彼
今日は珍しく学校に行くのが楽しみな日。いつも遅刻ギリギリな僕も今日だけはそわそわして少し早く家を出てしまう。
通学中も同級生を見るとドキドキする。あの子が近づいて来て、この子が突然僕を呼び止めて――と想像するが、結局そんなことはないまま学校に着いた。
まだまだこれからだ。僕は下駄箱を開ける。
中には上履き……だけだ。まあ、正直この中に入ってたものを食べようとは思わないからちょうどよかった。
廊下を歩いているとたくさんのチョコを抱えて色んなクラスを回っている女子がいる。あれは部活の同級生みんなに配ってる義理チョコだろうな。僕みたいな帰宅部には関係ない。
朝礼前の教室は久しぶりだ。僕は自分の席に着いた。机の中は昨日空っぽにした。
覗いてはいけない、そんなの面白くない。僕は恐る恐る手を入れていく。半分を過ぎた、他人に見られたくない人は奥に入れるんだろうか。もっと手を進めると指先がカツンと金属に当たる。腕を左右に動かしても何かに当たる感触はない。僕は引き出しを覗いた。
――――まだ希望はある。やっぱり王道はロッカーだ。ロッカーも机と同じく昨日、教材を少し持って帰ってスペースを空けている。
とっくに覚えている時間割を確認し、一限の教材を取りに行くために僕は立ち上がる。
ロッカーに近づく一歩ずつが重い。ロッカーに手をかける。急に開けると中に入っているものが落ちてくるかもしれないからゆっくりと開ける。何も落ちてくる様子はない。
ロッカーを完全に開けると、そこには昨日作った空間だけが広がっていた。
僕は気にしないふりをして数学の教科書を取り出し、机に戻る。こっそり手を入れるが机の中にはやはり何もない。
僕は教室を出た。廊下には人が多い、どこかで1人になって歩こう。そうすれば人がいるところでは話しかけづらい子も声をかけやすくなるだろうか。
人の多い廊下を歩いていると向こうから男友達が歩いてくる。見つかれば話しかけてきて一緒に歩くことになるだろう。いつもは良いけど今日だけは1人で歩かなければダメだ。
僕はこそこそと友達に見つからないように移動した。理科教室の前、ここまでくれば人の目はない。そしてここはトイレに行く人からは見える位置だ。トイレに行く途中で僕に気づいたチョコを渡したい子がきっとやって来る。
だけど何もしないで待っているのは人の目が気になる。僕は単語帳を取り出す、人が多くてうるさい教室から出て静かな所で今日の英単語テストの勉強をしているだけだ。
結局……誰もこなかった。先生には朝礼のチャイムが鳴る前に机についていたことを褒められた。
午前は授業の間の休み時間はずっと、1人で理科教室の近くで過ごした。トイレにも極力行かない。行ったのは2限と3限の間だけだ。
昼休みは流石に友達と一緒にお弁当を食べた。男子数人で傷を舐め合う中、1人だけが部活の義理チョコをいくつも貰っている。皆から非難の目を向けられたそいつは自分で持ってきたというチョコを配った。男から貰うチョコでは意味がない……だけど、とりあえずカウントは1だ。
5限にあった英単語テストで満点を取った。こんなこと滅多にない。
単語テストが終わって理科教室の前に行く言い訳がなくなった。
6限は国語。何をしていても気付かないし怒らない。僕は友達に貰ったチョコを食べた。甘い。
隣の席の女の子が机の横にかけた鞄を開けた。カバンからは透明な袋に入ったマカロンが顔を見せている。袋にはピンクのリボン。大きさが少し違うマカロンはそれが手作りであることを僕に知らしめた。
これを誰に送るんだろうか。この席になってから一か月、彼女とはよく話す仲になった。あのマカロンはもしかして僕にくれるのか……いや、隣の席なのに、6限になっても渡されないんだ。それに、マカロンを僕に見られても何も言ってこない。これは、多分違うな……。
咄嗟に好きな人を聞かれたら彼女の名を出してしまいそうなくらい僕は彼女に惹かれている。だけど彼女には手作りのマカロンを渡す相手がいるのだ。僕はマカロンから目を逸らして窓の外を眺めた。今日、最後の授業ももうすぐ終わる。この時間まで渡してないなら相手は部活の先輩か、それとも他校の生徒か……。
僕は憂鬱な気分になった。終礼が終わったら帰ろう。
今年もこんなものか。所詮キリスト教のイベントにチョコレート会社が乗っかっただけの日だ。気にするのも馬鹿馬鹿しい……。ああ、彼女はあのマカロンを誰に渡すんだろうか。
男のでも良いからあいつのチョコもう一個くらい貰っておけばよかったな。僕はコンビニに寄ってチョコを買って帰った。