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魔王、吃驚する

 わたし、メリー。今、暗闇の森に居るの。

 森の主と魔王様の話で盛り上がりました。

 あなたが居るだけで世界が変わって見えます。

 

 手紙を読んだ魔王ヴェルンドは、椅子から転げ落ちそうになった。

 

「な、なんだと……!?」

 

 手紙を持つ手が、激しく震える。何度も何度も、同じ一文を読み返した。

 

「あなたが居るだけで世界が変わって見えます……」

 

 魔王の顔が、恐怖で歪んだ。

 

「ば、馬鹿な……我の究極秘儀、世界改変能力を知られている? そんな、そんなはずが……!」

 

 世界改変能力──それは魔王ヴェルンドが三百年の歳月をかけて習得した、最奥の秘術だった。現実そのものを書き換え、因果を操作し、世界の理さえも捻じ曲げる力。これこそが、魔王が真に世界を征服するための切り札であり、絶対に他者に知られてはならない最高機密だった。

 

「誰にも……誰にも話したことはないはず……四天王ですら知らぬ秘密……それを、何故……!」

 

 魔王は立ち上がり、部屋中を歩き回った。いや、もはや歩き回るというより、うろつき回ると表現した方が正しい。その動きには落ち着きが一切ない。

 

「まさか、いや、しかし……」

 

 魔王は手紙に目を戻した。

 

「『暗闇の森に居る』……暗闇の森だと!?」

 

 暗闇の森は、断絶の谷に匹敵する危険地帯だ。永遠の夜に包まれた森で、そこには闇の化身とも言うべき存在──古き森の主、幻影魔獣ノクトゥルスが住まう。ノクトゥルスは、あらゆる秘密を見通し、過去と未来の知識を操る恐るべき存在だ。

 

「森の主と、我の話で盛り上がった……だと……!?」

 

 魔王の脳裏に、戦慄すべき仮説が浮かんだ。

 幻影魔獣ノクトゥルスは、千年以上生きる古き存在だ。もし、あの魔獣が魔王の秘密を見抜き、勇者メリーに教えたとしたら……。

 

「くっ……古代竜ファフニールに続いて、今度は幻影魔獣まで味方につけたというのか……! 一体、どれだけの伝説級存在と繋がっているんだ、この勇者は!」

 

 魔王は窓辺に駆け寄り、暗闇の森の方角を睨んだ。魔王城から見て東の方角、地平線の彼方に広がる黒々とした森。あの森で、勇者メリーは魔王の最大の秘密を知ったのだ。

 

「世界改変能力を知られたということは……」

 

 魔王の思考は最悪の方向へと向かう。

 

「つまり、それに対抗する手段も習得したということか! いや、もしかしたら……世界改変能力そのものを奪うつもりなのかもしれん!」

 

 魔王の背筋を、冷たいものが走った。

 世界改変能力には、一つだけ弱点がある。それは、同等の力を持つ者によって上書きされる可能性だ。もし勇者メリーが、幻影魔獣から同じ力を習得したとしたら……。

 

「我が世界を変える前に、我の能力そのものを無効化される……! あるいは、我が存在そのものを世界から消去される……!」

 

 魔王は両手で頭を抱えた。

 

「恐ろしい……あまりにも恐ろしい……! 心臓を狙い、胃袋を狙い、そして今度は存在の根源を……!」

 

 しかも、手紙の書き方が絶妙に不気味だ。

 

「『あなたが居るだけで世界が変わって見えます』……」

 

 魔王はこの一文を、何度も反芻した。

 

「つまり、我が存在することで、世界が改変されていることを見抜いているということか……! 我の能力を、完全に把握している……!」

 

 魔王の額から、滝のように汗が流れ落ちた。

 

「くそ……くそぉ……! 何故だ! 何故、ここまで我の秘密を知り尽くしている! まるで、我の全てを見透かされているようではないか!」

 

 魔王は玉座に崩れ落ちた。もはや立っている気力もない。

 

「一通目で心臓の魔力核を宣告され……」

 

 手紙の山を見つめながら、魔王は呟いた。

 

「二通目で胃袋、つまり内臓攻撃を予告され……」

 

 声が震える。

 

「そして三通目で、我の最大の秘密、世界改変能力を看破された……」

 

 魔王は天井を仰いだ。

 

「次は一体、何を暴かれるのだ……? 我が唯一の弱点か? それとも、我が過去の恥ずかしい秘密か……?」

 

 そこまで考えて、魔王は慌てて首を振った。

 

「い、いや、今はそれどころではない! 対策だ、対策を考えねば……!」

 

 魔王は震える手で、玉座脇の魔石を叩いた。何度も何度も、力なく叩く。

 

「ま、魔導技官……来い……至急来てくれ……」

 

 数分後、既に疲れ果てた表情の老魔導師が、重い足取りで現れた。

 

「ま、魔王様……また、手紙でございますか……」

「『また』ではない! 今回は今までで最も深刻だ!」

 

 魔王は手紙を魔導技官に投げつけた。紙がひらひらと舞い、老魔導師の足元に落ちる。

 

「読め! 読んで、戦慄せよ!」

 

 老魔導師は手紙を拾い、目を通した。そして、困惑した表情を浮かべる。

 

「え、えっと……これは……恋文では……」

「恋文だと!? どこをどう読めばそう見えるのだ!」

 

 魔王は椅子から飛び上がった。

 

「『あなたが居るだけで世界が変わって見えます』だぞ! これが恋文に見えるか! これは明らかに、我が世界改変能力を知っているという暗示だ!」

「せ、世界改変能力……でございますか……」

 

 老魔導師の表情が、わずかに曇った。世界改変能力──それは、あまりにも荒唐無稽な話に聞こえる。しかし、魔王がここまで真剣に怯えているのを見ると、何か本当に秘密があるのかもしれない。

 

「そ、そうでございますか……しかし、どうやって……」

「『森の主と魔王様の話で盛り上がった』とある! つまり、幻影魔獣ノクトゥルスが我の秘密を漏らしたのだ! あの魔獣は千年の知識を持つ! 我の秘密を見抜くことなど容易いはず!」

「の、ノクトゥルス様が……しかし、あの方は中立を保つはずでは……」

「だからこそ恐ろしいのだ! 中立のはずの伝説級存在が、次々と勇者メリーに協力している! これは、もはや我が世界の理そのものから拒絶されているということではないか!」

 

 魔王の声が、ヒステリックに高まる。

 

「古代竜ファフニール、幻影魔獣ノクトゥルス……次は一体、誰が彼女を支援するのだ! 始原の巨人か! 深淵の大海蛇か! それとも、天界の堕天使か!」

「お、落ち着いてください、魔王様……」

「落ち着いていられるか! 我の存在そのものが危機に瀕しておるのだぞ!」

 

 魔王は部屋中を走り回った。

 

「対策だ! 世界改変能力への対抗手段を考えねばならん! 存在固定の魔法陣を! 因果律保護の結界を! 現実錨の秘術を! ありとあらゆる手段を使って、我の存在を世界に固定するのだ!」

「そ、そこまで……」

「当然だろう! 相手は世界そのものを操る力を知っているのだぞ! 我が寝ている間に、世界から存在を消されたらどうする! 朝起きたら、誰も我のことを覚えていなかったら! いや、そもそも朝が来なかったら!」

「ま、魔王様……さすがにそれは……」

「可能性はゼロではない! 世界改変とは、そういうものだ!」

 

 魔王は老魔導師の肩を掴んだ。

 

「頼む……頼むから、対策を考えてくれ……我は、消えたくない……」

 

 その目には、本気の恐怖が宿っていた。

 

「わ、わかりました……最善を尽くします……」

 

 老魔導師は、魔王の剣幕に押されて頷いた。

 

「それと! 暗闇の森の監視を! 勇者メリーが何を学んでいるのか、可能な限り調べろ! ただし、ノクトゥルス様の機嫌を損ねぬよう、遠距離から慎重に!」

「は、はい……」

「あと、我が存在証明の記録を作れ! 写真、映像、証言、文書、すべてだ! 万が一、世界から消されても、復元できるように!」

「しょ、証明記録……」

「それと、毎朝起きたら、周囲の者に『魔王ヴェルンドを知っているか』と確認する! もし誰も知らなかったら、すぐに逃げる! いや、逃げ場があるか分からん! とにかく、対策マニュアルを作成しろ!」

「ま、マニュアル……」

 

 老魔導師は、もはやついていけないという表情でメモを取り続けた。

 

「頼んだぞ……我の存在がかかっているのだ……」

 

 魔王は力なく、玉座に座り込んだ。

 老魔導師が退出した後、魔王は虚ろな目で手紙を見つめた。

 

「あなたが居るだけで世界が変わって見えます……か……」

 

 小さく呟き、深いため息をついた。

 

「恐ろしい……あまりにも恐ろしい勇者だ……」

 

 窓の外では、相変わらず魔界の風が吹き荒れている。そして遥か東の暗闇の森では、魔王の知らないところで、こんな会話が交わされていた。

 

「ふふふ、人間の娘よ。恋する者にとって、相手が居るだけで世界は輝いて見えるものじゃ」

「本当ですか、ノクトゥルス様! 魔王様のこと、もっと知りたいです! どんな食べ物が好きで、どんな趣味があって……」

「ふぉっふぉっふぉ、そうじゃな。魔王ヴェルンドは見た目によらず、意外と小心者でな。臆病なほど慎重な性格じゃ」

「えっ、そうなんですか! 可愛い……!」

「それにな、実は甘い物が好きでな。特にチョコレートケーキには目がないのじゃ」

「わぁ! それ、手紙に書きます! 次は『あなたの好きなチョコレートケーキを作りたい』って……!」

「良いのう、若い恋は。頑張るのじゃよ、娘」

 

 少女メリーの目は、相変わらず恋する乙女の輝きに満ちていた。その手には、新しい便箋とペンが握られている。

 

 一方、魔王城では、城内の魔導師たちが突然の「存在証明記録作成」命令に困惑していた。

 

「魔王様の写真を百枚撮影しろ、だと……?」

「存在固定の魔法陣って、一体何だ……?」

「世界改変能力への対抗手段を研究しろって……そもそもそんな能力、本当に存在するのか……?」

 

 そして魔王ヴェルンドは、自室で鏡を見ながら、自分の存在を確認していた。

 

「我は……ここに居る……我は、魔王ヴェルンドだ……消えたりしない……」

 

 鏡に映る自分の姿を、何度も何度も確認する。

 

「頼む……頼むから、これ以上恐ろしいことを書かないでくれ……」

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