われる可能性が高い」
「だったら尚更、バチカンに戻った方が安全なのではないかしら」
クリスはちょっと困った顔をすると、再び小声で囁いた。
「ここだけの話だけれど、前教皇暗殺の犯人は、バチカン内にもいると推測されているんだ」
「えっ?!」
「だから、敢えてこうして観光客に紛れて、初対面の君に、恋人の振りをしてもらっているんだ。まさか『カメルレンゴ候補』が、コンクラーベの当日に、街中で恋人とデートしているなんて、誰も思わないからね」
「…………」
爽やかな笑顔でその場を誤魔化せたつもりの彼の顔を、フローラが無言で見つめていた。
(クリスは、嘘をついているわ)
彼の言っている事の全てが嘘では無いとは思う。だが、フローラには既に確信があった。
(もしかするとクリスは、何かを恐れているのかも知れない……)
彼女の手を握り続けていた彼の右手が、あの時僅かに震えていたような気がしたのは、気のせいなのだろうか……。
ふいに、カフェの外から、広場を揺るがす歓声が沸き立った。
見ると宮殿の方から、白い煙が立ち上っている。
コンクラーベの投票では、新教皇が決まらなかった時には黒い煙が、決まった時には白い煙が出される。
新教皇が選出されたのだ。
サン・ピエトロ大聖堂の鐘が、新教皇決定を祝福して厳かに鳴り出した。
クリスの顔にさっと、緊張が走る。
「そろそろ戻らないとならないらしい」
彼は笑顔で立ち上がると、フローラの頬に、感謝を込めて頬にお別れのキスをした。
身を翻し歩き出したクリスに、フローラが祝福の言葉を掛ける。
「おめでとう。新教皇はグレギウス枢機卿よ」
クリスが驚いて振り返った。
「精霊達が教えてくれたの。あなたの事も……。今のあなたには見えなくても、彼らは何時もあなたの周囲にいて、祝福してくれているのよ。きっといつかまた、気付いてくれると信じているわ」
あなたに神の御加護がありますように。そう言って彼女が十字を切る。
クリスが何故か彼女の方へと戻って来た。
首に掛けていた司祭の十字架を外すと、彼女の手を取り、その中にそっと包ませる。
「後でこれを持ってバチカンに来てくれるかい?一段落したら、また会いたいんだ」
「え、待って!こんな大切な物、預かれないわ!」
「そう。僕はこれがないと困るんだ。約束だよ」
クリスは端麗な顔で、悪戯っぽく笑って見せると、そのままサン・ピエトロ礼拝堂へと真直ぐに駆けて行った。
新教皇はこの後、白衣を身に纏い、礼拝堂に戻ると、カメルレンゴから新しい『漁夫の指輪』を受け取り、枢機卿団一人一人から表敬を受けることになっている。
そして、サン・ピエトロ大聖堂の広場を見下ろすバルコニーに出ると、新教皇の発表とともに、「ローマ(ウルビ・)と(エト・)世界へ(ビ)」で始まる在位最初の祝福を与える事になっているのだ。
その教皇の姿を一目見ようと、彼の現れる中央バルコニーを目指して、広場に続々と人々が集まって来ている。
残されたフローラは、ただ茫然と十字架を手にしたまま立ち尽くしていた。
(ずるいわ。こんな大事な物を渡されたら、返しに行かない訳にはいかないじゃない!)
心の中で文句を言いながら、フローラも祝福の群衆に加わろうと、席を離れた時だ。
ふいに、精霊達のざわめきが耳を覆った。
(何……?)
周囲の景色が、急に重苦しく、そして暗くなった様な錯覚に陥る。
眼前に広がるモノトーンの世界の中心に、ただ独り、黒髪の中肉中背の男が立っていた。
どこか一点だけを一心に見つめていながらも、何物をも映してはいない様な、狂気に満ちた瞳で。
男が真直ぐに、広場の方へ歩いて行く。
((キケン、コノ人間ハキケン))
精霊達が彼女に警告する。
上方ばかりに視線を向けていた男が、足元の椅子につまづいて転んだ。
床に手を着こうとして、ジャケットに隠れていた右手が一瞬現れる。
(――銃を持っているわ!)
フローラが息を呑んだ。
何も無かったかの様に立ち上がると、男は何か独り言を呟きながら、再び広場へと歩き出す。
「……だからあの時……家族……皆殺しにしておけば……あいつが邪魔を…………」
(え、今なんて――?!)
早く、衛兵を呼ばなくては。だが、衛兵を眼で探している間にも、男の姿が人の波に呑まれて消えそうになる。
慌てて、男の後を追った。
サン・ピエトロ広場は、大聖堂の正面にある、楕円形の広場だ。
四本のドーリア式円柱による列柱廊と百四十体の聖人像に囲まれていて、中央には堂々たるオベリスクが立っている。
この広大な広場に集まった人々は皆、正面の大聖堂の中央バルコニーから、新教皇がその英姿を現すのを待っていた。
男の視線は、始終そのバルコニーに貼り付いたまま動かない。
彼が人混みをかき分け、ゆっくりと、着実にバルコニーへと近付いて行く。
嫌な予感がした。
(まさか……?!)
ふいに広場に地鳴りの様な歓声が湧いた。
カーディナルと呼ばれる、緋色の聖職者服を身に纏った枢機卿が、バルコニーに現れたのだ。
そしてその後ろに、同じく緋色に身を包んだ、背の高い金髪の枢機卿の姿が見える。
鮮やかなプラチナブロンドが陽光にきらめく、眩いばかりのその枢機卿は……。
「クリス……!」
女たらしで、軽口好きの意地悪。およそ司祭らしからぬ言動と、ほとんど悪魔的なまでの魅力の持ち主だ。
だが今はその全てが影を潜め、厳粛な面持ちでバルコニーに立つ彼は、非の打ちどころの無い立派な聖職者に見える。
クリスが今、枢機卿として教皇と共に現れた意味はただ一つ。
彼は正式に、新教皇のカメルレンゴに任命されたのだ。
最初に出て来た助祭枢機卿が、厳かにラテン語でグレギウスの――――教皇ヨハネ・パウロ3世の名を告げた。
この後は、新教皇が在位最初の祝福を与えに、バルコニーへ姿を現すのが慣わしだ。
しかし、例の男は既に、バルコニーのすぐ近くまで来ている。
「クリス!クリス!」
フローラは必死で叫んだが、周りの歓声に掻き消されてしまい、勿論彼には届かない。
(どうしよう、このままじゃ…………そうだわ、これを!)
急いでポケットから、クリスの大きな十字架を取り出すと、鎖をしっかり握りしめて、力任せに頭上でぶんぶん振り回し始める。
近くの人の波が、迷惑そうに文句を浴びせかけながらも、当てられないよう退いて行く。
「クリス!」
衛兵達が、彼女を止めに向かって来るが、観衆に阻まれて、なかなか前へは進めない。
(気付いて、お願い!)
ふと、クリスの視線が、フローラの振り回している十字架に止まった。
こんな時でなければ見惚れてしまいそうな、慈愛に満ちた微笑みと共に、微かに手を上げてみせる。
その後ろから、純白のローブを纏った初老の男性が、静かにバルコニーへと進み出た。
白いローブと金の十字架。身に着けているのはただそれだけ。なのに、まるで天から特別の祝福を与えられたかの様に光に満ちていて。
誰もが、一目で彼がヨハネ・パウロ3世だと確信した。
勿論、彼を殺しに来た男でさえも。
教皇が現れたその瞬間、男の眼に鋭い光が走った。
彼が、布で覆われた銃身を、懐から取り出すのが見える。
(だめだわ、間に合わない!)
フローラは意を決すると、男を指差しながら、力の限り大声で叫んだ。
「助けて!この男が銃を持っているわ!」
フローラの悲痛な叫びは、クリスには届かなかった。
だが代わりに、彼女の声を耳にした周囲の者達が男の銃に気付き、辺りは瞬時に騒然となる。
フローラに向かっていた衛兵が、今度は彼の方へと急いで向きを変え、逃げ惑う衆人をかき分けながら突進した。
男が短く舌打ちをすると、素早くバルコニーへと銃口を向ける。
鋭い銃声が、広場の喧騒を貫いた。
一発、二発、三発、四発…………。
広場のあちこちで悲鳴が沸き起こった。
頭を抱えて、その場にうずくまる者。我先にと逃げ惑う者。神へ救いを求める者。
様々な人間模様をよそに、五発目の銃声が轟いた後。
人々がバルコニーを見上げると、ヨハネ・パウロ3世の姿は既に無かった。
その場に立ち尽くしていたフローラも、教皇達の様子を危惧して、思わずバルコニーへと視線を戻す。
(無事だったのかしら……?!)
その一瞬が仇となった。
逃げるのが遅れたフローラの視界に、不意にこちらに振り返る男の姿が浮かび上がる。
激しい憎悪に満ちた瞳と銃口が、真直ぐ彼女に向けられている。
(え……?!)
そして六発目の銃声が、広場に響き渡った。
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サン・ピエトロ広場の群衆をバルコニーから見下ろしながら、クリスは自然にフローラの姿を探していた。
彼の十字架を振り回しながら、こちらに向かって必死に何かを叫んでいる彼女の姿を見つけた時、(恥ずかしがり屋の彼女にしては、随分大胆な気の惹き方だな)とは思ったものの、笑顔で手を振り応えてみせた。
いまだに十字架を振り回している彼女の行動を不審に思いつつも、今日の出来事を振り返る。
コンクラーベの間、気晴らしも兼ねた恋人ごっこの相手を探していた時。教会の炊き出しを手伝っている彼女に、ふと目が止まった。
どこかで会った様な気がして声を掛けたのだが、まさかテレビで見ただけの、しかも話題のメイ・クイーンだったとは、夢にも思わなかった。
精霊達が見えるという、不思議な少女。
からかうと直ぐに真赤になるから、つい面白くて色々遊んでしまったのを、ほんの少しだけ反省している。
彼女が言った通り、新教皇に選ばれたのはグレギウスだった。
バチカンでは予想通りの結果だったとはいえ、内部の事情を知らない筈の彼女の予言に、正直驚いた。
精霊達がそれを教えてくれたのだという。
『あなたには今は見えていなくても、彼らはいつもあなたの周りにいて、祝福してくれているのよ』
彼女の言葉を反芻してみる。
例の事件以来、精霊の姿は見えなくなった。
それは恐らく、両親の命を救ってはくれなかった神に、本気で祈る事を止めたから。
聖別を受けてさえも、神を拒絶する自分は、そういう世界とは縁が切れたのだと思っていたが――――。
『きっといつかまた、気付いてくれると信じているわ』
ペリドットの澄んだ瞳が、何故だか忘れられない。
思わず無理矢理、また会う口実を作ってしまった。
だが、いつかまた、彼女のいる世界へ戻る事など有り得ない。
(コンクラーベが終わったら、カメルレンゴの役も降りて、バチカンから離れようとさえしているのに)
自嘲気味にそう考えた時、異変は起こった。
フローラの周囲の人垣が、一斉に離れ出したのだ。
銃声と共に、兆弾がバルコニーに煙を上げた。
「危ない!」
二発目の銃声が聞こえるか否かの瞬間に、クリスは弾かれた様に教皇を庇い、後方へ押し倒した。
倒れた後は、広場からの弾丸が届く角度ではもう無かった。だが彼はバルコニーへ這って戻ると、耳を傾け銃声のする方向を探り出そうとする。
五発目の銃声が止んだその時。クリスはバルコニーの隙間から、銃を構えた男を見付けた。
やはり、先程フローラが居た辺りだ。
(まさか、彼女はこの事を知らせようとしていたのか?!彼女は無事だっただろうか)
胸騒ぎがした刹那。男が振り向きざまに、後ろの女性に銃を構え直したのが見えた。
心臓がどくん、と不吉な音を立てて静止する。
(フローラ!)
近くに迫った衛兵が、何かを叫んで止めようとしている。だが――――。
(だめだ、間に合わない!神よ……!)
思わず、全身全霊で救いを求めた、その時。
何かが、彼の行動を促した。
他の誰にも聞こえてはいない、彼だけに語りかける、懐かしささえ感じる、何かが。
そして、次の瞬間。
その『声』に導かれるかのように。
クリスは遥か眼下の地上へと、緋色のローブを翻して、バルコニーから飛び降りていた。
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翌日の昼下がり。
バチカンにほど近いカフェの一隅で、人目を避けるかの様に、サングラスに帽子を被ったままのカップルが、新聞をテーブル一杯に広げていた。
スタンドで買った今朝の新聞には、どれも大きな見出しと、彼らの顔写真が載っている。
『聖女の神罰』『サン・ピエトロの奇跡』『その時、枢機卿が舞い降りた』等等。
どれも皆、フローラとクリスの記事だ。
タブロイドの一面を飾っているとある写真を指差して、クリスが楽しげに笑った。
「ブラボー!」
写真は、フローラがサン・ピエトロ広場で銃を向けられた時の物だ。
彼女が思わず目を瞑って投げてしまったクリスの十字架が、銃を構えた男の顔面中央に思いきり命中した決定的瞬間を、見事に捉えている。
フローラが真赤になって言い訳した。
「もう、からかわないで!あの時は必死だったんだから!怖くて頭が真っ白になってしまって…………気が付いたら手が勝手に動いていたの」
だが、直ぐに神妙な顔になると、「でもあの、クリスの大切な十字架を投げてしまったのは、本当にごめんなさい……」と素直に謝った。
「いや、僕の十字架が役に立ったのなら、逆に光栄だよ。メイ・クイーンの君が投げた十字架が犯人に当たったのなら、それはもう『神罰』だしね。僕の十字架も聖遺物になるかも知れない。となると、前回国王に『神罰』を与えた君の拳は、さしずめ聖……」
「もう、調子に乗らないで!」
相変わらず直ぐに熟れたトマトの様になるフローラの反応を、悪趣味にも楽しみながら、クリスは昨日の『声』の事を考えていた。
フローラがほてった頬に手を当てながら言う。
「でも、その後銃弾を切らせた犯人が、ナイフを出して襲って来た時には、殺されると本気で思ったわ。あなたがバルコニーから彼の上に飛び降りていなかったら、本当にそうなっていたかも知れない……」
彼女の視線が、もう一つのタブロイド紙の写真に止まった。
そこには、緋色の枢機卿服をたなびかせ、天から降臨するかの如くに宙に舞う、クリスの姿が写っている。
『サン・ピエトロの奇跡』
巷間でいつの間にかそう呼ばれるようになった、お馴染みのシーンだ。
あの時。クリスは犯人の遥か頭上のバルコニーから飛び降りて、ピンポイントで彼に着陸していただけでは無く、かすり傷一つすら負わなかった。
『まるで枢機卿に翼が生えているかの様だった』
当時の姿を目の当たりにした信者達は、口々にそう表現している。
クリス自身、自分がどうやってそんな距離を跳べたのか、説明出来る自信は無い。
「それにしても、無茶のしすぎだわ!あんな高い所から飛び降りるだなんて。無事だったのはそれこそ奇跡だもの」
「声がね、聞こえたんだ」
「声?」
「そう。だから大丈夫だと思った」
「…………?」
狐につままれた様な顔をしているフローラに軽くウインクして見せると、テーブルの上に載っていた彼女の手をそっと握る。
「も、もう恋人の振りはしなくていいんでしょう?!」
「しっ、静かに」
彼女が再び赤面して固まっていると、二人の横を、ローブと十字架を身に纏った聖職者達が、数人通り過ぎた。
どうやら、人を探している様子だ。
彼らが行ってしまうと、クリスが渋い顔をしながら小声で呟く。
「……バチカンが今、僕のことを今度こそ生きたまま列聖させようと、躍起になっているんだ」
「どうして、急に?」
「逮捕された犯人が、このところ立て続けに起こっていた、教皇とカメルレンゴ暗殺計画の黒幕は、ドミンゴ首席枢機卿だったと証言したからさ。聖人誕生の祝賀ムードで、醜聞を少しでも目立たなくしようっていう魂胆らしい」
犯人が殺したのは、それだけでは無い。クリスの両親の命を奪ったのも、同じ男だった事が判明した。彼が殺し損ねたクリスとグレギウスに執着しているのを、ドミンゴが上手く利用したらしい。
両親を殺した犯人の逮捕を知った時、彼の中で何かが一つ、終止符を打った。彼の心に、長い間付けられた枷の様な、何かが。
しばし想いを馳せらせていたクリスの、沈黙の意味を勘違いしたフローラが尋ねる。
「もしかして……クリスは聖人になるのが嫌なの?」
「え、ああ、それは勿論さ!今以上に窮屈な生活をするなんて、僕には耐えられないね。第一、聖人なんて、皆ろくな死に方をしていないじゃないか」
(カメルレンゴの役を誰かに引き継いだら、やっと自由になれるかと思っていたのに)
フローラが呆れ顔で彼を見ている。
「ああ、君なら聖人になるのも嫌ではないのかもね。君は敬虔なカトリックだし、精霊も見えるし、僕より余程聖人――いや、聖女か――にふさわしいと思うんだけれど……」
言いかけていた言葉を途中で止めると、ふいにクリスが、悪魔的な微笑みを浮かべてフローラを見つめた。
「ねえ、君がもし僕と一緒に列聖されてくれるのなら、聖人になってもいいよ」
「なっ、何で私まで一緒に?!第一、カトリックでは女性は司祭にすらなれないのに」
「だって、こんな縁起の悪い物に独りでなるなんて、嫌じゃないか」
端正な顔で爽やかに笑いかける彼だが、言っている内容自体は間違いなく黒い。
「ク……クリストフ!」
思わず上げてしまった抗議の叫び声が、静かなカフェに響き渡った。
「いました、あそこです!」
先程やり過ごしたバチカンの聖職者達が、クリスの名前に反応し、戻って来る。
「おや、君のせいで見つかっちゃったみたいだね。どうやって責任をとって貰おうかな」
「――――!」
窒息寸前の赤い金魚みたいに、言葉も無く口をパクつかせているフローラの様子を見ながら、思わず吹き出したクリスの表情が、ふいに優しい光を帯びた。
「おいで」
握ったままの彼女の手を引いて、表通りへと走り出す。
一緒に走りながらも抗議を続ける、フローラの耳をかすめる様にして、精霊達が楽しそうに笑いながら、祝福の言葉を投げかけた。
その祝福は、二人の列聖への物なのか、それとも……?
この後の二人の運命は、ただ神のみぞ知る。