番外:思い出の味
前回の話を受けて、「marine side」の過去話を一つ。
※いろいろな鍵カッコを使用していますが、「 」は日本語、< >は英語、【 】はフランス語ということでお願いします。
あはは、あれはバレるよね。私は、あっちの私がアンヌを見ていきなりフランス語で話しかけた夢を見て、起き抜けなのに大笑いしていた。
【ミク、どうしたんだ?】
当然、横で寝ていたジェラールを起こしてしまって、
怪訝な顔で見られた。
【ん、すごく面白い夢を見たから】
そう言いながらベッドを出た私は、台所に立った。作り始めたのはもちろん……
【わぁ、いい匂い。ねぇ、それってビスコッティー?】
焼き上がる頃、匂いを嗅ぎつけて入ってきたのは、今や結婚して別に家を構えるアンヌ。とは言え、その相手は私の実の息子の龍也だし、新居はすぐそこなので、こうしてしょっちゅう朝から押し掛けるんだけどね。
だけど、
【今朝ね、あなたたちに出会った頃の夢を見たの。
そしたら、どうしても作りたくなったのよ】
とアンヌに説明したら、横からジェラールが、
【あのときの話って、大笑いするようなこと、あったっけか?】
とアンヌに問いかけたので、焦った。
私がこの町にたどり着いたのは、ジェラールの前の奥さん、セリーヌさんが交通事故でこの世を去ったすぐ後のことで、事務処理を請け負っていたセリーヌさんの穴を埋めるべく、急遽採用されたのが私だった。 とは言え、日本でしか仕事をしたことのない私には、専門用語も含めてわからないことばかり、却って仕事を増やしてしまってたんじゃないだろうかと、今でもその頃のことを考えると、申し訳ない気分になる。
それでもジェラールが私を雇い続けていたのは、私のどこに行く宛もないという空気を感じ取っていたからなのかもしれない。
やがて、夜になるとベビーシッターさんが子供たちを連れてやってくる。一応彼女の名誉の為に言わせてもらえば、彼女は職務に忠実で、時間通り面倒見てくれている。ただ、ジェラールがその約束の時間を過ぎても職場のすぐ隣の自宅に帰れないだけだ。
<男の子があんなに泣いちゃいけません。デュランさんからもガンと言わなきゃいけませんよ>
教育熱心なその人は、引き渡す際にそんなお小言をいうのも忘れない。で、その矛先になるのはたいてい、4歳になったばかりの下の子テオドール。
でもね、いきなり母親を失った4歳児に泣くなってねぇ……
ちょっと厳しくないのかと言った私にジェラールが返した答は、
<テオがミセスパークスのご飯を全く食べないから>
だった。
ミセスパークスはバリバリの地元民で、この土地の昔からの料理が得意な、子供たちにとってはおばあちゃんと言っても良いぐらいの年齢の人。
方や、フランス移民のセリーヌさんの料理はカナダナイズされているとは言え、どことなくフランステイストが残っていて、味付けも盛りつけも全然違う。
テオは、それを見ると食卓にも寄りつかないという。 ただ、ミセスパークスが出勤する前にジェラールがミキシングした果物と野菜をどっさり入れたスムージーだけは飲む。それも、ミセスパークスからすれば、
<そんなことをするから肝心のご飯がたべられなくなる>
ということになるのだが……
それはともかく、
<ハンストですか?>
と聞いた私に、
<いや、そこまでのつもりはないだろう。食以外でミセスパークスに反抗することはないし、むしろ…>
テオの方がいじめられているような表情をするとジェラールは言った。
スムージーだけでも口にしているなら、餓死する心配はないだろうが、成長期の子供にこれで良いわけはない。それに、食べ物を前にした表情が気になる。
<奥様の得意料理はなんですか>
私は仕事の枠を忘れて、思わずそう聞いていた。そう、テオは私の子供たちと同い年。これが達也だったらと思うと、胸の痛みが抑えられない。ウチは、ママや明日香がいるからたぶん大丈夫だろうけれど……
<お菓子づくりが好きだったよ。特にビスコッティーが得意でね……ん、待てよ? あいつ、結構メモ魔だったからレシピが残っているかもしれない。調べてみるよ>
ジェラールはそれに対して、そう言うとセリーヌさんの遺品を漁り、自宅のパソコンからセリーヌさんの料理レシピ集を見つけだして私に見せてくれたので、私は早速それを見て、デュラン家の台所でビスコッティーを焼いた。
この土地に来たばかりの私のアパートには本格的なオーブンなどなかったし、あってもオーブンにはクセがあることが多いので、同じオーブンで焼く方が、よりセリーヌさんの味に近づくのではと考えたのだ。
テオはビスコッティーが焼き上がる前に、匂いで分かったのか、目をキラキラさせながら台所にやってくると、
【ママン、帰ってきた?】
とフランス語で私に聞いた。
【ごめん、私ママンの代わり作った】
大学の授業でしかフランス語を知らない私は、母親がいないと聞いて顔をくしゃっとさせたテオに、何とかそれだけ言うと、ぎゅっと抱きしめた。ごめん、却ってママを思い出させてしまったかもしれない。
【私、ママンみたいできない。けど、食べてね】
そう、あなたのお母さんの味には到底及ばないかもしれないけど、その思いだけはきっと同じ……
そして焼き上がったビスコッティーを祈るような気持ちでテオに差し出す。テオは、
【ママンのだぁ!】
と、瞬く間に一枚完食すると、お代わりを要求する手を出した。
【ちゃんと……できてる?】
【うん、ママン早く帰って来たらいいねー】
お出かけ長いねーと言う。そうだ、テオはまだ母親の死が理解できていないだけなのだ。そして、毎食の度に母親が『帰っていない』ことに気付いてがっかりし、食欲をなくしてしまう。このクッキーも母親が用意したのを私が焼いたとでも思っているのかもしれない。ただ、私にはそれがまるで達也に言われているようで……
「ごめんね……ごめんね……達也……ほのか……」
とテオの頭を撫でながら号泣していた。私だって本当は離れたくなかった。でも、それがあなたたちのためだと思っていたけど……ねえ、ママは間違っていたのかしら。
だけど、ママはもう少しここにいるね。ここに泣いている子がいるから-罪滅ぼしにもならないかもしれないけど、この子が笑顔を取り戻すまで-
私が、アンヌとテオに乞われるままセリーヌさんの料理を再現してすっかりこの家の同居人になってしまうのは、この数ヶ月後のこと……