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魔王、辟易する

 わたし、メリー。今、断絶の谷にいるの。

 谷の主に良いことを聞きました。

 あなたの胃袋を掴むため、猛特訓中です。

 

 手紙を読んだ魔王ヴェルンドの顔から、血の気が引いた。

 

「な、なんだと……?」

 

 魔王は手紙を持つ手を震わせながら、もう一度文面を確認した。間違いない。確かにそう書いてある。

 

「断絶の谷……あの、古代竜ファフニールが住まう、死の谷か……!」

 

 断絶の谷は、魔界でも屈指の危険地帯だ。谷底には瘴気が渦巻き、並の冒険者なら近づくだけで命を落とす。そして谷の最深部には、かつて神々と戦った古代竜ファフニールが眠っている。魔王でさえ、むやみに近づこうとは思わない場所だ。

 

「その、谷の主に『良いことを聞いた』だと……?」

 

 魔王の脳裏に、恐ろしい想像が浮かぶ。古代竜ファフニール──魔王よりも遥かに長く生き、あらゆる秘術と禁術を知る存在。もし勇者メリーが、あの竜から何らかの秘法を教わったとしたら……。

 

「ま、まさか……古代竜の秘術を習得したというのか……?」

 

 魔王は椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。

 

「し、しかも、『あなたの胃袋を掴むため』……?」

 

 魔王は自分の腹部を両手で押さえた。心臓の魔力核の次は、胃袋が狙いか。

 

「い、胃袋を掴む……つまり、内臓を直接攻撃する術を習得したということか! 防御結界を無視して、体内から破壊する……そういう類の禁呪か!」

 

 魔王の想像は加速する。

 古代竜の秘術には、空間を歪めて対象の体内に直接攻撃を届けるものがあるという伝説がある。また、呪いの類で内臓を腐らせたり、消化器官を機能不全に陥らせたりする魔法も存在すると聞いたことがある。

 

「く、くそ……心臓だけでなく、胃袋まで狙われるとは……!」

 

 魔王は手紙を握りしめた。紙がくしゃくしゃに歪む。

 

「『猛特訓中』だと……? つまり、まだ完全には習得していないが、近いうちに完成するということか……!」

 

 魔王は窓辺に駆け寄り、断絶の谷の方角を睨んだ。魔王城から見て北西の方角、地平線の彼方にある暗い裂け目。あそこで、今この瞬間も、勇者メリーは魔王を殺すための秘術を習得しているのだ。

 

「くっ……なんという執念……! わざわざ古代竜にまで教えを請うとは……!」

 

 魔王の額から、再び冷や汗が流れ落ちた。

 

「待て、待て……落ち着くのだ……」

 

 魔王は深呼吸をしようとするが、やはりうまく息ができない。胃のあたりが、キリキリと痛む気がする。

 

「も、もしかして……既に呪いが発動しているのでは……? い、いや、そんなはずは……」

 

 魔王は慌てて魔力検知を行った。自分の体内に異常な魔力の流れがないか、入念に調べる。幸い、今のところ異常は見当たらない。

 

「ふぅ……まだ、大丈夫か……」

 

 しかし、安心するのは早い。「猛特訓中」ということは、近日中に完成するということだ。一体、いつ攻撃が来るのか。明日か、明後日か、それとも今夜か……。

 魔王は再び手紙を見つめた。

 

「内臓に興味深々の勇者ってなんなんじゃ……」

 

 思わず本音が漏れた。ぼそりと呟いた声には、恐怖と困惑が入り混じっている。

 

「心臓を狙うだけでも恐ろしいのに、今度は胃袋とは……次は何を狙うつもりだ? 肝臓か? 腎臓か? それとも脳か……?」

 

 魔王は肩を落とした。世界征服どころではない。このままでは、勇者メリーに内臓をすべて破壊されてしまう。

 

「くそ……くそぉ……!」

 

 魔王は玉座の脇の魔石を、今度は力強く叩いた。

 

「魔導技官! 至急、至急来い!」

 

 数分後、再び老魔導師が息を切らせて駆けつけた。

 

「ま、魔王様……また、何か……?」

「ま、またではない! これは緊急事態だ!」

 

 魔王は手紙を魔導技官に突きつけた。

 

「読め! 勇者メリーから、二通目の予告状が届いた!」

 

 老魔導師は手紙を受け取り、目を通した。そして、困惑した表情を浮かべる。

 

「え、えっと……これは……」

「分かるだろう! 古代竜から秘術を習得し、我が胃袋を直接攻撃するつもりだ!」

「いや、しかし魔王様……『胃袋を掴む』というのは、もしかして比喩表現では……」

「比喩? 比喩だと?」魔王は声を荒らげた。

 

「前回の手紙を見よ! 『ハートを射止める』と書いてあったではないか! あれも比喩だと思うか! あれは明らかに心臓の魔力核を狙った暗殺予告だった! ならば今回も同じだ! 胃袋を掴む──つまり、内臓攻撃の宣言に決まっておる!」

「は、はぁ……」

 

 老魔導師は半信半疑の表情だが、魔王の剣幕に押されて頷くしかない。

 

「と、とにかく! 対策を講じねばならん! 古代竜の秘術に対抗できる防御魔法はあるか!」

「こ、古代竜の秘術といっても、種類が多すぎて……」

「ならば! 内臓を守る防御魔法だ! 体内に防御結界を展開できる術式を探せ! 今すぐだ!」

「しかし、体内に結界を張るとなると、魔力の流れが阻害されて、かえって危険では……」

「危険でも構わん! 内臓を直接攻撃されるよりはマシだ! それと!」

 

 魔王は立ち上がり、部屋中を歩き回りながら命令を続けた。

 

「断絶の谷の監視を強化しろ! 勇者メリーの動向を、一分一秒たりとも見逃すな! あの古代竜が何を教えているのか、可能な限り探れ!」

「む、無理でございます! 古代竜ファフニール様に近づけば、我々など一瞬で……」

「ならば遠距離から監視しろ! 望遠魔法でも、偵察の魔獣でも、使えるものは何でも使え!」

「は、はい……」

「それと、毒見役を増やせ! 食事は三重チェックだ! もしかしたら、毒物を使った胃袋攻撃かもしれん!」

「み、三重でございますか……」

「当然だ! 命がかかっておるのだぞ! それと、城内の料理人全員の身辺調査をしろ! 勇者に通じている者がいるかもしれん!」

 

 魔導技官は次々と指示をメモしながら、内心では『魔王様、流石に考えすぎでは……』と思っていたが、口に出す勇気はなかった。

 

「あ、あと! 消化促進の薬を用意しろ! 胃もたれに効く薬草も! 万が一に備えてだ!」

「しょ、消化促進……?」

「当然だろう! 胃袋を狙われているのだから、胃腸の健康を保たねばならん! それと、胃に優しい食事メニューに変更だ! 辛いものや油っこいものは禁止! おかゆと野菜スープを中心に……」

「ま、魔王様……それは、さすがに……」

「何か文句があるか!」

「い、いえ……仰せのままに……」

 

 老魔導師が部屋を出て行った後、魔王は再び玉座に座り込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 深いため息をつく。手紙をもう一度見つめ、小さく呟いた。

 

「内臓に興味深々の勇者ってなんなんじゃ、本当に……」

 

 その声には、恐怖よりも、どこか疲れた響きが混じっていた。

 

「心臓の次は胃袋……次は一体、何を狙うつもりなのだ……」

 

 魔王は顔を両手で覆った。

 

 窓の外では、相変わらず魔界の風が不吉に吹き荒れている。そして遥か北西の断絶の谷では、魔王の知らないところで、こんな会話が交わされていた。

 

「ふぉっふぉっふぉ、娘よ。男の胃袋を掴むにはな、まず基本の煮込み料理から始めるのじゃ」

「はい、ファフニール様! 魔王様の好物を調べて、一生懸命作ります!」

「良い心がけじゃ。では、まずこの魔獣の肉を柔らかく煮る方法を教えよう」

「わぁ、ありがとうございます!」

 

 少女メリーの目は、恋する乙女の輝きに満ちていた。その手には、料理用のナイフとまな板が握られている。

 

 一方、魔王城では、城内のすべての料理人が突然の身辺調査に慌てふためいていた。

 そして魔王ヴェルンドは、自室で胃薬を片手に、震えながら次の手紙を待っていた。

 

「頼む……次は内臓以外を狙ってくれ……」

 

 魔王の切実な願いは、しかし、天には届かないのであった。


 

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