忍び寄る不穏
竜の登場、そして消滅。
マルテノーラはそれに対する説明を、恐らく、あの結界に綻びが出来た原因があの竜にあったからだと述べた。
実際は違うと知っている。
けれども、ベアトリーセという魔女に教わり彼女の秘術で時を遡り戻ってきたなんて言ったところで、真偽を問えない事もわかっている。
本来は何者かがあの竜を不快にさせる原因を作ったとのことらしいが、その何者かが何であるかまでマルテノーラにわかるはずもない。
ともあれ、各地で発生していた魔物の件は解決し、王都を滅ぼしていたはずの竜も消滅した。
少なくとも王国にあった脅威はこれで解決したのだ。
あの竜が原因でなかったとしても、他に納得させられる理由はない。
だからこそマルテノーラはあの竜が元凶であるかのように伝えた。
仮に時を戻ってきたことが信じられたとしても、それを実行したベアトリーセという魔女が今どこで何をしているのか、マルテノーラにはわからない。
彼女は竜が暴れ回った後、様子を見にやって来ただけだ。
竜が王都にやってこないのであれば、前回と同じ日であったとしても彼女が王都にやってくるかはわからない。
そしてベアトリーセという魔女の居場所はマルテノーラにもわからないのだ。
向こうからこちらに接触してこない限り、こちらからはどうしようもない。
それに、本当の事であったとしても。
いくら時を戻ってきたと言っても。
王国が滅びるところだったなんて不吉な事を、言えるはずもなかった。
いたずらに不安を招くような事を口に出せば、いくら竜がもういなくなったとしても、本当にこれで全てが解決したのかと思う者もでるだろう。
そうして疑心暗鬼に駆られ、なんてことのない事象ですら悪い事の前兆だと結び付けていくような事になれば、新たな混乱を招きかねない。
であれば、これで何もかもが解決したと思われた方がいい。
マルテノーラが結界の綻びを発生させた力を纏めた事で、あの竜が何事かと様子を見にやって来た。そしてそこで浄化を発動させたため、あの石は浄化され、ついでに仕掛けた本人にもその力は及び結果としてあの竜は滅びた。
そういう筋書きだった。
魔法に詳しい種族から見れば穴があるかもしれないが、魔法など加護を与えられた者でなければ人間には使えない。そして、魔法が使えるといってもそこまで詳しくはない人間種族であれば、この説明で納得されるだろう。
万が一の時の事を想定して、と言われてあれこれ考えてくれていたベアトリーセには本当に助けられてばかりだ。
マルテノーラは竜の加護を得て竜の聖女と呼ばれてはいるものの、竜と心を通わせられるわけではない。だからこそあの竜が敵となってやって来たとしても、特に誰かが不信感を持つ事もないだろう。
実際護衛の騎士たちにもその説明で納得されたので、後は王都へ戻るだけだ。
そうはいっても、行きは急いで最低限の休みしかとらずに移動し続けたのだから、帰りは少しのんびりで大丈夫だろう。
もう、脅威になるようなものはないのだから。
本当は急いで帰りたい気持ちもある。
一刻も早くエリアスに会いたい。
会って、もう何も問題ないのだと言いたい。
けれどあまりにも急いで帰った結果疲労困憊の状態でエリアスに会うのもどうかしら……? と思ってしまう。
一秒でも早く会いたいのは確かだが、同時に疲れてへとへとになった姿を見られたくはないという気持ちもある。
帰りは少しだけゆっくりしましょうか。
もう魔物の発生に警戒する必要もほとんどないだろうし、竜というマルテノーラにとっての最大の懸念材料もいなくなった。
恐らくは行きと同じくらいの日数で戻るのではないだろうか。行きと違って一刻も早く事態を解決しなければならないという気持ちもなくなり、精神的な余裕が思い切り増えた。
遅くなったとしても行きと比べて精々二、三日程度だろう。
実際道中は行きとほとんど変わらず、何事もないまますんなりと移動できていた。
途中、魔物除けの結界の効果の薄い部分に差し掛かったらしく、そこで魔物と遭遇はしたけれど護衛騎士によって苦戦することもなかった。
ただ、その際にマルテノーラは不注意から木の幹に手をぶつけ、擦り傷を作ってしまった。
怪我をしたといってもその程度だ。前回のように各地を巡って聖女としての力を使い疲弊した時に比べれば何てことはない。その傷も、自分の力を使えばすぐに治った。
気が、緩んでいたのかもしれない。
戻る途中、そういうふとした事でちょっとした怪我をしてしまった事が何度かあった。
野宿の際、焚火に枝を放り込もうとした時に、指にささくれだった部分が刺さってしまったりだとか。
自分の背丈よりも伸びた草の部分にうっかり落とした道具を拾おうとした際に、紙で切った時のような怪我を作ってしまったり。
どの怪我も、大した事ではなかった。
前回のような事にはならないだろうと安心しきっているからかもしれない、と気を引き締めてからはうっかりもなくなったけれど。
ただ、大したことじゃないからと怪我をしても毎回力を使って治癒はしなかった。
けれど、やけに治りが早いような気がしたのが。
少しだけ、気にかかった。
そうは言っても、大したことではなかったしその後も怪我をすることがなかったので。
マルテノーラは無事に王都へと戻る事ができたのだ。
それは前回、王都が滅んだ日でもあった。
前回戻った時は日が沈む前であったけれど。
今回は昼。まだまだ空も青く明るい時間帯である。
「帰ってきたのね……」
「はい。何事もなく済んで良かったです」
「どうされますか? このまま城へ向かい報告を?」
護衛騎士に言われ、マルテノーラは少しだけ考えた末に首を横に振った。
すぐにエリアスに会いたい気持ちはあるけれど、行きよりゆっくりとはいえそれでもやっぱり急いで戻ってきたようなものだ。
身支度を整えていたといっても、そんなものは最低限でこの状態で愛する人の前に姿を現すのは正直恥ずかしくもある。
「一度、身を清めたいわ。
汗もかいちゃったし。こんな状態でエリアス様のところに行くのは……流石にちょっと」
マルテノーラがそう言えば、護衛の騎士たちはそれもそうかと思ったのか、微笑ましげな笑みを浮かべた。
いくら聖女と呼ばれて神聖化されていたとしても、恋する一人の女性であるという事をマルテノーラは特に隠そうとしたことはない。
「だから先に簡単な報告だけしておいてもらってもいいかしら?
身を清めたらすぐに向かうわ」
「かしこまりました」
「それでは我々はこれで」
護衛騎士と別れ、マルテノーラは神殿へと戻る。
そうして速やかに道中での汚れを落とした。
それから城へと向かう。
詳しい報告といっても、護衛騎士が事前に伝えたであろう内容とそう変わらない。
ただ、彼らは町の入り口で待機していたから詳細がわからない部分もあったからこそ、マルテノーラから見た視点での報告をするだけだ。
ヤッケヴェル王国で暮らす他種族たちの結界を壊そうとした元凶という扱いになっているが、その理由まではわからない、という事にしてある。
種族が異なれば行動理由が人にとって理解不能である事はよくある話。
明確にこの国の人間をどうにかしようという考えがなくとも、そもそも他の種族が人間に気を使う事があるかどうかも疑わしい。
力ある種族からすれば人間というのは数だけは多い脆弱な生物でしかないので。
人間が国を作ったとして、その領土内に他の種族が暮らしていたとしても。
そもそも人間と関わらない種族は国に住んでいるという自覚さえない。
人間は弱いから固まって生活しているとしか思っていないのだ。それは、事実であるけれど。
向こうにとってはただの暇つぶしでやったことが、結果として認識もしていなかった人間たちに甚大な被害をもたらしてしまった、とかそういうところであったとしても、何もおかしくはなかったので。
ともあれ、マルテノーラが石を浄化すると言って出発して戻ってくるまでの間。
王都や周辺の町や村でも新たに魔物が現れて襲ってきた、という話は出なかった。
異変が出る以前のように平和そのもの。
念のため警戒はもう少し続けるとはいえ、大事にはならなかったとほとんどの者が考えている。
「マルテ」
「エリアス様」
もう心配は何もない。
報告を済ませた後、マルテノーラはエリアスに誘われ中庭にいた。
咲き誇る花に囲まれるようにして置かれた椅子とテーブル。
そこに向かい合って二人は座っていた。
「どうにか事態は収束に向かったようだね。一時はどうなるかと思ったけれど、犠牲が出なかったのは本当に良かった。
これもマルテのおかげだよ」
「いえ、そんな……」
ほとんど戻る前のベアトリーセが教えてくれた事によるもので、マルテノーラの手柄ではないのだがそれを口に出せるわけもなく。
とりあえずマルテノーラはかすかに微笑んで言葉を濁した。
「他の件に関してはほぼ片付いているから、残っているのは今後の――私たちの結婚式だ」
「本当に、するんですよね。夢じゃない……?」
「はは、一体何の心配をしているのかな。
それとも、私との結婚をとりやめたい、とかそういうやつかな?」
「いいえ! いいえそんな事は決して。
ただ、その日を迎える事になるとかまだちょっと思えなくて。
まるで夢の中にいるんじゃないかって……幸せすぎて、信じられない」
「安心して、マルテ。
ちゃんと現実だ。……ね?」
エリアスが手を伸ばし、テーブルの上に置かれていたマルテノーラの手を握る。
温かな感触は、エリアスが確かにそこに存在していると主張するようで。
物言わぬ骸となり、彼の瞼を閉じた時の冷たさを思い出す。
そうだ。
あれも現実だったけれど。
今は違う。
こうして彼は生きている。
「本来ならもう少し早い段階で式を行う予定だったけれど、色々あったからね。
式は三か月先に行われる事になりそうなんだけど……大丈夫かな、マルテ」
「三か月……あっという間ですね」
「あぁ、ドレスはじきに完成すると聞いている」
「大丈夫かしら……採寸した時より太っていたらどうしましょう」
「心配性だなマルテは。
太るかも、なんて思うくらいに動かなかったわけでもないし、きみはいつも聖女として動き回っているじゃないか。むしろ前見た時より痩せたんじゃないかと思っているくらいなのに」
「えっ本当ですか?
筋肉とかついて太ったかも……って思ってたけどエリアス様から見てそうじゃないなら安心……かも?」
そんな他愛のない話をして。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。
竜が現れなくとも。
もしかして、別の何かが王都を襲うのではないか……?
そんな心配も消えてはくれなかったが、しかしそろそろ城を出て神殿へ戻ろうという時刻になっても特に不穏な報告はされなかった。
前回ならば、この頃にはもう竜が王都を襲っていたであろう時間。
けれども今回は何も起きなかった。
エリアスとこれからの話をして、幸せな気分のまま神殿へと戻る。
王都のそこかしこで照らされる灯り。
神殿で働く人たちの声。
前はなかったもの。
壊れた建物なんてどこにもなくて、真っ暗闇で一人きりでもない。
「良かった……あの悲劇は起きなかった……
本当に、良かった……っ!」
こうして神殿の自分の部屋に戻ってきて、改めて実感する。
あの悪夢はなくなったのだと。
それでもまだ、今日のこの日に眠りにつくのは少しだけ恐ろしかったけれど。
王都のほとんどの建物が壊れた中で、真っ暗な中地面で寝るような状況ではない。
ちゃんと自分に用意されたベッドがあるのだ。
不安と期待でドキドキしながらもベッドの中に潜り込んで、マルテノーラはこれから先の未来を想い描いて眠りについた。
そうして前回は迎えなかった次の日に。
窓から差し込む太陽の光と、どこまでも広がっていそうな青空とを見て。
ようやくマルテノーラは安心したのだ。
乗り越えた。
乗り越えられた。
それがどれだけ嬉しかったか。
これから先の未来は楽しい事ばかりではないだろうけれど。
それでも愛する人がいて、困難も共に乗り越えられるのであれば。
きっと、素敵な日々になる。
今まではそうでありますように、と願い祈るだけだったけれど。
これからはそうではない。
自分たちの手で、その未来を作っていくのだ。
歌いだしたい気持ちのまま、マルテノーラは三か月後の結婚式に向けてこれからやるべき事を頭の中でまとめて神殿での勤めに向かう。
王妃となる以上、これからもっと大変になるのは言うまでもないのだけれど。
今のマルテノーラにとってはそれすら乗り越えられるものだと信じて疑わなかった。
絶望を、乗り越えたのだから。
――最近少しおかしいな、と思ったものの、それが果たしていつからだったのか、となるとハッキリとはわからなかった。
浮かれている。それは自覚していた。
時を戻ったマルテノーラ以外の人が知る由もないけれど、それでもかつて、魔物が押し寄せ竜が王都を滅ぼした事を知っている身としては、今の平和に心が浮き立つのも無理はなかった。
何の変哲もない日常が、これほどまでに愛おしいと思う事もなかっただろう。
あんなことがなければ。
前回はただひたすらに聖女として、一人でも多くの人に認められようとしていたのもあった。
そうでなくとも各地で発生した魔物による被害は決して軽んじられないもので、一人でも多くの人を癒さなければという使命感もあった。
怪我を治せても、生憎死者を蘇らせる事はできない。
だからこそ救えない人たちも勿論いた。
けれども今回は。
事前に魔物の襲撃を食い止める事ができたようなもので。
前回のように人々の傷を癒して回る事はなかったけれど、それでも多くの人を救ったようなもの。
目に見えてわかりやすいパフォーマンスこそなかったけれど、それでも多くの人が救われたのだ。
そして、そんな大勢の民に祝福されてエリアスとマルテノーラは結婚する。
これで浮かれずに何で浮かれろというのか。
そう思うくらいにマルテノーラは毎日ご機嫌だったのである。
だから、気付いたというか気になった時にはそれがいつからだったか、とすぐに思いつけなかった。
普段、ある程度身の回りの事をマルテノーラは自分で行っている。
高貴な貴族の女性のように、着替えから何から何まで世話をする者というのはいないからだ。
広く聖女として知られるようになり、王子の婚約者に選ばれた時に世話係をつけようかという話になったけれど、その時は必要ないと思ってしまったから断ったのだ。
神殿と城を往復する程度であれば使用人をつけてもらう事に頷いたかもしれないけれど、それ以外の町や村にも向かわなければならない時、一刻も早く目的地へ向かわなければならない時、自分の身の回りの事は自分で手早く済ませた方が圧倒的に早い。
実際もし前回だって、そういった使用人に身の回りの事をやってもらっていたのなら。
各地を巡る際もっと時間がかかっただろうし、そうなれば前回時を戻す事になった日にマルテノーラが王都にたどり着いていたかどうかも定かではない。
エリアスと結婚した後は流石に身の回りの事を全部自分で、とはならないだろうけれど、ともあれ今は自分の事は自分でやっているのだが。
それでもエリアスとの結婚を控えた状態で、今は各地へ行くような事もない。
それもあってマルテノーラは少しずつではあるが髪や爪といった部分から他の部分を徐々に世話をされるようになっていた。
突然全部やるとなったら大変かもしれないから、少しずつ慣らしていくという名目で。
爪が伸びるのが早いですね、と言われたのは数日前の話だ。
しかしマルテノーラにはそう言われてもそんな自覚はなかった。
他の人の爪が伸びる速度なんて気にした事もなかったし、自分の爪に関してはそんなものだと思っていたからだ。
そうでなくとも、今までは短めにしていたが、今は少し伸ばした状態で形を整えている。
こまめにヤスリをかけられるので、伸びたという自覚すらなかった。
これが例えば、短くしてあったのであれば。その上でぐんと伸びたというのであればマルテノーラも「ホントだ早いわね」と言えたかもしれない。
だが何だかんだ二日に一回のペースで丁寧にやすりで整えられるものだから。
細かな変化に気付けと言う方が無理だった。
マルテノーラは自分で爪を切る時、専用の道具でバチンと切り落として済ませる。丁寧にヤスリをかけるという事をそもそもしたことがなかった。気付いた時に深爪にならない程度に処理をする。何日ごとに、とか決まったルーティンはないのだ。
なのでほぼ毎日のようにヤスリをかけられているという事をおかしいとも思っていなかった。
爪が伸びるのが早いと言われても、それだけなら別におかしいとか思わなかっただろう。
けれども髪もどうやら思った以上に早く伸びているらしいのだ。
マルテノーラの髪は、元々肩のあたりまでで長く伸ばしたりはしていなかった。
平民であれば短くしている者も多いが、貴族の娘たちはそれなりに伸ばしている。
聖女として周知された時短かった髪は、その後背中のあたりまで伸ばすようにして、その長さを維持していた。あまり長すぎても邪魔になるのだ。
髪が長い方が淑やかに見えるだとか、清楚な聖女という雰囲気があるとか言われた事もあるけれど、一つの場所にとどまってじっとしているだけならいくらでも長くたって構わないが、馬に乗って各地を巡ったりする時もそうだが、野宿をした次の日、寝起きの時の髪の乱れが長いと本当に直すだけで大変なのである。
短い時はささっと梳かすだけで済むけれど、長いと絡まったりして中々すっと櫛が通らなかったり、そうでなくとも寝癖がついて取れなかったり。
髪を結う時にある程度の誤魔化しもできはするけれど、野宿の際にのんびりと髪を結わえるとか、正直とても面倒くさい。
建物の中で、鏡を見ながら整えるのであればまだしも、野宿をしている時などのんびりしている余裕がない場合だってあるのだ。
宿がある場所で一夜を過ごすならまだいいが、そうではない時、野外となると急な天候変化もある。
のんびりしているうちに雲行きが怪しくなってきて、あっという間にざぁっと大雨に……なんて事もあるのだ。
そういう事もあるので、できる事なら髪は短くしておいた方が楽なのだが、しかしそれでも伸ばした方が似合うとエリアスが言うものだから。
恋する乙女としては、好きな人に少しでも良く見られたいという思いもあって伸ばすようになったのである。
とはいえ、あまり長くすると本当に邪魔になって衝動的にナイフとかでざっくり切り落としたくなる事もあるので、妥協できるギリギリの長さが背中のあたりまでだった。
この先エリアスと結婚し王妃となるのであれば、自分で髪をどうこうするような事もなくなるだろうから、そうなれば伸ばしていくのもいいかなと思ってはいるけれど、しかし今はまだそこまで伸ばしたくない。
そんなマルテノーラの希望に応えて、現在は定期的に伸びたらカットされたりもしていたのだが。
少し前に切りそろえたはずが、数日後にはまた伸びてきたと言われて。
その時には切る時に今までより加減しすぎてあまり切らなかったのかしら? と思っていた。
鏡で自分で確認しようにも生憎背後を見るとなるとそうすんなりできるものでもない。
なので、まぁそういう事もあるか……とあまり気にしないようにしていたのだが、いよいよ結婚式を間近に控えたとなってはメイドたちもマルテノーラをいかに素晴らしく、美しく飾り立てるかにやる気を見せている。
折角美しく切りそろえた毛先が、伸びて不揃いになると見栄えがよろしくない。
それもあって丁寧にこまめにカットしてもらっていたのだけれど。
その頻度が気になりすぎるくらいに増えてきたのだ。
最初のころは気にしていなかったけれど、流石にこれは異常である。
今までは野宿とか、神殿での質素な食生活だとかで栄養が足りていなかったのかもしれない、と思っても。
そもそも神殿で出される食事だって、シンプルなものではあるけれど、貧相なものでは決してない。
民を癒すための聖女にロクな食事を与えず、いざという時力が出ない、なんてことになられたら最終的に困るのは民であり、聖女にそんな貧相な生活を強いていると思われる上の者だ。
贅を凝らしたとまではいかずとも、そこらの平民よりはマシな食生活をしている。
野宿などの際はどうしようもないけれど。
最近はそんな野宿だとかもしなくなってきたから、栄養が足りてきて、それで髪や爪が伸びるのが早くなったのかしら……?
なんて。
そんな風に思っていたのだけれど。
それにしたって異様な気がした。
「うぅん……何かこれっていう原因、あったかなぁ……っぃたぁっ!?」
自室に戻って疑問を口にしつつも、とんと覚えがないせいで悩むだけ無駄に思えてくる。
注意散漫になっていたのか、マルテノーラは思い切り脛をキャビネットにぶつけてしまった。
普段であればそんなヘマはやらかさない。
距離感を思い切り見誤った結果だった。
あまりの痛さにうずくまりかけたものの、どうにか踏みとどまる。
スカート越しにぶつけたとはいえ、絶対これ赤くなったり青くなったりしそうなやつだわ……というか勢いよすぎて腫れたりしたんじゃないかしら……と思いつつ、ぺら、と自身のスカートを捲りぶつけた部分を確認する。
思ったとおり少しだけ腫れて、赤くなっていた。
しかし――
「え……?」
目の錯覚だったのではないか? と疑いそうになる勢いで、その怪我は治っていた。
聖女として癒しの力を持つとはいえ、今その力を使った自覚はない。
だというのに、今できたばかりの怪我はあっという間に治ってしまった。
「ど、どういう事……?」
治らないままよりは治った方がいいのだけれど。
それでもあまりにも早い治りに何があったのかがわからない。
悪い事ではないと思うが、良い事にも思えなかった。