「みすず」と私
「みすず」は、私の前に突如として現れた。
当時の私は、決して褒められた生活を送ってはいなかった。ぶつけようのない退屈な気持ちを悪事で晴らす日々だった。今思えば、それもまた運命だったのかもしれない。
その日も、私はいつものように通い慣れた店を訪れ、商品を物色していた。
そのときだった。
「……だめだよ……」
不意に、小さな声をかけられた。
声のした方を振り向くと、そこには一人の女の子が立っていた。まるで青い空のように澄んでいて、それでいて深い海のような瞳を持った女の子だった。
咄嗟に逃げ出そうとした。しかし、その瞳を見た瞬間、身体中を鎖で縛られたかのような感覚に陥り、一歩も動くことができなくなってしまった。
頭の中が真っ白になり、気づけば無意識のうちに尋ねていた。
「……君は……?」
彼女は少し間を置いて、静かに答えた。
「……みすず」
たったそれだけだった。
たった一度、言葉を交わしただけなのに、なぜか私は彼女の虜になっていた。
それからの日々は、まるで絵に描いたように充実していた。何かに導かれたかのように、趣味も考え方も、「みすず」とは驚くほど共通していたのだ。
そうして数年が経った。
「みすず」は、いつしか私にとって理想そのものとなっていた
私は、「みすず」と二人で暮らすことを決めた。
彼女は一切の不満を口にすることなく、私の申し出を受け入れてくれた。しかし、両親はそれをひどく拒んだ。
なぜなのだろう。こんなにも…
両親の反応が、私にはどうしても理解できなかった。
結局、私は何も告げずに家を出て、小さなアパートでみすずとの生活を始めることにした。
決して裕福とはいえない暮らしだったが、家に帰れば「みすず」が待っていてくれる。それだけで、私は毎日頑張ることができた。
暮らし始めた当初は、周囲の人々から冷ややかな目を向けられることもあった。しかし、日が経つにつれて、そうした視線も次第に気にならなくなっていった。
相変わらず貧しい生活ではあったが、私の理想としていた日々は、確かにそこにあった。
そうして、数十年の月日が流れた。
ある日、私は職場で突然倒れた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。ただ一つ、私の身体は日に日に衰弱していった。
医師たちも原因を特定できず、詳しい検査を繰り返したが、これといった原因は見つからなかった。
私は仕事を続けることもできなくなり、ただ窓の外を眺めるだけの生活になってしまった。
そんな中でも、「みすず」は変わらず私のそばにいてくれた。
何も言わず、ただ静かに。
そうして一年が過ぎようとしていたある日、私の容体は急変した。
意識が朦朧とする中、看護師と担当医師たちの会話が聞こえてきた。
「原因不明の衰弱が続いています。ご家族への連絡はどうなっていますか?」
「ご両親とは長年絶縁状態のようです。それに、親しい友人や身寄りもほとんどいないようで……」
「そうか……」
……何を言っているんだ。
私には家族がいる。
ずっと一緒に暮らしてきた、「みすず」がいるじゃないか。
そう思い、私はゆっくりと周囲を見渡した。
しかし、そこに「みすず」の姿はなかった。
「……みすず?」
返事はない。
私は、薄々気づいていたのかもしれない。
「みすず」が私以外の誰かと話しているところを見たことがないことも、二人で過ごした日々を証明するものが何一つないことも。
数年の歳月が流れた今も、彼女はあの日と同じ…
それでも、私は認めたくなかった。
「みすず」と過ごした時間が、すべて幻だったなんて。
私はゆっくりと目を閉じた。
すると、そこにはいつものように微笑む「みすず」がいた。
「……みすず」
かすれた声で名前を呼ぶ。
彼女は何も答えず、ただ優しく私を見つめていた。
ああ、そうか。
彼女は私を死へ導くために現れたのかもしれない。
けれど、彼女は決して恐ろしい存在ではなかった。
孤独だった私に寄り添い、何も持たなかった私に幸せを与えてくれた。
彼女は、私に、堕ちていくだけの私に
「……ありがとう」
そう呟くと、私は静かに目を閉じた。
その瞬間、「みすず」の姿がゆっくりと遠ざかっていく。
最後に見えた彼女の瞳は、あの日と同じだった。
まるで青い空のように澄んでいて、それでいて深い海のような瞳。
そして私は、もう一度だけ、彼女の名前を呼んだ。
「……みすず」
やがて、視界は光を隠し、「みすず」との思い出が遠のいていく…
誰もいなくなった小さなアパート。
そこには、かつて二人で暮らしていた面影は何一つ残っていなかった。
ただ、空になった部屋には、「みすず」と私の思い出だけが残った。




