↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

「みすず」と私

作者: 萎華堂文
掲載日:2026/11/03

「みすず」は、私の前に突如として現れた。


当時の私は、決して褒められた生活を送ってはいなかった。ぶつけようのない退屈な気持ちを悪事で晴らす日々だった。今思えば、それもまた運命だったのかもしれない。


その日も、私はいつものように通い慣れた店を訪れ、商品を物色していた。


そのときだった。


「……だめだよ……」


不意に、小さな声をかけられた。


声のした方を振り向くと、そこには一人の女の子が立っていた。まるで青い空のように澄んでいて、それでいて深い海のような瞳を持った女の子だった。


咄嗟に逃げ出そうとした。しかし、その瞳を見た瞬間、身体中を鎖で縛られたかのような感覚に陥り、一歩も動くことができなくなってしまった。


頭の中が真っ白になり、気づけば無意識のうちに尋ねていた。


「……君は……?」


彼女は少し間を置いて、静かに答えた。


「……みすず」


たったそれだけだった。


たった一度、言葉を交わしただけなのに、なぜか私は彼女の虜になっていた。


それからの日々は、まるで絵に描いたように充実していた。何かに導かれたかのように、趣味も考え方も、「みすず」とは驚くほど共通していたのだ。


そうして数年が経った。


「みすず」は、いつしか私にとって理想そのものとなっていた


私は、「みすず」と二人で暮らすことを決めた。


彼女は一切の不満を口にすることなく、私の申し出を受け入れてくれた。しかし、両親はそれをひどく拒んだ。


なぜなのだろう。こんなにも…


両親の反応が、私にはどうしても理解できなかった。


結局、私は何も告げずに家を出て、小さなアパートでみすずとの生活を始めることにした。


決して裕福とはいえない暮らしだったが、家に帰れば「みすず」が待っていてくれる。それだけで、私は毎日頑張ることができた。


暮らし始めた当初は、周囲の人々から冷ややかな目を向けられることもあった。しかし、日が経つにつれて、そうした視線も次第に気にならなくなっていった。


相変わらず貧しい生活ではあったが、私の理想としていた日々は、確かにそこにあった。


そうして、数十年の月日が流れた。


ある日、私は職場で突然倒れた。


それからのことは、あまりよく覚えていない。ただ一つ、私の身体は日に日に衰弱していった。


医師たちも原因を特定できず、詳しい検査を繰り返したが、これといった原因は見つからなかった。


私は仕事を続けることもできなくなり、ただ窓の外を眺めるだけの生活になってしまった。


そんな中でも、「みすず」は変わらず私のそばにいてくれた。


何も言わず、ただ静かに。


そうして一年が過ぎようとしていたある日、私の容体は急変した。


意識が朦朧とする中、看護師と担当医師たちの会話が聞こえてきた。


「原因不明の衰弱が続いています。ご家族への連絡はどうなっていますか?」


「ご両親とは長年絶縁状態のようです。それに、親しい友人や身寄りもほとんどいないようで……」


「そうか……」


……何を言っているんだ。


私には家族がいる。


ずっと一緒に暮らしてきた、「みすず」がいるじゃないか。


そう思い、私はゆっくりと周囲を見渡した。


しかし、そこに「みすず」の姿はなかった。


「……みすず?」


返事はない。


私は、薄々気づいていたのかもしれない。


「みすず」が私以外の誰かと話しているところを見たことがないことも、二人で過ごした日々を証明するものが何一つないことも。


数年の歳月が流れた今も、彼女はあの日と同じ…


それでも、私は認めたくなかった。


「みすず」と過ごした時間が、すべて幻だったなんて。


私はゆっくりと目を閉じた。


すると、そこにはいつものように微笑む「みすず」がいた。


「……みすず」


かすれた声で名前を呼ぶ。


彼女は何も答えず、ただ優しく私を見つめていた。


ああ、そうか。


彼女は私を死へ導くために現れたのかもしれない。


けれど、彼女は決して恐ろしい存在ではなかった。


孤独だった私に寄り添い、何も持たなかった私に幸せを与えてくれた。


彼女は、私に、堕ちていくだけの私に


「……ありがとう」


そう呟くと、私は静かに目を閉じた。


その瞬間、「みすず」の姿がゆっくりと遠ざかっていく。


最後に見えた彼女の瞳は、あの日と同じだった。


まるで青い空のように澄んでいて、それでいて深い海のような瞳。


そして私は、もう一度だけ、彼女の名前を呼んだ。


「……みすず」


やがて、視界は光を隠し、「みすず」との思い出が遠のいていく…


誰もいなくなった小さなアパート。


そこには、かつて二人で暮らしていた面影は何一つ残っていなかった。


ただ、空になった部屋には、「みすず」と私の思い出だけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
とてもしあわせな二人のものがたりですね 最後には何もなくなってしまうのが普通なのに、そこには思い出が残っている それが温かい気持ちにさせてくれます
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。