10.答え合わせの始まる音
夏休み初週のある日、翌日に恵との買い物を控えていた私は宿題を片づけようとしていた。
楽しい予定がある前日というのはその対価として自らに苦痛を与えることを良しとしてしまう。
未来の喜びを、より鮮やかなものにするための代償。そんな機能が人間には備わっているのかもしれない。
旅行であればその前も、旅行から帰ってきた後だって、多少辛いことに立ち向かう気力があることを考えると、降りかかるストレスと解消が約束されている部分で天秤にかけているのかなとも思う。
世界史の宿題を片付けようとして課題の内容を確認すると、暗記を主にしていて教科書が必要だった。
「世界史…学校に置きっぱなしだな…」
教科書のいくつかは学校のロッカーに入れっぱなしにしている。忘れる心配はないし、毎日重たい思いをしなくて済むし、教科書を忘れた別のクラスの友達に貸してあげることもできる。
そして毎度お約束であるかのように、長い休みの前に持ち帰るのを忘れる。
せっかく課題のやる気が出たのにもったいないなと思いながら、椅子にどっしりと落としていた腰を持ち上げ、学校へ向かうことを決心した。
学校では部活動に励んでいる生徒や先生方がいるだろう。ちゃんと身なりを整えていかなくては。
あまり派手にならないようなブラウスとフレアパンツを選び、トートバッグを持って学校へ向かった。
学校が近づいてくると、金管楽器の音が聞こえてくる。それまで車の音と虫の声だけがアスファルトと虫の存在を耳に訴えかけ、暑さを余計に表現していた世界だったものを、青春の息吹が塗り替えてくれていた。
学校の敷地に入ると、グラウンドから言葉としては聞き取れない掛け声が聞こえ始め、校舎で上靴を履く頃には体育館から床とゴムの擦れる高い音がいくつも鳴り響いていた。
学校生活では聞き慣れていた音だったが、夏休みだという意識の下では少し特別に感じられる。
際立った鮮烈な熱量だったりを、人の声や音が教えてくれていた。
教室に入り、目的の教科書達をバッグに入れて颯爽とその場を後にした。
亮平もインターハイ行かないって言ってたし、誰かに顔を合わせていく用事もないなと階段を降りていると汗を拭う一人の男子と目が合った。
「お、曽野さん。おはよう」
私のことを苗字で呼んでいたのは、石引君だった。
「おはよ。部活だったんだね」
「あぁ、インターハイには出られなかったけど、後輩たちの練習に混ぜてもらってるんだ。やっぱバスケをやるのが好きだからかな。家でじっとしているよりは楽しいよ」
爽やかで快活に話すその様子から、善人のオーラをひしひしと感じる。数多の女子から好意を寄せられていてもそれを笠に着ない。階段の1段上にいる私と視線の高さがさほど変わらないほど身長があるのに、持ち前の純真さを感じるからだろうか威圧感は微塵もなかった。
「曽野さん、若竹さんと仲良かったよね」
莉子を指す言葉が石引君の口から出た瞬間、少し喉が詰まるような感覚があった。
「まぁ…」と小さく返すと石引君は顔をタオルで拭いながら、話を続けた。
「花火大会のこと聞いてると思うんだけど、もしよかったら若竹さんのこと少し教えてくれないかな。嫌いな食べ物とか好きなものとか。せっかく一緒に行くんだし、嫌な思いをさせたくなくて」
亮平にでも聞けばいいのに、男子同士なんだからと思ったがそういう話を進んでしたりはしないのだろう。
予定はないが、好きな人のことを受け渡すみたいで複雑な気持ちだった。
でも、ここでいろいろ教えてあげることで莉子が幸せになるなら、親友として一緒にいることを決めたんだったら教えてあげるべきなんだろうと逡巡していると
「都合が合えばでいいんだ。本当は自分で考えなきゃいけないことなのかなとも思ってるんだけど、やっぱりちょっと不安でさ」
大型犬が伏し目になると一層構いたくなるのは母性からなのか庇護欲からなのかはわからないが、石引君はそれに似た何かをもっていた。
「…お昼からならいいよ。時間は合わせるから」
石引君の目が大きく見開き、キラキラと輝いているように見えた。
「本当かい!ありがとう曽野さん!」
熱量の波動を感じて階段を一段上に後ずさりしてしまった。爽やかさのおかげで恐怖こそないものの、やはり体の大きな人相応の圧というのはあるなと実感した。
「とにかく私も教科書家に持って帰らないといけないから」
「じゃあ昼の12時半にファミレスに行こう、あの大通りにあるファミレス。教えてくれるお礼にお昼ご飯は奢らせてほしい」
そんなに気を遣わないでほしいなと思いながら、その提案を承諾し、またねと手を振って帰路についた。
足早に歩き、帰り道に件のファミレスの前を通り越した時、そういえば莉子から石引君の話を聞いたのもこのファミレスだったなと郷愁に駆られていると、あっという間に自宅についた。
一応行く前に少しお腹に入れていこうとチョコレートを用意してから自室に戻り、約束の時間が訪れるのを静かに待っていた。




