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ショートヘア

あの人のことは、もう終わりにしよう。




突然そう思いついたのは、土曜日の午後二時ごろ、窓から差し込む昼の陽気の中で、少し眠い目を擦りながら机に向かっていたときだった。

特に理由はない。ただ、ふとそう思いついたのだ。そう思いついた後、急に、肺静脈がはちきれそうな勢いで、心臓に、胸に、よくわからないものが流れ込んできた。真赤に少し黒が混ざって、炎がぐるぐると私の胸を流動していた。



こんなこと、初めてだ。



突然涙が溢れ出そうになったから必死でこらえて、でも次の瞬間には自然の森の中の芝生に少し足を取られながら、その中を走り回りたいような開放感に襲われた。どうすればいいのかわからなかった。自分を制御できそうになかった。


とりあえず、それから一時間、猛烈に勉強をした。頭から火が出そうなくらい。

頭の火が落ち着いてきたとき、髪を切りに行こうと思った。特に理由はない。ただふとそう思ったのだ。

決めたらすぐに、外に出られる格好に着替えて、お財布と英単語帳をかばんに入れて、イヤホンを耳に突っ込んで出かけた。三時を少し過ぎていた。




私のいまの髪型は、長さは肩にぎりぎりつかないくらいのショートボブで、前髪は長めで横に流していた。私が髪を切った後、同じクラスの子の数人が私のその髪型を真似たところをみると、その髪型の評判は良かったみたいだった。誰一人として褒めてなんてくれなかったけど。

女子高生は基本的に、本当にいいと思っているものを褒めたりしない。それがクラスメイトの髪型とか、彼氏とか、目の形とかだったらなおさらだ。

でもみんな性格が悪いわけではないのだ。だた、ほとんどの女子高生には、他人を褒めるような余裕がないのだ。女子高生は日々、それぞれが見えない何かと戦っているのだ。大人に相談しても、相手にされないような、ちょっと笑われてしまうような、小さな、でも手ごわい敵と戦っているのだ。


メールの絵文字の派手さがちょっと足りなかっただけで、友達とちょっとギクシャクしてしまうくらい、みんなちょっとだけ病んでいるのだ。その不安定さを補うために、どうでもいいと思うものには、「かわいい」を連呼したりする。




六月のまだ少し寒い札幌の郊外の空気はぼんやりねずみ色だった。全体的にパッとしない季節だった。

あともう一歩いけば札幌市から出てしまう私のおうちのまわりには、公園とか、ちょっとした森とか、自然がたくさんあった。しかし最近は大型ショッピングセンターやホームセンターが次々に建てられて、休日は家の前の道路がよく渋滞した。私も、公園の木も、そういう騒がしさにはなれていなかった。車から排出される悪いもので、木の葉までくすんだねずみ色みたいに見えた。


そんな中を美容室へと歩きながら、髪を切ると決めて、私は妙にすっきりした気分だった。イヤホンの音楽に合わせてスキップするところだった。


今日みたいな日に合わせたかのように、一年中、陰気な雰囲気の、私の卒業した中学校の前を通ると、すぐに明るいピンク色のショッピングセンターが見えた。駐車場は遠くからわざわざやってきた車で今日もいっぱいだった。中に入ると、たくさんの人がいる中で私は自分ひとりだけぴかぴか光る、光の輪かなにか特別なものに包まれているような心地がした。それはショッピングセンターの照明でぴかぴか光っている、しっかり磨かれた床の光みたいだった。私はショッピングセンターの中にある、いつもの美容室へ向かった。


 「本日はカットでよろしいでしょうか。」

 「はい。」

 「指名はありますか。」

 「ないです。」

 「シャンプーはおつけしますか。」

 「いらないです。」

 「十五分ほどお待ちいただきますが、よろしいでしょうか。」

 「はい。」


私はソファーに座り、単語帳をながめていた。5回目くらいのavoidの意味が全く頭に入ってこなかった。さっきまでのぴかぴかは完全にどこかに消えていた。いざ美容室に来ると、いつものように緊張してしまった。

まったく、いつになったら慣れるのだろうか。美容室の、この明るすぎる照明と、シャンプーとパーマ液が混ざった独特のにおいと、店員のはりつけたような笑顔と、訪れた人を多少の自意識過剰にさせるこの雰囲気に。



ところで、私にとって髪を切る、ということにはちょっとだけ特別な意味がある。

私は何かの、ちょっとした節目の度に髪を切ってきた。それは、もう覚えていないくらい小さな出来事であったり、死ぬまで忘れられないようなことであったりした。普通に生活していたら、日々、多かれ少なかれ、いいことも嫌なこともある。そのことあるごとに私は髪を切ってきた。だから、私の髪の毛は一向に伸びなかった。肩につくことはまずなかった。髪型はいつもさだまらなかった。


髪の毛を切るということは私の中のリセットボタンを押すことを意味する。鏡の中の、昨日までの自分とは違う自分を見ると、昨日までとは違う人になった気分になれた。また、新しい髪形の自分を見ることで、もう昨日までの自分とは違う、と自分自身に暗示をかけることができた。鏡を見るたびに。だから私はよく髪を切るのだ。髪の毛を切ることは私にとって、一種の自分を守るための防衛手段なのだ。



私の名前が呼ばれた。いつも髪を切ってくれる20代後半くらいの男の美容師が席の準備をしていた。準備が整ってからその美容師が「こちらの席へどうぞ。」と言って、くるっといすを回した。


彼は私がそのいすに座るのを待っていた。私は美容室のいすに座ることを苦手としている。一人のちゃんと税金を払っている大人が、いすの背もたれをおさえて、その人の一日にたった二十四時間しかない貴重な時間のうちの数秒を、私のためだけに、その回転するいすに込めて待っているのだ。その場面になると私はいつもどこかに隠れたくなった。どう振舞えばいいのか分らなかった。人にわからないように半分スキップしているような足取りでいすまでやっと到達して、体の、いつもはあまり使用されない筋肉に力を入れながら座った。このことも私が美容室を苦手とする一因だ。黙って「座ってください。」って、いすを投げ出されるほうがよっぽど気が楽なのだ。変なサービスはいらない。

 


「今日はどうしますか。」

彼が鏡の中で私の髪の毛をちょっと引っぱり、長さを確かめながら言った。

 「短くしてください。」

 「どれくらい。」

 「思いっきり。」

 「どれくらい。二センチくらい。」

 「いやもっと思いっきり。男の子みたいにしてください。」


彼はあまりに言葉の足りない客に、いつものことながら困っていた。私は鏡を通してその表情を見たが、とくに気にしないことにした。店の中は、あんまり知らない英語の音楽が流れていた。



私の座席の前にはティーン向けではなく20代向けの雑誌が数冊置かれていた。私の歳を知らない店員が置いたらしい。私は高校生だ。しかしいつももっと年上に見られる。中学1年生のとき、母と一緒に行ったスーパーの化粧品コーナーでお店のお姉さんに21歳と言われたことがある。見た目はすごく大人っぽいらしい。そのため、しゃべると、すごくびっくりした顔をされる。しゃべり方はすごく幼いのだ。実際の歳よりも。


見た目が大人びていると、困るというか、大変というか、支障が多少ある。私は同じ歳の子と比べて、とても社交的ではない。なにも知らない人に大人として接せられると、相手は私の対応に拍子抜けするらしい。人によってはあからさまに嫌な顔をしたりする。ある種の大人の対応は、実際に歳をつまなければ身につけられない。それを期待されても困ってしまうのだ。私は不安定な高校生だ。




私は一番上に置いてある雑誌を取った。




美容師は雑誌を読んでいる私には話しかけなかった。

ちょうどいい。

雑誌には決まって恋愛についてのページがある。初めて異性と交際したのはいつか、とか、平均どれくらいの期間異性と交際するか、とか、そういうアンケートの結果が載っているページがある。その雑誌によると、初めて異性と交際する平均年齢は16歳らしい。




今年のバレンタインの前日、私はある人のために、チョコチップのクッキーとカップケーキを焼いた。そしてバレンタインの日、私はその人にそれを渡した。



私は毎年、バレンタインのためにお菓子を作っていた。ちいさいころから。たしか、小学校の低学年のころから。母が職場の人たちに渡すために。母の職場の人たちにはとても好評だった。

でも男の人のために作ったのは初めてだった。ちゃんとした(?)男の人に。


その人のことを、私はよく知らなかった。ほとんど話したこともなかった。でも、なんとなく惹かれた。なんとなくいいなって思った。たぶん、そんなものなんだと思う。人を好きになるって。ぼんやりしたものなんだと思う。少なくとも私はそれでいいと思う。人を好きになるって。


その人のことを考えると、ほんとうに幸せな気持ちになった。ほんとうに、本当に幸せな気持ちになった。たぶん、体温が3℃くらい上がったと思う。幸せのパワーで。


あの人は、一生懸命なにかをやっている人の目をしていた。とくべつに格好よくなくっても、その目はだいたいのことをごまかしてしまう。すごく格好よく見せてしまう。そんな目だった。魅力的な目だった。

私はその目が大好きだった。少しでもその目で私のことを見てほしかった。


その人に私は一度だけ話しかけた。教室で二人きりになったときに。

ぽかぽか陽気の午後だった。






 「ちょっと前向いてくれる。前髪切るから。」


久しぶりに美容師が口を開いた。

開いた雑誌のうえに、前髪がぱらぱら落ちた。

私の新しい髪形が出来上がりつつあった。もう、さっきまでの髪型に戻ることはできない。もう、さっきまでの私には戻ることはできない。


なんだか、妙に悲しい気持ちになった。髪を切ってすぐによくあるのだ。新しい髪型に馴染むまで、見慣れない髪型に驚いて、妙に悲しくなってしまうのだ。私は自分の感情の理由をちゃんとわかっていた。なんだか、泣きたくなってきた。でもここで泣いてはいけない。美容師のお兄さんがビックリしてしまう。変な髪型にしてしまったか、なんて自分を責めてしまうかもしれない。私は無理に口角を上げた。これで大丈夫だ。






 「大学、どういうところいくの。」

彼は少し驚いたかもしれない。突然私に話しかけられて。

 「○○大学だよ。どこにいくの。」

 「まだ決まってない。頑張ってね。」

 「うん。頑張ってね。」



ただそれだけ。私があの人と交わした会話。でもそのたった数秒の出来事を、私は何度も何度も心の中で反復して、もう擦り切れてしまいそうだった。


あの人に話しかけるとき、私は自分でも驚くほど、緊張していなかった。あがり症の私が。


なんだか、運命というか、宿命というか、決まっていたんだと思う。私があの人に話しかけることが。神様が、最初からそうなるように、私を誘導していたんだと思う。私はただその力に身を任せた。だから、私はあの人にすごく自然に話しかけた。そう、あの人に話しかけるのは、自然の出来事だった。秋になると木々が紅葉するのと同じように。



あの人は私が好きだなんて、少しも気づかなかったと思う。私があまりにも自然に話しかけたから。






ヘアカットが終わった。私の新しい髪型が出来上がった。男の子みたいに短い。上出来だ。

美容師はいすをくるっとまわして、私はいすから立ち上がった。さっき予約をしたレジでお金を払った。男の美容師は店の外まで出て、私を見送ってくれた。

頭が涼しい。

さっき歩いてきた道を、軽くなった頭で戻る。

パン屋さんのガラスのドアに新しい私が映る。



ああ、終わったんだな。私の恋。

私と神様しか知らない恋。なんか疲れちゃった。



家に着く。5時半。

外はだんだん暗くなり始めていた。

朝飲み忘れた薬を二錠飲んだ。明日の朝は飲めないな。夕方に飲んじゃったから。

私は机に向かった。薄暗い部屋にデスクライトの人工的な白い明かりが灯った。数学の問題を解いた。




恋って、本当に胸が痛い。でも恋って、本当に素敵だ。ちゃんと恋で胸がズキズキしたよ。大人になるって、こういうことなのかも。




バレンタインの日、あの人は靴箱のなかの贈り物を見つけてどう思っただろうか。



 「あなたの目みたいな素敵な人になります。それでは・・・。」










おわり





ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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