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11.苦いのはカカオだけでいい

時計が10時を過ぎた頃、私は自室につき荷物を机の横に置いた。

力の抜けた腕から零れ落ちたようにどさっと音を立てたそれは、暑さにやられた気怠さからなのかもっと別の嫌な感情からなのか、自覚したくなくて夏のせいにしてしまいたかった。


家について少し冷静になると、石引君と二人きりになるのはまずいと思って恵に「急で悪いんだけど昼から時間ある?」と連絡をとった。

返信は5分もしないうちに返ってきて、一緒に行ってくれることになった。


石引君本人には許可を取っていないけれど、目的が目的なので拒否されることはないだろう。

11時半を過ぎたのを確認したところで、母親が職場からもらってきたお土産だという少し大きめのチョコレートを口に含んで、靴を履いた。

咀嚼のたびにパフが軽快に弾け、ウエハースに似ているのにドロッと甘いチョコレートが中にしっかりと入っている。

舌に纏わりついて消えそうもないチョコの甘さが、心を決めきれない鈍重な私の未練を表しているようで、何度も嚥下を繰り返していた。



歩いて少し汗ばんできたころ、ファミレスの小園の縁石に腰掛ける恵の姿が見えてきた。

少し足を速めて駆け寄ると、上下を白と水色で涼しげにコーデされている恵から少し甘いシャンプーの香りがした。


「ごめん、待たせたかな」


声をかけると恵は耳に着けていたワイヤレスイヤホンを外し、携帯を小さなポーチにしまって立ち上がる。

一歩私のもとへ近づき、自然に横に並んだ。


「全然待ってないよ。石引君もさっき中に入っていったの見えたから、私たちも行こうか、有紗」


ファミレスの中に入ると、手を振る石引君の姿が目に入った。

対面のソファに二人並んで座り、店員を呼び出すボタンを押し込んだ。


恵が「こんにちは」と石引君に軽く会釈をしている。普段から絡みがない私達だから他人行儀的にもなってしまうというものだが、石引君の快活で笑顔が添えてある挨拶の言葉が返ってくると、お互いの間にある見えない壁のようなものがふわりと姿を消したように見えた。


「ドリンクバーを二つ、それから…」


注文の続きは決まっているかと目配せを私にしてくるのでメニュー表をさらりと見た。

奢ってくれるという話だったのでなるべくお財布の負担にならないような…それでいて女子という体裁が悪くならないようなものと逡巡していると、恵はパスタを注文していた。

私は少し急いでそのページの端に見えたオムライスを注文させてもらった。


店員さんが注文を受けてその場を去っていく姿を少し見届ける石引君の視線が、真っ直ぐに私たちに向けられた。


「曽野さんと…弓削田さんだったよね。来てくれてありがとう。曽野さんから今日のことは聞いているんだよね?」


「えぇ、莉子のことについて聞きたいことがあるって。二人きりで食事している姿を誤解の種にしたくないからって呼ばれたのよ。ねぇ有紗?」


涼しげにウーロン茶を飲みながら同意を求めてくる。

全然そんな話を示し合わせていないのに、伝えたことといえば石引君と行くことと莉子の話であることだけなのに突然出てきた理由に驚かされながら静かに頷くことにした。


「そう…それは確かにそうだね。俺も確かにそういうことは避けられた方が嬉しいし助かるよ。気が利くんだね」


恵がね。私じゃなくて恵が気が利くんですごめんね石引君…

コップを握る手に滴るのが結露した水のはずなのに、動悸のせいで自分の汗なんじゃないかと錯覚してしまう。

ちらりと恵のほうを見ると、涼しげな顔で佇んでいる。

雰囲気が『できる女』のまさにそれだった。


焦燥と固唾を飲み込むようにごくりと一口オレンジジュースを飲み込んで、本題に入ることにした。


「そ、それで石引君は莉子の何を聞きたいんだっけ?答えられる範囲だけしか言えないけれど」


石引君がじっとこちらの目を見つめる。顔が真摯すぎて少し気圧けおされてしまう


「先に嫌いなものとか苦手なものを教えてほしい。好きなものは最悪知らなくてもいいんだ。とにかく不快な時間にしたくないから」


「苦手なものねぇ…」


先に口を開いたのは恵だった。よく人を見て、空気を読んで、そういうことに長けている恵はいくつも思いつくことがあるのだろう。


「もしも、『男の人』だったらどうするの」


「え、」


少し体勢を後ろに下げるほど面食らった石引君の顔は、あっという間に焦りで溢れていた。

呼吸が早まり唇に力が入った様子を一瞬ちらつかせていたが、すぐに少し俯きがちに言葉を選んでいた。


「もし、そうなら…そうだな、俺はきっと強引なことはしない。いやもともとそんなつもりはないけれど、なんていうかな…男らしい行動をしないように心がけるよ。若竹さんが嫌な思いをしないように。」


恵の方からコトッとコップを置く音がする。

私は緊迫感に耐えられそうもなく一生オレンジジュースを口から離せずにいる。

頼むから今このタイミングでコップの中身よ、なくならないでくれ。もしそうなってしまったなら次に私は小さな氷たちを食べなきゃならなくなるんだ。


「石引君が関わらないようにするって選択肢はないんだね」


言い放つような、だけど冷たくはない声色で恵が石引君に問いかける。

その瞬間、石引君は真っ直ぐに恵を見つめ、言葉を返した。


「それはできない。俺も…俺もずっと気になってたんだ。もし、男の人が苦手なら『男の人』ではない別の特別になれるように頑張りたい。若竹さんの視界に俺も入っていたんだ。わがままなのかもしれないけど、好きな人が幸せに過ごすその空間に俺がいたいと思ってるんだ」


もう無理だ、もはや氷に付着してるオレンジジュースの名残を啜り続けている。そういう妖怪みたいになっている。


「…だそうですよ有紗さん。大切な親友について教えてあげてもいいと思えるだけの人に見えるけど私は」


「ぷぇっ!?あ、うん…まぁ私はそのつもりでここに来てるんだけどさ…そうだね」


唐突に回答権を私に投げつけてきたことにびっくりしてコップから口を話す瞬間に変な声まで出てしまった。…そうか恵は私が心から祝福できていない様子を何となく感じ取っていて、そのわだかまりを少しでも解消したいとそんな意図があったんだ…

本当に友達想いのいい人だと思い知らされる。


私の中にある感情はこんなにも醜く、我欲に翻弄されているものだということを恥じてしまいそうになる。


「ごめんね石引君、ちょっと試すような真似しちゃって。莉子は男の人苦手ではないし、石引君のことはもちろん好意で誘っているから安心して。私達も莉子には幸せな時間を過ごしてもらいたいと思ってるから、協力させてね。」


石引君の顔から安堵の表情が見て取れる。結構表情に出やすい人なんだな、と思っていると少し神妙な面持ちに変わった。


「いや…その話をしてくれてよかったよ。誘ってくれたことに浮かれて、前のめりになっていたのかもしれないことに気付かされた。…もし苦手なものがあるのなら避けるだけじゃなくて、そういう部分も受け止めていくことが大事なのかもしれないな。ありがとう弓削田さん」


石引君の真摯な姿に感銘を受け、恵の采配に驚嘆し、自分もしかしていらなかったんじゃねと懐疑心を抱きながら、コップを握りしめていた。


「早速力になれたのなら光栄ね。ところで…」


恵がくるりとこちらへ視線を向けた。


「有紗はいつまでその空になったコップを啜り続けてるの?ドリンクバーなんだから取りに行けばいいじゃない。氷啜る妖怪じゃあるまいし」


っこの、誰のせいで氷啜る妖怪に成り下がらざるを得なくなったと思っているんだ。と心の中で抵抗しながら、恵の周りをよく観察するその有能さを少し恨めしく思った。


「あ、俺ついでに一緒に取ってくるよ。オレンジジュースでいいかな」


「あっ……ありがとう……」


そして石引君の気遣いの素晴らしさもぶつけられて、穴があったら入りたいとはこのことかと思い知らされた。

こちとら女子感出すのにオムライスまで頼んでいるというのに台無しにもほどがある……

石引君が席を立ち、ドリンクバーコーナーへと足を運ぶ姿を見て改めて大きな背中だなと感じた。


「石引君って素敵な人ね。そう思うでしょ有紗」


「うん…そうだね。とても素敵な人だね」


私はさっき恵が言った『私達も莉子には幸せな時間を過ごしてもらいたいと思ってる』という言葉がずっと引っかかっていた。


その幸せな時間に私はいないんだと。


いつの間にか、嚥下の難しかったチョコレートはドリンクバーで流しこまれ、新しい刺激が喉を支配していた。

どろりと胸に纏わりついた甘く、重い感情だけが置いていかれてしまっていた。


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