どうぞ、おかけください。
とても寒い週末だった。
空はグレイで、絵の具の筆を洗ったあとの水入れを思わせた。
茶色くなった落ち葉が木の下に肩を寄せ合って、
「春なんて永遠に来ないよ」
「この先はずっと枯れた世界だ」
と、カサコソと内緒話をしていた。
小山愛理は手に持ったメモとあたりを見比べながら歩く。
手書きの地図は大雑把だった。
それでも駅からここまで
なんとか迷わずに来ることができた。
教会の角を曲がって、坂道を登ったところに
赤い丸印がついている。
丸印の中にはPSDという文字が書かれている。
ここが目的地。
愛理は深呼吸して、坂道に踏み出す。
冷たい空気が肺の中いっぱいになだれこんできた。
冬の空気はアイスクリームの匂いがする。
ずっと昔にたべた、カップのバニラアイスの匂い。
そんなことを思いながら坂を上がると、
空に負けないくらいの灰色をした建物が見えてきた。
愛理は一度足をとめて、四角い建物を観察する。
どきどきと心臓が少し早いのは、道のりのせいだけではない。
外観は倉庫のようなつくりなのに、
ドアをあけてみると中は意外と暖かだった。
呼び鈴が見当たらないので、愛理は
「ごめんください」
と声をかけてみた。
コンクリートの打ちっぱなしの壁と
エントランスフロア。
それでもなんとなくぬくもりがあるのは何故だろう。
ふと、奥の壁沿いに木製の小さなテーブルが
置いてあるのに気がついた。
ああ、この木のオーラか。
愛理はもう一度大きな声で、
「ごめんください」
と言った。
曇りガラスのはまった扉の向こうに、
モザイクのような人影がゆらりと見えた。
愛理はマフラーをといて、鞄と一緒に手に持った。
いまさらながら、本当にここにきてよかったものか、
まだ迷っている。
指先は緊張のせいで冷たくなっている。
小山愛理は中学生。
新学期が始まれば二年生になる。
学校にはほとんど行っていないけれど、
義務教育では退学になることもなく、
中学生というカテゴリーの枠におさまっている。
愛理が、ここ、椅子工房・PSDにきたのも、
学校に行けないのも、
「椅子恐怖症」と診断されたからだ。
もちろん、椅子がおばけに見えるとか、
座ると何か汚いものに感染するかもしれないといった
妄想癖があるということではない。
ただ、座れないのだ。
ドアが開いて顔を出したのは、三十歳くらいの男性だった。
あごのあたりに薄いひげが、はえている。
ファッションというよりは、
めんどうくさくて剃らなかったという感じ。
黒いセーターに黒い細身のジーンズ。
カーキの作業用エプロンをかけている。
愛理が会釈をすると、
「ああ、あんたが小山さん?」
愛理のことを頭からつま先までみて、
「入って」
と言った。
愛理は
「おじゃまします」
といって彼について中に入った。
木の香りがふわりと漂う。
すこしばかり塗料のにおいもまじっている。
まっすぐな廊下にはドアがいくつかあった。
男性はドアを指差しながら、
「そこは椅子を作ったり直したりする作業場。
トイレはあっち。こっちが休憩室。
もうひとつは作品を展示している部屋だ」
と説明した。
ここはあくまで職場で、住居は裏手にあるという。
「でも、ほとんどの時間こっちにいるけれどね」
男性はぽりぽりと頭を掻いた。
「PSDってどういう意味ですか?」
愛理が問うと、
「プリーズ・シット・ダウンの頭文字。どうぞ座ってください、って意味だな」
そのくらいの英語なら訳してくれなくてもわかる。
愛理にとってみれば、椅子なんて、
「SHIT!DOWN(くそったれ。くたばっちまえ)」
のほうがお似合いだと皮肉な笑いがこみあげてきた。
けれども顔には出さずに、
「へえ、そういう意味だったんですか」
と相槌をうちながら休憩室のドアをくぐった。
「小山さんのことは、クリニックの斎藤先生から少しばかり聞いたけれど、
なんでまた椅子が嫌いなの?」
男性はコーヒーメーカーの前に立って、背を向けたまま尋ねる。
愛理はソファの横に突っ立ったまま、
男性の動作を目で追っていた。
彼は湯気のたったカップをふたつテーブルに置いた。
「どうぞ」
彼はコーヒーとソファの両方をすすめてくれた。
愛理はソファをじっと見た。
ソファ。
椅子。
座りもせずにじっと見つめている愛理の姿は、
横たわった虎が生きているのか死んでいるのかを
確かめるハンターのようだ
やがて息を深く吐き、そしておそるおそる腰をおろした。
ふたり、もしくは三人がけの椅子ならば、まだ大丈夫。
それでもなかなか、腰をふかくおろしてゆったりと
背もたれに体重を預けるなんてできない。
お尻が落ち着かないまま、愛理は
「いただきます」
といって、コーヒーを口に含んだ。
暖かい濃い香りの液体が、緊張で凍えていた内側をすっと溶かしていった。
「自己紹介が遅れたけれど、ぼくは、野田。
ここで椅子を専門に作っている。
もちろんほかの家具も場合によっては作るけれど。
きみと逆でぼくは椅子が大好きでね。
魅了されているといってもいい。
なかなか好きな仕事だけで食べていくのは大変なのだけれどね。
夢はどんな人間でも心地よく座れる椅子をデザインして作ることだ。
ちなみに君の通うメンタルクリニックの斎藤先生は、高校時代の同級生」
野田は笑うと白い歯がきれいだ。
愛想はいいほうではないようだけれど、
コーヒーの飲み方はいい感じ。
カップを持つ手が自然でステキだと思う。
「小山愛理です。
あたし・・別に椅子が嫌いなわけではないんです。ただ・・」
「ただ?」
「座れないんです」
「それは椅子が嫌いだからじゃないの?」
愛理は黙ったままかぶりをふった。
「だって椅子は座るためのものだよ」
愛理は、うつむいたまま、ぽつりと言った。
「椅子があたしを嫌っているんです」
野田の眉間に皺がよる。
「椅子ときみとの間に何があったの?」
(・・・椅子とあなたとの間に、何があったのですか・・・・)
同じ質問を、斎藤先生にもされた。
頭の中に病院でのやりとりがフラッシュバックする。
小山愛理が斎藤クリニックを訪れたのは中学一年になる春のことだった。
親に付き添われて、診察室に入った。
斎藤先生はがっしりとした体格の男性だった。
医者と言うよりは体育の教師のようなイメージ。
先生は母親に待合室で待つように促した。
愛理は大きなテーブルの前に立っていた。
先生はパソコンのカーソルに手を添えたままこちらを見ていた。
テーブルの側にはゆったりとした形の椅子が置かれている。
突っ立ったままの患者をみて、先生は不思議そうに、
それでもにっこりと笑って、
「どうぞ、座って」
と言った。
「この椅子はちょっと・・」
愛理は診察室の中を見回して、
補助用に置いてあった丸いスツールを指差した。
「アレを借りてもいいですか」
背もたれの無い丸い椅子を移動させ、
はじっこのほうにお尻をちょっとだけつけた。
ほとんど体重を足で踏ん張るように座る姿をみて、
先生は変わらぬ笑顔でパソコンになにかを入力した。
このときのことを後に斎藤先生は、
「ああ、メンタルクリニック慣れしている子どもだなと思ったよ。
初めてのひとは大人でも子どもでもまず、
自分の意見をあんなふうには伝えないものだ」
と笑った。
患者は初対面の医者になかなか弱点をさらけださない。
だから医者はそれを探るのにどんなに時間を費やすものだか、と。
確かに小山愛理は斎藤で四人目のセラピストとの対面だった。
はじめては小学校の二年生。
通っていた小学校担当のカウンセラーだった。
まだまだ自分の内側をきちんと伝えるボキャブラリーを携えていない頃。
娘が学校へ行くことを渋りだしたことに困惑していた母親に
担任が持ちかけた提案だった。
愛理は保健室で絵を描いたり、色を塗ったりして過ごした。
それが何のためになるのかなんて何も考えていなかった。
それから暗い大きな大学病院に通った。
かび臭い部屋で箱庭を作らされた。
大学の先生は、
「好きに遊んでいいよ」
といったけれど、
箱庭が遊ぶものではなくて愛理自身を「分析」「実験」するものだと
どこかで感じていた
。いつかテレビでみた、ハツカネズミを思い出した。
白い迷路の中に入れられて、チーズまで何分で行き着けるのか、
研究員がストップウォッチを構えている。
自分はネズミなのだろうか。
どうすれば正解が出せるのか考えながら
小屋や木や、動物、人形を、砂の上に設置していく。
分析の結果を聞かされたことがないから
、一体それが何点だったのか、正しい答えだったのか結局わからなかった。
いまとなっては、あれは正解があるわけでもなければ、
点数ではかるものでもなくて、
そこに表現される心理状態を先生がカルテに書き込んで
治療の参考としていたのだとわかったけれど。
果たして自分がチーズにたどりついているのかさえわからぬままに、
いつも病院をあとにした。
斎藤先生は今まで出会った医者の中でとびぬけてユニークな人柄だった。
落ち着いたどこにでもいそうなお医者様だったけれど、患者をいろんな方面から見てくれる。
それが、愛理には心地よくて、なんだか一緒にパズルを解いているみたいな感覚だった。
斎藤先生はロールシャッハやTATは使用しなかった。
「もう、やりあきているだろう?」
と、ウィンクした。
ちょっとした連想ゲームをやってみたり、
じゃんけんで買ったほうがお題をだして、
負けたほうがそれに沿った作り話をしてみたりした。
愛理だけを被験者にするのではなくて、
先生自身もネズミになってくれているみたいだった。
やり方はとっぴだったかもしれないけれど、
学校へ行かないことの理由を一生懸命探求しようという気持ちが伝わった。
斎藤先生は味方だ。
今までの医者が、家庭環境、とくに片親しかいないことに注
目していたのに対して、先生はそこに固執することはなかった。
あれは何度目のカウンセリングの場だったろう。
連想ゲームをしていたときに、
「椅子じゃないか?」
と、先生がぽつりと言った。
「何か、椅子に強いこだわりがある?」
先生の押えたポイントは、確実に愛理のトラウマをとらえていた。
今まで誰もが素通りしてきた答え。
確かに椅子が苦手だということを、関わってきたカウンセラーも、
頑固な患者の特異な一面としてとらえてはいたが、
登校拒否の原因をそんな単純なキーワードと結びつけはしなかった。
それよりも、威圧的な父親や、気弱な母親、
そしてその離婚にスポットをあてていたように思う。
それも間違いではなかっただだろうけれど。
斎藤先生の目はグローバルでいてなおかつピンポイントだったということだ。
「斎藤は確かに突拍子もないヤツだったよ、昔から」
野田は目を細めて、学生時代を懐古しているようだ。
口元に笑いをためて、
「ああ、でも患者さんに担当医のとんでもない話を聞かせたら、
信頼がなくなっちゃうなあ」
と、口惜しそうだ。
愛理は、ふふふ、と笑った。
きっと色んなエピソードがあるのだろう。
「で、椅子恐怖症のあなたをぼくのところによこしたのは、
ショック療法ってところなのかな」
「さあ、どうでしょう。
椅子というカテゴリーの中であたしと野田さんが両極端な位置にいるから、
会ってみると面白いぞって言われました。
野田さんは椅子を愛している。あたしは椅子を嫌悪している。
でも結局はどちらも椅子に深く関わっている人間だって、
斎藤先生が。
なんだか難しい医学用語をおっしゃっていたけれど、
忘れちゃいました。
絶対に行けともおっしゃいませんでしたし、ここへはあたしの意思で来ました」
野田はぷっと吹き出した。
「いっぱしの医者だな、あいつも。
哲学者みたいな口をきいて」
修学旅行で女子風呂覗いて、正座させられたやつがなあ、
とつけたした。
ここで話をしていても何だから、
と野田は愛理を展示室へ案内した。
「展示といっても、ショールームみたいにキレイなところを
想像しないでくれよ。
作った椅子を片端から無造作に並べているだけだから」
野田はそう前置きして、ドアをあけた。
なるほど、照明があたっているわけでもなく、
普通の部屋に、オブジェのように椅子が置いてある。
ディーラーが買い付けに来る時に見やすいように、
一室にかためてあるだけなのだ、という。
「野田の椅子はマニアには人気で、ファンも多い」
と斎藤先生は言った。
なるほど。部屋にはいろんな椅子が並んでいた。
ダイニングテーブルに合うような椅子。
ゆっくり腰掛けてテレビを見るのによさそうな椅子。
男女ですわるとロマンスが生まれそうな椅子。
子ども用の動物のかたちの椅子。
たくさんの椅子。
かたちは違うけれども、どの椅子にも野田のテイストが入っている。
どこが?と尋ねられても初心者の自分にはわからないけれど、
椅子の一脚一脚に、野田の一部を削り取って埋め込んであるみたい。
ああ、オーラが同じなのだ。
そういえば同じ感じが玄関のテーブルからも漂っていた。
きっとあれも野田の作品にちがいない。
そう愛理は思った。
「どう?」
「いい椅子だと思います。オーラが優しい」
「座ってみてもいいよ」
野田は軽い口調で言った。
愛理は一脚の椅子の背もたれに手をかけた。
どくん。
どくん、どくん、どくん。
心臓がだんだんと過呼吸のリズムを刻み始める。
愛理は手を離した。
「やっぱ、ダメ?」
心臓に手をあてて、呼吸を落ち着かせている愛理に野田はまた、軽く声をかけた。
「嫌われそうだから」
「誰に?」
「椅子に」
呼吸を整えてから愛理は、ただ椅子の間をぐるぐると歩き回った。
木立の下を散歩するように椅子の間をゆっくりと。
時々。背もたれや腰掛の部分に触れてみた。
眠っている子犬に触るように。
木のぬくもり。
ベルベットの手触り。
革の感触。
「普段はどうしているの?」
「普段?」
「椅子に座らない生活って、現代日本では、大変なんじゃないの?」
ああ、と愛理は笑った。
「うちには畳の部屋があるの。食事はお膳すわりでとっているし、
勉強も同じ。外食は立ち食い蕎麦・・・っていうのは冗談。
比較的、数人がけのソファ形式の椅子は大丈夫だから、
ファミレスとか。
歩いていて疲れたら?植え込みの縁とか、
噴水の枠とか座るところはいくらでもあるわよ。
コンビニの前の地面に座り込むのは、別の意味でイヤだわ」
「お行儀がいいね」
と野田は愛理の頭をなでた。
子どもじゃないよ、やめてよ、と愛理は笑う。
「電車も立って乗る。バスはあまり得意じゃない。
運転手さんがマイクで座ってくださいというから。
トイレ?いやあね、トイレは椅子じゃないから大丈夫だよ」
そんなふうに椅子の周りをゆっくりまわりながら、
野田と会話をする。
そのうち話が核心に迫ってくる。
「さっきの質問の答えね」
「え?」
「椅子とあたしの間にあったこと」
椅子と、愛理。
愛理と、椅子。
奇妙な因縁。
不愉快な記憶の中には必ず椅子がキーワードとして出てくる。
それに気付いたのは、斎藤先生のカウンセリングのたまものだ。
クリニックで語った幼い頃の記憶を振り返る
あれは幼稚園に入る前の年だっただろうか。
食卓につく。愛理はまだ大人の椅子では頭ひとつ出るのがやっとで、
脚の長いベビーチェアを使っていた。
近所のひとから、おさがりとしてもらったもので、
背もたれのところには、
ずいぶん古いドラえもんのシールが半分ちぎれたように貼ってあり、
腰の部分にはずり落ち防止のベルトがついていた。
そのベルトが青かったから、たぶん男の子のお下がりだったのだろう。
愛理は背中のシールがドラえもんじゃなくてくまのプーさんだったら良かったのに、
といつも思っていた。
テーブルの上にはシチューが入った、割れない材質のお碗が乗っていた。
ウサコちゃんの絵のついたスプーンでシチューをかきまわす。
ジャガイモをすくいたいのに、なかなかうまくスプーンに乗っかってくれない。
夢中だったから、お父さんとお母さんがなにを話しているのかよくわからなかった。
まあ、年齢を考えれば、ちゃんと聞いていても半分も理解できなかっただろう。
ただ、いつものようにお父さんの声は大きく、お母さんの声はか細い声だった。
お父さんが何に腹を立てていたのかよくわからない。
いつも何かに怒っていた。
その日のお父さんは頂点に達したように顔を赤らめて、大声で叫んだ。
そして目の前にあったシチューを、手の甲で払いのけた。
シチューの皿は、愛理のシチューボールも一緒に払い飛ばした。
お父さんのお皿は陶器だったから、床の上で音をたてて割れた。
愛理は右手に行き場のなくなったスプーンをもったまま、
床の上にどろりと流れるシチューと、肩で息をしているお父さんを交互にみた。
お父さんの目は血の色で、絵本でみた鬼ケ島の赤鬼みたいだった。
お父さんはよくわからない言葉をぶつぶつと吐いて、いきなり、
「お前はここに座る資格なんかない!」
と、言って、愛理を椅子ごと突き倒した。
愛理はスプーンを握ったまま、椅子と一緒に倒れた。
しっかりとベルトを締めていた。それがあだになった。
愛理の体は放りだされる事なく、椅子とともに倒れていった。
お父さんが割った食器の上に向かって。
頭に切傷を負って、何針か縫った。
今でも髪の毛の隙間に指先を入れるとすこし盛り上がったような跡が残っている。
どれだけ血が流れて、どれだけ泣いて、どうやって病院に連れて行かれたのか。
今となっては白くもやもやしていて覚えていない。
ただ、頭に包帯を巻いた愛理に、
お母さんが説明してくれた細々とした声を覚えている。
「お父さんはヒガイモウソウにとりつかれていて、
おまえのことを自分の子どもではないと思い込んでしまっているの。
全部、ヒガイモウソウなのよ」
そんなことを言われても、当時、理解できたのは、
ヒガイモウソウという妖怪がいることと、
自分があの背の高い椅子に座ってはいけなかったのだということだけだった。
きっとお父さんにとりついたヒガイモウソウっていう妖怪は
あの椅子に座りたかったんだ。
あのドラえもんのシールを貼ったのもヒガイモウソウかもしれない。
そういう思いつきを、眠る前に話すと、
お母さんは、馬鹿な子だねと愛理を抱きしめて泣いた。
そして、お父さんはもういないから、安心していいよ、とも言った。
お父さんはヒガイモウソウに連れて行かれてしまった。
妖怪の国に。
数年後、愛理は小学校にあがった。新しいランドセルと、上靴。
コンクリートの大きな校舎。教室に整然と並べられた机と椅子。
学校は楽しかった。
先生はときどき授業の合間に面白い事をいって、
みんなを笑わせてくれたし、クラスの中ではケンタくんがモノマネ上手で、
みんなに一目おかれていた。
とくに流行のお笑いのマネは隣のクラスからも見に来るくらい上手かった。
髪の毛が長くていつもきれいに編みこみをしてくるマユミちゃんは
みんなの憧れだった。
おとなしくて壊れそうなビスクドールみたいな子だった。
愛理は入学の直前に、肩のところでばっさりと髪の毛を切りそろえられた。
黄色い帽子をかぶると、
交通安全の標語の下に描いてあるイラストみたいに模範的な小学生にそっくり。
愛理は毎日寝る前に、ぎゅっと髪の毛をひっぱってみたりしたけれど、
もちろん伸びるはずもなく、
痛みとともに指の間に何本か髪の毛がからまってくるだけだった。
夏休みが始まる前。
愛理は登校して授業が始まるまでの間、
席に座って本を読んでいた。きのう図書室で借りたもので、
妖精が出てくる物語だった。
夢中で読みふけっていると、頭の上から声がした。
「どけよ、そこ、お前の座るところじゃないぞ」
はっとして見上げると、ケンタくんが腰に手をあてて怖い顔をして睨んでいる。
ケンタくんの後ろにはマユミちゃんが、半べそをかいて、同じように睨んでいた。
どうしたのだろう。
「何度も、どいてって言ったのに。わたしの席なのに」
マユミちゃんは唇をかんで、さらに愛理を睨んだ。
しまった。そうだった。
昨日の帰りの会で席替えをしたのだった。
ここは自分の席ではない。
無視したつもりもない。
マユミちゃんの声は本に夢中になっていて気がつかなかった。
愛理は慌てて立ち上がった。
その拍子に、椅子がガタンと横倒しになった。
椅子が横たわったまま、
「ほらみろ、おまえの座る椅子はオレじゃなかったんだよ。このうっかりもの」
と言った気がした。
それ以来、月曜日の朝、夏休み明けの始業式、風邪で休んでしまった翌日。
愛理は学校へ行く足取りが重くなる。
心臓がどきどきと尋常ではない音をたてる。
「あたしの座る椅子は教室にあるのだろうか」
また間違った椅子に座って、
「お前の座る場所はないよ」
と冷たくいわれるかもしれない。
クラスメイトから、先生から、椅子から。
愛理の登校拒否はこうしてはじまったのだ。
「それで、今に至る」
愛理は足をとめた。
まわりの椅子たちはもちろん、野田も動きを止めた。
しばらく空気がシーンと静まり返った。
「想い出を掘り起こしただけだから
、実は覚えていないだけで、もっと深いかかわりがあるのかもしれないけれど、
とにかくあたしは椅子に選ばれない人間なの」
野田はふっとため息をついた。
「椅子は人間を選んだりしないよ。
少なくともぼくはそう思っている。
いつだって椅子は誰かに座って欲しいと思っているよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ。嫌な人間に座ってほしいなんて思っていないわよ」
「そんなことはない。善人悪人、老若男女問わず、
椅子は座ってくれることをありがたいと思っているよ」
「殺人鬼でも?」
「うん」
「じゃあ、ズボンのお尻が泥だらけのヒトでも?」
「えっ?う、う~ん。うん」
ふふふ、と愛理が笑ったので野田もテンションを緩めて少し笑った。
「野田さんは自分の作った椅子の気持ちがわかるのね。
あたし、野田さんの作った椅子なら座れるかもしれない。
・・・いつかだけれど、ね」
じゃあ、と野田は指を一本立てて提案した。
「ぼくがきみの座る全ての椅子を作るというのはどうだろう。
学校の椅子、家の椅子、ポータブルの椅子。
町中の喫茶店の椅子を作るのはぼくがもっと出世してからになるけれど」
「野田さんって面白い。
斎藤先生がここに来る事を提案したわけがわかった。
気分が晴れた。でもあたし、お金ないよ。
お小遣いもあんまりもらっていないし、
野田さんのオーダーメイド、高そうだなあ」
野田は工房のほうを指差して
「あっちに残った材料があるから、それで作るよ。
まずは学校の椅子からだな。
いま、暇な時期だし。春休みの間に作って新学期に間に合わせる。
ダメでもともと。それで学校に行ければラッキーじゃないか」
愛理はありがとう、とお礼を言った。
それからもうひとまわり椅子たちを眺めてみた。
無関心だった椅子が自分をちょっと横目でみたような気がした。
「いつでも来るといいよ。また違う椅子が生まれているはずだから」
別れる時に、野田はごつごつした手で握手してくれた。
「ありがとう。
あたしが座っていてもいい場所を、絶対に作ってね」
そう心でつぶやきながら愛理は大きく手を振って、工房を後にした。
早春。
木々の枝先にちいさい芽が顔をのぞかせている。
「ここに来るなんて珍しいな」
野田はドアをあけて、斎藤を招き入れた。
「何年ぶりかな」
斎藤はゆっくりと工房の中を見渡した。木の香りが懐かしいな、とつぶやいた。
「この頃、調子はどうだ」
斎藤は医者の口調で、野田に尋ねた。
「ああ、大丈夫。あの時は世話になったなあ。
患者としてお前を頼ることになるなんて」
いや、と斎藤は苦笑した。
「あの時、思うように椅子が作れないって野田は悩んでいたけれど、
俺は俺で、患者ひとりひとりを救えないストレスでいっぱいだったんだよ」
「そうだったのか?じゃあ、かえってぼくのことが負担だったな」
違う、違う、と斎藤は大きく手を顔の前で振った。
「俺のほうもお前に助けられたよ。俺は言ったよな。
万人を心地よく座らせる椅子を作る事が目的なら、
俺を心地よく座らせる椅子を作ってみろよって。
同じように自分にも目の前の人間をまず救っていけばいいって気がついたんだよ」
その言葉で、ぼろぼろだった野田は、
やせこけた腕で、夢中で革張りの椅子を作った。
キャスターのついた斎藤のための椅子。
枯れ枝のような体なのに目はぎらぎらと、意欲に燃えていた。
出来上がった椅子を今でも斎藤は使い続けている。
「最高の椅子だ。俺のストレスを全部吸い取ってくれた魔法の椅子だよ」
「それで、今になって種明かしにきたってわけか?何年も前のことを?」
野田がいぶかしげに尋ねると、
いや、と斎藤はつぶやいて、
工房の隅にある作りかけの椅子に目をやった。
「ああ、それ、斎藤が紹介してくれた小山さんの・・」
「そのことだけれど」
斎藤は低く落ち着いた声で野田を制した。
「材料を持ってきた。私の言うとおりの椅子を作って欲しい」
「どういうことだ?」
野田は眉間に皺を寄せた。
窓の外で芽をつついていた小鳥が、音をたてて飛び立った。
結局、野田が椅子を仕上げたのは五月の半ばだった。
新学期に間に合わせる必要はないと、先日の来訪で斎藤は言った。
そのかわり学校の椅子ではなく、
ゆったりと座れる背もたれのついた軽い椅子を作ってくれと頼んでいった。
野田は図面をみながら心をこめて椅子を作った。
いつも以上に、椅子の中に自分の魂をたくさん詰めた。
仕上げは別の工房で行うということだったので、
野田は本当の完成品をまだ見ていなかった。
梅雨の季節になったころ、斎藤から電話があった。
椅子は見に行ったかと尋ねられたが、
「まだ、忙しくて・・」
と言葉を濁した。
斎藤は、そうか、と沈黙した後、椅子のほうはお前を待っているぞと付け足した。
野田が自分の作品を見る決心がついたのは、蝉が鳴き始めるころだった。
「あたしはこの椅子が気に入っている。
これはあたしだけの椅子だ。
誰にも譲らなくていい。
ずっとずっと座っていてもいい椅子」
愛理は柔らかな背もたれに体重をかけて、
むせるような緑のにおいを、胸に吸い込んでみた。
空は青くて絵の具で描いたような雲が浮かんでいる。
後ろにいた看護士が、
「お知り合いの方かしら。小山さんのこと見ていらっしゃるわ」
と、教えてくれた。
病棟から続く石畳の道の方をみると、野田がいた。
愛理はにっこりと笑った。
野田はどういう表情をしていいのかわからない様子だ。
「すわり心地は最高よ」
「そうか」
「この椅子はあたしのことを選んでくれたみたい」
「そうか」
「そうか、しか言わないのね」
愛理は椅子についている車輪を、
自分の手で動かして野田の近くへ行った。
野田の目が愛理の足を見ている。
膝かけの下のふくらみで、片方が無いことがはっきりとわかったのだろう。
言葉を失っている。
「あっという間の事故だったよ。バイクがあたしの足を一本、持って行っちゃった」
野田はもう
「そうか」
とは言わなかった。
野田は片手に持った花束をだらりと下げて、
ただ愛理を見つめて立っていた。
野田はわかっていた。
斎藤から詳しい話も聞いていた。
事故の状況。切断しかないと告げられた時の母親の狂ったような叫び声。
手術が終わった後の、
足だけではなく言葉まで失ったかのような愛理の茫然自失の状態。
足のケアは外科医が治療を続け、
メンタルな部分は引き続き斎藤がケアしていくことになった。
しばらく幻肢に惑わされて、寝言のように、
「ひだりあしの、クツシタが、ぬげかけているの」
と独り言をつぶやいていたことも聞いた。
斎藤は往診というかたちで愛理の病室を訪れた。
愛理からの返答はないものの、
斎藤はぽつりぽつりとひとりで連想ゲームの要領で言葉を繰り返す。
十数分の来訪の間、愛理の瞳はただ天井をみつめているだけだった。
野田の作品の載った家具専門誌の切抜きを持っていったこともある。
「ほら、これ見てみろよ、野田らしい作品だと思わないか?
子ども用のテーブルと椅子。この椅子、面白いかたちをしているよ。
背もたれが無くて、たくさんの子どもがいっぺんに座れる。
幼稚園に設置するんだと。子どもが団子みたいに群がるだろうな」
ファイルにいれた、切抜きを愛理の目の前に差し出した。
天井への視線をさえぎるように。
ある日斎藤が愛理の枕もとに腰をおろしていると、
「せんせい、あたしは、野田さんのいすに、すわることができますか?」
と、かすれた声で訊いた。
そのときの目にはたしかに「生」の光があったと斎藤は言った。
「小山をこっちの世界に引き戻したのはお前の椅子だ」
そうなる確信があったからこそ、
斎藤は事故のすぐ後に、学校用ではなく車椅子の製作を野田へ依頼していた。
斎藤はいい医者だと、野田は思う。
自分を診てくれていた頃よりさらに、いい医者になった、と。
医者になりたての斎藤との「カウンセリング」というよりは、
学生時代の押し問答の続きのようなやりとり。
あのとき自分の精神を上向きにさせてくれたのはまぎれもなく斎藤だ。
けれども野田は、斎藤に話していないことがあった。
カウンセリングの中でも、友達としての会話の中でも
どうしても話題にできなかったことだ。
それを言い出せなかったことが野田の中で小さい棘となっている。
万人に座ってもらえる椅子を作りたい。
その動機となったともいえる思い出。
断片的にしか思い出せないし、
まるで古い無声映画を観るように幼い自分を俯瞰でみるような記憶だけれど。
あれは野田が小学生になりたての頃だった。
ランドセルを玄関に放り出して、台所に向かった。
「お母さん、おやつはなに?」
母親は台所の椅子に座って頭をかかえていた。
「おなかすいたよ。おやつ」
母親は立ち上がって野田の頭をなでると、
ごめんねと言った。
大きな鞄。玄関を出て行く後ろ姿。
「お母さん。どこに行くの?何時に帰るの?」
台所の椅子に頬をあててみた。
まだお母さんのぬくもりがあった。
「おやつなんかいらないから、
お母さんにずっとこの椅子に座っていて欲しかった」
台所のテーブルにガーベラが生けられた花瓶と、
ドーナツののった皿が置いてあった。
「野田さん」
愛理が声をかけると、
野田は我に帰ったように、花束を差し出した。
「お見舞い」
「ありがとう。あたしガーベラ大好き」
花束の香りと色合いをしばらく楽しんでから、膝の上に乗せた。
自分が生と死の間をゆらゆらしていたときのことは、
きっと斎藤先生から聞いているに違いない。
事故のあと、愛理は空白になった。
それまで居心地が悪いと思っていた世界に
さよならできるチャンスを
神様という名前の悪魔がくれたのか、
小さい世界でくるくると尻尾を追いかけ回している
頭の悪い犬のようなやつには裁きが必要だと、
悪魔のような神様が天罰を降したのか。
愛理はただ空虚だった。
自分が生きていたいのか死んでしまいたいのかすらも
考えられないくらいに真っ白な空間にぼんやり立っていた。
片足で。
外の世界からは何の音も聞こえてこなかった。
麻酔のせいなのか、痛み止めのせいなのかわからないけれど。
ずっとずっと立ち続けて、
疲れを感じた。
そのときに懐かしく頭の中によぎったのが、野田の椅子だった。
白い部屋を見回した。
何もない。
歩いて部屋を出ようにも、足がない。
ここを出たい。
自分が居てもいい世界をもっと広げてみたい。
部屋の外から声がした。
「座って欲しいよ」
それは、小さな椅子の声だった。
学校の教室の風景が、急に頭に浮かんだ。
ひとつひとつの机と椅子に子どもたちが座っている。
ぽつんと空いた、席。
「誰か座ってほしいよ」
空っぽの椅子が、悲しそうにつぶやいた。
この夢を何度か繰り返しみていたときに、
斎藤先生が野田の切抜きをもってきてくれたのだ。
雑誌に載っている椅子は、子どもたちをあたたかく包み込むように存在していた。
あるときの夢では小さな子どもに戻って、暖かい椅子に思い切り抱きしめられていた。
「ずっとずっと待っていたよ」
椅子は愛理の頭を撫でた。
あれっ?と思って見上げると、
頭を撫でていたのは野田だった。
「もう、子ども扱いして」
と、怒ろうとしたけれど、
夢の中の自分は子どもだったから
、安心してたくさんたくさん撫でてもらった。
もちろんこの夢は、誰にも話をしていない。
「椅子ってひとことでいっても、いろいろあるのね。
あたしベッドの中で考えていた。
スツールでしょ、ソファ。
車椅子もちゃんとした椅子だよね」
「もちろん」
「電気椅子」
「怖いこと、いうなあ。確かに椅子だ」
その椅子だけは作りたくないなあと、野田はあごを掻いた。
「斎藤先生がね、教えてくれたの。
野田さんはたくさんの人が喜んで座る椅子を作るのが夢で、
その夢をかなえるために挫折を経験したんだって。
でもそれは夢を持つ人なら必ず通る道で、
斎藤先生もたくさんの患者さんを救いたくて、
やっぱり壁に突き当たってしまったことがあるんですって。
そんなときは手をのばせば、絶対誰かがその手を掴んでくれるから大丈夫だって。
それってふたりのことだよね。
うらやましいなあっていったら、先生が、
小山さんもその輪に入っているんだよって言ってくれたの。
野田さん、あたしがこんなふうになって、
自分のことみたいに苦しんだよね。
ごめんね。
ありがとう。
それでね、お願いがあるの」
「なんだ?」
「あたしがもっともっと自由になれるように、
ううん、世界中の肢の不自由な人たちが安心して座れる椅子を作って。
あたしの居場所を世界中に広げて」
野田は泣いてはいなかったけれど、目があかくなっていた。
「野田さんの作る椅子、また見に行ってもいいかなあ」
もちろん、といって野田は愛理の頭を撫でた。
そのときはじめて一粒、涙が膝に落ちてきた。
「ぼくはこんなに自分の作った椅子を見にいくのが怖かったことはなかった。
椅子がきみを傷つけていたらどうしよう、と。
そういわれれば今まで自分の椅子がどんなふうに扱われているか、
わざわざ見に行ったことなんてなかったんだ」
世界中の人が座って心地のいい椅子を作りたいなんて
高慢なことを言っておいて・・と、搾り出すような声を出した。
「とても座り心地、いいわよ。誰にも譲りたくないくらいに」
愛理はひじかけをポンポンと叩いた。
「野田さん、椅子に会いにきたのね。今度はあたしに会いに来てよ」と笑った。
帰っていく野田の背中は来た時よりも少しだけ肩が軽そうにみえた。
野田はこれからもいい椅子を作るだろう。
斎藤先生はまた、とぼけた話で愛理や他の患者さんを助けてくれるだろう。
愛理はもう椅子を怖がることは無いだろう。
夏の日差しはもっと強くなるだろう。
人生はこれからまだまだ続く。
この車椅子と一緒に。
「病室に戻りましょうか」
離れたところで待っていた看護士が、愛理の肩に手をおいた。
愛理はガーベラの花束を覗き込んで、
「看護士さん、戻ったら、花瓶貸してくれるかな。
自分で水を入れて生けたいの」
と、言った。
青い空の向こうに希望と不安がキラリと光って、はじけた。