新たなる絶望
ヤッケヴェル王国、辺境。
シェルヴァ山脈付近が南の辺境であるのなら、こちらは東の辺境と呼ばれる荒野であった。
赤茶けた大地。草木もロクに生えていない、まさしく不毛の地。
ここいらにもどうやらかつて異種族が暮らしていたらしく、ところどころに魔物が近寄らない結界が施されているようで、そういった場所にいるのであればそこまでの危険はないけれど、しかし開拓するにも人が暮らすにはあまりにも厳しい土地。
そんな、人もロクに住まない場所にマルテノーラはいた。
あれからもう随分と経過している。
幸せに、なれるはずだった。
そう信じて疑わなかった。
そのために、戻ってきたのだとも。
だがしかしそれが、戻ってきた事こそが復讐の始まりとなるなんてマルテノーラは思いもしなかったのだ。
荒野に追放されたと言ってもいいマルテノーラではあるが、魔物が寄ってこない場所にかろうじて小屋を建ててはもらえた。
最低限の生活道具も与えられた。
小屋の近くには井戸もある。
川は近くにはないので、この井戸が生活の要である。
井戸の水はたっぷりとあるわけではないけれど、いつか枯れるとしてもまだしばらくはもつだろう。
何一つ持たされずに放り出されたわけではないが、しかしマルテノーラは王都から追放されたのだ。
今までの働きがあったから、小屋や生活に必要な道具といった物は用意された。
けれども、ここには誰もいない。マルテノーラ一人だけだ。
老いて身体を動かすだけでも今までのようにいかない不便な状況の中、マルテノーラはたった一人ここで生活していかなければならない。
井戸から水を汲むだけでも、とても大変だった。
こんなに重労働だなんて思ってもいなかった。
誰かに助けを求めたいけれど、しかしここにはマルテノーラたった一人。
辛くても苦しくても、自分で何もかもをやるしかなかったのである。
食料に関しては、最低限だった。
一応土地はあるので畑を耕すなどすれば、作物は育つかもしれない。
もっとも、その可能性は限りなく低いけれど。
空腹で目が回る事もあるけれど、しかしマルテノーラが飢え死にするような事はなかった。
不死なのだ。
どれだけ空腹でお腹が鳴ろうとも、眩暈がしようとも、意識が遠のいてしまったとしても。
死ななかった。意識が遠のいてその場に倒れても、マルテノーラは死ななかった。
しばらくの間気絶して、そうしてその後何事もなかったかのように意識は戻った。
相変わらず空腹感はあるし、頭も上手く働かなかったりもするけれど。
それでも、マルテノーラが死ぬことはなかったのである。
魔力が枯渇し、聖女としての力が消えてからはマルテノーラの怪我もすぐに治らなくなった。
足がもつれて転倒して、その際に骨が折れても痛みだけが続いて治るまでに相当な時間がかかった。
医者に頼ろうにも、ここいら一帯には小さな村も集落もない。人が暮らしている所まで行くとなると、今のマルテノーラなら数か月もかかるだろう。聖女として行動していた時に自分を乗せて駆けてくれた馬は王家から与えられたものだった。だからこそここにはいない。
仮に医者を頼ろうと途方もない距離を歩いていくにしても、途中で結界の効果が薄い場所はあるだろうし、そうなれば魔物の襲撃はどうしたってあるはずで。
移動している途中で治ればいいが、治らず魔物に襲われてもマルテノーラが死ぬ事はない……とはいえ、苦痛は普通に存在する。
長い時間をかけて移動して、仮に医者の元へ辿り着いても金がない。追放された荒野にはマルテノーラの小屋以外、近くに誰も住んでいないので人と物のやりとりをする事もない。
どちらにしてもマルテノーラがここを離れて別の場所に行く事も許されてはいなかった。
もしそれでもマルテノーラがここを離れてどこかの村に身を寄せたとしても。
身寄りのない老婆を最初は周囲も受け入れてくれるかもしれない。けれども働き手としてはあまり役に立てないだろうし、そうでなくとも。
周囲が成長し年老いていってもマルテノーラは変わらず老人のまま存在し続けるとなれば。
人間ではない他の種族だと思われ加護をと縋られるか、化け物と思われその土地から追われるか……
そうでなくとも竜の呪いがある以上、人間以外の種族にとってマルテノーラはマトモな人間などではない。人間はそれを知らなくとも、そんな相手と関わっているとなれば他の人間たちも異種族からどう見られるか……厄ネタみたいな存在と共にいるだけでも、自分たちは関わりたくないと思うだろう。
例えるならば、本人は善良でもその家族が犯罪組織に属しているようなものだろうか。
本人がいくらいい奴でも、何かあった時にその家族が出てくるような事になれば。
いくらそいつ自身はいい奴なんだと言われても、余計な面倒ごとに巻き込まれる可能性を考えると付き合いを考える者も出てくるのと同じ事だ。
どちらにしてもマルテノーラはここを出て他の場所へ行くなどできなかった。
竜の聖女マルテノーラだと言ったところで誰にも信じてはもらえないだろうし、信じてもらえたところでもう聖女としての力も使えない。
信じられなければ聖女を騙る頭のおかしな老人として、信じてもらえたところで聖女として何もできない。
どちらに転んでもマルテノーラは人前でもうマルテノーラと名乗る事すらできなくなってしまった。
で、あれば。
マルテノーラはこの荒野でひっそりと過ごしていくほかないのだ。
もっと長い年月が過ぎて、竜の聖女マルテノーラが過去の存在となったころならば、もしかしたら。
たとえそうだったとしても、それはまだまだ先の話。遠い未来の事だった。
「どうしてこんな事になってしまったのかしら……何がダメだったのかしら……」
芽吹くかどうかもわからないが、畑を耕しマルテノーラはそう呟く。
貴族として生まれたものの、物心ついた時にはとうに没落し平民と変わらぬ暮らしを送っていた。
親は貴族としての暮らしが忘れられず、また平民として暮らすのがとても下手だった。
家にお金はほとんどなくて、食べ物を買うのも一苦労だった。
だから、幼い頃のマルテノーラは町の外、なるべく安全なところで木の実を拾い、花の蜜を啜って飢えをしのいでいた。
それでもマルテノーラの空腹が満たされる事はほとんどなかったけれど。
親が死んで、たった一人になったマルテノーラだったがやる事はそこまで変わらなかった。
お金がなかったのはいつもの事だったし、両親が生きていたところで自分に関心が向けられる事はなかったから。
ある日、木に生っていた果実を取ろうとして木によじ登った時の事だ。
枝の上に何かがいた。
ぐったりとして動く気配のないそれを、マルテノーラは最初木に登って下りられなくなったまま弱った猫かと思ったが、よく見ると全然猫ではなかった。
ところどころに怪我をしているようだったが、すっかり弱ってマルテノーラが近づいても動く気配もなかった。
よく見れば小さな羽が生えていて猫ではないとマルテノーラもすぐに理解したものの、そんな事はどうでもよかった。
手を伸ばせばすぐ捕まえられる距離にいる、生き物。まだ死んでいない、新鮮な肉。
捕まえた途端暴れらたりしないように、マルテノーラは容赦なく首根っこを掴んでぎゅっと絞めた。
その際にかすかに抵抗されたけれど、マルテノーラも必死だったのだ。
そうして捕まえて、大急ぎで家に帰って慣れない手つきで捌いて、焼いて。
普段料理なんてやらなかった――できなかった――マルテノーラはそれでもどうにか調理して、その肉を食べたのだ。血抜きも何もやらずそのまま、味付けだってほとんどなかったからとても美味しいとは言えなかったけれど、それでも腹は満たされた。
お腹が一杯になって、それからようやくそこで自分が食べたものは何だったのか……疑問に思ってマルテノーラはあれが何だったのかを調べる事にした。
調べるといっても、人に聞いて回る事はしなかった。
得体のしれない物を口にしたとは流石に言いにくいし、その事で叱られるのが怖かったからだ。
家にほんの少し残っていた本を見てもわからなかったし、町の中をあちこち彷徨っても答えに繋がるものは何もなかった。
最後に立ち寄った教会で、食べた事を言わずにあの生き物の事を聞けばいいと思いついた。だからそこで、神父様に聞いたのだ。
身振り手振りでこんな感じの、と一生懸命に話せば、それが竜であると教えられた。小さかったのなら、それはまだ子供だったのだろうと。
竜。
幼いマルテノーラもその存在は知っていた。
凄まじい力を持った生き物。
子供とはいえそんな竜をマルテノーラは食べてしまったのだ。
恐ろしい、と思った。
けれど同時に、動物だって他の動物を食べたりしているのだから、とも。
そうだ、そういう意味では自分は竜に勝ったのだ。
そう思う事にした。
大体、自分が竜を食べた事を知る者などいないのだ。
言わなければ知られる事もない。
そんな風に思って、そこからすぐの事だったと思う。
ある日マルテノーラの中で何かが溢れるような感覚がして、気づけば癒しの魔法が使えるようになっていた。
力ある種族の加護についてはマルテノーラも知っていた。
だからこそ、これがそうなのだと思った。
食物連鎖という勝負で勝ったマルテノーラに、あの竜の加護が与えられたのだと。
それが呪いであったなんて、一体誰が思うだろう。
呪いというのはもっと禍々しく、人を不幸にするもので。
あんな風に人々を癒す力が呪いだなんて、マルテノーラには思いもしなかったし、他の人間だって思わなかっただろう。
癒しの力を得たマルテノーラはその日から一変した。
町で暮らす無力な子ではなく、癒しの力を持つ心優しき少女へと。
周囲がそう評価するようになったのだ。
親がいなくなったマルテノーラはその力を持って、神殿に身を寄せた。
竜の加護を得た聖女。
神殿もマルテノーラをそうやって利用した。
それなりの暮らしを約束されたマルテノーラと、マルテノーラの力を利用して名声を高め人々の信仰心を集める事にした神殿。お互いの利害が一致した結果だったとも言う。
そうして人々を聖女の力で癒していくうちに、神殿が王家と繋ぎをつけてきた。
そして出会ったエリアスに、マルテノーラは一目で恋に落ちたのである。
それからは、一層聖女として励んだ。
そうして民衆からの支持を得て、王家との関係も上手くやって。
王家にとっても民衆から絶大な支持を得るというのは無視できないもので、今はよくてもいつ民の心が離れて国に反旗を翻すかなどわかるはずもない。
しかし聖女と言う存在と王家が結び付けば――
そんな思惑もあったが、マルテノーラはそうしてエリアスと婚約できたのだ。
婚約できたからと言っても、マルテノーラはそこで安心などしなかった。
彼の心を繋ぎとめるために、今まで以上に努力して、行動にも出た。
聖女としても。エリアスの婚約者としても。
一つだって努力を怠らなかった。
だからこそ、エリアスとマルテノーラの仲はただの政略と思えない程になったのだけれど……
老婆になったマルテノーラを、エリアスは最初それでもどうにかならないかとベアトリーセに話を持ち掛けようとしていた。
けれどそれがどうにもならなくなったと知って。
エリアスの父である国王が決断を下し、マルテノーラは追放された。
エリアスはそれでも最初、そこまでしなくてもとマルテノーラを庇おうとしてくれていた。
マルテノーラにとってそれがどれだけ嬉しかったか。
老婆になって聖女としての力も使えなくなったところで、見捨てられてもおかしくはなかったのに。
しかし国王はエリアスに説いた。
確かに聖女としての功績は大きい。
けれど、マルテノーラが竜に呪われているという事実は変わらない。
そして人間以外の力ある種族にとってそれは見ればわかるものであるという事実も。
何も知らない人間がマルテノーラと仲良くしていたところを、異種族が見て何を思うか。
マルテノーラと同類である、と判断されてしまえばますます力ある種族である者たちは人間という種そのものを忌避する事だって有り得る。
それどころか、呪われた原因すら見る者が見ればわかるのであれば。
人という種族は自分たちを食べる事に何とも思わない、という風に思われるかもしれない。
異種族が人を食べたという話は聞いた事がない。
そして魔女のあの態度から、食べるという発想がないと考えてもそこまで間違ってはいないだろう。
魔物は人を襲い食べる事もある。
つまり異種族から見た人間は、魔物のようなもの、とみなされる可能性ができてしまう。
異種族が人を魔物と同類と見なし、討伐に乗り出すような事になれば。
数の上では人間の方が多く有利に思えるが、しかし力は圧倒的に異種族の方が上なのだ。
特に人間に敵意を持っていないからこそ放置されているが、敵とみなされれば人間などあっという間に駆逐されてしまうかもしれない。
そうなった時、何も知らぬ民が大勢死ぬ事になるのかもしれないのだと。
王家に生まれた以上、民を守らねばならない。
異種族に敵視される可能性が高いマルテノーラを王都に置くわけにはいかないのだ、と。
そう言われてしまえば、エリアスは何も言えなかった。
別れる間際に、エリアスは泣きそうな顔だった。
エリアスは次の王として国を導かねばならない。
全てを捨ててマルテノーラと共に行く事はできなかった。彼は王になるために育てられた。それ以外の生き方を知らなかったし、やろうとしてもできなかっただろう。
その事についてマルテノーラは恨んでいない。
最後までエリアスはマルテノーラを想ってくれていたのだから。
それだけでも充分だと思わなければならない。
アマディヤーナというドラゴンをマルテノーラが倒さなければ呪いが強まる事もなく、エリアスと結婚できていたのかもしれない……というもしもの未来がよぎったとしても。
幸せになれたはずだと思ったとしても。
エリアスの心がマルテノーラに向けられた事だけで充分なのだと思うしかないのだ。
ぽたり、と――
鍬を握り締めていたマルテノーラの手に涙が落ちる。
たとえ時を戻ってやり直そうとあの時にベアトリーセに頼んだところで。
彼女はもうやり直せない頃合いを見計らって現れた。
う、うぅ……とマルテノーラも意識していないうちに、彼女の喉から嗚咽が漏れた。
幼かったあの日、あの竜の子を殺して食べなければ。
もし怪我の手当てをして家の中で回復するまで面倒を見ていたら。
呪いではなくマトモな加護を与えられていたのだろうか。
そんな風に考えたところで。
何もかもが手遅れだった。